トランプメン 〜異世界で道化師プレイをつづけた結果、大変なことになったその男の末路〜 作:山下敬雄
竜曜日午前5時42分。航海を続けた大型船、その船室、03号室の開いた扉の隙間からひっそりと明かりが溢れた。
心地よく波に揺らぐベッドの上で、古い本を胸に抱えながら眠る赤髪の少女は今、一体どんな夢を見ているのだろうか。
「うにゃむ……こだい魔術書……でへへ……」
珍しい寝言だ。彼女は夢の中でも、その胸に抱えた買ったばかりの本を読み耽っているようだ。
そんな無防備な寝顔は中々拝めない。
元よりガライヤの民である彼女は、冒険者そして魔術師として出発した成長の途上。おそらくこれからもその人生を選び、疑うことなく魔道と冒険の道を、熱心に努力を重ねて突き進んで行くのだろう。
しかし、共に成長をしていく仲間たちとの楽しい航海もずっとは続かない。彼女も誰も、いつか演じていたその役が終わるべき時が来る。その時に、彼女は一体どんな
「きっと、いつものようなむくれたお顔で、ツンと言うんだろうね」
思わず、赤い髪をそっと静かにかきあげる。すると、見えてきた可愛いおでこがある。手に触れたそこにまだ僅かに熱がこもっているのは、彼女の得意とする火のギフトで魔法の発練を頑張った証だろうか。
「んにゃ……てぇ……むくんで……にゃい……。んん……?」
赤髪の彼女の眼前を覆っていた大きな影が離れていく。
ぼやけた不鮮明な視界には、誰かがいる。
目覚めたばかりの働かない寝ぼけ眼を擦り上げる。そしてリリス・アルモンドは今、まだ眠そうな欠伸をしながら、自分の前に居るその顔を見つめた。
「やぁ、おはよう」
ベッドから仰向けの彼女の視界に映るのは──。
少し鬱陶しい長さの黒い前髪に、オニキスのような光る黒い瞳。言われてみればなかなか端正な顔をしているが、どことなく変態味も感じる。
しかしどこか、その姿がいつもより物足りないのは何故だろう。
きっといつもはある、あの長い三つ編みの尾がそこにないからだ。確か、昨日の戦闘中に彼は相手に勝つために己の髪を躊躇なく、ばっさりと切ったのであった。
そんなことを目の前で微笑を浮かべて静止した男の面から、リリスは読み取り思い出していく。
だが、やはりあの尾のように長い三つ編みがあった方が落ち着くものだ。それに帽子もない。それも被せてあげた方がいいだろう。
リリスはもう一度目を閉じて、夢のイメージを膨らませていく。魔術師に大切なのは何よりもイメージ力と彼女は師から習ってきたからだ。
「これも神が大魔術師に与えたお題なのだろう」──そう思ったリリスは、得意なお題ではないものの、夢の中でも魔法の訓練を始めてみた。
派手なピンクの帽子を被せようとしたところ、途中で何度か、石の舞台で仁王立ちをしていたあの道場の大男が彼女の練るイメージの邪魔をしてきたが、大丈夫、彼女は大魔術師。正しく練り上げたイメージをもって、もう一度その目を見開いた。
「あれ? まだ寝ぼけているのかい? フフ、かわ──」
ピンクの帽子も、長い三つ編みも、そこにはない。さっき見たものと同じ姿がただそこにある。
しかし今、彼の声を聞いた瞬間にぞくっとした。このゾクゾクとした感覚が、到底夢とは思えない。
全身を一瞬通った寒気から何かを悟ったリリスは、目の前の怪しい男面がそのヤバイ台詞の全てを言い切る前に、ベッドから飛び跳ねるように驚いた。
「ってぇ!? な、なななッ、なんで入って来てんのよーーっ!!!」
これは幻、いや起こり得ない現実。やはりリリスの眠る船室にいたのは、冒険者アキトその変人の姿に他ならない。
何故、彼が自分の割り当てられた部屋に侵入しているのか。眼前に図々しくもいた不審な男から、後ろに飛び退いたリリスは横に転がっていた魔術書に気づき、それを思わず小さな背に慌てて隠す。
「しーっ。──どうやらここからまた乗り換えるみたいさ。早く準備をイチゴちゃん。ほら髪がぼさぼさだ、フフフふふ」
「ふぇっ!? のり……ふぁえ? っげぇ!?」
立てた人差し指を、喚く彼女の乾いた唇に押し当てる。アキトは目覚めたばかりの彼女の眼前で、「乗り換え──」そう意味深な言葉を告げて微笑った。
ベッドの隅で身を縮こまらせていたリリスは、人差し指を立て、前のめりに迫ったその黒髪の男の顔を、引き攣った顔で見つめ返す。
そして今、目の前の微笑の仮面を貼り付けた男から、そっと手渡された手鏡をおそるおそるもリリスは手に取る。
映る姿を目を凝らし見れば、おでこまで剥き出しの赤いぼさぼさの髪、目元には暗い隈があるのが確認できた。
これは表に出れるような顔と髪ではない。
そんな風に、リリスが苦い顔で睨めっこしていた小さな鏡から、今ふと目を離すと──さっきまで目の前で微笑をしていたはずの男は、もうその背を向けていた。
こうはしてはいられない。
ベッドに腰掛けたリリスは、急ぎブーツの紐を結び直し、壁に立てかけていた大事な古杖を取る。しかし途中で首を振り返り、ベッドの上に忘れかけていた古い魔術書も放り込むように鞄の中に詰めた。
【ise会】の文字と、威勢よく咲き誇る花柄。そんな見慣れたクランの証が金刺繍された緑のマントが、静かに遠く揺らいでいる。目に入れたその男の姿・足音が、やがて木のドアをするりと抜けていく。
魔術師リリス・アルモンドの冒険は、まだまだ終わらない。寝癖のついた赤髪を櫛に下ろし、鞄を杖先に引っ掛けて船室を飛び出す。
掲げられた右手が、今出た船の廊下の先でおどけたように揺れている。「はぁ」──彼女は短く息を吐き、慌てていたその表情を少し緩めた。
赤い髪の魔術師は、振り向かない帽子の男の背を追いかけた────。