Re:壁内から始める異世界生活   作:stein0630

7 / 36
第7話 落ちる音の中で

 

 倒れてきたのは、木だった。

 

 だが“木”なんて単語で片づけていい大きさじゃない。荷揚げ用の巨大な木組みが、軋みと破砕音を撒き散らしながら桟橋のほうへ倒れ込んでくる。綱が切れ、滑車が外れ、積まれていた荷が弾け飛ぶ。

 

「伏せろぉぉぉ!!」

 

 伍長の怒号が、今度は命令じゃなく本能に近い音で響いた。

 

 スバルは考えるより早く、エレンの肩を掴んで船の縁へ叩きつけるように押した。自分も同時に身を投げる。頭上を、折れた木材と縄の束が唸りながら通り過ぎた。

 

 轟音。

 

 桟橋が半分砕ける。

 

 板橋が割れ、悲鳴が上がり、川面へ木片が散る。船が大きく揺れた。父娘の悲鳴。アルミンがどこかで何かにぶつかる音。兵士が怒鳴る声。

 

「……ッ、あ……!」

 

 スバルは船底に肩を打ちつけ、視界の端で火花のような痛みが散るのを見た。息が詰まる。肺が空っぽになる。

 

 それでも、まだ生きている。

 

「エレン!」

 

 ミカサの声。

 

「いる!」

 

 すぐ隣から怒鳴り返す声がして、スバルはようやく息を吐いた。エレンもいる。

 

 顔を上げる。倒れた木組みの一部が桟橋を潰し、さっきまで自分たちが立っていた場所を無茶苦茶にしていた。板橋は完全に崩れている。もし一歩遅れていたら、川に落ちるか、下敷きだった。

 

 伍長が血相を変えて叫ぶ。

 

「綱を切れ! 船を離せ! 今すぐだ!」

 

 若い兵士が飛びつくように係留綱へ走る。船頭らしい男が蒼白なまま舵へ向かった。桟橋はもう使えない。残っている者たちがしがみつこうとするのを、兵士が必死に止めている。

 

「待ってくれ!」

「まだ妻が!」

「乗せろ! 頼む!」

 

 叫びが飛び交う。

 

 スバルの胸が締めつけられる。

 

 置いていく。

 

 これから、この船はここを離れる。離れた瞬間、この場に残る人間を置いていくことになる。

 

 分かっていたはずなのに、実際にその瞬間が来ると、喉の奥が焼けるみたいに苦しい。

 

「スバル!」

 

 アルミンが這うように近づいてきた。額を切って血が流れているが、目ははっきりしている。

 

「大丈夫!?」

 

「そっちこそ血!?」

 

「かすっただけ!」

 

 ミカサはすでに父娘の前に立ち、飛んできた木片から庇う姿勢を取っていた。エレンは起き上がるなり、崩れた桟橋のほうを睨んでいる。

 

「くそっ……!」

 

 歯ぎしりの音が聞こえそうだった。

 

 係留綱が切られる。

 

 その瞬間、船がぐらりと揺れながら岸を離れ始めた。

 

「やめろぉぉ!!」

「まだ乗れる!」

「置いてくな!!」

 

 岸から手が伸びる。泣き叫ぶ声。兵士が押し返す声。伍長が怒鳴り続ける声。

 

 船は、離れる。

 

 少しずつ。だが確実に。

 

 スバルは立ち上がりかけて、膝が笑うのを感じた。さっきの衝撃で足にもきているらしい。思うように力が入らない。

 

 それでも視線だけは岸から外せない。

 

 残る人。乗れた人。叫ぶ人。崩れた桟橋。遠くに見える巨人。全部が同じ一枚の絵みたいに見えて、そのくせ一つ一つが生々しい。

 

「……最悪だ」

 

 掠れた声で呟く。

 

「だから今さらだって言っただろ」

 

 エレンが言う。だがその声も硬い。余裕はない。

 

「今さらでも言いたくなるだろ、こういうのは……」

 

 岸が離れていく。

 

 ここで終わりじゃない。むしろここからだ。この船で本当に安全圏まで行ける保証なんてどこにもない。それでも、少なくとも“いま巨人に掴まれる距離”からは遠ざかっている。

 

 それだけで、船上の空気は奇妙に二つに割れていた。

 

 助かったという安堵。

 

 置いてきたという罪悪感。

 

 どちらも本物で、どちらも消せない。

 

 父親が何度も頭を下げている。

 

「ありがとう……ありがとう……」

 

 娘を抱きしめながら、壊れたように繰り返していた。ミカサは何も言わない。ただ目を伏せる。アルミンはその声を聞きながら、どこか別の場所を見ている顔をしていた。

 

 スバルは船縁にもたれ、流れていく岸を見つめる。

 

 そこで、ふと気づく。

 

 伍長が乗っていない。

 

「……あれ」

 

 スバルが呟くと、エレンも気づいたらしい。

 

「伍長は?」

 

 若い兵士が一人、船の後方で息を切らしていた。顔面が真っ青だ。彼に向かってスバルが叫ぶ。

 

「おい! さっきの伍長は!?」

 

 兵士は一瞬だけこちらを見て、唇を噛んだ。

 

「……岸に残った」

 

 短い答えだった。

 

 スバルの胸の中で、何かが沈む。

 

 残った。

 

 自分たちを乗せる判断をして、そのまま。

 

 若い兵士は続けなかった。続ける必要もない。岸へ視線を戻せば分かる。伍長らしき姿が、まだ残っている避難民を押し、別の船へ回すよう怒鳴っているのが小さく見えた。

 

 あの人は、自分が乗る余地を削ってこちらを出したのだ。

 

「……っ」

 

 スバルは拳を握った。

 

 助かった、で終われない理由が、また一つ増えた。

 

「お前」

 

 エレンが低く言う。

 

「泣くなよ」

 

「泣いてねぇよ!」

 

「顔がぐちゃぐちゃだ」

 

「それはさっきからだろ!」

 

 反射で怒鳴り返して、そこでようやく、自分の目の端が熱いことに気づいた。

 

 涙かどうかは分からない。汗かもしれない。埃かもしれない。そういうことにしておきたかった。

 

 船は川を下る。

 

 岸から距離ができるにつれ、巨人の姿は小さくなる。だが、だからといって現実感が薄れるわけじゃない。むしろ、“遠くから見てしまう”ぶんだけ、街全体が壊れていく図として頭に入ってくる。

 

「シガンシナ区……」

 

 アルミンが呟いた。

 

 その声に、誰も返事をしない。

 

 壁の南端。さっきまで自分たちがいた街。異世界だなんだと浮かれて最初に歩いた場所。もう戻れないような距離で、それが燃え、煙を上げ、人を呑んでいる。

 

 スバルは船底に座り込んだ。

 

 急に、全部の疲れがいっぺんに来る。足が重い。腕が痛い。喉は完全に終わっている。肩もまだじんじんする。

 

 死んで戻った時にはなかった種類の消耗だ。

 

 生き延びた疲れ。

 

 それはそれで、しんどい。

 

「お前、肩」

 

 ミカサが言った。

 

「え?」

 

「腫れてる」

 

 見れば、さっき木材か何かがぶつかった左肩が赤黒くなっていた。自分では痛みが散りすぎて気づいていなかった。

 

「……あー、言われると痛ぇかも」

 

「遅い」

 

「今気づいたんだからしょうがねぇだろ」

 

 ミカサは近くにあった布切れを拾い、スバルのほうへ投げた。

 

「巻いて」

 

「自分で?」

 

「自分で」

 

「雑!」

 

「生きてるだけまし」

 

「その理屈、強すぎるんだよお前ら!」

 

 そう言いながらも、スバルは布を肩に巻いた。適当だ。だが、圧迫されるだけでも少し楽になる。

 

 アルミンが小さく笑う。

 

「少し元気出たね」

 

「どこがだよ」

 

「喋る量」

 

「量で判断すんな」

 

「分かりやすいよ」

 

 図星すぎて言い返しづらい。

 

 エレンは船縁に肘をついたまま、ずっと岸を見ている。表情は読みにくい。怒っているのか、悲しんでいるのか、その両方か。たぶん全部だ。

 

 スバルはその横顔を見て、ふと聞いてしまった。

 

「……お前さ」

 

「なんだ」

 

「さっき、残るって言ったの、本気だったのか」

 

 エレンはすぐには答えなかった。

 

 川の風が吹く。船がきしむ。遠くでまだ悲鳴が小さく聞こえる気がした。

 

「本気だ」

 

 やがて、短くそう返ってくる。

 

 スバルは眉をひそめる。

 

「なんでだよ」

 

「なんでって、誰か残るならそうするしかないだろ」

 

「そういう話じゃなくて」

 

 スバルは言葉を探す。

 

「……なんで、お前が先にそれ言えるんだよ」

 

 エレンはそこでようやくこちらを見た。

 

 目が赤い。泣いたからか、怒っているからか、たぶんどっちもだ。

 

「母さんを助けられなかった」

 

 平坦な声だった。

 

「だからせめて、次くらいはって思っただけだ」

 

 スバルは返事を失う。

 

 その“次”は、自分の“次”とは違う意味だ。死んで戻る前提じゃない。取り返しのつかない一回きりの“次”だ。

 

 重さが違う。

 

 なのに、熱の向きだけは同じだった。

 

「……そうかよ」

 

 それしか言えなかった。

 

 エレンはまた岸へ顔を戻す。

 

「お前だって、さっき飛び出しただろ」

 

「俺は……」

 

 そこで詰まる。

 

 死ぬのが怖い。怖いくせに飛び出す。助けたいのか、見捨てられないだけなのか、ヒーロー気取りなのか、自分でもはっきりしない。

 

 そんな曖昧なものを、どう言えばいい。

 

 だが黙っていると、アルミンがぽつりと言った。

 

「スバルは、後悔したくないんじゃないかな」

 

「は?」

 

「違う?」

 

 違う、と即答できなかった。

 

 後悔は嫌だ。助けられたかもしれないのに助けなかった、その記憶を抱えるのは嫌だ。死ぬのと同じくらい、あるいは別の意味で、それも怖い。

 

「……そうかもな」

 

 認めると、妙に疲れた。

 

「面倒くさい性格」

 

 ミカサが言う。

 

「うるせぇ。お前にだけは言われたくねぇ」

 

「どうして」

 

「お前も大概だろ」

 

「私は普通」

 

「普通の基準が壊れてんだよ!」

 

 ミカサがほんの少しだけ首を傾げる。その仕草があまりにも本気っぽくて、スバルは逆に笑いそうになった。

 

 笑えない状況で、笑いそうになる。

 

 不謹慎かもしれない。だが、その不自然さが逆に“まだ終わっていない”感じをくれる。

 

 その時、船頭が前方へ向かって何か叫んだ。

 

「着くぞ! 準備しろ!」

 

 全員が顔を上げる。

 

 川向こう――正確には壁のさらに内側へ通じる別の岸だろうか。避難民を受け入れるための仮設の桟橋が見えてきた。こちらほど混乱してはいないが、人は多い。兵士が待ち構え、到着する船を誘導している。

 

 助かった。

 

 そう思いかけて、スバルはその考えを無理やり止めた。

 

 まだだ。

 

 この世界で“助かった”を早まると、大抵その直後に何か起きる。もう学んだ。

 

「下船後は指示に従え!」

 

 兵士の声が飛ぶ。

 

「立つな、押すな、順番に降りろ!」

 

 その言い方に、スバルは少しだけ安堵した。少なくとも、受け入れ側は多少整理されているらしい。

 

 船が岸へつく。

 

 板が渡される。

 

 父娘が先に降ろされる。父親はまた振り返って頭を下げたが、言葉はもう出なかった。娘だけが、泣き腫らした顔で一度だけこちらを見た。

 

「……ありがとう」

 

 小さな声だった。

 

 スバルは喉が死んでいたので、手を軽く振ることしかできなかった。

 

 自分たちも降りる。

 

 足が地面についた瞬間、妙にふらついた。船の揺れのせいか、疲れのせいか、その両方か。ミカサが無言でスバルの肘を掴む。

 

「転ぶ」

 

「お前、いちいち言い方が不安を煽るんだよ」

 

「事実」

 

「知ってる!」

 

 だが、掴まれた腕はありがたかった。

 

 岸には避難民が次々と集められている。泣く声。呼び合う声。名前を探す声。兵士が人数を数え、怪我人を運び、空いた場所へ誘導している。

 

 ここも静かじゃない。

 

 だが、少なくとも巨人の手がすぐ届く距離ではない。

 

 その違いだけで、空気の質が少し変わっていた。

 

「……ここで終わりじゃないよね」

 

 アルミンが言った。

 

 誰も答えない。

 

 答えなくても分かっているからだ。

 

 シガンシナ区が破られたということは、そこで終わりじゃない。この先、壁内がどうなるのか。どこまで巨人が来るのか。自分たちはどう扱われるのか。家族を失ったこの三人はどうなるのか。異物そのものの自分は、どこへ転がるのか。

 

 何一つ決まっていない。

 

 だが、その中で一つだけはっきりしていることがあった。

 

 自分は、まだここにいる。

 

 死んで戻ったのではなく、生きたまま次の場所へ来てしまった。

 

 その事実に、スバルは妙な重さを感じた。

 

 死に戻りの“やり直し”じゃない時間が、ちゃんと積み重なっている。

 

 なら、今ここから先で失敗したものは、取り返せないかもしれない。

 

 その当たり前が、今さらになって怖かった。

 

「お前」

 

 エレンが呼ぶ。

 

「なんだ」

 

「さっきから思ってたけど」

 

「うん」

 

「その服、やっぱり変だな」

 

 スバルは一瞬ぽかんとして、それから思わず噴き出しかけた。喉が死んでいるせいで咳になった。

 

「今それ言う!?」

 

「今だからだよ」

 

「タイミングのセンス終わってるだろ!」

 

「お互い様」

 

 エレンはそう言って、ほんの少しだけ口元を歪めた。

 

 笑った、とまでは言えない。だが、それに近いものだった。

 

 その顔を見た瞬間、スバルの胸の奥に、変な確信が灯る。

 

 こいつとは、たぶんこれで終わらない。

 

 ミカサとも、アルミンとも。

 

 シガンシナの地獄を一緒に抜けてきた、それだけでは済まない何かが、この先にある。

 

 兵士が避難民をさらに奥へ誘導している。

 

 夜が近い。だが、今日という日はまだ終わらない顔をしていた。

 

 スバルは、肩の痛みと喉の熱と、消えない死の記憶を抱えたまま、三人のあとを追って歩き出した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。