口座残高が見えてしまったので、無難な就活生をやめました   作:匿名さん

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第5話 最初の違和感

 入社式の日の朝、相馬澪は鏡の前で自分の顔を見ていた。

 

 黒いスーツ。控えめな化粧。まとめた髪。新入社員としては、たぶんどこにでもいる無難な見た目だ。

 

 それでいい、むしろそうでなければ困る。

 

 無難で、目立たなくて、少し印象に残りにくい。

 就活ではそれが弱みだった。

 けれど今日からは、その“埋もれる感じ”こそが役に立つはずだ。

 

 玄関を出る直前、会社用のスマートフォンと私物のスマートフォンをもう一度確かめる。

 会社用のほうには、まだ最低限の初期連絡しか入っていない。

 営業本部営業二課、新入社員。今日からの自分は、表向きにはそこにいる。

 

 だが、それだけではない。

 澪は社内不正の疑いを追うため、別の役目も背負ってこの会社に入った。

 

 そして、その緊張とは別に、澪にはもっと根本的で、誰にも言えない秘密がある。

 

 ──他人の口座残高が見えること。

 

 それも、最近は少しだけ変わってきていた。

 以前は相手の胸元にひとつの数字が浮かぶだけだった。

 おそらくメインで使っている口座の残高だろう、と今では考えている。

 けれど、ここ数か月のあいだに、澪は自分の能力の使い方を少しずつ覚えてきた。

 

 何も意識しなければ、数字が一つだけ見える。

 

 けれど、相手に意識を強く向けると見え方が変化する。

 視線を数秒固定すると、最初に見えている数字の脇が薄く明るくなって、畳まれていた項目が開くように別の数字が並び始める。

 

 別銀行の普通預金。

 証券口座。

 

 ときには、普段の暮らしぶりからは見えない“もう一段奥”が、静かに顔を出す。

 

 最初に見える数字は、ただの入口だった。

 便利ではあるのだと思う。

 だが同時に、明らかに危険でもある。

 

 細かく見ようとすると、どうしても相手を見つめる時間が長くなる。

 この半年で、澪はそれを何度も思い知らされた。知り合いと話しながら細かく見ようとして、「どうかした?」と怪訝そうに顔を覗き込まれたこともある。

 

 必要な時だけ深く掘る。

 そうしないと、ただの不審者になってしまう。

 

 玄関の扉を閉めながら、澪は小さく息を吐いた。

 少なくとも周囲には、ただの新入社員として見えなければならない。

 

 アークレスト・ソリューションズ本社の大会議室には、新入社員たちの硬い空気が満ちていた。

 

 黒や紺のスーツ。まだ学生らしさの残る緊張した笑顔。誰もが、社会人の初日というものをそれぞれの形で背負っているように見える。

 

 澪も営業本部営業二課配属予定の新入社員として、その中に座っていた。

 

 壇上では社長が歓迎の言葉を述べている。

 変化に対応すること。現場に寄り添うこと。誠実であること。

 内定式の時にも聞いたような言葉だった。

 

 綺麗だ、と澪は思う。

 別に、全部が嘘だとは思わない。

 たぶん本気でそう信じている人もいる。

 

 視線を少しだけ巡らせると、相変わらず白い数字は見える。

 けれど、以前のように意識を奪われることはなくなっていた。

 

 何も意識しなければ、それで済む。

 

 それでも、役職や年齢に対して妙に噛み合わない数字の人間が何人かいる。

 だが、この場でそれだけを根拠に何かを決めつけるつもりはない。

 今の澪には、それくらいの慎重さはもうあった。

 

 入社式が終わると、配属先ごとに軽い顔合わせがあり、その後は各部署へ分かれて案内が始まった。

 

 営業本部のフロアは思っていたよりも明るく、そして忙しなかった。

 電話の音、コピー機の駆動音、短い報告、歩く靴音。どれも絶え間なく、止まらない。

 

 これが表の仕事の音なのだろう、と澪は思う。

 少なくとも、外から見ればどこにでもある普通の会社だった。

 

 営業二課の先輩社員が、気さくな笑顔で新人たちに声をかける。

 

「最初は細かいルールばっかりで疲れると思うけど、まあ焦らなくて大丈夫。六月くらいまでは同行中心だから」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

 新人たちが揃って頭を下げる。

 その流れのまま、先輩は周囲の席や関係部署について簡単に説明し始めた。

 

「営業二課はこの島ね。で、案件によっては経営支援室とか財務管理部と一緒に動くこともあるから、そっちの人の顔も少しずつ覚えていって」

 

 そう言って先輩が視線を向けた先で、一人の男が立ち上がり、こちらに軽く会釈した。

 

「経営支援室の久世さん。うちとの連携も多いから、名前だけでも覚えといて」

 

 久世拓真。

 

 三十代後半くらいだろうか。

 姿勢がよく、落ち着いた笑顔で、新人に対しても威圧感がない。スーツも高そうではあるが嫌味がなく、時計も靴も、上質だが目立たない。

 いかにも仕事ができそうな人間、という第一印象だった。

 

「よろしく。困ったことがあったら、二課の人経由でもいいから気軽に聞いて」

 

 声も穏やかだった。

 少なくとも、警戒を誘うタイプには見えなかった。

 

 澪は反射的にその胸元へ視線を向け、それからすぐ逸らしかけた。

 けれど、その一瞬で見えた白い数字に、わずかに引っかかった。

 

 大きい、とまでは言わない。

 だが、年齢と役職を思えば、少しだけ目を引く数字だった。

 

 証券口座か、別のメガバンク口座が開くのだろう。

 澪はそんなふうに思って、ほんの数秒だけ視線を止めた。

 

 白い数字の脇が、薄く開く。

 

 ──地方の信用金庫だった。

 

 澪はわずかに息を止める。

 証券口座なら分かる。資産運用をしているのだと思える。

 メガバンクの別口座でも分かる。生活圏や勤務先を考えれば、むしろ自然だ。

 けれど、今の久世の立場と雰囲気からして、その信用金庫は妙に浮いて見えた。

 

 昔作った口座が残っているだけかもしれない。

 地元とのつながりかもしれない。

 それ自体はおかしくない。

 

 だが、そこに置かれている残高は“昔の名残”にしては生きていた。

 眠っている口座ではなく、今も何かの流れの中にある数字に見えた。

 

「相馬さん?」

 

 隣の新人に小さく呼ばれ、澪はすぐに視線を外した。

 

「……あ、ごめん」

 

 久世は何も気づかなかったように、柔らかな表情のまま別の社員と言葉を交わしている。

 それでも澪の中には、小さな棘のような違和感だけが残った。

 

 そのとき、澪の会社用スマートフォンが短く震えた。

 

『14:40 B資料室 在庫ラベル確認』

 

 意味不明とまではいかないが、業務連絡としては微妙に雑だ。

 けれど、だからこそ自然だった。

 

 目立たないように呼び出すなら、たしかにこういう文面になる。

 澪は何事もなかったようにスマートフォンを伏せた。

 

 十四時三十分を回ったころ、澪は先輩に声をかけた。

 

「すみません、お手洗いをお借りしてもいいですか」

 

「ああ、どうぞ。戻るとき迷ったら誰かに聞いてね」

 

 誰も怪しまない。

 新入社員の初日だ。迷っても、遅れても、不自然には見えない。

 

 B資料室は、十二階の倉庫区画の奥にあった。

 普段あまり使われていないのか、蛍光灯の光だけが妙に白い。古い保存箱とキャビネットが並ぶ、その端に真鍋が立っていた。

 

「早かったわね」

 

「役員室じゃないんですね」

 

 澪が声を潜めると、真鍋は小さく笑った。

 

「毎回あそこに呼んでたら目立つもの。今後はこういうところを使うわ。会社スマホには普通の業務連絡みたいに送るつもりだけど⋯⋯大丈夫だった?」

 

「はい。初日なら不自然じゃないと思います」

 

「それでいいの。目立たないことがいちばん大事だから」

 

 そう言いながら、真鍋は薄いファイルを澪に渡した。

 

「これは?」

 

「当面、気にしてほしい人間の名前と、部署内の簡単な相関図。最初から核心に近づかなくていいから、まずは人の流れを覚えて」

 

 澪はファイルを開く。

 再建支援案件に関わる部門名、担当者名、報告の流れ。

 簡潔だが、最低限の目安としては十分だった。

 

 だが、要監視対象の欄に目が止まった瞬間、澪の指先がかすかに固まる。

 

 そこにあった名前のひとつは、ついさっき見たばかりだった。

 

 ──久世拓真。経営支援室。

 

 喉の奥が、わずかに乾く。

 

 やっぱり、と思った。

 そう思った自分が少しだけ嫌でもあった。

 

 能力で見た違和感と、真鍋たちが現実の調査で拾っている名前が、同じ場所を指している。

 

 偶然かもしれない。

 まだ、それだけだ。

 けれど、胸の内側で何かが静かに噛み合った感覚があった。

 

「知ってる名前があった?」

 

 真鍋の問いに、澪は一瞬だけ迷ってから答える。

 

「さっき、顔だけ見ました」

 

「そう」

 

 真鍋は特に驚いた様子も見せなかった。

 

「別に、この中の人間が黒だと決まったわけじゃないの。ただ、今の時点で数字の流れや報告経路に引っかかりがある人間を並べてるだけ。先入観を持ちすぎないで」

 

「はい」

 

 そこで真鍋の声が少しだけ低くなった。

 

「違和感を持ったら報告して。でも、それだけじゃ誰も動けない。現物、記録、やり取り、時系列。最後はそこまで落とし込んで」

 

 澪は小さく頷く。

 

 ──当然だ。

 

 残高が見えた、では、誰にも何も言えない。

 仮に本当に怪しい増減を見つけたとしても、それだけでは意味がない。

 

 そこから先は、現実の証拠に変換しなければならない。

 

「焦らないこと。最初の数か月は、人と流れを覚えるだけでも十分よ」

 

「……分かりました」

 

「それと営業部の仕事はちゃんとやってもらうのでよろしく。そこをおろそかにすると、逆に浮いてしまうからね」

 

 真鍋は一度だけ澪の顔を見て、それから少しだけ表情を緩めた。

 

「あなたは、大胆なようでちゃんと怖がれるから大丈夫」

 

 その言葉は、妙に胸に残った。

 

 営業フロアへ戻ると、先輩社員がちょうど座席表を配っているところだった。

 

「相馬さん、ちょうどよかった。ここ、君の席ね」

 

「ありがとうございます」

 

 手渡された紙の一角に、自分の名前がある。

 そこを見た瞬間、澪はようやく少しだけ実感した。

 

 普通の新入社員として、先輩に頭を下げ、研修を受ける。

 その一方で、誰にも気づかれないように会社の裏の流れを見る。

 

 胸元に浮かぶ数字は、相変わらず視界の端にある。

 でも、それを知っているのは自分だけだ。

 

 席に着こうとして、澪の視線がふと斜め前をよぎる。

 少し離れた通路の向こうで、久世が誰かと短く言葉を交わしていた。

 

 表情は穏やかで、声も落ち着いている。

 どこから見ても、感じのいい社員だった。

 

 けれど一瞬だけ、その横顔に目を向けた澪の胸の内で、さきほどの違和感が静かに蘇る。

 

 配属先の説明を聞きながら、澪は静かに息を吸う。

 複雑な思いを胸に抱いたまま、澪は何でもない顔で椅子を引いた。

 

 最初に引っかかった名前は、もう見つかっている。

 あの信用金庫がただの名残なのか、それとも今も続く何かの窓口なのか。

 それを確かめるところから、澪の仕事は始まる。

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