口座残高が見えてしまったので、無難な就活生をやめました 作:匿名さん
最終面接の当日、相馬澪は鏡の前でネクタイの曲がりを見ている父の背中を思い出していた。
重要な会議がある日だけ、父は少しだけ神経質になる。
子どもの頃の澪は、その姿をなんとなく格好いいと思っていた。
玄関の鏡に映るのは、黒いスーツを着た、ごく普通の就活生だ。
髪はまとめ、靴も磨いた。鞄の中には履歴書の控えと予備のストッキング。
準備に抜かりはない。
それでも澪の胸の奥は、ずっとざわついていた。
“能力”のことを考えない時間がない。
──他人の口座残高が見える。
そう確信してから、すでに三日。
見えてはいけないものを見ているという嫌悪感は、消えないままだ。
だが、今日の面接会場に向かう足取りは、今までより少し軽かった。
スマートフォンに表示されている企業名を、澪は駅のホームで何度も見返した。
『株式会社アークレスト・ソリューションズ』
中堅どころの経営支援会社。
企業向けの業務改善や販売支援、システム導入支援まで広く手がけている。
派手さはないが堅実で、女性管理職の登用も増えている――説明会で受けた印象はそうだった。
澪が志望した理由も単純だ。
ここなら“ちゃんとしている”自分を必要としてもらえるかもしれないと思った。
澪はエントランス前で一度だけ立ち止まり、深呼吸した。
自分に言い聞かせる。
(何が見えても、それをそのまま判断材料にはしない)
そう決めて、自動ドアをくぐった。
その瞬間、受付の女性の胸元に数字が浮かぶ。
4,908,330。
見ないようにしようとした視線は、反射的にもう一人の受付へ滑った。
2,116,840。
澪は小さく息を詰める。
駄目だ。意識して避けようとするほど目に入ってしまう。
「本日最終面接でお越しの相馬様でしょうか」
受付の女性が、よく訓練された柔らかな笑みで尋ねる。
「は、はい」
「ありがとうございます。十四階の応接前でお待ちください」
頭を下げ、エレベーターへ向かう。
エレベーターの鏡に映る自分の顔は、思ったより強張っていた。
十四階には、すでに二人の学生がいた。
一人は背の高い男子学生で、もう一人はショートボブの女子学生だった。
二人とも、いかにも有能そうに見える。
澪は空いた席に腰掛け、視線を落とした。
けれど白い数字は容赦なく目に入る。
男子学生、512,900。
女子学生、7,604,200。
(だから、何)
仕送りかもしれないし、実家が裕福なだけかもしれない。
人柄とも能力とも関係ない。
そう言い聞かせていると、ドアが開き、若い人事担当の男性が出てきた。
「相馬さん、どうぞ」
立ち上がった瞬間、その男の胸元に数字が浮かぶ。
987,420。
澪は一歩だけ遅れた。
二十代後半くらいだろう。都内勤務なら、極端に少ないわけではない。けれど、妙に余裕がない数字に見えた。
いや、見えたからといって何だというのだ。
会議室に通される。
長机の向こう側に、三人いた。
人事部長らしき穏やかな中年男性。
現場部門の責任者らしい四十代の女性。
そして、取締役と紹介された五十代半ばほどの男性。
澪は頭を下げる。
「本日はよろしくお願いいたします」
顔を上げた、その瞬間だった。
人事課長、5,384,550。
女性部長、8,071,660。
取締役、2,512,300。
澪の思考が止まる。
違和感、という言葉では足りなかった。
役員の数字が、年齢にも肩書にも、あまりにも見合わない。
別口座や投資、住宅ローンの事情もあるのだろう。
それでも、この会社の役員は澪の思っていた“安定した企業の中核”には見えなかった。
「では、相馬さん。あまり緊張なさらず、普段通りにお話しください」
人事課長が微笑む。
普段通り──その言葉に、澪は一瞬だけ腹の底が冷たくなった。
普段通りに話して、何社落ちてきたと思っているのだろう。
「まず、自己紹介をお願いします」
ここまでは想定内だ。
澪は準備してきた通り、自分の大学、学部、ゼミで扱った内容、アルバイト経験を簡潔に話す。
声は震えていない……と思う。
女性部長が頷きながら問う。
「弊社を志望した理由を教えてください」
「御社は企業ごとに異なる課題に対して、現場に寄り添う形で支援をされている点に魅力を感じました。私は派手な提案で一気に状況を変えるより、課題を整理し、一つずつ改善していく仕事に向いていると考えています」
話しながら、澪は三人の表情を見る。
人事課長は柔らかい表情を崩さない。
女性部長は値踏みするように静かだ。
取締役は、笑っているようでいて目が笑っていない。
そして白い数字は、相変わらずそこにある。
「課題を整理し、一つずつ改善する。堅実でいいですね」
取締役が言った。
声音は穏やかだが、どこか薄い。
「では逆に、あなたは自分の弱みをどう考えていますか」
澪は、ほんの一拍だけ黙ってしまった。
協調性を優先しすぎるとか、慎重になりすぎるとか、いくらでも無難な答えは用意してきた。
けれど、その瞬間、三人の数字が視界に刺さる。
安定している会社の役員たちにしては、あまりに余裕がないように“感じる”。
もしこの違和感が正しいなら、この会社が本当に欲しいのは“無難な人材”ではないはずだ。
──説明会で聞いた「堅実」「安定」「地道」は、表向きの顔にすぎないのかもしれない。
澪は喉の奥で唾を飲み込み、準備してきた言葉を捨てた。
「……私は、無難なところだと思います」
三人の視線が揃う。
「大きな失敗はしません。でも、強く印象に残るタイプでもないんだと思います。実際、就職活動でもその点はずっと不利だったと考えています」
人事課長の眉がわずかに動いた。
澪は続ける。
「ただ、この数ヶ月で痛感しました。無難であることは、選ばれる理由にならないことが多いんだと」
会議室は静かだった。
言いすぎたかもしれない、と澪は思う。けれどもう止まれなかった。
「御社の説明会では、現場を大事にする会社だと伺いました。私はそこに惹かれました。でも同時に、今の御社はたぶん、ただ無難に仕事をこなすだけの人より、状況を見て必要なら踏み込める人を求めているのではないかとも感じています」
女性部長の目が細くなる。
「どうしてそう思ったんですか?」
まさか“あなたたちの口座残高が全体的に少ないからです”などと言えるはずもない。
澪は一瞬で言葉を探す。
「説明会や資料では堅実さが強調されていました。でも、御社がここ数年で新規事業や中小企業向け支援を広げていることを考えると、社内ではもっとスピード感や変化対応が求められているのではないかと思いました」
半分は事前に調べた内容。
半分は、今ここで数字から感じた違和感だ。
取締役が初めて、少しだけ興味を持った顔をした。
「では、あなたは踏み込める人間ですか?」
真正面から来た。
澪は答える前に、自分の膝の上で指先を握る。
踏み込める人間なのか。
数日前までの自分なら、たぶん違うと答えていただろう。
でも今は。
他人の残高を見て、それを就活に使えるかと考えてしまった自分がいる。
「……これまでは、違ったと思います」
澪は正直に言った。
「でも、変わらないと駄目だと分かりました。綺麗に正しいことを言うだけでは、何も進まない場面があると知ったので」
取締役が椅子に深くもたれる。
「面白いですね。最終面接で、そういう言い方をする学生は多くありません」
褒められたのか、試されているのか、分からない。
女性部長が資料をめくりながら言う。
「相馬さんは、現場配属を希望していますか?」
「はい」
「泥臭い仕事も多いですよ。数字が悪い顧客、態度の厳しい顧客、社内調整で嫌われる役回りもあります」
「それは構いません」
答えたあと、自分で少し驚いた。
構わない、などと本当に思っているのか。以前の自分なら、もっと無難な言い回しを選んだはずだ。
けれど今の澪には、面接官たちの“反応”が、この会社の事情を語っているように見えた。
──人当たりのいいだけの学生ではなく、踏み込める人間を探している。
もし見立てが外れていれば、落ちるだけの話だ。
面接内容は、思っていたより深いところへ進んだ。
澪は途中から、用意してきた回答をほとんど使っていなかった。
正しい答えを探すのをやめて、この会社が聞きたがっている“本音に近い答え”を返すことに集中した。
やがて取締役が最後の質問をした。
「あなたにとって、仕事とは何ですか」
ありきたりな質問だ。
なのに、今日一番答えにくかった。
澪は少しだけ視線を落とす。
仕事、生活、そしてなぜか残高が見えてしまうという現実。
この数日で、その三つは切り離せないものになっていた。
「……私が生きるための土台、だと思っています」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
「やりがいや自己実現みたいな言葉も大事だと思います。でも、仕事って、それだけじゃなくて、生活を支える現実そのものだと思うんです。私はたぶん、そこから目をそらさずに働ける人間になりたいです」
取締役はしばらく何も言わなかった。
それから、ふっと息を吐いた。
「ありがとうございました」
面接は終わった。
会議室を出て、エレベーター前まで案内される。人事担当の若い男は、最後まで感じのいい笑みを崩さなかった。
「本日はありがとうございました。結果は数日以内にご連絡いたします」
「ありがとうございました」
深く頭を下げる。
エレベーターの扉が閉まる直前、その男の胸元の987,420がもう一度目に入った。
やはり、余裕のある数字には見えなかった。
ビルの外へ出ると、雨は止みかけていたが澪はすぐには歩き出せなかった。
──今日、自分は何をしたのだろう。
見えてしまった数字から会社の空気を推し量り、答え方を変えた。
それが正しかったのかどうか、まだ分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
初めて、相手の懐に踏み込もうとした。
それは数日前までの自分にはなかった変化だった。
結局、澪は駅前のカフェにも寄らず、まっすぐ家へ帰った。
スーツを脱いでも、面接官たちの表情と白い数字が頭から離れない。
夕方になっても、連絡は来なかった。
やっぱり駄目だったのかもしれない。
あんな言い方をして、変に目立っただけだったのかもしれない。
窓の外は、まだ薄く曇っている。
部屋の中でスマートフォンを握ったまま、澪は何度も通知画面を確かめた。
そして、十八時を少し回ったころ。
沈黙していた端末が、不意に震えた。
差出人は、アークレスト・ソリューションズ人事部。
件名は短かった。
『本日のご面談について』
思わず呼吸が浅くなる。
澪はゆっくりとメールを開いた。