夜は、静かには来なかった。
日が落ちるにつれて空が紫に沈んでいくのに、地上ではずっと人の声がしていた。泣き声、怒鳴り声、誰かを呼ぶ声、怪我人のうめき、兵士の号令。避難民を収容するために急ごしらえで開かれた広場には、人が詰め込まれていた。毛布も足りない。水も足りない。灯りも足りない。何もかも足りない。
足りないのに、人だけはいる。
それがいちばん重かった。
スバルは木箱をひっくり返したみたいな粗末な腰掛けに座り、包帯代わりの布を巻いた肩を押さえた。痛みは鈍くなってきたが、そのぶん全身の疲れが広がってくる。喉は完全に潰れて、息をするだけでもひりついた。
周囲には同じような顔がいくつもあった。怪我人。泣き崩れる母親。呆然と空を見ている老人。自分の家族の名前を延々と呼んでいる少年。
まだ巨人に追われていないだけで、ここも充分に地獄だった。
「……水」
掠れた声で呟くと、目の前に木のコップが差し出された。
ミカサだった。
「飲んで」
「お前、急に気が利くと怖ぇな」
「いらない?」
「いる!」
慌てて受け取る。水はぬるかったが、喉を通るだけで涙が出そうだった。少し飲んで、咳き込んで、もう少し飲む。生き返る、という表現が近い。
「助かった」
言うと、ミカサは小さく頷いただけだった。
近くではアルミンが兵士に何か聞いている。避難民の振り分けか、他の船の到着状況か、そういう話だろう。エレンは少し離れた場所で立ったまま、まだ収容されてくる人たちの列を見ていた。
あいつ、ずっとああだな、とスバルは思う。
座らない。休まない。止まると何かに追いつかれるみたいに、ずっと前を見ている。
それを見ている自分も、似たようなものかもしれないが。
「……お前、座らなくて平気なの」
ミカサが聞いた。
「平気じゃねぇよ」
「じゃあなぜ喋る」
「喋ってないと死ぬから」
「死なない」
「精神的な話な」
ミカサはまた少しだけ首を傾げた。その反応もだいぶ見慣れてきた気がする。会ってから一日も経っていないはずなのに、密度がおかしい。
アルミンが戻ってきた。
「まだ他の船も着いてるみたい。こっちの収容はしばらく続くって」
「……じゃあ」
スバルが喉を押さえながら言う。
「伍長も、来る可能性あるのか」
アルミンの顔がわずかに曇る。
「ある、とは思う」
「“思う”か」
「うん」
さっきから“思う”ばかりだな、と言いかけてやめた。責める意味がない。分からないことだらけの中で、分かるふりをしないだけアルミンは誠実だ。
そのとき、エレンがこちらへ戻ってきた。
「兵士が、名前を確認してる」
「名前?」
「家族を探すためだってさ」
言いながらも、エレンの声は少し乾いていた。
家族。
その単語だけで、この場では空気が変わる。
ミカサの睫毛がかすかに動く。アルミンは唇を引き結ぶ。スバルだけが、その痛みの正確な形を共有できないことに、妙な疎外感を覚えた。
自分はここに家族がいない。探す相手もいない。失ったものの重さが違う。
その違いは、たぶんこれからもっと響く。
「行くか」
エレンが言う。
四人で兵士の列へ向かった。広場の一角で、帳面を抱えた役人らしい男と兵士たちが、避難民の名前や出身を記録している。手が足りていないのか、列は長い。
並んでいる間にも、あちこちで再会と不在が繰り返されていた。
「お父さん!」
「無事だったのか!」
「母ちゃんは!? 母ちゃんはどこ!?」
抱き合う声と、崩れ落ちる声が混じる。
スバルは目を逸らしたくなった。だが逸らしても耳には入る。
エレンは前だけを見ている。ミカサはエレンを見ている。アルミンはその両方を見ていた。
やがて順番が来る。
帳面の男が顔を上げもせず言った。
「名前」
「エレン・イェーガー」
「ミカサ・アッカーマン」
「アルミン・アルレルト」
三人が順に名乗る。男の羽根ペンが紙を滑る。
そしてスバルの番になる。
「名前」
「ナツキ・スバル」
男の手が止まった。
「……なんだそれは」
「名前ですけど」
「出身は」
来た。
スバルは一瞬、喉の奥がひりつくのを感じた。
「えーと……」
壁内か、というあの問いがよみがえる。ここで変なことを言えば、怪しまれる。だが、この世界の地名なんて知らない。
「遠いところです」
最悪の答えだった。
案の定、男が顔を上げる。
「どこの区だ」
「それがちょっと……かなり遠くて……」
「遠くても区名はあるだろう」
「いや、その、文化圏が違うというか……」
「何を言っている」
兵士までこちらを見た。
まずい。
エレンが横で眉をひそめる。アルミンが息を呑む。ミカサだけが無表情のまま、少しだけ前へ出た。
「彼は混乱している」
淡々とした声だった。
「今日、何度も死にかけた」
「それは皆そうだ」
役人が言う。
「でも彼は特に混乱してる」
「フォローが雑!」
思わず小声で突っ込むと、ミカサがほんの一瞬だけこちらを見る。
笑っているわけではない。だが、“今は黙って”という圧は十分だった。
アルミンがすぐに続ける。
「服装も見れば分かる通り、普通じゃないんです。シガンシナで遭遇した時から壁内の常識をほとんど知らなかった。だから、たぶん本当に特殊な事情があるんです」
役人の目がさらに細くなる。
「ますます怪しいな」
「それは……そうなんだけど」
アルミンが言葉を探す。
そこへエレンが、苛立ったように吐き捨てた。
「でも、こいつがいなきゃ俺たちはここにいない」
場が少し静かになる。
役人も兵士も、三人も、スバルも、一瞬だけエレンを見る。
「門が壊れる前から変なこと言ってたし、怪しいのは怪しい。でも、逃げる時も、船着き場でも、こいつは助けた側だ」
ぶっきらぼうだった。説明も雑だ。だが、エレンなりに最大限こちらを庇っているのが分かった。
スバルは妙に胸が詰まる。
役人はしばらく考え、それから苛立ったように舌打ちした。
「……出身不明で記録する」
「不明!?」
「文句があるなら正確に答えろ」
「ごもっとも!」
反論できなかった。
結局、帳面には何か書きつけられた。たぶん本当に“出身不明”だろう。怪しさ満点である。
列を離れると、スバルは思わずエレンを見た。
「……お前」
「なんだよ」
「いまの、庇った?」
「別に」
「別にであれできるなら大したもんだよ」
「うるさい」
そっぽを向く。だが耳が少し赤い。スバルは、ああこいつこういうとこあるな、と初めて思った。
アルミンが苦笑する。
「さっきから思ってたけど、エレンって言葉足りないよね」
「お前は多すぎるだろ」
「足して割ればちょうどいいかも」
「俺らで算数すんな」
軽口を交わした、その時だった。
広場の別の端で、急に騒ぎが起きた。
「離せ! 俺は戻る!」
「だめだ、危険だ!」
「母さんがまだ向こうにいるんだよ!!」
若い男が兵士ともみ合っている。避難民らしい。止める兵士の手を振り払い、川のほうへ行こうとしているらしい。
その声を聞いた瞬間、エレンの表情が変わった。
嫌な変わり方だった。
「……エレン」
アルミンが呼ぶ。
エレンは返事をしない。騒ぎのほうを見たまま、拳を握っている。
分かる、とスバルは思った。
分かりたくないのに分かる。ああいう声を聞いたら、自分だって引っ張られる。戻りたい。助けたい。諦めたことを諦めきれない。その衝動が、エレンの中でずっと燃えている。
「エレン」
今度はミカサが呼んだ。
エレンは低く言う。
「……まだ、戻れるかもしれない」
「無理だ」
ミカサは即答した。
「無理って決めるな!」
「決めてるんじゃない。現実」
「現実で母さんが死んだのは見た!」
声が裂けた。
周囲の何人かが振り向く。だがエレンは気づいていない。あるいは気にしていない。
「だからって何もしないのかよ!」
「今戻っても死ぬだけ」
「でも誰かはまだ――」
「誰か、じゃない」
ミカサの声が少しだけ強くなる。
「エレンが戻りたいだけ」
その一言は、あまりにも真っ直ぐだった。
エレンの顔が強張る。
スバルは思わず息を呑んだ。そこを言うのか、と思った。だが、言わなければ止まらないのも分かる。
「……悪いかよ」
エレンが搾り出す。
「悪くない」
ミカサは言う。
「でも、死ぬ」
「――ッ」
エレンが言葉を失う。
そこでスバルは、ようやく口を挟んだ。
「……なあ」
三人がこちらを見る。
スバルは喉を押さえ、少しだけ間を置いてから言った。
「戻りたい気持ちは、分かる」
エレンの目が揺れる。
「俺だって、助けられなかったの、まだ頭から離れてねぇし。さっきの伍長のことも、あの船着き場の連中のことも、いちいち引っかかってる」
言葉にすると、胃の底がまた重くなった。
「でも、だからって今戻ったら、たぶん同じこと繰り返す」
「……」
「助けたい気持ちだけで突っ込んで、結局手が足りなくて、もっと増やして終わる」
これは、自分に向けた言葉でもあった。
カルラの時。倉庫の前の男の時。何度も、自分は“行かなきゃ”だけで飛び出しかけた。あるいは飛び出した。そのたびに、うまくいったり、いかなかったりした。でも一つだけ確かなのは、“気持ちだけじゃ足りない”ということだ。
「じゃあどうすればいいんだよ」
エレンの声は怒鳴り声ではなかった。
むしろ、その逆だ。
どうしようもないものに、どうしたらいいのか分からない時の声。
「何もできないって諦めればいいのか?」
「違う」
スバルは首を振る。
「今できる形じゃないなら、できる形になるまで生きるしかねぇ」
言っていて、自分でも妙な言葉だと思った。
説教みたいだ。達観してるみたいで、全然そんなことはない。自分だって分かってない。怖いし、吐きそうだし、投げ出したい。
それでも。
「死んだら、それで終わりだろ」
その一言だけは、本心だった。
自分だけは、死んでも終わりじゃないかもしれない。
その事実を抱えたまま、こういうことを言うのはずるいのかもしれない。だが同時に、死ぬことが終わりじゃないからこそ、むしろ死の痛みと恐怖を軽く見られない自分もいる。
あれを、また味わいたくない。
そして、エレンたちには二度目なんてない。
「……生きるために、今は引く」
アルミンが静かに言った。
「それしかないよ、エレン」
エレンは唇を噛んだまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、乱暴に息を吐く。
「……くそ」
小さく、それだけ。
だが、戻ろうとはしなかった。
ミカサが肩の力を少しだけ抜く。アルミンも目に見えて安堵した。
スバルは、その空気が壊れないうちに、無理やり話題を変えた。
「ところで俺、今日だけで何回“くそ”聞いたんだろうな」
「数えてたの?」
アルミンが言う。
「数えてない。数えてたらもっと絶望してる」
「お前も言ってる」
ミカサ。
「お前らも言ってる」
スバル。
「今それどうでもいいだろ」
エレン。
「ほら!」
スバルが指をさすと、エレンが本気で嫌そうな顔をした。
「うるせぇ」
「出ました本日何度目かの“うるせぇ”!」
「お前ほんと黙れよ」
「会話を失ったら死ぬんだって!」
「だから死なない」
「お前ら“死なない”のハードル低すぎんだよ!」
少しだけ、空気が軽くなる。
本当に少しだけだ。でも、それで十分だった。
その直後、広場の中央あたりから兵士の声が響いた。
「訓練兵志願者、および年齢確認を行う! 十三歳以上の者は順次こちらへ来い!」
その言葉に、周囲のざわめきが変わる。
志願者。訓練兵。
スバルは眉をひそめた。
「……は?」
エレンが先に反応した。
「訓練兵……」
その目つきが、また変わる。
嫌な予感がした。
いや、“嫌”だけじゃない。もっと複雑だ。ここから先、この三人の進む道が急に見えた気がした。兵士。巨人と戦う側。壁の中で生きるための道。
そして、その道の先にあるものが、たぶんとてつもなく重いことも。
アルミンが小さく呟く。
「……もう?」
「早すぎる」
ミカサが言う。
「でも、破られたんだ」
エレンの声は、驚くほど静かだった。
「兵が要る」
そう言って前を見る横顔に、スバルは妙な寒気を覚えた。
ああ、こいつは行く。
止めても無駄だ。
母を食われた今日の、この夜のうちに、たぶんもう心の半分以上がそっちへ向いている。
アルミンも、それを分かっている顔をしていた。
ミカサは最初から答えが決まっているみたいな顔だった。
スバルだけが、その流れの外側に立っている。
訓練兵?
自分が?
この世界で? 巨人相手に?
冗談じゃない。無理だ。死ぬ。
喉の奥が冷たくなる。だが、同時に別の声もする。
じゃあどうする。
この三人と別れて、一人で生きるのか。
出身不明の異物が、どこで何をして?
「……最悪の二択きたな」
思わず本音が漏れた。
「何が」
アルミンが聞く。
「いや、こっちの話」
誤魔化すが、誤魔化しきれていない気がした。
エレンは兵士の呼びかけの方を見たまま、ぽつりと言う。
「俺、入る」
やっぱり、とスバルは思った。
アルミンは目を閉じた。覚悟した顔で。
「……僕も」
ミカサは当然のように続ける。
「私も」
三人の言葉は、ばらばらじゃなかった。もともと一つの流れの上にあって、今それが口に出ただけだ。
その流れに、スバルの胸がざわつく。
ここで別れるのか。
それとも。
エレンがようやくこちらを見た。
「お前は」
その一言が、妙に重い。
スバルは乾いた喉を鳴らした。
答えはまだ出ていなかった。出ていないのに、この夜の空気は、その答えが今後の全部を変えることだけをはっきり告げていた。