船着き場の手前まで来た時点で、もう臭いが違っていた。
川の水の匂い。濡れた木材。泥。汗。血。焦げた何か。人が一箇所に集まりすぎたとき特有の、熱を持った空気が喉に張りつく。
倉庫の陰から覗くと、船着き場は地獄の縮図みたいになっていた。
川に沿って何隻もの船がつけられている。大きな荷船を改造したようなもの、小さめの渡し船、筏に毛が生えた程度のものまである。そこへ人が殺到していた。兵士が板橋の手前で必死に制止し、順番を守らせようとしている。だが、守れる空気じゃない。
「押すな!」
「うちの子がまだ!」
「乗せてくれ! 頼む!」
「定員だ、下がれ!」
怒鳴り声がぶつかり合い、もう誰の指示が誰に届いているのか分からない。
スバルは倉庫の壁に背中を預けたまま、乾いた笑いを漏らしかけた。
「……乗れない船って、こんな絶望感あるんだな」
「あるに決まってる」
エレンが即答する。
「乗れなきゃ残るしかない」
「その言い方やめろ。分かってるから怖ぇんだよ」
「怖がってる暇ある?」
「ないのが最悪なんだろ!」
言い返しながらも、スバルの視線は船着き場を離れなかった。
助けた親子は、物陰で息を整えている。父親の足はかなり悪い。走らせるのは厳しい。女の子は泣き疲れたのか、しゃくり上げながらも父親の服を握っている。
アルミンが低く言った。
「正面から行ったら潰れる」
「でも横から割り込めば兵士に止められる」
ミカサの指摘はもっともだった。
「じゃあどうすんだよ」
エレンが言う。
アルミンは答える前に、船着き場全体を観察した。板橋の位置、兵士の配置、詰まっている場所、比較的空いている場所。目が忙しく動く。彼はたぶん、見えている景色を頭の中で地図にしている。
「……あっち」
アルミンが指したのは、船着き場の主流から少し外れた、荷の積み下ろし用らしい小さな桟橋だった。大勢が押しかけている中央からは外れているが、そのぶん兵士も少ない。
「小さい船が一隻ついてる。たぶん荷運び用。でもまだ空きがあるかもしれない」
「かもしれない、ね」
スバルが言うと、アルミンは眉を寄せた。
「今日はそれでいくしかない」
「正論の火力が高いな、お前」
「ありがとう」
「褒めてねぇ」
いつものように返しながらも、スバルはその小さな桟橋を見た。たしかに人は中央より少ない。だが、少ないだけでゼロじゃない。そちらへ流れ始めたらすぐ詰まる。
しかも兵士が止める可能性も高い。優先順位があるなら、子どもや怪我人が先だろう。そう考えると、今ここにいる父娘は条件を満たす。だが自分たちはどうだ。元気な若者扱いされたら後回しだ。
いや、実際そうだろう。
「……あの親子、先に乗せるか」
スバルが言うと、エレンが振り向いた。
「は?」
「いや、だって親父さん足やられてるし、子どももいるし」
「だから?」
「だからって何だよ。先に行かせるべきだろ、普通に」
「普通ね」
エレンの声音が少し尖る。
スバルは眉をひそめた。
「なんだよ」
「お前、自分が死ぬかもしれないのに“普通”とか言ってる場合か?」
「言ってる場合じゃないから言ってんだろ!」
思わず声が大きくなる。
「こういう時にそういうの捨てたら、あとで自分が嫌になるだろうが!」
エレンの目が細くなる。怒っている。だが、それだけじゃない。何かを噛み殺している顔だ。
「嫌になるくらいで済むならいいな」
低い声だった。
スバルは返せない。
カルラを救えなかった、その直後の言葉だ。軽く返していいものじゃない。自分が言った“普通”は正論かもしれないが、この世界の現場ではただの願望に近い。
アルミンが間に入る。
「……優先は必要だよ。怪我人と子どもは先にしたほうがいい」
エレンが何か言いかける前に、アルミンは続けた。
「でも、僕らも一緒に動かないと危ない。父親の足じゃ、この混乱の中で二人だけではたどり着けない」
そこへミカサが短く言う。
「私が連れていく」
即答だった。
「エレンとスバルが前を空ける。アルミンは兵士と話す」
「……いけるか?」
スバルが問うと、ミカサは当然のように頷いた。
「いける」
その“いける”には妙な説得力があった。できるから言っている顔だ。
実際、ここまで見てきて分かる。ミカサは言葉が少ないぶん、動きに無駄がない。決めたら速い。迷いがない。
アルミンが父親へ向き直った。
「歩けますか」
父親は苦しげに息を吐きながらも、娘を抱き寄せて頷いた。
「……行く。行かせてくれ」
「じゃあ、今から小さい桟橋へ向かいます」
「待て」
エレンが言った。
アルミンとミカサ、そしてスバルが同時に見る。
「本当にあの船が出る保証あるのか?」
「ない」
アルミンは即答した。
「でも中央の大きい船よりはマシだと思う」
「思う、か」
「じゃあ他にある?」
「……」
エレンは黙る。
黙ったまま、小さな桟橋を睨んだ。その顔を見て、スバルは少しだけ分かってきた気がした。
こいつは感情だけで突っ走るように見えて、実際にはそれだけじゃない。感情が強すぎるぶん、逆に“失敗した時のこと”も強く意識してしまう。だから余計に、選択を曖昧なまま飲み込むのが嫌なんだ。
スバル自身も似たところがあるから分かる。たぶん、こっちはそれを喋りで誤魔化すけど、エレンは怒りに変える。
「……じゃあ行くぞ」
スバルが言った。
「止まってたらその保証も腐る」
エレンが舌打ちしたが、否定はしなかった。
物陰から出る。
すぐに人の熱にぶつかった。中央ほどではないが、外れの桟橋へも流れができ始めている。小さいぶん、“穴場”だと気づいた連中が来ているのだ。
「こっちです!」
アルミンが父娘を先導する。
ミカサがその横につき、父親の体を半ば支える。エレンとスバルは前へ出て、人波を押し返すように道を作った。
「通してくれ! 怪我人だ!」
スバルが叫ぶ。
「子どもがいる! どいてくれ!」
エレンも怒鳴る。声の質は違うが、切迫感は十分すぎた。
最初は睨まれる。押し返される。そんな余裕ない、という顔で見られる。そりゃそうだ。誰だって自分が生き延びたい。見知らぬ他人の事情で道を譲るなんて、綺麗事で済む状況じゃない。
だが、父親の足と泣き腫らした娘の顔を見て、何人かが舌打ちしながらも脇へずれた。
完全な善意じゃない。仕方なく、だ。だがそれでいい。今は通れれば。
桟橋の手前にいた兵士が手を広げる。
「待て! この船は――」
「怪我人です!」
アルミンが即座に言った。
「それと子ども!」
兵士の目が父娘へ向く。そこへミカサが父親をさらに前へ出す。
兵士は迷った。
「定員が……」
「あと何人乗れる!」
エレンが食いつく。
「答えろ!」
「三、いや四……!」
少ない。
スバルの背筋に嫌な汗が流れる。
父娘で二人。残り二、あるいは一。全員は無理かもしれない。
分かった瞬間、空気が変わった。
父親が娘を抱き寄せる。アルミンが息を止める。エレンの肩が強張る。ミカサは無表情のまま、視線だけを動かした。
スバルの頭の中で、嫌な計算が始まる。
誰を乗せる。
誰が残る。
そんな話、したくない。
だが現実は待ってくれない。
「子どもが先だ」
兵士が言った。
「父親も怪我してるなら乗せる。他は――」
「待てよ」
エレンが低く言った。
兵士が睨む。
「なんだ」
「“他は”じゃねぇだろ」
「定員がある!」
「分かってる!」
エレンの拳が震える。怒りだけじゃない。答えのなさに歯噛みしている。
スバルは喉を鳴らした。
この瞬間が、重い。
カルラのときとは別の重さだ。あの時は間に合わなかった。今回は違う。間に合うかもしれない。その代わり、全員は無理かもしれない。救える数に限りがある場面のほうが、残酷なことがある。
父親が口を開いた。
「娘だけ……」
「やめてください」
アルミンが食い気味に遮った。
「まだ決まってない」
「でも――」
「決めるのはまだ早い」
その言い方が妙に必死で、スバルはアルミンの横顔を見る。青い。けれど目が死んでいない。考えている。まだ。
「……荷」
アルミンが船を見る。
「荷物、降ろせない?」
兵士が顔をしかめる。
「は?」
「あの船、後ろに木箱が積んである。全部じゃなくても半分降ろせば――」
「何言ってる、お前」
「人のほうが大事だろ!」
アルミンが珍しく強い声を出した。
「荷を運んでも意味がない、人が死んだら!」
兵士が言い返そうとして、言葉に詰まる。図星だからだ。だが、彼にも事情がある。命令、物資、責任、現場判断。その全部が一瞬で押し寄せている顔だった。
スバルはその逡巡を見て、反射で動いていた。
船へ飛び乗る。
「お、おい!」
兵士が叫ぶ。
「怒られるのはあとでまとめてでいいだろ!」
スバルは積まれていた木箱に手をかけた。重い。くそ重い。だが持てないほどじゃない。
「エレン!」
「……ちっ!」
悪態と一緒に、エレンも飛び乗ってくる。
「アルミン、どれ降ろせばいい!」
「一番上の軽そうなのから! 重心崩すな!」
「分かるかそんなの!」
「じゃあ僕が言うから動け!」
アルミンも桟橋へ乗り出し、船縁から身を乗り出すように指示を飛ばす。ミカサは父娘を守りつつ、周囲の人間が雪崩れ込まないよう睨みを利かせていた。あの無言の圧だけで数人が足を止めたのは正直すごかった。
スバルとエレンで木箱を持ち上げ、桟橋へ放る。
どん。どん。木材がぶつかる鈍い音。
「それも! 次、右の樽はだめ、崩れる!」
「細けぇ!」
「細かくないと沈む!」
「最悪すぎる選択肢混ぜんな!」
怒鳴りながら降ろす。腕が痛い。背中が軋む。だが、やれば少しずつ空きができる。現実が動く。ここまで来ると、考えるより体を動かしてるほうが楽だ。
だが、周囲がそれを許さなかった。
「おい、荷を降ろしてるぞ!」
「乗れるのか!?」
「こっちもだ、乗せろ!」
ざわめきが一気に広がる。
まずい。
スバルの背中に冷たいものが走る。今ここで群衆が殺到したら、この小さな桟橋は持たない。船もひっくり返るかもしれない。
「下がれ!」
兵士が怒鳴る。
「勝手に乗るな!」
だが、さっきまで“定員だ”としか言われなかった避難民から見れば、荷を降ろして空きを作っているように見える。希望が見えた瞬間、人は押す。押してしまう。
「ミカサ!」
アルミンが叫ぶ。
ミカサは即座に前へ出た。父娘を背に回し、桟橋の入口に立つ。
「止まって」
静かな声だった。
だが、その声に力があった。感情で叫ぶのとは別の圧。近づいた男が一瞬たじろぐ。
「子どもと怪我人が先」
そう言い切る。
それでも、止まらない者はいる。そりゃそうだ。ここで“分かりました”と引けるくらいなら、最初からこんな地獄になってない。
男の一人が肩で割ろうとした瞬間、ミカサの手がその腕を掴んだ。ぐい、と横へ外す。無駄のない動きで体勢を崩され、男がよろめく。
「……ッ」
周囲が息を呑む。
ミカサは淡々としていた。
「押したら落ちる」
事実だけを言う。
「落ちたら、あなたも死ぬ」
脅しではない。ただの現実だ。その冷たさが、逆に効いた。
兵士もそこでようやく腹を括ったらしい。
「お前ら、道を空けろ!」
近くの駐屯兵へ怒鳴る。
「この桟橋は怪我人と子ども優先だ! 他は下がらせろ!」
指示が通る。二人の兵士が棒を横にして入口を塞ぎ、人を押し返す。
全部がギリギリだった。
スバルは最後の木箱を落とし、息を切らしたままアルミンを見る。
「どうだ!」
アルミンが船を見て、桟橋を見て、父娘を見て、それからこちらを見た。
「……たぶん、あと五人」
スバルは一瞬目を見開いた。
「増えた!」
「増やしたんだよ!」
「そうだった!」
父娘で二人。残り三。
三人。
全員、乗れない。
その数字の重さが、今度ははっきりと胸へ落ちた。
スバル、エレン、ミカサ、アルミン。
四人いる。
一人、余る。
誰だ。
誰を残す。
さっきより鮮明な形で、その問いが突きつけられる。
エレンが口を開く前に、アルミンが低く言った。
「僕、残る」
スバルが振り向く。
「は?」
「僕は一番体力があるわけじゃないし、ミカサほど戦えない。エレンを止める役もいるけど、それは船の中でもできるかもしれない。だったら――」
「何言ってんだお前」
スバルは即座に遮った。
「計算みたいに言うな」
「でも現実だよ」
アルミンの声は震えていた。
「誰か一人は残る」
「だからってお前が先に言うな!」
「じゃあ誰が言うの!」
初めてだったかもしれない。アルミンがここまで剥き出しに声をぶつけたのは。
「時間がないんだよ!」
目が揺れている。怖いのだ。もちろん。残るということは、たぶん死ぬ。それを分かった上で言っている。冷静だからじゃない。冷静でいようとしているだけだ。
エレンが歯を食いしばる。
「そんなの認めるか」
「認める認めないの話じゃ――」
「じゃあ俺が残る」
「は?」
今度はスバルが言う番だった。
エレンは船を睨んだまま、低く続ける。
「ミカサとアルミンが乗れ。スバルも」
「待てよ」
「お前、喉潰れてるし足も遅い」
「悪口の流れで置いてこうとすんな!」
「事実だろ」
「事実でも今言うな!」
だが、エレンの目は本気だった。自棄じゃない。決めようとしている目だ。
ミカサが静かに言う。
「エレンが残るなら、私も残る」
「お前は黙ってろ」
「黙らない」
即答。
空気がきしむ。
誰も正しくない。誰も間違ってもいない。ただ、“誰が残るか”という問いが、この年齢の子どもたちにあまりに重すぎるだけだ。
そのとき。
「全員乗せろ」
別の声が飛んだ。
全員が振り向く。
桟橋の端に、別の兵士が立っていた。年かさだ。髭が生え、顔に土と煤がついている。息は荒いが、目だけははっきりしている。
「伍長!」
若い兵士が驚く。
伍長と呼ばれた男は船を一瞥し、父娘と四人を見て、舌打ちした。
「ガキが勝手に荷を降ろしたのか」
「は、はい……」
「馬鹿が」
そう言いながら、男は自分の腰に括りつけていた袋を外し、船へ放った。重し代わりか何かだろう。
「だが、沈まねぇ。川向こうまでなら保つ」
若い兵士が食い下がる。
「でも規定が――」
「規定で巨人は止まらん」
伍長は切り捨てた。
「全員乗せろ。船頭にも俺が言う」
その一言で、場の空気がひっくり返る。
若い兵士はまだ迷っていたが、最終的には歯を食いしばって頷いた。
「……急げ! 乗るなら今だ!」
スバルは一瞬、理解が追いつかなかった。
乗れる。
全員。
本当に?
「スバル!」
アルミンの声で我に返る。
「あ、ああ!」
父娘を先に乗せる。ミカサが女の子を抱き上げ、船へ渡す。父親も兵士に支えられて乗る。次いでアルミン、ミカサ。
エレンがスバルを見る。
「早くしろ」
「お前が先だろ」
「いいから行け!」
「うるせぇ、一緒に乗るんだよ!」
半ば押し合うようにして板橋へ足をかけた、その時。
遠くで、嫌な音がした。
鈍い、しかし嫌に通る破砕音。
全員が顔を上げる。
船着き場中央のほう、巨大な荷揚げ用クレーンのような木組みが、傾いていた。巨人がぶつかったのか、あるいは人の流れのどこかで壊れたのか。理由は分からない。ただ、その倒れる方向だけははっきり見えた。
こちらだ。
「下がれぇぇぇぇ!!」
伍長の怒号。
次の瞬間、世界がまた壊れた。