八尺様との恋愛と言う名の呪縛
うだるような夏の午後だった。
縁側に座り、氷の溶けきった麦茶のグラスをぼんやりと見つめていた。
庭の木々からは、耳をつんざくようなヒグラシの鳴き声がシャワーのように降り注ぎ、むせ返るような青葉の匂いが立ち込めている。
——ふと、その喧騒が、不自然なほどぴたりと止んだ。
風が凪いだわけではない。ただ、世界から「音」だけがすっぽりと抜け落ちてしまったような、奇妙な静寂。
鼓膜の奥がツンと痛むような気圧の変化を感じた直後、それは鼓膜ではなく、脳の奥底に直接響いてきた。
「……ぽ、ぽ、ぽ、ぽ……」
低く、機械的で、けれどどこか楽しげな男のようでもあり、女のようでもある声。
背筋を、一瞬にして氷の刃で撫でられたような悪寒が走った。
庭を囲む生垣は、大人の背丈を優に超える二メートル以上の高さがある。その生垣の上を、真っ白な女性用の鍔広(つばひろ)の帽子が、すうっと滑るように移動していくのが見えた。
あり得ない。誰かが竹馬にでも乗っていない限り、あんな位置に頭がくるはずがないのだ。
『あれに魅入られたら、数日のうちにあの世へ連れて行かれるぞ』
幼い頃、祖父が血相を変えて語った村の伝承が脳裏を過る。
八尺様。声を聞いてはならない。姿を見てはならない。
家の中に逃げ込み、雨戸を閉め、塩を撒かなければ。頭では分かっているのに、指先ひとつ動かすことができない。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、私の視線は生垣の上を滑る白い帽子に釘付けになっていた。
「……ぽ、ぽ、ぽ……」
音が近づいてくる。
生垣の切れ目、庭の入り口へと。ゆっくりと、本当にゆっくりと、その影が姿を現した。
白い、ノースリーブのサマードレス。見上げるほどの長身。
人間の骨格を歪に引き伸ばしたかのようなそのシルエットは、圧倒的な「死」の象徴として私の前に立ちはだかっていた。
周囲の空気が急速に冷え、吐く息が白く濁る。
彼女が、ゆっくりと首を傾げ、鍔広の帽子の下から私を見下ろした。
悲鳴を上げようと開いた私の唇は、しかし、音を紡ぐ前に硬直した。透き通るような、病的なほどの白い肌。
長い睫毛の影が落ちる、硝子玉のように虚ろで、ひどく澄んだ瞳。血の気の引いた薄い唇。
人間離れした背の高さも、常軌を逸した冷気も、すべてが吹き飛んでしまうほどの衝撃だった。
彼女は恐ろしい化け物などではなく、ただ、長すぎる時間をたった一人で彷徨い続けてきた……息を呑むほどに美しい、孤独な女だったのだ。
どれほどの時間、そうして見つめ合っていたのだろうか。
永遠にも思えるし、ほんの一瞬だったようにも思える。
ただ、彼女と視線が絡み合ったその瞬間から、私の中の「常識」という名の枷は音を立てて崩れ去っていた。
「……ぽ、ぽ……」
唇が僅かに動く。
その音は、遠くで聞いていた時のような不気味な響きではなく、まるで幼子をあやす子守唄か、あるいは、遠い昔に失ったものを悼むひめやかな嗚咽のように聞こえた。
彼女が一歩、庭の芝生へと足を踏み入れた。
その足元は素足だった。抜けるように白い、細く長い足。
それが夏の青草を踏みしめるたび、周囲の温度がさらに一段階、すうっと下がっていくのが分かる。
逃げなければ。
頭の片隅で、生存本能が微かに警鐘を鳴らす。
しかし、私の身体は金縛りに遭ったように縁側に縫い付けられていた。
いや、違う。
私自身が、無意識のうちに逃げることを拒否していたのだ。
縁側まであと数歩という距離まで来て、彼女はふと足を止めた。
見上げるほどの長身。
日本家屋の軒先は彼女にとっては低すぎる。
彼女は長い首を傾げ、ゆっくりと、折れ曲がるようにしてしゃがみ込んだ。
そして、私と同じ目の高さになる。
距離にして、わずか数十センチ。
夏のむせ返るような匂いは完全に消え失せ、代わりに、古い和紙と白百合を混ぜたような、ひんやりとした香りが鼻腔をくすぐった。
至近距離で見る彼女は、やはり息を呑むほど美しかった。薄い皮膚の下には青い血管が透けて見え、命の熱などどこにも感じられない。
それなのに、その虚ろな瞳の奥には、何百年分もの孤独が、深海の底のように静かに淀んでいるのが見えた。
縁側にしゃがみ込んだ彼女の姿勢の変化に伴い、ふわりと薄いサマードレスの生地が引っ張られた。至近距離で対峙して初めて、私はある決定的な事実に気がついた。
見上げるほどの長身、そして氷のように細く長い手足からはおよそ想像もつかないほど——彼女の身体は、圧倒的で暴力的なまでの「雌」の魅力を内包していたのだ。
視線が、どうしてもそこへ吸い寄せられてしまう。
限界まで張り詰めた胸元の白い生地。
その向こう側には、恐ろしいほどの質量を持った、たわわな双丘が存在を主張していた。
大きく開いたサマードレスの襟ぐりからは、病的なまでに白い肌と、どこまでも深く沈み込むような谷間がくっきりと影を落としている。
彼女が静かに呼吸をするたび、その規格外に豊満な膨らみは、薄い布地を今にもはち切れんばかりに押し上げていた。
重力に従ってゆったりと形を変えるその柔らかな重みは、恐怖で麻痺しかけていた私の脳髄に、強烈な毒のように甘い熱を流し込んでくる。
「……ぽ、ぽ……」
長い指先が、ついに私の頬に触れた。
予想通りの、氷のような冷たさ。しかし、その冷たい指先とは裏腹に、私の視界を埋め尽くす彼女の胸元からは、むせ返るような甘い香りと、母性をすり潰したような濃密な誘惑が放たれていた。
恐怖と、それ以上の情欲。
相反する感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、私の理性はもはや形を保っていられなかった。
視線を上げれば、虚ろだったはずの彼女の瞳が、今は愛しい伴侶を愛でるような、ねっとりとした熱を帯びて私を見つめている。
「かわいい……人」
鈴の転がるような声が、直接脳を撫で回す。
彼女がさらに身を乗り出すと、その暴力的なまでに豊かな胸の谷間が、私の鼻先を掠めるほどに近づいた。
人間離れした冷気の中に潜む、抗いがたいほど甘美な肉の匂い。冷たい指先が私の顎を持ち上げ、抗うことなどとうに忘れた私の身体を、彼女はゆっくりと引き寄せた。
長い、長すぎる白い腕が私の背中へと回される。
大人の男の胴回りなど容易く包み込んでしまうその腕は、まるで大蛇のようにしなやかで、ひんやりとした感触が夏の薄着越しにじわじわと浸透してくる。
抵抗する間もなく、私の顔は彼女の胸元へと深く沈み込んだ。
「あ……っ」
息が、詰まった。
視界を完全に塞いだのは、常識外れなほどの質量を持った、ふたつの巨大な膨らみだった。
冷え切っているはずの怪異の身体。
命の温もりなどどこにもないはずなのに、私の顔をすっぽりと包み込んだその場所には、狂おしいほどの柔らかさと、暴力的なまでの重みがあった。
薄いサマードレスの生地がピンと張り詰め、私の頬や鼻先に、その圧倒的な豊満の形をありありと伝えてくる。顔を押し付けられ、身動きすら取れないというのに、恐怖よりも先に、脳髄が蕩けるような強烈な快感が背筋を駆け上がった。
深く息を吸い込むと、古い和紙のような冷たい匂いと、むせ返るような甘い雌の香りが肺の奥底まで満たされていく。
私は酸素の代わりに、彼女の呪いを自ら吸い込んでいるかのようだった。
巨大な双丘に顔を埋められ、長い腕に完全に組み敷かれた私の身体は、まるで母親の胎内に回帰したかのような圧倒的な安心感に包まれていた。
同時に、私の体温が彼女へと吸い取られ、命が少しずつ削り取られていくのが分かる。
——ああ、心地よい。
このまま命を吸い尽くされても構わない。
巨大で、恐ろしくて、息を呑むほどに美しいこの怪異の胸に抱かれたまま死ねるのなら、これ以上の幸福はない。
「もう、離さないわ」
脳髄を直接撫でるような、甘く、酷く冷たい声。
背中を抱く彼女の腕に、さらに強い力がこもる。
豊かな胸の谷間に顔を埋められたまま、私の意識はゆっくりと白く濁り始めた。
遠くで聞こえていたはずのヒグラシの鳴き声は、いつの間にか完全に途絶えていた。
夏のうだるような暑さも、人間の世界の記憶も、すべてが彼女の放つ絶対的な静寂と、圧倒的な肉の暴力の前に溶けて消えていく。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
人間としての生を捨て、この白き怪異の冷たい胸の奥深くで永遠に溺れ続けることを、私の魂は歓喜と共に受け入れていた。
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あれから、どれくらいの月日が流れただろうか。
「魅入られた者は数日のうちに命を落とす」
祖父が語ったその恐ろしい伝承は、半分正解で、半分は間違っていた。
私は今もこうして生きているし、ここは紛れもなく、私が生まれ育った古い日本家屋のままだ。
ただ、一つだけ決定的に変わったことがある。
「……ぽ、ぽ、ぽ……」
背後から、あの低く奇妙な、けれど今や私にとっては何よりも愛おしい音が響く。
縁側でお茶を飲んでいた私の背中に、ひんやりとした、途方もなく巨大な影が覆い被さってきた。
「あなた……冷えませんか?」
耳元で鼓膜を甘く撫でる、鈴を転がすような声。
同時に、私の背中全体を、暴力的なまでの質量を持った柔らかな肉の塊がどっしりと押し潰した。
「……うっ」
思わず声が漏れる。
彼女が私の背後からしゃがみ込み、抱きついてきたのだ。
特注で取り寄せた、白いネグリジェのようなゆったりとした衣服。
その薄い布地越しでもはっきりと分かるほど、彼女の規格外な双丘は私の背中に密着し、重力に従ってぐにりと形を変えている。
あの日、互いの境界線が溶けてなくなるほど深く繋がり合ってからというもの、彼女はこうして、ことあるごとに私との肌の接触を求めるようになった。
「大丈夫だよ。君のほうが、ずっと冷たいのに」
私が振り返らずにそう答えると、彼女は長い腕を私の胴体に回し、さらに強く抱きしめてきた。
八尺、およそ二メートル四十センチという見上げるような長身。
日本の古い家屋の天井は彼女にとってはあまりにも低く、こうして座っている時でなければ、まともに抱き合うことすら難しい。
それでも、私を包み込むその白い腕の冷たさと、背中にのしかかる巨大な胸の重みは、私が今「人ならざるもの」の伴侶なのだという事実を、これ以上ないほど甘美に実感させてくれた。
「あなたの体温……とても、あたたかいわ」
背中に押し付けられた豊満な谷間の奥で、彼女がほうっと白い息を吐く。
私の熱を吸い取っているのだ。
怪異である彼女が現世で存在を保ち続けるため、そして何より、私という人間に触れ続けるために。
触れ合うたびに、私の命の灯火は確実に削り取られている。
最近では、真昼の強い日差しを見るだけで眩暈がするほど、私の身体は弱り切っていた。
だが、後悔など微塵もない。
私の首筋に、冷たい唇がそっと落とされる。
背中にのしかかる規格外の柔らかさと、首筋を這う氷のような舌の感触。
相反する刺激が、私の脳髄をじわじわと麻痺させていく。
「ぽ、ぽ……愛していますよ、私の……かわいい人」
長い指先が私の胸元をはだけさせ、心臓の鼓動を確かめるように、冷たい掌が這い回る。
彼女の圧倒的な質量と、むせ返るような甘い雌の香りに包み込まれながら、私はゆっくりと目を閉じた。
外の世界と完全に断絶された、この薄暗い家の中。
命を代償にして得たこの怪異との静かで狂った日常が、永遠に、ゆったりと続いていくことだけを願いながら。