倒れてきたのは、木だった。
だが“木”なんて単語で片づけていい大きさじゃない。荷揚げ用の巨大な木組みが、軋みと破砕音を撒き散らしながら桟橋のほうへ倒れ込んでくる。綱が切れ、滑車が外れ、積まれていた荷が弾け飛ぶ。
「伏せろぉぉぉ!!」
伍長の怒号が、今度は命令じゃなく本能に近い音で響いた。
スバルは考えるより早く、エレンの肩を掴んで船の縁へ叩きつけるように押した。自分も同時に身を投げる。頭上を、折れた木材と縄の束が唸りながら通り過ぎた。
轟音。
桟橋が半分砕ける。
板橋が割れ、悲鳴が上がり、川面へ木片が散る。船が大きく揺れた。父娘の悲鳴。アルミンがどこかで何かにぶつかる音。兵士が怒鳴る声。
「……ッ、あ……!」
スバルは船底に肩を打ちつけ、視界の端で火花のような痛みが散るのを見た。息が詰まる。肺が空っぽになる。
それでも、まだ生きている。
「エレン!」
ミカサの声。
「いる!」
すぐ隣から怒鳴り返す声がして、スバルはようやく息を吐いた。エレンもいる。
顔を上げる。倒れた木組みの一部が桟橋を潰し、さっきまで自分たちが立っていた場所を無茶苦茶にしていた。板橋は完全に崩れている。もし一歩遅れていたら、川に落ちるか、下敷きだった。
伍長が血相を変えて叫ぶ。
「綱を切れ! 船を離せ! 今すぐだ!」
若い兵士が飛びつくように係留綱へ走る。船頭らしい男が蒼白なまま舵へ向かった。桟橋はもう使えない。残っている者たちがしがみつこうとするのを、兵士が必死に止めている。
「待ってくれ!」
「まだ妻が!」
「乗せろ! 頼む!」
叫びが飛び交う。
スバルの胸が締めつけられる。
置いていく。
これから、この船はここを離れる。離れた瞬間、この場に残る人間を置いていくことになる。
分かっていたはずなのに、実際にその瞬間が来ると、喉の奥が焼けるみたいに苦しい。
「スバル!」
アルミンが這うように近づいてきた。額を切って血が流れているが、目ははっきりしている。
「大丈夫!?」
「そっちこそ血!?」
「かすっただけ!」
ミカサはすでに父娘の前に立ち、飛んできた木片から庇う姿勢を取っていた。エレンは起き上がるなり、崩れた桟橋のほうを睨んでいる。
「くそっ……!」
歯ぎしりの音が聞こえそうだった。
係留綱が切られる。
その瞬間、船がぐらりと揺れながら岸を離れ始めた。
「やめろぉぉ!!」
「まだ乗れる!」
「置いてくな!!」
岸から手が伸びる。泣き叫ぶ声。兵士が押し返す声。伍長が怒鳴り続ける声。
船は、離れる。
少しずつ。だが確実に。
スバルは立ち上がりかけて、膝が笑うのを感じた。さっきの衝撃で足にもきているらしい。思うように力が入らない。
それでも視線だけは岸から外せない。
残る人。乗れた人。叫ぶ人。崩れた桟橋。遠くに見える巨人。全部が同じ一枚の絵みたいに見えて、そのくせ一つ一つが生々しい。
「……最悪だ」
掠れた声で呟く。
「だから今さらだって言っただろ」
エレンが言う。だがその声も硬い。余裕はない。
「今さらでも言いたくなるだろ、こういうのは……」
岸が離れていく。
ここで終わりじゃない。むしろここからだ。この船で本当に安全圏まで行ける保証なんてどこにもない。それでも、少なくとも“いま巨人に掴まれる距離”からは遠ざかっている。
それだけで、船上の空気は奇妙に二つに割れていた。
助かったという安堵。
置いてきたという罪悪感。
どちらも本物で、どちらも消せない。
父親が何度も頭を下げている。
「ありがとう……ありがとう……」
娘を抱きしめながら、壊れたように繰り返していた。ミカサは何も言わない。ただ目を伏せる。アルミンはその声を聞きながら、どこか別の場所を見ている顔をしていた。
スバルは船縁にもたれ、流れていく岸を見つめる。
そこで、ふと気づく。
伍長が乗っていない。
「……あれ」
スバルが呟くと、エレンも気づいたらしい。
「伍長は?」
若い兵士が一人、船の後方で息を切らしていた。顔面が真っ青だ。彼に向かってスバルが叫ぶ。
「おい! さっきの伍長は!?」
兵士は一瞬だけこちらを見て、唇を噛んだ。
「……岸に残った」
短い答えだった。
スバルの胸の中で、何かが沈む。
残った。
自分たちを乗せる判断をして、そのまま。
若い兵士は続けなかった。続ける必要もない。岸へ視線を戻せば分かる。伍長らしき姿が、まだ残っている避難民を押し、別の船へ回すよう怒鳴っているのが小さく見えた。
あの人は、自分が乗る余地を削ってこちらを出したのだ。
「……っ」
スバルは拳を握った。
助かった、で終われない理由が、また一つ増えた。
「お前」
エレンが低く言う。
「泣くなよ」
「泣いてねぇよ!」
「顔がぐちゃぐちゃだ」
「それはさっきからだろ!」
反射で怒鳴り返して、そこでようやく、自分の目の端が熱いことに気づいた。
涙かどうかは分からない。汗かもしれない。埃かもしれない。そういうことにしておきたかった。
船は川を下る。
岸から距離ができるにつれ、巨人の姿は小さくなる。だが、だからといって現実感が薄れるわけじゃない。むしろ、“遠くから見てしまう”ぶんだけ、街全体が壊れていく図として頭に入ってくる。
「シガンシナ区……」
アルミンが呟いた。
その声に、誰も返事をしない。
壁の南端。さっきまで自分たちがいた街。異世界だなんだと浮かれて最初に歩いた場所。もう戻れないような距離で、それが燃え、煙を上げ、人を呑んでいる。
スバルは船底に座り込んだ。
急に、全部の疲れがいっぺんに来る。足が重い。腕が痛い。喉は完全に終わっている。肩もまだじんじんする。
死んで戻った時にはなかった種類の消耗だ。
生き延びた疲れ。
それはそれで、しんどい。
「お前、肩」
ミカサが言った。
「え?」
「腫れてる」
見れば、さっき木材か何かがぶつかった左肩が赤黒くなっていた。自分では痛みが散りすぎて気づいていなかった。
「……あー、言われると痛ぇかも」
「遅い」
「今気づいたんだからしょうがねぇだろ」
ミカサは近くにあった布切れを拾い、スバルのほうへ投げた。
「巻いて」
「自分で?」
「自分で」
「雑!」
「生きてるだけまし」
「その理屈、強すぎるんだよお前ら!」
そう言いながらも、スバルは布を肩に巻いた。適当だ。だが、圧迫されるだけでも少し楽になる。
アルミンが小さく笑う。
「少し元気出たね」
「どこがだよ」
「喋る量」
「量で判断すんな」
「分かりやすいよ」
図星すぎて言い返しづらい。
エレンは船縁に肘をついたまま、ずっと岸を見ている。表情は読みにくい。怒っているのか、悲しんでいるのか、その両方か。たぶん全部だ。
スバルはその横顔を見て、ふと聞いてしまった。
「……お前さ」
「なんだ」
「さっき、残るって言ったの、本気だったのか」
エレンはすぐには答えなかった。
川の風が吹く。船がきしむ。遠くでまだ悲鳴が小さく聞こえる気がした。
「本気だ」
やがて、短くそう返ってくる。
スバルは眉をひそめる。
「なんでだよ」
「なんでって、誰か残るならそうするしかないだろ」
「そういう話じゃなくて」
スバルは言葉を探す。
「……なんで、お前が先にそれ言えるんだよ」
エレンはそこでようやくこちらを見た。
目が赤い。泣いたからか、怒っているからか、たぶんどっちもだ。
「母さんを助けられなかった」
平坦な声だった。
「だからせめて、次くらいはって思っただけだ」
スバルは返事を失う。
その“次”は、自分の“次”とは違う意味だ。死んで戻る前提じゃない。取り返しのつかない一回きりの“次”だ。
重さが違う。
なのに、熱の向きだけは同じだった。
「……そうかよ」
それしか言えなかった。
エレンはまた岸へ顔を戻す。
「お前だって、さっき飛び出しただろ」
「俺は……」
そこで詰まる。
死ぬのが怖い。怖いくせに飛び出す。助けたいのか、見捨てられないだけなのか、ヒーロー気取りなのか、自分でもはっきりしない。
そんな曖昧なものを、どう言えばいい。
だが黙っていると、アルミンがぽつりと言った。
「スバルは、後悔したくないんじゃないかな」
「は?」
「違う?」
違う、と即答できなかった。
後悔は嫌だ。助けられたかもしれないのに助けなかった、その記憶を抱えるのは嫌だ。死ぬのと同じくらい、あるいは別の意味で、それも怖い。
「……そうかもな」
認めると、妙に疲れた。
「面倒くさい性格」
ミカサが言う。
「うるせぇ。お前にだけは言われたくねぇ」
「どうして」
「お前も大概だろ」
「私は普通」
「普通の基準が壊れてんだよ!」
ミカサがほんの少しだけ首を傾げる。その仕草があまりにも本気っぽくて、スバルは逆に笑いそうになった。
笑えない状況で、笑いそうになる。
不謹慎かもしれない。だが、その不自然さが逆に“まだ終わっていない”感じをくれる。
その時、船頭が前方へ向かって何か叫んだ。
「着くぞ! 準備しろ!」
全員が顔を上げる。
川向こう――正確には壁のさらに内側へ通じる別の岸だろうか。避難民を受け入れるための仮設の桟橋が見えてきた。こちらほど混乱してはいないが、人は多い。兵士が待ち構え、到着する船を誘導している。
助かった。
そう思いかけて、スバルはその考えを無理やり止めた。
まだだ。
この世界で“助かった”を早まると、大抵その直後に何か起きる。もう学んだ。
「下船後は指示に従え!」
兵士の声が飛ぶ。
「立つな、押すな、順番に降りろ!」
その言い方に、スバルは少しだけ安堵した。少なくとも、受け入れ側は多少整理されているらしい。
船が岸へつく。
板が渡される。
父娘が先に降ろされる。父親はまた振り返って頭を下げたが、言葉はもう出なかった。娘だけが、泣き腫らした顔で一度だけこちらを見た。
「……ありがとう」
小さな声だった。
スバルは喉が死んでいたので、手を軽く振ることしかできなかった。
自分たちも降りる。
足が地面についた瞬間、妙にふらついた。船の揺れのせいか、疲れのせいか、その両方か。ミカサが無言でスバルの肘を掴む。
「転ぶ」
「お前、いちいち言い方が不安を煽るんだよ」
「事実」
「知ってる!」
だが、掴まれた腕はありがたかった。
岸には避難民が次々と集められている。泣く声。呼び合う声。名前を探す声。兵士が人数を数え、怪我人を運び、空いた場所へ誘導している。
ここも静かじゃない。
だが、少なくとも巨人の手がすぐ届く距離ではない。
その違いだけで、空気の質が少し変わっていた。
「……ここで終わりじゃないよね」
アルミンが言った。
誰も答えない。
答えなくても分かっているからだ。
シガンシナ区が破られたということは、そこで終わりじゃない。この先、壁内がどうなるのか。どこまで巨人が来るのか。自分たちはどう扱われるのか。家族を失ったこの三人はどうなるのか。異物そのものの自分は、どこへ転がるのか。
何一つ決まっていない。
だが、その中で一つだけはっきりしていることがあった。
自分は、まだここにいる。
死んで戻ったのではなく、生きたまま次の場所へ来てしまった。
その事実に、スバルは妙な重さを感じた。
死に戻りの“やり直し”じゃない時間が、ちゃんと積み重なっている。
なら、今ここから先で失敗したものは、取り返せないかもしれない。
その当たり前が、今さらになって怖かった。
「お前」
エレンが呼ぶ。
「なんだ」
「さっきから思ってたけど」
「うん」
「その服、やっぱり変だな」
スバルは一瞬ぽかんとして、それから思わず噴き出しかけた。喉が死んでいるせいで咳になった。
「今それ言う!?」
「今だからだよ」
「タイミングのセンス終わってるだろ!」
「お互い様」
エレンはそう言って、ほんの少しだけ口元を歪めた。
笑った、とまでは言えない。だが、それに近いものだった。
その顔を見た瞬間、スバルの胸の奥に、変な確信が灯る。
こいつとは、たぶんこれで終わらない。
ミカサとも、アルミンとも。
シガンシナの地獄を一緒に抜けてきた、それだけでは済まない何かが、この先にある。
兵士が避難民をさらに奥へ誘導している。
夜が近い。だが、今日という日はまだ終わらない顔をしていた。
スバルは、肩の痛みと喉の熱と、消えない死の記憶を抱えたまま、三人のあとを追って歩き出した。