口座残高が見えてしまったので、無難な就活生をやめました   作:匿名さん

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第4話 営業部という仮の顔

 正式な内々定の通知が届いたのは、追加面談から三日後のことだった。

 

 件名は簡潔で、文面も驚くほど事務的だった。

 採用条件、今後の案内、内定式の日程──それだけだ。

 

 どこにも「少し癖のある場所」だとか、「違和感を持ち続けられる人間が欲しい」だとか、あの部屋で交わされた生々しい言葉は書かれていない。

 

 当たり前だ、と澪は思う。

 表に出す顔と、奥で動いている本音は違う。

 会社とは、最初からそういうものなのかもしれない。

 

 “内々定通知”の画面を見つめる澪の指先は少し震えていた。

 就活を始めてから何度も想像したはずの文面だった。

 やっと届いた社会への切符。

 

 嬉しくないはずがない。

 実際、母は台所で小さく歓声を上げ、父は「そうか」と短く言いながらも、普段よりほんの少しだけ口元を緩めていたのがわかった。

 

 それなのに、澪の胸の奥に広がっていたのは、晴れやかな達成感だけではなかった。

 これは、ただの“普通の内々定”ではない。

 

 見えるようになってしまった数字。そこから感じ取った違和感。

 そして、会社の側が自分に期待している“何か”。

 それを知ってしまった時点で、もう何もかもが普通ではなかった。

 

 内定式の二週間前、澪はアークレスト・ソリューションズ本社に再び呼ばれた。

 

 案内されたのは、前と同じ十五階だった。

 エレベーターを降りた瞬間に感じる静けさは、やはり十四階とは違う。営業部の喧騒や人の出入りとは別の、物音が少ない代わりに何かが濃く沈んでいるような空気があった。

 

 会議室には真鍋と三崎、そして人事課長の佐川がいた。

 

「本日はお時間ありがとうございます」

 

 佐川が事務的に告げる。

 

 三崎はいつも通り穏やかな表情をしていたが、真鍋の目は前回よりも少しだけ鋭かった。

 

「今日は、内定式の案内だけではありません」

 

 佐川が薄い封筒から書類を二部取り出し、澪の前に置いた。

 

「始めに、一つ手続きがあります」

 

 表題には、秘密保持契約書とあった。

 

 澪は一瞬だけ目を止める。

 

「……秘密保持、ですか」

 

「はい。今日ここでお話しする内容には、表に出せないものが含まれます。社外はもちろん、社内でも必要のない相手には話さないこと。ご家族にも、詳細は伏せていただきます」

 

 佐川の声は事務的だったが、そこで扱われる内容が事務的ではないことは、澪にもすぐ分かった。

 

「内定者の段階でここまで求めるのは、かなり異例です」

 

 三崎が穏やかな口調で補った。

 

「ただ、こちらとしても中途半端な形では任せられません。嫌なら、この場で断ってもらって構いません」

 

 断る、という言葉に、澪はほんのわずかに息を呑んだ。

 三崎がその反応を見て、静かに言葉を補う。

 

「誤解はしないでください。これを断ったからといって、内定そのものがなくなるわけではありません」

 

 澪は思わず顔を上げた。

 

「……そうなんですか」

 

「はい。断ったとしても、あなたには予定通り新入社員として入ってもらいます」

 

 佐川が事務的に続ける。

 

「こちらがお願いしたいのは、あくまで通常とは別の任務です。ですから、受けるかどうかは相馬さん自身に決めてもらいたいと考えています」

 

 その言い方に、澪はかえって息を呑んだ。

 

 逃げ道がある。

 普通の新卒として会社に入る道も、ちゃんと残されている。

 

 それでもなお、この場で選べと言われているのだ。

 

 書類に視線を落とす。

 契約違反時の条項。秘密情報の定義。守秘期間。

 どれも整然としていて、だからこそ冗談では済まない現実味があった。

 

 普通の新卒として始めることもできる。

 目立たず、与えられた研修を受けて、与えられた仕事を覚えていく道だ。

 ほんの数ヶ月前までの自分なら、きっと迷わずそちらを選んだ。

 

 けれど今は、その安全な道だけを見て頷くことができなかった。

 

 澪はゆっくりと顔を上げた。

 

「……分かりました」

 

 差し出されたペンを受け取り、名前を書く。

 紙の上を走る自分の筆跡が、妙にくっきり見えた。

 

 署名を終えると、佐川が書類を回収した。

 

「ありがとうございます。では、ここから先のお話は他言無用でお願いします」

 

 真鍋が先に切り出した。

 

「相馬さんには、入社後の所属について少し特殊な形を取ってもらいます」

 

 澪は背筋を伸ばした。

 

「特殊な形、ですか」

 

「表向きの所属は営業部になります」

 

 佐川が書類を一枚、こちらへ差し出す。

 そこには確かに、配属予定先として営業本部営業二課と記されていた。

 

 澪は一瞬だけそれを見つめる。

 

 営業部。

 たしかに、新卒の配属先としては自然だ。

 むしろ自然すぎるくらいだと思う。

 

 三崎が穏やかな声で続ける。

 

「実際には、事業推進部の預かりです。真鍋部長の指示のもとで動いてもらうことになります」

 

 その言葉の意味を、澪はすぐには飲み込めなかった。

 

「……営業部所属なのに、事業推進部の指示で動くんですか?」

 

「そういうことです」

 

 真鍋が頷いた。

 

「中堅規模の会社だと、管理部門や上層部の顔は意外と知られているの。特に今うちは、ある案件で内部の空気があまり良くない。そんな中で事業推進部の新顔が不自然に動けば、それだけで警戒されてしまう」

 

「でも、営業部の新規配属の若手なら目立ちにくい……ということですか?」

 

 澪が言うと、真鍋は小さく笑った。

 

「理解が早いわね」

 

 三崎が続ける。

 

「あなたに、社内のある不正の疑いを追ってもらいたいと考えています」

 

 澪は息を止めた。

 

 やはりそういう話だった。

 追加面談の時点で、その予感はあった。けれど、実際に不正という言葉を真正面から示されると、背中に冷たいものが走る。

 

「具体的には、再建支援案件に関わる報告と数字の流れです」

 

 真鍋はファイルを開く。

 

「地方の老舗製造業の案件で、現場の報告と管理側に上がっている数字に微妙なズレがあります。まだ断定はできません。でも、単純な記載ミスや認識違いで片づけるには、妙に辻褄が良すぎる」

 

「誰かが、意図的に……と考えておられるのですね」

 

「その可能性があると見ています」

 

 三崎の声は低かった。

 

「ただし、気をつけて下さい。疑っている段階でしかない以上、こちらから大きく動くことはできません。下手に騒げば、証拠が消されてしまうかもしれない」

 

 澪は唇を結ぶ。

 

 胸元に浮かぶ数字のことが、脳裏にちらついた。

 もし関係者の残高を見れば、何か分かるかもしれない。

 不自然な入金。急な増減。生活と噛み合わない金額。

 

 ──けれど、見えたからといって、それは証拠にできない。

 

 この能力は、あくまで“違和感”の入り口でしかない。

 誰かに説明することも、報告書に書くこともできない。

 

「相馬さん」

 

 佐川が静かに言った。

 

「ここで求められるのは、勘ではなく事実です。見つけた違和感を、ちゃんと他人に示せる証拠に変えること。そのために地道に動いてもらいます」

 

 まるで、澪の内側を見透かしたような言葉だった。

 

「はい」

 

 答えながら、澪は自分の中の浮つきを押し込める。

 

 この能力は便利すぎるからこそ危うい。

 もしそれに頼り切れば、どこかで必ず足元が崩れる。

 真鍋がファイルを閉じた。

 

「営業部での研修はきちんと受けてもらいます。名刺も所属も営業部のものを用意しましょう。そのうえで、定期的に私に報告を上げてもらいます」

 

「報告……ですか」

 

「誰がどの数字を握っているか。誰が報告を止めているか。誰と誰が不自然に近いか。そういう社内の流れが欲しいんです」

 

 澪は頷いた。

 

 能力だけでは足りない。

 見えた数字を手がかりにしても、最後は人が残した痕跡を、現実の証拠として積み上げるしかない。

 

 それは遠回りで、地味で、たぶんひどく面倒だ。

 でも、その地道さこそが必要なのだと、今は分かる。

 

 内定式当日、アークレスト本社の大会議室には、まだ学生らしさが残る若者たちが並んでいた。

 

 黒や紺のスーツ。

 緊張した笑顔。

 名札の白。

 どこか浮き足立った空気。

 

 澪もその中に座っていた。

 表向きには、営業本部配属予定の内定者として。

 

 壇上では社長が穏やかな口調で会社の理念を語っている。

 変化に対応すること。現場に寄り添うこと。誠実であること。

 

 綺麗な言葉だと思う。

 それを嘘とまでは言わない。

 でも、それだけでは済まない現実がこの会社の中にあることを、澪はもう知ってしまった。

 

 視線を少しだけ巡らせる。

 

 内定者。

 人事担当者。

 先輩社員。

 それぞれの胸元に、相変わらず白い数字が浮かんでいる。

 

 けれど、以前とは見方が違った。

 金額の大小で人間を判断するのではない。

 生活の輪郭を見る。

 余裕の有無を見る。

 何かが不自然に噛み合っていない人間を探す。

 

 壇上の脇に立つ人事の社員。

 受付で資料を配っていた若手社員。

 会場後方で腕を組む管理職らしき面々。

 

 何人かの数字が、役職や年齢の印象と妙に合わない。

 

 その瞬間、胸の奥が小さくざわついた。

 澪は膝の上で指を組んだ。

 焦るな、と自分に言い聞かせる。

 

 数字は入口でしかない。

 そこから先は、言葉と記録と足で追うしかない。

 

 内定式が終わり、懇談の時間になる。

 営業部の先輩として紹介された若手社員が笑顔で近づいてきた。

 

「相馬さんだよね。営業二課配属予定って聞いてるよ」

 

「はい。よろしくお願いします」

 

 その男の胸元に浮かぶ数字を、澪は見た。

 そして、その場では何も言わなかった。

 

 ただ、名刺交換のときに指先が触れた紙の手触りと、彼の名札に記された社員番号、笑い方の癖を頭の隅に置いておく。

 

 たぶん、こういうことの積み重ねなのだ。

 

 見えるもの。

 聞こえるもの。

 残るもの。

 

 それらをつないで初めて、誰かに示せる形になる。

 懇談会のざわめきの中で、少し離れた場所に立つ真鍋と一瞬だけ目が合った。

 

 ほんの短い視線、それだけで十分だった。

 

 お前はもう、ただの内定者ではない。

 そう言われた気がした。

 

 澪は静かに息を吸う。

 無難な就活生だった自分は、たぶんもういない。

 

 営業部の内定者として笑いながら、澪は事業推進部の仮の手足として会社の中に入っていく。

 見えてはいけないものを抱えたまま、見えないふりをして。

 

 内定証書の入った封筒は軽かった。

 けれど、その中身は思っていたよりずっと重いものになってしまった。

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