口座残高が見えてしまったので、無難な就活生をやめました   作:匿名さん

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第1話 雨の日、数字が見えてしまった

 不採用通知のメールは、いつも同じ文面だった。

 

 ――慎重に選考を行った結果、今回はご期待に沿えない結果となりました。

 

 相馬澪(そうまみお)は、スマートフォンの画面を閉じ、静かに息を吐いた。

 

 何通目のお祈りメールなのか、もう数えていない。

 数えたところで、気持ちが軽くなるわけでもない。

 

 就活用の黒いパンプスは、朝に履いたときより少しだけ足に食い込んでいる。

 午前中から降っていた雨のせいで空気は冷たく、つま先の感覚が鈍かった。

 

「……まあ、想定内かな」

 

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 強がりというより、もはや反射に近い言葉だった。

 

 一次は大体通る。

 筆記もグループディスカッションも決して悪くない。

 

 けれど、いつもどこかで落ちる。

 最終面接まで行っても、最後にはお祈りメールだ。

 

 理由は分かっている。

 

 ──自分は「無難」なのだ。

 

 派手な実績もない。

 学生時代に起業したわけでも、留学したわけでも、輝かしい受賞歴があるわけでもない。

 資格は取ったし、単位も落としていない。

 ゼミも真面目にやっていたし、アルバイトも人並みにこなした。

 けれど、それは全部「ちゃんとしている」で終わる。

 

 ちゃんとしている、だけ。

 

 面接官が何を見ているのか、澪にはよく分からなかった。

 

 受け答えの自然さなのか。

 愛想のよさなのか。

 それとも、自信のある人間だけが纏っている、あの妙な“押しの強さ”なのか。

 

 大学のキャリアセンターでは、受け答えは丁寧だと褒められている。

 両親は、ちゃんと頑張っているのだから、そのうち決まるよと慰めてくれる。

 でも、その“そのうち”が、いつまで経っても来ない。

 

 同じような黒いスーツを着て、

 同じように頭を下げて、

 同じように「御社が第一志望です」と口にしているはずなのに。

 

 何を基準に人を選んでいるのか。

 それが見えれば、もう少し戦いようがあるのに。

 

 そんなとりとめもないことを考えながら、澪は立ち上がった。

 

 ──今日はもう帰ろう。

 

 エントリーシートを書き直す気力もないし、自己分析の続きをやる気にもなれない。

 今は、スーツを脱いでコンビニで何か甘いものでも買って、今日を終わりにしたかった。

 

 横断歩道に向かう。

 信号は青だった。

 

 自分には、一体何が足りないのだろう。

 

 華やかな経歴なのか。

 多少の嘘でも堂々と言い切る度胸か。

 相手が喜ぶ答えを瞬時に選び取る器用さか。

 

 何か手がかりがなければ、この先もずっと落とされ続ける気がした。

 

 その瞬間――

 

 視界の端で、ライトが滲んだ。

 

 甲高いブレーキ音。

 足元から何かが消えるような感覚。

 激しい衝撃が体を横からさらい、世界が一気に傾いた。

 

 体が宙に放り出され、空とアスファルトがぐるりと入れ替わる。

 

 息が詰まる。

 何が起きたのか理解する前に、痛みだけが遅れて押し寄せた。

 

 遠くで誰かが叫んでいた。

 

「人が……! 誰か救急車!」

 

 足音が駆け寄ってくる。

 傘が落ちる音。

 ブレーキの焼けるような匂いと、濡れたアスファルトの冷たさだけが妙に生々しかった。

 

「聞こえますか! 分かりますか!」

 

 誰かが、必死に呼びかけている。

 けれど、まぶたは開かない。

 体の感覚が、どんどん遠くなっていく。

 

 サイレンの音が近づいてきた。

 誰かが「若い女性です」「意識が……」と切れ切れに説明している。

 

 そのまま、音も痛みも、全部が白く遠のいていった。

 

 ――ああ、私、死ぬのかな。

 

 その思考を最後に、澪の意識は途切れた。

 

***

 

 次に意識を取り戻したとき、澪の視界は妙に白かった。

 

 天井には蛍光灯。

 鼻を刺すような消毒液の匂い。

 

 病院だ、と理解するまでに少し時間がかかった。

 頭の芯に鈍い痛みが残っている。

 指先を動かすだけでも、自分の体がひどく重く感じた。

 

「……目、覚めましたか?」

 

 声をかけられて、澪はゆっくりとそちらを見た。

 

 若い女性の看護師が立っていた。

 彼女はほっとしたように微笑んでいる。

 その表情を認識した、次の瞬間だった。

 

 ――数字が見えた。

 

 2,843,120

 

 彼女の胸元に、淡い白色の数字が浮かんでいた。

 

 澪は瞬きをした。

 目をこすろうとして、腕が思うように上がらないことに気づく。

 

 そして、再び彼女に意識を戻しても数字は消えてくれなかった。

 

(……なに、これ)

 

 頭を打ったせいで、おかしくなったのかもしれない。

 寝ぼけているのかもしれない。

 薬の影響かもしれない。

 

 そう思うのに、妙に数字はくっきり見える。

 

「気分は悪くないですか? 頭を強く打っていたようですから、念のため数日入院していただいて……」

 

 看護師の声は普通だった。

 澪の混乱など知るはずもなく、穏やかに説明を続けている。

 

 数字は微動だにしない。

 

 澪はゆっくり視線を逸らした。

 壁、カーテン、白いシーツ。

 

 どこにも数字はない。

 

 もう一度看護師を見る。

 やはりそこにだけ、2,843,120。

 

「今、先生を呼んできますね」

 

 看護師はそう言って病室を出ていった。

 

 足音が遠ざかっていく。

 自動扉が開閉するわずかな音が響くだけの妙に静かな時間。

 

 数分後、若い医師が入ってきた。

 眼鏡をかけた、まだ三十代くらいの男だった。

 

 1,120,540

 

 また、その胸元に数字がある。

 後ろから、年配の医師も現れる。

 

 58,403,221

 

 澪の喉がひくりと鳴った。

 

(……なにこれ。幻覚なの?)

 

 若い医師がカルテを確認しながら、体調について質問する。

 年配の医師が、それに補足を入れる。

 ごく普通の診察だ。

 なのに澪の意識の半分は、会話ではなく数字に持っていかれていた。

 

 看護師。

 若い医師。

 年配の医師。

 

 全員、違う数字。

 桁数もばらばら。

 しかも、なんとなくではなく、妙に“それらしい”。

 

 何がそれらしいのか、自分でもまだ分からないのに、変に現実味があった。

 

 診察が終わり、医師たちが病室を出ていく。

 入れ替わるように、母が駆け込んできた。

 

「澪……!」

 

 泣きそうな顔で、ベッド脇まで来る。

 髪は少し乱れていて、コートの肩口には外の雨粒がまだ残っていた。

 あわてて来たのだと一目で分かる。

 

 その母の胸元にも、数字が浮かんでいた。

 

 3,912,000

 

 澪は息を止めた。

 

 母が澪の手を握ってくる。

 温かい、いつもの母の手だ。

 

「よかった……本当に……。お母さん、連絡もらったとき、心臓が止まるかと思って……」

 

 声が震えていた。

 怒るでもなく、取り乱すでもなく、ただ本気で安堵している声音だった。

 

 その母の優しさと、胸元の数字が妙に噛み合わない。

 

 3,912,000。

 

 澪は目を閉じた。

 

(……見えちゃいけないものが、見えてる)

 

 母も、医師も、看護師も、何も悪くない。

 ただ自分だけが、勝手に知ってはいけない情報を受け取っている。

 

 ぞっとした。

 

 これがもし本当に、自分にだけ見えているものだとしたら。

 それは便利とか特別とか、そういう言葉で済ませていい類のものではないのかもしれない。

 

 入院中、澪はなるべく人の顔を見ないようにすることにした。

 

 しかし、それは無理な努力だった。

 

 点滴を替えに来る看護師。

 廊下ですれ違う患者。

 売店の店員。

 担当の理学療法士。

 見ようとしなくても、視界に入れば澪の意思に関係なく数字が浮かぶ。

 

 数日が過ぎても現象は変わらなかった。

 一時的な混乱でも、夢の続きでもないことは明白だった。

 

 退院の日。

 会計窓口の前で、澪は無言のまま立っていた。

 

 事務員の胸元に、6,221,840。

 隣の男性患者に、412,090。

 その妻らしき女性に、18,004,550。

 少し離れた場所にいる若い医師には、また別の数字。

 

 ふと、澪は気づいてしまった。

 年齢とも、服装とも、職業とも、きれいには比例していない。

 高そうな時計をしていても少ない人がいる。

 地味な服装でも多い人がいる。

 

 ──これは一体なんなのだろう。

 

 会計窓口で、母が鞄から財布を取り出した。

 診療明細書と請求書を受け取り、内容をざっと確認してからカードを差し出す。

 

 その何気ない仕草を、澪はぼんやりと見ていた。

 母の胸元には、さっきと同じ数字が浮かんでいる。

 

 3,912,000

 

 会計処理のための短い待ち時間。

 事務員が端末を操作し、確認の声を返す。

 

「では、こちらでお預かりします」

 

 次の瞬間、母の胸元の数字が、ふっと書き換わった。

 

 3,841,620

 

 澪は息を止めた。

 

 ──今、数字が減った。

 

 視線が、反射的に母の手元の明細へ落ちる。

 そこに印字されていた請求額は、70,380円。

 

 3,912,000から70,380を引いた額と、目の前の数字はぴたり一致していた。

 

 背筋が粟立つ。

 

 年収じゃない。

 所持金でもない。

 曖昧な“資産”なんかでもない。

 

 わかった、わかってしまった。

 

 もっと、個人的で。

 もっと、生々しい。

 

 これは、“口座残高”だ。

 

 理解した瞬間、世界の見え方が一段階切り替わった気がした。

 それは、見栄でも肩書でも隠しきれない、その人の生活そのものだった。

 

 会計を終え、母と一緒に病院の自動ドアを抜ける。

 

 外はまだ雨が降っていた。

 空気は冷たく、アスファルトは黒く濡れている。

 傘を差して行き交う人々の上に、白い数字が静かに浮かび続けていた。

 

 会社員。

 学生。

 老人。

 子ども連れの母親。

 

 見たくないのに、見えてしまう。

 知りたくないのに、分かってしまう。

 

 澪は無意識に考えてしまった。

 

(これ……就活で使えるかな)

 

 直後、胸の奥がひやりと冷えた。

 

 何を考えているんだろう、と思う。

 そんなのは駄目だ。

 こんなものを使ってはいけない。

 人の財布の中身を覗いて有利になろうとするなんて──。

 

 でも、一度浮かんだ考えは、簡単には消えてくれなかった。

 

 ポケットの中で、スマートフォンが震える。

 

 澪はびくりとして取り出した。

 通知が一件、増えていた。

 

 件名を見た瞬間、呼吸が止まる。

 

『最終面接のご案内』

 

 澪にとって志望度の高い企業だった。

 そして、もう落ちたと思っていた会社だった。

 祈ることにも疲れて、半ば諦めていた一社だった。

 

 指先がじわりと汗ばむ。

 

 母が隣で何か言っている。

 たぶん「よかったじゃない」とか、そういう言葉だ。

 けれど、澪の耳にはうまく入ってこない。

 

 視界の中では、雨の街を歩く人々の上に数字が浮かんでいる。

 誰も気づかない。

 誰も知らない。

 自分だけが見えている。

 

 スマートフォンを握りしめたまま、澪は思ってしまった。

 

(……次の面接で、試したらどうなるだろう?)

 

 相手の懐事情が見える。

 余裕のある人間か、焦っている人間か。

 何を大事にしていそうか、どこに反応しそうか。

 

 そこまで分かれば、答え方は変えられるかもしれない。

 刺さる言葉を、選べるかもしれない。

 

 そんなのは駄目だ、と頭では思う。

 でも、何十社も落ち続けた自分には、その誘惑を笑えなかった。

 

 雨の中で澪はもう一度、スマホの通知画面を見つめた。

 

 『最終面接のご案内』

 

 その文字は、救いのようで、共犯の誘いのようでもあった。

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