トランプメン 〜異世界で道化師プレイをつづけた結果、大変なことになったその男の末路〜 作:山下敬雄
食欲を誘う妙な香りが鼻を打ち、ツルツルと滑る床が彼らの作業を手間取らせていた。
「結構滑るぞ気をつけろ」
「このニオイ本当に取れんのか?」
「でもなんか腹の減る良い匂いだな?」
「おいやめろよ、アイツの腹から出た出汁だぞ。見ろよ──」
デッキブラシで、甲板の上に馴染んだしつこい油を熱心に何度も擦り上げる。
戦場となった平たい船体の戦米丸を、絶賛清掃中であった赤服の船員たちは、向こう側の船のへりでしなる釣竿を見つめた。
「おーい回収だ回収。三人は居ないとっ……この豚魚は持ち上がらないぞ!! 食材じゃないから多少手荒でも構わないって! 引っ張れ引っ張れ、せーのっ!」
黒い釣り糸に足を絡められた大物が、船員三人がかりで、船下の海から釣り上げられていく。
力を合わせ竿を引いた末になんとか甲板上に救助されるも、すっかりと伸びた様子の巨漢の男が、そこに仰向けにどっしりと横たわる。
決して見目が美しいとは言えない。
あの巨漢のコックの身から抽出された油なら、いくらそれが食欲を誘う匂いとはいえ──。
そんな大物が釣れた光景を眺めていた二人の船員の、デッキブラシを擦る手が止まる。
鼻腔をもうずっと刺激するこの油の匂いに、今網膜に焼きついた余計な情報が付け足されてしまったようだ。
「確かにな……どうせならアッチの黒髪の女から出た出汁が良かったぜ! なぁんてな、ハハハ」
「何言ってんだ? お前さっきあのずんぐりと戦っていた白服のアレ、男だぜ?」
「……へ? いやいやいやどう見ても女だろ? 髪もさらぁって長いし、てか伸びたし?」
「いやいや節穴かお前、綺麗な面した男だろ? あの髪はただの持ち前のギフトだろっ」
「いんや、女っ!」
「だんぜん、男っ!」
「女っ!」
「男っ!」
すると、自分のことを噂し騒いでいる船員たちに気づいたのか。戦米丸へとまたお越しになっていた道着姿の黒髪が、今目の合った彼ら二人へと、苦笑とも微笑とも取れるような表情を浮かべ軽く手を振った。
デッキブラシでチャンバラを始めるまでにいがみ合っていた船員たち二人も、遠くで手を振る黒髪のゲストに対して、その場にきちんと直り、歯を見せる良い笑顔で手を振り返していた。
「俺、ちょっくら船内の方を磨いて……女」
「やめとけ、姉御に殺されるのがオチだぞ……男」
なだらかな階段を降り船内へと入っていく黒髪のゲストと、鋭い眼光を向けた女船長のことを敬礼しながら船員二人は見送る。
やがてホースから水を撒き、デッキブラシを擦る音が熱心に鳴り響く。
気づけば時刻は午後12時58分、まだまだ昼食を頂くのにもそれほど遅くはない時間帯だ。
されど、次の食材選択の機会はまだ先。赤竜船、青竜船ともに今手元にある食材を用いて、第一品の料理をそれぞれに作り上げているところだろう。
油でツルツルと転んでは、せっかく火を付け盛り上がってきた神技の続きも公正には行えない。
美楚羅とコンガ・リー・ダンが激闘を繰り広げた戦米丸の平たく広い甲板は、まだ鋭意清掃中である──。