Re:壁内から始める異世界生活   作:stein0630

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第6話 乗れない船

 

 

 船着き場の手前まで来た時点で、もう臭いが違っていた。

 

 川の水の匂い。濡れた木材。泥。汗。血。焦げた何か。人が一箇所に集まりすぎたとき特有の、熱を持った空気が喉に張りつく。

 

 倉庫の陰から覗くと、船着き場は地獄の縮図みたいになっていた。

 

 川に沿って何隻もの船がつけられている。大きな荷船を改造したようなもの、小さめの渡し船、筏に毛が生えた程度のものまである。そこへ人が殺到していた。兵士が板橋の手前で必死に制止し、順番を守らせようとしている。だが、守れる空気じゃない。

 

「押すな!」

「うちの子がまだ!」

「乗せてくれ! 頼む!」

「定員だ、下がれ!」

 

 怒鳴り声がぶつかり合い、もう誰の指示が誰に届いているのか分からない。

 

 スバルは倉庫の壁に背中を預けたまま、乾いた笑いを漏らしかけた。

 

「……乗れない船って、こんな絶望感あるんだな」

 

「あるに決まってる」

 

 エレンが即答する。

 

「乗れなきゃ残るしかない」

 

「その言い方やめろ。分かってるから怖ぇんだよ」

 

「怖がってる暇ある?」

 

「ないのが最悪なんだろ!」

 

 言い返しながらも、スバルの視線は船着き場を離れなかった。

 

 助けた親子は、物陰で息を整えている。父親の足はかなり悪い。走らせるのは厳しい。女の子は泣き疲れたのか、しゃくり上げながらも父親の服を握っている。

 

 アルミンが低く言った。

 

「正面から行ったら潰れる」

 

「でも横から割り込めば兵士に止められる」

 

 ミカサの指摘はもっともだった。

 

「じゃあどうすんだよ」

 

 エレンが言う。

 

 アルミンは答える前に、船着き場全体を観察した。板橋の位置、兵士の配置、詰まっている場所、比較的空いている場所。目が忙しく動く。彼はたぶん、見えている景色を頭の中で地図にしている。

 

「……あっち」

 

 アルミンが指したのは、船着き場の主流から少し外れた、荷の積み下ろし用らしい小さな桟橋だった。大勢が押しかけている中央からは外れているが、そのぶん兵士も少ない。

 

「小さい船が一隻ついてる。たぶん荷運び用。でもまだ空きがあるかもしれない」

 

「かもしれない、ね」

 

 スバルが言うと、アルミンは眉を寄せた。

 

「今日はそれでいくしかない」

 

「正論の火力が高いな、お前」

 

「ありがとう」

 

「褒めてねぇ」

 

 いつものように返しながらも、スバルはその小さな桟橋を見た。たしかに人は中央より少ない。だが、少ないだけでゼロじゃない。そちらへ流れ始めたらすぐ詰まる。

 

 しかも兵士が止める可能性も高い。優先順位があるなら、子どもや怪我人が先だろう。そう考えると、今ここにいる父娘は条件を満たす。だが自分たちはどうだ。元気な若者扱いされたら後回しだ。

 

 いや、実際そうだろう。

 

「……あの親子、先に乗せるか」

 

 スバルが言うと、エレンが振り向いた。

 

「は?」

 

「いや、だって親父さん足やられてるし、子どももいるし」

 

「だから?」

 

「だからって何だよ。先に行かせるべきだろ、普通に」

 

「普通ね」

 

 エレンの声音が少し尖る。

 

 スバルは眉をひそめた。

 

「なんだよ」

 

「お前、自分が死ぬかもしれないのに“普通”とか言ってる場合か?」

 

「言ってる場合じゃないから言ってんだろ!」

 

 思わず声が大きくなる。

 

「こういう時にそういうの捨てたら、あとで自分が嫌になるだろうが!」

 

 エレンの目が細くなる。怒っている。だが、それだけじゃない。何かを噛み殺している顔だ。

 

「嫌になるくらいで済むならいいな」

 

 低い声だった。

 

 スバルは返せない。

 

 カルラを救えなかった、その直後の言葉だ。軽く返していいものじゃない。自分が言った“普通”は正論かもしれないが、この世界の現場ではただの願望に近い。

 

 アルミンが間に入る。

 

「……優先は必要だよ。怪我人と子どもは先にしたほうがいい」

 

 エレンが何か言いかける前に、アルミンは続けた。

 

「でも、僕らも一緒に動かないと危ない。父親の足じゃ、この混乱の中で二人だけではたどり着けない」

 

 そこへミカサが短く言う。

 

「私が連れていく」

 

 即答だった。

 

「エレンとスバルが前を空ける。アルミンは兵士と話す」

 

「……いけるか?」

 

 スバルが問うと、ミカサは当然のように頷いた。

 

「いける」

 

 その“いける”には妙な説得力があった。できるから言っている顔だ。

 

 実際、ここまで見てきて分かる。ミカサは言葉が少ないぶん、動きに無駄がない。決めたら速い。迷いがない。

 

 アルミンが父親へ向き直った。

 

「歩けますか」

 

 父親は苦しげに息を吐きながらも、娘を抱き寄せて頷いた。

 

「……行く。行かせてくれ」

 

「じゃあ、今から小さい桟橋へ向かいます」

 

「待て」

 

 エレンが言った。

 

 アルミンとミカサ、そしてスバルが同時に見る。

 

「本当にあの船が出る保証あるのか?」

 

「ない」

 

 アルミンは即答した。

 

「でも中央の大きい船よりはマシだと思う」

 

「思う、か」

 

「じゃあ他にある?」

 

「……」

 

 エレンは黙る。

 

 黙ったまま、小さな桟橋を睨んだ。その顔を見て、スバルは少しだけ分かってきた気がした。

 

 こいつは感情だけで突っ走るように見えて、実際にはそれだけじゃない。感情が強すぎるぶん、逆に“失敗した時のこと”も強く意識してしまう。だから余計に、選択を曖昧なまま飲み込むのが嫌なんだ。

 

 スバル自身も似たところがあるから分かる。たぶん、こっちはそれを喋りで誤魔化すけど、エレンは怒りに変える。

 

「……じゃあ行くぞ」

 

 スバルが言った。

 

「止まってたらその保証も腐る」

 

 エレンが舌打ちしたが、否定はしなかった。

 

 物陰から出る。

 

 すぐに人の熱にぶつかった。中央ほどではないが、外れの桟橋へも流れができ始めている。小さいぶん、“穴場”だと気づいた連中が来ているのだ。

 

「こっちです!」

 

 アルミンが父娘を先導する。

 

 ミカサがその横につき、父親の体を半ば支える。エレンとスバルは前へ出て、人波を押し返すように道を作った。

 

「通してくれ! 怪我人だ!」

 

 スバルが叫ぶ。

 

「子どもがいる! どいてくれ!」

 

 エレンも怒鳴る。声の質は違うが、切迫感は十分すぎた。

 

 最初は睨まれる。押し返される。そんな余裕ない、という顔で見られる。そりゃそうだ。誰だって自分が生き延びたい。見知らぬ他人の事情で道を譲るなんて、綺麗事で済む状況じゃない。

 

 だが、父親の足と泣き腫らした娘の顔を見て、何人かが舌打ちしながらも脇へずれた。

 

 完全な善意じゃない。仕方なく、だ。だがそれでいい。今は通れれば。

 

 桟橋の手前にいた兵士が手を広げる。

 

「待て! この船は――」

 

「怪我人です!」

 

 アルミンが即座に言った。

 

「それと子ども!」

 

 兵士の目が父娘へ向く。そこへミカサが父親をさらに前へ出す。

 

 兵士は迷った。

 

「定員が……」

 

「あと何人乗れる!」

 

 エレンが食いつく。

 

「答えろ!」

 

「三、いや四……!」

 

 少ない。

 

 スバルの背筋に嫌な汗が流れる。

 

 父娘で二人。残り二、あるいは一。全員は無理かもしれない。

 

 分かった瞬間、空気が変わった。

 

 父親が娘を抱き寄せる。アルミンが息を止める。エレンの肩が強張る。ミカサは無表情のまま、視線だけを動かした。

 

 スバルの頭の中で、嫌な計算が始まる。

 

 誰を乗せる。

 

 誰が残る。

 

 そんな話、したくない。

 

 だが現実は待ってくれない。

 

「子どもが先だ」

 

 兵士が言った。

 

「父親も怪我してるなら乗せる。他は――」

 

「待てよ」

 

 エレンが低く言った。

 

 兵士が睨む。

 

「なんだ」

 

「“他は”じゃねぇだろ」

 

「定員がある!」

 

「分かってる!」

 

 エレンの拳が震える。怒りだけじゃない。答えのなさに歯噛みしている。

 

 スバルは喉を鳴らした。

 

 この瞬間が、重い。

 

 カルラのときとは別の重さだ。あの時は間に合わなかった。今回は違う。間に合うかもしれない。その代わり、全員は無理かもしれない。救える数に限りがある場面のほうが、残酷なことがある。

 

 父親が口を開いた。

 

「娘だけ……」

 

「やめてください」

 

 アルミンが食い気味に遮った。

 

「まだ決まってない」

 

「でも――」

 

「決めるのはまだ早い」

 

 その言い方が妙に必死で、スバルはアルミンの横顔を見る。青い。けれど目が死んでいない。考えている。まだ。

 

「……荷」

 

 アルミンが船を見る。

 

「荷物、降ろせない?」

 

 兵士が顔をしかめる。

 

「は?」

 

「あの船、後ろに木箱が積んである。全部じゃなくても半分降ろせば――」

 

「何言ってる、お前」

 

「人のほうが大事だろ!」

 

 アルミンが珍しく強い声を出した。

 

「荷を運んでも意味がない、人が死んだら!」

 

 兵士が言い返そうとして、言葉に詰まる。図星だからだ。だが、彼にも事情がある。命令、物資、責任、現場判断。その全部が一瞬で押し寄せている顔だった。

 

 スバルはその逡巡を見て、反射で動いていた。

 

 船へ飛び乗る。

 

「お、おい!」

 

 兵士が叫ぶ。

 

「怒られるのはあとでまとめてでいいだろ!」

 

 スバルは積まれていた木箱に手をかけた。重い。くそ重い。だが持てないほどじゃない。

 

「エレン!」

 

「……ちっ!」

 

 悪態と一緒に、エレンも飛び乗ってくる。

 

「アルミン、どれ降ろせばいい!」

 

「一番上の軽そうなのから! 重心崩すな!」

 

「分かるかそんなの!」

 

「じゃあ僕が言うから動け!」

 

 アルミンも桟橋へ乗り出し、船縁から身を乗り出すように指示を飛ばす。ミカサは父娘を守りつつ、周囲の人間が雪崩れ込まないよう睨みを利かせていた。あの無言の圧だけで数人が足を止めたのは正直すごかった。

 

 スバルとエレンで木箱を持ち上げ、桟橋へ放る。

 

 どん。どん。木材がぶつかる鈍い音。

 

「それも! 次、右の樽はだめ、崩れる!」

 

「細けぇ!」

 

「細かくないと沈む!」

 

「最悪すぎる選択肢混ぜんな!」

 

 怒鳴りながら降ろす。腕が痛い。背中が軋む。だが、やれば少しずつ空きができる。現実が動く。ここまで来ると、考えるより体を動かしてるほうが楽だ。

 

 だが、周囲がそれを許さなかった。

 

「おい、荷を降ろしてるぞ!」

「乗れるのか!?」

「こっちもだ、乗せろ!」

 

 ざわめきが一気に広がる。

 

 まずい。

 

 スバルの背中に冷たいものが走る。今ここで群衆が殺到したら、この小さな桟橋は持たない。船もひっくり返るかもしれない。

 

「下がれ!」

 

 兵士が怒鳴る。

 

「勝手に乗るな!」

 

 だが、さっきまで“定員だ”としか言われなかった避難民から見れば、荷を降ろして空きを作っているように見える。希望が見えた瞬間、人は押す。押してしまう。

 

「ミカサ!」

 

 アルミンが叫ぶ。

 

 ミカサは即座に前へ出た。父娘を背に回し、桟橋の入口に立つ。

 

「止まって」

 

 静かな声だった。

 

 だが、その声に力があった。感情で叫ぶのとは別の圧。近づいた男が一瞬たじろぐ。

 

「子どもと怪我人が先」

 

 そう言い切る。

 

 それでも、止まらない者はいる。そりゃそうだ。ここで“分かりました”と引けるくらいなら、最初からこんな地獄になってない。

 

 男の一人が肩で割ろうとした瞬間、ミカサの手がその腕を掴んだ。ぐい、と横へ外す。無駄のない動きで体勢を崩され、男がよろめく。

 

「……ッ」

 

 周囲が息を呑む。

 

 ミカサは淡々としていた。

 

「押したら落ちる」

 

 事実だけを言う。

 

「落ちたら、あなたも死ぬ」

 

 脅しではない。ただの現実だ。その冷たさが、逆に効いた。

 

 兵士もそこでようやく腹を括ったらしい。

 

「お前ら、道を空けろ!」

 

 近くの駐屯兵へ怒鳴る。

 

「この桟橋は怪我人と子ども優先だ! 他は下がらせろ!」

 

 指示が通る。二人の兵士が棒を横にして入口を塞ぎ、人を押し返す。

 

 全部がギリギリだった。

 

 スバルは最後の木箱を落とし、息を切らしたままアルミンを見る。

 

「どうだ!」

 

 アルミンが船を見て、桟橋を見て、父娘を見て、それからこちらを見た。

 

「……たぶん、あと五人」

 

 スバルは一瞬目を見開いた。

 

「増えた!」

 

「増やしたんだよ!」

 

「そうだった!」

 

 父娘で二人。残り三。

 

 三人。

 

 全員、乗れない。

 

 その数字の重さが、今度ははっきりと胸へ落ちた。

 

 スバル、エレン、ミカサ、アルミン。

 

 四人いる。

 

 一人、余る。

 

 誰だ。

 

 誰を残す。

 

 さっきより鮮明な形で、その問いが突きつけられる。

 

 エレンが口を開く前に、アルミンが低く言った。

 

「僕、残る」

 

 スバルが振り向く。

 

「は?」

 

「僕は一番体力があるわけじゃないし、ミカサほど戦えない。エレンを止める役もいるけど、それは船の中でもできるかもしれない。だったら――」

 

「何言ってんだお前」

 

 スバルは即座に遮った。

 

「計算みたいに言うな」

 

「でも現実だよ」

 

 アルミンの声は震えていた。

 

「誰か一人は残る」

 

「だからってお前が先に言うな!」

 

「じゃあ誰が言うの!」

 

 初めてだったかもしれない。アルミンがここまで剥き出しに声をぶつけたのは。

 

「時間がないんだよ!」

 

 目が揺れている。怖いのだ。もちろん。残るということは、たぶん死ぬ。それを分かった上で言っている。冷静だからじゃない。冷静でいようとしているだけだ。

 

 エレンが歯を食いしばる。

 

「そんなの認めるか」

 

「認める認めないの話じゃ――」

 

「じゃあ俺が残る」

 

「は?」

 

 今度はスバルが言う番だった。

 

 エレンは船を睨んだまま、低く続ける。

 

「ミカサとアルミンが乗れ。スバルも」

 

「待てよ」

 

「お前、喉潰れてるし足も遅い」

 

「悪口の流れで置いてこうとすんな!」

 

「事実だろ」

 

「事実でも今言うな!」

 

 だが、エレンの目は本気だった。自棄じゃない。決めようとしている目だ。

 

 ミカサが静かに言う。

 

「エレンが残るなら、私も残る」

 

「お前は黙ってろ」

 

「黙らない」

 

 即答。

 

 空気がきしむ。

 

 誰も正しくない。誰も間違ってもいない。ただ、“誰が残るか”という問いが、この年齢の子どもたちにあまりに重すぎるだけだ。

 

 そのとき。

 

「全員乗せろ」

 

 別の声が飛んだ。

 

 全員が振り向く。

 

 桟橋の端に、別の兵士が立っていた。年かさだ。髭が生え、顔に土と煤がついている。息は荒いが、目だけははっきりしている。

 

「伍長!」

 

 若い兵士が驚く。

 

 伍長と呼ばれた男は船を一瞥し、父娘と四人を見て、舌打ちした。

 

「ガキが勝手に荷を降ろしたのか」

 

「は、はい……」

 

「馬鹿が」

 

 そう言いながら、男は自分の腰に括りつけていた袋を外し、船へ放った。重し代わりか何かだろう。

 

「だが、沈まねぇ。川向こうまでなら保つ」

 

 若い兵士が食い下がる。

 

「でも規定が――」

 

「規定で巨人は止まらん」

 

 伍長は切り捨てた。

 

「全員乗せろ。船頭にも俺が言う」

 

 その一言で、場の空気がひっくり返る。

 

 若い兵士はまだ迷っていたが、最終的には歯を食いしばって頷いた。

 

「……急げ! 乗るなら今だ!」

 

 スバルは一瞬、理解が追いつかなかった。

 

 乗れる。

 

 全員。

 

 本当に?

 

「スバル!」

 

 アルミンの声で我に返る。

 

「あ、ああ!」

 

 父娘を先に乗せる。ミカサが女の子を抱き上げ、船へ渡す。父親も兵士に支えられて乗る。次いでアルミン、ミカサ。

 

 エレンがスバルを見る。

 

「早くしろ」

 

「お前が先だろ」

 

「いいから行け!」

 

「うるせぇ、一緒に乗るんだよ!」

 

 半ば押し合うようにして板橋へ足をかけた、その時。

 

 遠くで、嫌な音がした。

 

 鈍い、しかし嫌に通る破砕音。

 

 全員が顔を上げる。

 

 船着き場中央のほう、巨大な荷揚げ用クレーンのような木組みが、傾いていた。巨人がぶつかったのか、あるいは人の流れのどこかで壊れたのか。理由は分からない。ただ、その倒れる方向だけははっきり見えた。

 

 こちらだ。

 

「下がれぇぇぇぇ!!」

 

 伍長の怒号。

 

 次の瞬間、世界がまた壊れた。

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