口座残高が見えてしまったので、無難な就活生をやめました 作:匿名さん
──アークレスト・ソリューションズ十四階の会議室。
人事課長の佐川は、就活生が出ていったドアを一度振り返ってから評価シートをまとめていた。
だが、今この部屋にいる三人にとって、話はすでに誰を「採るか」だけの話ではなくなっていた。
「……三人とも悪くありませんでしたが、かなり印象に残る学生がいましたね」
佐川が口を開く。
対面に座る事業推進部長の真鍋は、資料を見ながら鼻で小さく息を鳴らした。
「変わっている、という言い方は少し違うわね。正確には、途中で答え方を切り替えたみたいに見えたけど」
「切り替えた、ですか」
「最初の自己紹介と志望動機は、とても普通でちゃんとしていた。悪くないけど、埋もれるタイプの就活生の話し方だと思っていたわ」
真鍋はそこで一度言葉を切り、先ほどの面接を思い返すように目を細めた。
「でも、弱みを聞いた質問から先は別人みたいだった。あの瞬間、こちらの欲しいものを読むように答え方を変えた」
佐川は頷いた。それはまったく同じ印象だった。
向かいの上座に座る取締役の三崎は、腕を組んだまま沈黙していた。
五十代半ばの彼は社内では穏やかな常識人で通っているが、必要と見ればかなり冷たい判断もする男だ。
「読んだ、か」
三崎は低く言った。
「面接でそれができる学生は珍しくない。だが、相馬は“こちらが聞きたい模範解答”ではなく、“こちらが抱えている焦り”に寄せてきたのが珍しい」
真鍋が言う。
「そこが面白かったんです。しかも、おそらく本人は完全に確信していたわけじゃない。ただあの場の違和感を拾って、賭けに出た」
「賭けというより、踏み込んできた、ですかね?」
佐川が補うと、三崎はゆっくり頷いた。
「採用自体は、もう問題ない」
その一言で、部屋の空気が静かに固まった。
佐川は表情を崩さないよう努めながら、内心では少しだけ安堵していた。
ここまで三崎がはっきり言うのは珍しい。
普通なら、評価を持ち帰って人事部内で整理し、形式を踏んでから連絡するものだ。
──だが今回は違った。
会社の側にも、悠長に構えていられない事情がある。
三崎は机の上のファイルを軽く叩いた。
「問題は、彼女をどこに配属するかだな。定石通りに営業本部の定型案件で研修させるには惜しいが、真鍋のところに入れるにはまだ何も知らなすぎる」
真鍋は口元だけで笑う。
「それを見極めるための追加面談、でしょう?」
「そうだ」
アークレスト・ソリューションズは表向き、堅実な経営支援会社だ。
だがこの半年、ある大型案件が火種になっていた。
地方の老舗製造業への再建支援で、現場は疲弊し、数字も人間関係も綺麗には回っていない。
真鍋の部署は、まさにその火消しの中心にいた。
「正直に言えば、今うちに必要なのは“優秀な新卒”じゃないのよ」
真鍋が言った。
「現場に入っても、変なことを変だと感じたまま動ける人間が欲しい」
佐川は苦笑した。
「新卒に求めるものじゃないですね」
三崎は視線を落とす。
「本人は、会社の事情まで分かって言ったわけではないはずだ。だが、こちらの建前と本音のずれを嗅ぎ取った」
そして、三崎は短く続けた。
「確認したい。あれが一時の勘の良さなのか、それとも、もっと根の部分の資質なのかを」
──その日の夕方。
スマートフォンの画面に表示されたメール本文の意味を、相馬澪はしばらく理解できなかった。
『相馬様
本日は最終面接にお越しいただき、ありがとうございました。
面接後、担当役員より追加で少しお話ししたい旨がございました。
急なお願いで恐縮ですが、明日午前中に改めてお時間をいただくことは可能でしょうか。
ご都合がつくようでしたら、ご返信をお願いいたします』
短いが、その短さがかえって怖かった。
採用とは書いていない。
不採用とも書いていない。
「追加で少しお話ししたい」という一文だけが、妙に生々しい。
「……何それ」
澪は思わず、声に出していた。
部屋のドアの向こうから、母の気配が近づく。
「澪? どうしたの?」
「……今日の面接の件でメール来た」
開いたままの画面を見つめながら答えると、母は少しだけ扉を開け遠慮がちに顔を覗かせる。
「結果?」
「分からない。追加で話したい、って」
母は数秒だけ黙っていたが、それから無理に明るく言った。
「悪い話じゃなさそうじゃない」
その言葉に、澪は曖昧に頷くしかなかった。
確かに悪い話ではない、のかもしれない。
でも、良い話だと決めつけるには怖い。
ベッドの端に腰かけ、澪はもう一度メールを読む。
頭の中で、面接会場での違和感が浮かび上がった。
あの会社には、説明会で聞いた「堅実」とは別の顔がある。
それは確信じみた予感だった。
澪はゆっくりと息を吸い、返信画面を開いた。
『明日午前中、問題ございません。よろしくお願いいたします。』
送信ボタンを押した瞬間、澪の胸の奥にまた小さな震えが広がった。
翌朝、澪は前日よりもさらに早く家を出た。
前回と違って、黒い雲は薄い。空には曇りの白さが残っているが、雨は降っていない。それでも駅までの道を歩く足は、落ち着かなかった。
追加面談──その言葉の意味を、澪は何度も考えた。
落とすための確認かもしれない。
配属の打診かもしれない。
単に昨日の発言が気になっただけかもしれない。
考えても分からない。分かるのは、呼ばれた以上、行くしかないということだけだ。
アークレストの受付では、昨日と同じ女性が頭を下げた。胸元の白い数字はいつもと同じように無遠慮だったが、今日はそれを見る余裕が少しだけあった。
エレベーターが開いた先は、昨日より静かだった。壁も床も少し落ち着いた色合いで、応接というより、役員フロアに近い空気がある。
通された会議室には、昨日の三人のうち二人がいた。真鍋と三崎だ。人事課長の佐川はいない。
「おはようございます」
澪が頭を下げると、三崎は穏やかに返した。
「急なお願いにもかかわらず、ありがとうございます。楽にしてください」
楽に、と言われても楽にできるはずもない。
椅子に座った瞬間、澪は昨日よりも濃い緊張を自覚した。
今日は、どうやら採用面接の雰囲気ではない。
そして、だからこそ何を見られているのかが分からない。
真鍋が先に切り出した。
「結論から言います。相馬さんについては、前向きに採用を考えています」
澪の呼吸が、一瞬だけ止まった。
頭の中でその言葉を繰り返す。
前向きに採用を考えています。
前向きに。
採用を。
嬉しいはずなのに、すぐには喜べなかった。
言葉の後ろに、まだ何かが続くと分かったからだ。
「ありがとうございます」
答える澪の声は少しだけ掠れていた。
三崎が頷く。
「ただ、その前に確認したいことがあります。昨日の面接で、あなたは途中から答え方を変えましたね」
澪の指先が、膝の上で固くなる。
「……はい」
「なぜ変えたのか。少し率直に聞かせてください」
昨日の数字が、脳裏に蘇る。
口座残高が見えるからです、とは言えない。
言えるはずがない。そんなことを言った瞬間に、採用どころか病院送りだろう。
けれど、ここで濁したらたぶん終わる。
「最初は、普通に受けるつもりでした」
澪はゆっくり言った。
「でも、面接の途中で、御社が説明会で見せていた雰囲気と、実際にここで感じる空気に少し違いがあると思いました」
真鍋の目が、わずかに鋭くなる。
「どんな違いですか」
「表向きは堅実で安定した会社に見えました。でも実際には、もっと変化への対応とか、踏み込む判断とか、そういうものを必要としているように感じました」
「それで、答え方を変えた」
「はい」
三崎は表情を変えない。
「なぜ、そう感じたと思いますか。資料や説明会の内容だけでは、そこまで言い切れないはずです」
澪は、一瞬だけ視線を落とした。
自分は何を根拠にそう感じたのか。
言葉にできる部分と、できない部分がある。
「……たぶん、顔色とか、言葉の選び方とか、そういう細かいところを見ていたんだと思います」
完全な嘘ではない。だが本当の中心ではない。胸の奥に小さな後ろめたさが刺さる。
真鍋は数秒だけ黙っていたが、やがて椅子に背を預けた。
「そういう観察力は、うちでは武器になります」
その言い方で、澪ははっきり悟った。
この面談は、合否確認ではない。
何を見られているのか、そのこと自体を澪はようやく理解した。
三崎が資料を閉じる。
「相馬さん。うちは、綺麗な仕事だけをさせる会社ではありません」
静かな声だった。
「現場に入れば、数字が合わない案件も、人間関係が絡んだ意思決定もあります。正しさだけでは進まないこともある。そういう場所で、あなたは働けますか」
澪はすぐには答えられなかった。
就活の面接なら、「はい」と言えばいい。
でも今ここで欲しがられているのは、そういう軽い返事ではないのだと分かる。
見えてしまった数字。
知らなくてよかった現実。
それでも、昨日の面接で自分は一歩踏み込んだ。
「……怖いとは思います」
澪は言った。
「たぶん、想像しているよりずっと面倒で、綺麗じゃない仕事なんだろうと思います。でも、そこから目をそらしたくはありません」
真鍋と三崎が、同時に澪を見た。
「昨日、面接で話しながら思いました。私は今まで、選ばれるために無難に振る舞うことばかり考えてきました。でも、それだと結局、何も変わらなかった」
言葉が、昨日よりも自然に出る。
「もし御社に入るなら、私はもう少し、自分で見て、自分で考えて動ける人間になりたいです」
しばらくの沈黙の後、真鍋が息を吐く。
「なるほどね」
三崎も小さく頷いた。
「分かりました。こちらとしても、予定通りあなたを迎える方向で進めます」
迎える。
その言葉は、昨日よりずっとはっきりしていた。
澪は頭を下げた。喉の奥が熱くなり、何か言おうとして、一瞬だけ声が詰まる。
「……ありがとうございます」
三崎はそこで初めて、少しだけ柔らかい笑みを見せた。
「正式な通知は人事から出します。細かい条件や配属については追って伝えますが、おそらくあなたには、少し癖のある場所に入ってもらうことになるでしょう」
真鍋が淡々と付け加える。
「歓迎されるとは限らない部署です。けれど、退屈はしないと思う」
その言葉に、澪は小さく頷いた。
怖さはまだある。
それでも、昨日までとは違う何かが胸の中に芽を出していた。
見えてはいけないものは、何も変わらず見え続けている。
けれど、その見え方だけが少し変わっていた。
怖いのに、もう目をそらす気にはなれなかった。