Re:壁内から始める異世界生活   作:stein0630

8 / 36
第8話 名前を呼ぶ夜

 

 

 夜は、静かには来なかった。

 

 日が落ちるにつれて空が紫に沈んでいくのに、地上ではずっと人の声がしていた。泣き声、怒鳴り声、誰かを呼ぶ声、怪我人のうめき、兵士の号令。避難民を収容するために急ごしらえで開かれた広場には、人が詰め込まれていた。毛布も足りない。水も足りない。灯りも足りない。何もかも足りない。

 

 足りないのに、人だけはいる。

 

 それがいちばん重かった。

 

 スバルは木箱をひっくり返したみたいな粗末な腰掛けに座り、包帯代わりの布を巻いた肩を押さえた。痛みは鈍くなってきたが、そのぶん全身の疲れが広がってくる。喉は完全に潰れて、息をするだけでもひりついた。

 

 周囲には同じような顔がいくつもあった。怪我人。泣き崩れる母親。呆然と空を見ている老人。自分の家族の名前を延々と呼んでいる少年。

 

 まだ巨人に追われていないだけで、ここも充分に地獄だった。

 

「……水」

 

 掠れた声で呟くと、目の前に木のコップが差し出された。

 

 ミカサだった。

 

「飲んで」

 

「お前、急に気が利くと怖ぇな」

 

「いらない?」

 

「いる!」

 

 慌てて受け取る。水はぬるかったが、喉を通るだけで涙が出そうだった。少し飲んで、咳き込んで、もう少し飲む。生き返る、という表現が近い。

 

「助かった」

 

 言うと、ミカサは小さく頷いただけだった。

 

 近くではアルミンが兵士に何か聞いている。避難民の振り分けか、他の船の到着状況か、そういう話だろう。エレンは少し離れた場所で立ったまま、まだ収容されてくる人たちの列を見ていた。

 

 あいつ、ずっとああだな、とスバルは思う。

 

 座らない。休まない。止まると何かに追いつかれるみたいに、ずっと前を見ている。

 

 それを見ている自分も、似たようなものかもしれないが。

 

「……お前、座らなくて平気なの」

 

 ミカサが聞いた。

 

「平気じゃねぇよ」

 

「じゃあなぜ喋る」

 

「喋ってないと死ぬから」

 

「死なない」

 

「精神的な話な」

 

 ミカサはまた少しだけ首を傾げた。その反応もだいぶ見慣れてきた気がする。会ってから一日も経っていないはずなのに、密度がおかしい。

 

 アルミンが戻ってきた。

 

「まだ他の船も着いてるみたい。こっちの収容はしばらく続くって」

 

「……じゃあ」

 

 スバルが喉を押さえながら言う。

 

「伍長も、来る可能性あるのか」

 

 アルミンの顔がわずかに曇る。

 

「ある、とは思う」

 

「“思う”か」

 

「うん」

 

 さっきから“思う”ばかりだな、と言いかけてやめた。責める意味がない。分からないことだらけの中で、分かるふりをしないだけアルミンは誠実だ。

 

 そのとき、エレンがこちらへ戻ってきた。

 

「兵士が、名前を確認してる」

 

「名前?」

 

「家族を探すためだってさ」

 

 言いながらも、エレンの声は少し乾いていた。

 

 家族。

 

 その単語だけで、この場では空気が変わる。

 

 ミカサの睫毛がかすかに動く。アルミンは唇を引き結ぶ。スバルだけが、その痛みの正確な形を共有できないことに、妙な疎外感を覚えた。

 

 自分はここに家族がいない。探す相手もいない。失ったものの重さが違う。

 

 その違いは、たぶんこれからもっと響く。

 

「行くか」

 

 エレンが言う。

 

 四人で兵士の列へ向かった。広場の一角で、帳面を抱えた役人らしい男と兵士たちが、避難民の名前や出身を記録している。手が足りていないのか、列は長い。

 

 並んでいる間にも、あちこちで再会と不在が繰り返されていた。

 

「お父さん!」

「無事だったのか!」

「母ちゃんは!? 母ちゃんはどこ!?」

 

 抱き合う声と、崩れ落ちる声が混じる。

 

 スバルは目を逸らしたくなった。だが逸らしても耳には入る。

 

 エレンは前だけを見ている。ミカサはエレンを見ている。アルミンはその両方を見ていた。

 

 やがて順番が来る。

 

 帳面の男が顔を上げもせず言った。

 

「名前」

 

「エレン・イェーガー」

 

「ミカサ・アッカーマン」

 

「アルミン・アルレルト」

 

 三人が順に名乗る。男の羽根ペンが紙を滑る。

 

 そしてスバルの番になる。

 

「名前」

 

「ナツキ・スバル」

 

 男の手が止まった。

 

「……なんだそれは」

 

「名前ですけど」

 

「出身は」

 

 来た。

 

 スバルは一瞬、喉の奥がひりつくのを感じた。

 

「えーと……」

 

 壁内か、というあの問いがよみがえる。ここで変なことを言えば、怪しまれる。だが、この世界の地名なんて知らない。

 

「遠いところです」

 

 最悪の答えだった。

 

 案の定、男が顔を上げる。

 

「どこの区だ」

 

「それがちょっと……かなり遠くて……」

 

「遠くても区名はあるだろう」

 

「いや、その、文化圏が違うというか……」

 

「何を言っている」

 

 兵士までこちらを見た。

 

 まずい。

 

 エレンが横で眉をひそめる。アルミンが息を呑む。ミカサだけが無表情のまま、少しだけ前へ出た。

 

「彼は混乱している」

 

 淡々とした声だった。

 

「今日、何度も死にかけた」

 

「それは皆そうだ」

 

 役人が言う。

 

「でも彼は特に混乱してる」

 

「フォローが雑!」

 

 思わず小声で突っ込むと、ミカサがほんの一瞬だけこちらを見る。

 

 笑っているわけではない。だが、“今は黙って”という圧は十分だった。

 

 アルミンがすぐに続ける。

 

「服装も見れば分かる通り、普通じゃないんです。シガンシナで遭遇した時から壁内の常識をほとんど知らなかった。だから、たぶん本当に特殊な事情があるんです」

 

 役人の目がさらに細くなる。

 

「ますます怪しいな」

 

「それは……そうなんだけど」

 

 アルミンが言葉を探す。

 

 そこへエレンが、苛立ったように吐き捨てた。

 

「でも、こいつがいなきゃ俺たちはここにいない」

 

 場が少し静かになる。

 

 役人も兵士も、三人も、スバルも、一瞬だけエレンを見る。

 

「門が壊れる前から変なこと言ってたし、怪しいのは怪しい。でも、逃げる時も、船着き場でも、こいつは助けた側だ」

 

 ぶっきらぼうだった。説明も雑だ。だが、エレンなりに最大限こちらを庇っているのが分かった。

 

 スバルは妙に胸が詰まる。

 

 役人はしばらく考え、それから苛立ったように舌打ちした。

 

「……出身不明で記録する」

 

「不明!?」

 

「文句があるなら正確に答えろ」

 

「ごもっとも!」

 

 反論できなかった。

 

 結局、帳面には何か書きつけられた。たぶん本当に“出身不明”だろう。怪しさ満点である。

 

 列を離れると、スバルは思わずエレンを見た。

 

「……お前」

 

「なんだよ」

 

「いまの、庇った?」

 

「別に」

 

「別にであれできるなら大したもんだよ」

 

「うるさい」

 

 そっぽを向く。だが耳が少し赤い。スバルは、ああこいつこういうとこあるな、と初めて思った。

 

 アルミンが苦笑する。

 

「さっきから思ってたけど、エレンって言葉足りないよね」

 

「お前は多すぎるだろ」

 

「足して割ればちょうどいいかも」

 

「俺らで算数すんな」

 

 軽口を交わした、その時だった。

 

 広場の別の端で、急に騒ぎが起きた。

 

「離せ! 俺は戻る!」

「だめだ、危険だ!」

「母さんがまだ向こうにいるんだよ!!」

 

 若い男が兵士ともみ合っている。避難民らしい。止める兵士の手を振り払い、川のほうへ行こうとしているらしい。

 

 その声を聞いた瞬間、エレンの表情が変わった。

 

 嫌な変わり方だった。

 

「……エレン」

 

 アルミンが呼ぶ。

 

 エレンは返事をしない。騒ぎのほうを見たまま、拳を握っている。

 

 分かる、とスバルは思った。

 

 分かりたくないのに分かる。ああいう声を聞いたら、自分だって引っ張られる。戻りたい。助けたい。諦めたことを諦めきれない。その衝動が、エレンの中でずっと燃えている。

 

「エレン」

 

 今度はミカサが呼んだ。

 

 エレンは低く言う。

 

「……まだ、戻れるかもしれない」

 

「無理だ」

 

 ミカサは即答した。

 

「無理って決めるな!」

 

「決めてるんじゃない。現実」

 

「現実で母さんが死んだのは見た!」

 

 声が裂けた。

 

 周囲の何人かが振り向く。だがエレンは気づいていない。あるいは気にしていない。

 

「だからって何もしないのかよ!」

 

「今戻っても死ぬだけ」

 

「でも誰かはまだ――」

 

「誰か、じゃない」

 

 ミカサの声が少しだけ強くなる。

 

「エレンが戻りたいだけ」

 

 その一言は、あまりにも真っ直ぐだった。

 

 エレンの顔が強張る。

 

 スバルは思わず息を呑んだ。そこを言うのか、と思った。だが、言わなければ止まらないのも分かる。

 

「……悪いかよ」

 

 エレンが搾り出す。

 

「悪くない」

 

 ミカサは言う。

 

「でも、死ぬ」

 

「――ッ」

 

 エレンが言葉を失う。

 

 そこでスバルは、ようやく口を挟んだ。

 

「……なあ」

 

 三人がこちらを見る。

 

 スバルは喉を押さえ、少しだけ間を置いてから言った。

 

「戻りたい気持ちは、分かる」

 

 エレンの目が揺れる。

 

「俺だって、助けられなかったの、まだ頭から離れてねぇし。さっきの伍長のことも、あの船着き場の連中のことも、いちいち引っかかってる」

 

 言葉にすると、胃の底がまた重くなった。

 

「でも、だからって今戻ったら、たぶん同じこと繰り返す」

 

「……」

 

「助けたい気持ちだけで突っ込んで、結局手が足りなくて、もっと増やして終わる」

 

 これは、自分に向けた言葉でもあった。

 

 カルラの時。倉庫の前の男の時。何度も、自分は“行かなきゃ”だけで飛び出しかけた。あるいは飛び出した。そのたびに、うまくいったり、いかなかったりした。でも一つだけ確かなのは、“気持ちだけじゃ足りない”ということだ。

 

「じゃあどうすればいいんだよ」

 

 エレンの声は怒鳴り声ではなかった。

 

 むしろ、その逆だ。

 

 どうしようもないものに、どうしたらいいのか分からない時の声。

 

「何もできないって諦めればいいのか?」

 

「違う」

 

 スバルは首を振る。

 

「今できる形じゃないなら、できる形になるまで生きるしかねぇ」

 

 言っていて、自分でも妙な言葉だと思った。

 

 説教みたいだ。達観してるみたいで、全然そんなことはない。自分だって分かってない。怖いし、吐きそうだし、投げ出したい。

 

 それでも。

 

「死んだら、それで終わりだろ」

 

 その一言だけは、本心だった。

 

 自分だけは、死んでも終わりじゃないかもしれない。

 

 その事実を抱えたまま、こういうことを言うのはずるいのかもしれない。だが同時に、死ぬことが終わりじゃないからこそ、むしろ死の痛みと恐怖を軽く見られない自分もいる。

 

 あれを、また味わいたくない。

 

 そして、エレンたちには二度目なんてない。

 

「……生きるために、今は引く」

 

 アルミンが静かに言った。

 

「それしかないよ、エレン」

 

 エレンは唇を噛んだまま、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて、乱暴に息を吐く。

 

「……くそ」

 

 小さく、それだけ。

 

 だが、戻ろうとはしなかった。

 

 ミカサが肩の力を少しだけ抜く。アルミンも目に見えて安堵した。

 

 スバルは、その空気が壊れないうちに、無理やり話題を変えた。

 

「ところで俺、今日だけで何回“くそ”聞いたんだろうな」

 

「数えてたの?」

 

 アルミンが言う。

 

「数えてない。数えてたらもっと絶望してる」

 

「お前も言ってる」

 

 ミカサ。

 

「お前らも言ってる」

 

 スバル。

 

「今それどうでもいいだろ」

 

 エレン。

 

「ほら!」

 

 スバルが指をさすと、エレンが本気で嫌そうな顔をした。

 

「うるせぇ」

 

「出ました本日何度目かの“うるせぇ”!」

 

「お前ほんと黙れよ」

 

「会話を失ったら死ぬんだって!」

 

「だから死なない」

 

「お前ら“死なない”のハードル低すぎんだよ!」

 

 少しだけ、空気が軽くなる。

 

 本当に少しだけだ。でも、それで十分だった。

 

 その直後、広場の中央あたりから兵士の声が響いた。

 

「訓練兵志願者、および年齢確認を行う! 十三歳以上の者は順次こちらへ来い!」

 

 その言葉に、周囲のざわめきが変わる。

 

 志願者。訓練兵。

 

 スバルは眉をひそめた。

 

「……は?」

 

 エレンが先に反応した。

 

「訓練兵……」

 

 その目つきが、また変わる。

 

 嫌な予感がした。

 

 いや、“嫌”だけじゃない。もっと複雑だ。ここから先、この三人の進む道が急に見えた気がした。兵士。巨人と戦う側。壁の中で生きるための道。

 

 そして、その道の先にあるものが、たぶんとてつもなく重いことも。

 

 アルミンが小さく呟く。

 

「……もう?」

 

「早すぎる」

 

 ミカサが言う。

 

「でも、破られたんだ」

 

 エレンの声は、驚くほど静かだった。

 

「兵が要る」

 

 そう言って前を見る横顔に、スバルは妙な寒気を覚えた。

 

 ああ、こいつは行く。

 

 止めても無駄だ。

 

 母を食われた今日の、この夜のうちに、たぶんもう心の半分以上がそっちへ向いている。

 

 アルミンも、それを分かっている顔をしていた。

 

 ミカサは最初から答えが決まっているみたいな顔だった。

 

 スバルだけが、その流れの外側に立っている。

 

 訓練兵?

 

 自分が?

 

 この世界で? 巨人相手に?

 

 冗談じゃない。無理だ。死ぬ。

 

 喉の奥が冷たくなる。だが、同時に別の声もする。

 

 じゃあどうする。

 

 この三人と別れて、一人で生きるのか。

 

 出身不明の異物が、どこで何をして?

 

「……最悪の二択きたな」

 

 思わず本音が漏れた。

 

「何が」

 

 アルミンが聞く。

 

「いや、こっちの話」

 

 誤魔化すが、誤魔化しきれていない気がした。

 

 エレンは兵士の呼びかけの方を見たまま、ぽつりと言う。

 

「俺、入る」

 

 やっぱり、とスバルは思った。

 

 アルミンは目を閉じた。覚悟した顔で。

 

「……僕も」

 

 ミカサは当然のように続ける。

 

「私も」

 

 三人の言葉は、ばらばらじゃなかった。もともと一つの流れの上にあって、今それが口に出ただけだ。

 

 その流れに、スバルの胸がざわつく。

 

 ここで別れるのか。

 

 それとも。

 

 エレンがようやくこちらを見た。

 

「お前は」

 

 その一言が、妙に重い。

 

 スバルは乾いた喉を鳴らした。

 

 答えはまだ出ていなかった。出ていないのに、この夜の空気は、その答えが今後の全部を変えることだけをはっきり告げていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。