第三日目の午前4時に差しかかる頃には、島の空気そのものが変わり始めていた。
最初の夜にあった混乱は、もうない。
いや、正確には混乱するだけの人数が減ったと言うべきかもしれない。
試験開始直後は、生徒たちはそれぞれの恐怖を抱えながらも、
まだどこかで「これは異常事態だ」「何か裏がある」
「全員が本気で殺し合うはずがない」といった、
現実を受け入れきれない揺らぎを持っていた。
だが、いまは違う。
死体を見た。
銃声を聞いた。
知っている顔が消えていった。
そして何より、自分自身が誰かを撃つか、撃たれるかの境界線に立たされた。
その結果、まだ生き残っている者たちは、
程度の差こそあれ、この試験の本質をすでに理解している。
助けは来ない。
止まれば死ぬ。
そして、最後まで残れる人数は、現実的に考えてごくわずかだ。
誰かを信じることは美徳ではなく賭けになり、
誰かを疑うことは臆病ではなく生存戦略になる。
この段階まで来ると、島はもはや試験会場ではなかった。
それは巨大な篩だった。
生徒たちを一人ずつ振り落とし、感情も理想も削り、
残った芯の硬い部分だけを選り分けるための、異様に静かな処刑装置。
禁止エリアの放送も、いつからか単なるルール説明ではなく、
逃げ場を削る鐘の音に聞こえるようになっていた。
生存者は、もう多くない。
正確な人数を把握している者はいないだろう。
だが感覚として、明らかに減っている。
歩いても歩いても誰にも会わない時間が増えた。
それは安全の証明ではなく、会ったときの遭遇がより濃密で、
より決定的になることを意味していた。
この先の戦いは、一度ぶつかれば片方が消える。
あるいは両方が消える。
そんな段階に、島全体が入りつつあった。
綾小路清隆、堀北鈴音、軽井沢恵の三人が辿り着いたのは、
林を抜けた先にある古びた廃墟だった。
石造りとも木造ともつかない半端な建材で組まれたその建物は、
かつて何かの施設だったのだろう。壁面はあちこちが崩れ、
窓枠だけが残ってガラスは割れている。
屋根も一部抜けており、夕方の光が斜めに差し込んでいた。
だが、それでも遮蔽物としては十分だった。
周囲より少し高い位置に建っているため、
近づいてくる人影もある程度は視認できる。
入口も限られている。内部は荒れているが、逆に足音が響きやすい。
休むには悪くない。
少なくとも、開けた場所で夜を迎えるよりは遥かにましだった。
綾小路は中へ入ると、まず壁際と窓の位置を確認した。
堀北は少し離れた場所で立ち止まり、左腕の具合を確かめる。
軽井沢はようやく息を吐き、崩れ落ちるように座り込んだ。
「……もう、限界」
彼女の声はかすれていた。
無理もない。
昨日からまともに休めていない。
平田と佐藤を失い、自分が撃ち、龍園と遭遇し、綾小路グループの惨状も目にした。
気力だけで繋がってきた糸が、ここへ来てようやく軋みを上げているのだろう。
「限界でも立てるうちは終わりじゃない」
綾小路が言う。
慰めではない。
事実だけだ。
軽井沢は反論しない。
その代わり、俯いたまま小さく呼吸を整えようとしていた。
堀北は廃墟の奥に視線を送りながら言う。
「ここでどれくらい休むつもり?」
「長くは留まらない」
「夜まで待つわけではないの?」
「状況次第だ」
またそれだった。
堀北は露骨に眉を寄せる。
「あなたのその返答、便利ね」
「便利じゃない。柔軟だ」
「曖昧だと言ってるのよ」
「決め打ちのほうが危険だ」
綾小路は短く返し、崩れた窓際へ移動した。
外の様子を確認する気なのだろう。
堀北はその背中を見た。
以前なら、同じ班で動くリーダー格として頼もしさを感じたかもしれない。
だがいまは違う。
この男は頼れる。
間違いなく強い。
判断も速い。
それでも、頼りたいとは思えなくなっていた。
理由は明白だった。
彼の合理性には、こちらの感情が入り込む余地がない。
いや、感情が存在すること自体を計算の外へ追い出しているように見える。
その最たるものが、綾小路グループの射殺だった。
敵ではなかった。
少なくともその時点では。
なのに綾小路は迷わず撃った。
必要だから。
後で敵になるかもしれないから。
食料が足りないから。
理屈はあった。
だが、理屈があるから許容できる話でもない。
軽井沢もまた同じことを考えているのだろう。
綾小路から視線を外せない一方で、近づく勇気も持てずにいる。
その中途半端な距離感が、彼女の恐怖をそのまま表していた。
「……ねえ」
軽井沢が小さく口を開いた。
綾小路は返事をしない。
だが聞いてはいる。
「今、生き残ってるのって……あとどれくらい?」
「さあな」
「ざっくりでいいから」
「分からない」
軽井沢は顔を上げた。
「でも、少なくなってるよね」
「当然だ」
綾小路は窓の外を見たまま答える。
「三日目だ。最初の段階で壊れるやつ、武器差で処理されるやつ、
集団行動で狙われるやつ、それぞれ一通り淘汰されてる」
その言い方に、堀北はまた眉をひそめた。
「淘汰、ね」
「他に言い方があるか?」
「少なくとも、あなたの口から聞きたい単語ではないわ」
「そうか」
綾小路は興味なさそうに返す。
その態度がまた、堀北の神経を逆撫でする。
「あなた、自分が何をしたか本当に理解しているの?」
「してる」
「なら、どうしてそんなに平然としていられるの」
「平然としてるように見えるだけだ」
以前も聞いた返答だった。
だが堀北は、もうそれをそのまま受け取る気になれなかった。
「違うわね」
彼女は一歩前へ出る。
「見せ方の問題じゃない。
あなたは最初から、そういう判断を下せる側の人間なのよ」
軽井沢が不安そうに二人を見る。
綾小路はようやく振り返った。
「何が言いたい」
「あなたは壊れていない」
堀北の声は静かだった。
「龍園くんは最初から外れている。高円寺くんも普通ではない。
櫛田さんは壊れた。でもあなたは違う。冷静なまま、正常なまま、人を切れる」
その言葉に、廃墟の空気が少しだけ冷たくなった気がした。
綾小路は何も言わない。
堀北は続ける。
「そのほうがよほど怖いわ」
沈黙。
軽井沢は息を詰めている。
綾小路が怒るかもしれない、と本能的に警戒しているのかもしれない。
だが綾小路は怒らなかった。
ただ、短く言う。
「それで?」
「それで、って……」
「怖いならどうする。ここでオレから離れるか?」
問いは平坦だった。
だがその中身は、まるで刃物のように鋭い。
堀北は即答できない。
離れたい気持ちはある。
だが離れた先に安全がないことも分かっている。
その迷いを見て、綾小路はわずかに目を細めた。
「結局、そういうことだ」
「……何が」
「おまえはオレを怖いと思ってる。
だが同時に、オレのそばにいるほうが生き残れるとも思ってる」
堀北は唇を噛んだ。
反論できない部分がある。
「軽井沢も同じだ」
急に名前を振られ、軽井沢の肩が跳ねる。
「え……」
「怖いか」
綾小路が真っ直ぐ見た。
軽井沢は目を逸らせなかった。
「……怖い」
かすれた声で、彼女は正直に答えた。
「でも、離れたくない……」
その言葉は矛盾している。
だがこの状況では、ごく自然な本音でもあった。
怖い。
けれどこの男を失えば、自分はもっと簡単に死ぬ。
そう思っている。
綾小路はそれを聞いても、何も言わなかった。
その無反応が、逆に軽井沢を追い詰める。
「……何とか言ってよ」
「言う必要があるか?」
「あるでしょ!」
軽井沢の声が少し上ずる。
「あたし、清隆のためにここまで来たんだよ!?
平田くんも、佐藤さんも……あんなことになって、
それでも清隆がいたから、あたし……!」
途中で言葉が詰まる。
涙が出そうなのを、必死に押し込めているのが分かった。
綾小路は表情を変えない。
「それはおまえの判断だ」
軽井沢が固まる。
堀北も思わず目を見開いた。
「……は?」
「オレが強制したわけじゃない」
「そんな言い方……」
軽井沢の顔が歪む。
「あたしが勝手に清隆に縋っただけだって言うの?」
「事実としてはそうなる」
廃墟の中の空気が、目に見えないほど鋭く張り詰めた。
堀北は思った。
この男は、本当に分かっていないのではなく、分かったうえで切り離している。
軽井沢の依存。
その脆さ。
それを知ったうえで、自分には責任がないという形に整理している。
合理的ではある。
だが、人間としてはひどく歪だ。
軽井沢は唇を震わせた。
「……清隆、最低」
「知ってる」
綾小路はまたそれを否定しなかった。
その瞬間だった。
彼はゆっくりと、リボルバーを抜いた。
堀北の全身に緊張が走る。
軽井沢は息を呑み、その場で固まった。
綾小路は二人へ銃口を向けた。
まっすぐに。
何のぶれもなく。
「……何のつもり?」
堀北の声は低かった。
軽井沢はもう声も出せない。
綾小路は静かに言う。
「話は終わりだ」
「答えになっていないわ」
「いや、答えになってる」
彼の目に迷いはなかった。
「死ぬ覚悟も、殺す覚悟もないやつは、ここから先では足手まといになる」
軽井沢の目から涙がこぼれる。
「ちょ、ちょっと待って……」
「待たない」
綾小路の指が引き金にかかる。
堀北はナイフへ手を伸ばしかけた。
だが距離が悪い。
リボルバー相手に、ここから届く前に撃ち抜かれる可能性のほうが高い。
終わる。
そう思った、その瞬間。
轟音が廃墟を貫いた。
壁が弾ける。
石片と埃が一気に舞い上がる。
綾小路が反射的に横へ飛んだ。
堀北も軽井沢も身を伏せる。
さっきまで綾小路が立っていた位置の背後の壁が、大きく抉れている。
ショットガン。
それを理解するまで、ほんの一拍かかった。
「おやおや」
崩れた入口の向こうから、聞き慣れた気障な声がした。
「どうやら間に合ったようだねぇ」
高円寺六助。
夕方の逆光を背に、片手にショットガンを構えて立っていた。
その姿は、舞台に遅れて登場する主役気取りそのものだった。
だが実際、その登場はあまりにも劇的だった。
「高円寺くん……!」
堀北が思わず声を漏らす。
高円寺はまったく気にしない。
「綾小路ボーイ。レディたちに銃口を向けるとは、感心しないな」
言いながら、もう一発。
轟音。
綾小路は柱の陰へ滑り込む。
散弾が床を抉り、木片が飛び散る。
軽井沢が悲鳴を押し殺して耳を塞ぐ。
堀北も反射的に身を低くした。
ショットガンの圧は、リボルバーとは次元が違う。
一発ごとの威力が高い。
近距離なら遮蔽物ごと持っていかれてもおかしくない。
綾小路は柱の陰から高円寺の位置を測った。
高円寺は入口付近。
こちらは廃墟の中央に近い位置。
距離はあるが遠すぎない。ショットガンにとっても充分圏内だ。
「綾小路ボーイ」
高円寺は笑う。
「最後に残るのは、私のような美しき存在一人で十分だ。
君は少々、目障りなのだよ」
「相変わらず自己中心的だな」
綾小路は柱の陰から声だけを返す。
「今さらだろう?」
高円寺が素早くポンプアクションを引く。
その動作が妙に洗練されているのが腹立たしい。
綾小路は次の射線を読む。
来る。
瞬間、彼は柱の反対側へ転がった。
直後にショットガンが火を吹く。
柱の一部が吹き飛び、粉塵が舞う。
同時に、綾小路のリボルバーが返った。
乾いた単発音。
高円寺が身体を捻って避ける。
完全には避けきれず、制服の袖が裂けた。
「ほう」
高円寺の目が少しだけ細くなる。
「やるじゃないか」
綾小路は返事をしない。
高円寺の動きは速い。体格から想像するよりずっと軽い。
しかもショットガンという重い武器を片手で扱いながら、
その隙を最小限に抑えている。
普通の相手ではない。
間違いなく、トップレベルの難敵。
だが、高円寺もまた綾小路の反応速度に驚いていた。
ショットガンの圧で動きを縛り、その間に押し切る。
多くの相手はそれで終わる。
だが綾小路は、射線を読むだけでなく、反撃の角度まで同時に作ってくる。
面白い。
高円寺は本心からそう思った。
「逃げるだけかね?」
「おまえ相手に正面から出る理由がない」
「賢明だ」
言葉と同時に高円寺が前へ出る。
距離を詰めてきた。
綾小路もそれを待っていた。
柱を蹴り、横方向へ大きく移動しながら撃つ。
高円寺は散弾をばら撒くように返す。
互いの弾が廃墟の中を裂く。
壁が崩れる。床が砕ける。埃が舞う。
堀北は軽井沢を引き寄せるようにして、射線の外へ身を移した。
だが完全な安全地帯はない。この戦いはすでに、廃墟全体を巻き込んでいる。
「……信じられない」
堀北が呟く。
高円寺の強さは知っていた。
だがここまでとは思っていなかった。
一方で、綾小路もまた異常だ。
ショットガンの圧に押し込まれながらも、完全には主導権を渡していない。
逃げているのではない。あえて位置をずらし、反撃可能な瞬間を選んでいる。
軽井沢は震えながらも、その光景から目を離せなかった。
ついさっきまで、自分たちは綾小路に撃たれそうになっていた。
なのにいまは、その綾小路が別の怪物と撃ち合っている。
状況が目まぐるしく変わりすぎて、感情が追いつかない。
轟音。
乾いた銃声。
息が詰まる。
高円寺が一気に踏み込んだ。
距離を縮める。ショットガンの最適距離に持ち込むつもりだ。
綾小路はそれを見て、逆にさらに前へ出た。
堀北が息を呑む。
リボルバーでショットガン相手に、距離を詰める?
無謀に見える。
だが綾小路の狙いはそこではない。
高円寺のショットガンは強力だ。
だがポンプアクションには一瞬の間がある。
その間を至近で潰せば、拳銃側にも活路がある。
高円寺が撃つ。
綾小路は半歩だけ身体をずらし、それでも肩口を掠められた。
布が裂け、血が滲む。だが止まらない。
リボルバーが火を吹く。
今度は高円寺の脇腹を浅く掠めた。
「……っ!」
高円寺が初めて明確に苦い顔をする。
互いに負傷。
だが両者とも、そこで鈍らない。
高円寺は膂力で押し切るようにショットガンを振り回し、
綾小路の間合いを壊しにかかる。
綾小路はそれを避け、崩れた壁を使って角度を変え、再び撃つ。
まるで、人間同士の戦いではなかった。
常識的な恐怖や躊躇がない。
あるのは相手を仕留めるための精密な読み合いだけ。
堀北は気づく。
もしこの戦いに高円寺が来なければ、
さっき自分たちは綾小路に殺されていたかもしれない。
その事実は重い。
そして同時に、高円寺が綾小路を倒したとして、
そのあと自分たちが無事で済む保証もまったくない。
つまり、この場で安全はどこにもない。
「堀北さん……!」
軽井沢がしがみつくように囁く。
「どうすればいいの……!」
堀北は答えられなかった。
そのときだった。
高円寺のショットガンが、近距離で再び火を吹いた。
綾小路は避けきれず、胸元を強く掠められて吹き飛ぶ。
「綾小路くん!」
堀北の声が出たのは、反射に近かった。
綾小路は床を転がり、それでもリボルバーを手放していない。
だが体勢は悪い。高円寺はその隙を逃さない。
「終わりだよ」
高円寺が踏み込む。
ポンプアクション。
次弾装填。
至近距離。
ここで撃たれれば、綾小路でも終わる。
そう確信した瞬間、堀北の身体が勝手に動いていた。
ナイフを握り、駆ける。
「――っ!」
高円寺の背後へ回り込み、そのまま全力で背中を刺した。
狙いは完璧だった。
呼吸の隙、死角、距離。すべてを読み切った一撃。
コンバットナイフの刃が、深々と肉へ沈み込む。
確かな手応え。骨には当たっていない。だが、確実に致命へ届く深さだった。
普通の人間なら――そこで終わる。
だが。
「……ほう」
声が、あまりにも近い位置で返ってきた。
普通なら、ここで崩れる。
呼吸が乱れる。
膝が落ちる。
だが高円寺は、崩れなかった。
背中にナイフが刺さったまま、体幹が一切揺れない。
筋肉が収縮している気配がない。
痛みによる防御反応も、力の逃がしも、何も起きていない。
まるで――「そこに刃物がある」こと自体を、
身体が問題として処理していないかのように。
ゆっくりと振り返る。
動きに乱れがない。
関節の可動も、重心の移動も、すべて普段通り。
血は流れている。
だがその量と速度が、妙に少ない。
筋肉が無駄に収縮していないせいか、
むしろ出血が制御されているようにすら見える。
「いい度胸だ」
その声に、痛みの気配は一切混じっていなかった。
次の瞬間、腕が動く。
速いのではない。
動き出しの予兆がない。
視認したときには、すでに終わっている動作。
ショットガンが持ち上がり、堀北に銃口が向く。
避けるという概念自体が成立しない至近距離。
――撃たれる。
轟音。
空気そのものが押し潰されるような圧力が、胸を直撃した。
衝撃が一点ではなく、面で来る。
骨が受け止めきれず、内側へ沈む感覚。
肺が一瞬で潰れる。
呼吸が止まるのではない。
消える。
身体が浮く。
地面との接続が断ち切られたように、重力から切り離される。
次の瞬間には、堀北は背中から叩きつけられていた。
衝撃が遅れて追いつく。
視界が白く飛ぶ。
音が遠ざかる。
「堀北さん!!」
軽井沢の声が聞こえるが、意味として認識できない。
ただ、衝撃だけが残る。
だが――高円寺は、すでに次の動作へ入っていた。
背中にナイフが刺さったまま。
それでも、高円寺はそれに触れようとしなかった。
通常なら、反射的に手が伸びる。
異物を排除しようとする本能が働く。
だが同時に、それは危険でもある。
刃はいまこの瞬間、傷口を塞いでいる。
無理に引き抜けば、圧迫されていた血管が一気に開き、出血は跳ね上がる。
だから本来は、動かさないほうがいい。
だが、高円寺のそれは、判断の結果ではなかった。
理解している様子も、迷った形跡もない。
ただ、触れる必要がないとでも言うように、意識の外へ置かれている。
痛みでも、危険でも、処置でもない。
優先順位に存在していない。
それだけだった。
身体を回す。
その動作の中で、ナイフが筋肉をさらに裂いているはずなのに、
動きはむしろ滑らかだった。
視線が綾小路を捉える。
焦点の合い方が異常だった。
距離、角度、動線。
一瞬で撃つための情報だけを抽出している。
そこに人間的な認識のプロセスが存在しない。
ただ対象がある。
だから撃つ。
それだけ。
ショットガンが再び持ち上がる。
その瞬間。
パンッ、パンッ、パンッ!
軽井沢がハンドガンを乱射する。
だが軌道は完全に無意味ではない。
一発が胸を捉える。
もう一発が腹部に命中する。
皮膚が裂け、血が飛ぶ。
それでも、高円寺は止まらない。
ほんのわずかに、照準がズレただけ。
そのズレすら、次の瞬間には補正される。
「……ちっ」
舌打ち。
痛みではない。
射線を乱されたことへの、純粋な不快だった。
その一瞬、時間が生まれた。
綾小路が動く。
無駄のない起き上がり。
重心を崩さない立ち上がり。
リボルバーを構える。
高円寺も同時に反応する。
ここで初めて、競合が発生した。
どちらが速いか。
結果――速かったのは綾小路だった。
乾いた一発。
弾丸が急所に命中する。
今度は、確かに効いていた。
だがそれでもなお、高円寺は倒れない。
身体が揺れる。
だが、崩れない。
膝が落ちる気配すらない。
むしろ――一歩、前へ出る。
ダメージを受けたにもかかわらず、
後退という選択肢が存在しない前進あるのみ。
その在り方が、あまりにも単純で、だからこそ異様だった。
高円寺から血が滴る。
ナイフが刺さっている。
銃弾も受けている。
それでもなお、動作の質が落ちていない。
人間の身体は、本来こうは動かない。
限界がある。
痛みがある。
恐怖がある。
だがこの男には――それらが、行動に反映されていない。
化け物じみた執念で踏みとどまり、なおも前へ出ようとする。
「……見事だ」
高円寺が笑った。
血が滲み、制服は破れ、ショットガンを握る腕も完全ではない。
それでも彼は最後まで高円寺六助のままだった。
「だが、私の美しさには――」
言葉の途中で、綾小路の二発目が入った。
今度こそ高円寺の膝が崩れる。
ショットガンが床へ落ちた。
重い音が響く。
高円寺は片膝をつき、それでもなお顔を上げた。
「……ふ」
その口元には、敗北の悔しさよりも、面白いものを見たという色があった。
「やはり、君は退屈しない」
それが最後だった。
高円寺六助の身体から力が抜け、ゆっくりと前へ倒れる。
静寂。
さっきまで建物全体を揺らしていた銃火が、嘘のように消えた。
堀北は床に倒れたまま、浅い呼吸を繰り返している。
胸の傷は致命ではない。
だが衝撃は大きく、まともに動ける状態ではなかった。
軽井沢はその場にへたり込み、ハンドガンを握ったまま震えていた。
自分が撃った。
また。
しかも今回は、明確に助けるために撃った。
綾小路は数秒その場に立ち尽くしていた。
肩、胸、腕。いくつかの箇所を負傷している。
だが意識ははっきりしている。呼吸を整え、死んだ高円寺を見下ろす。
勝った。
そう認識した瞬間、綾小路はすぐに次の現実へ意識を切り替える。
ここでの銃声は大きすぎた。
高円寺のショットガンは、島のかなり広い範囲へ響いただろう。
つまり――誰かが来る。
それも、おそらくかなり早く。
綾小路はゆっくりと視線を上げた。
床には堀北。
その近くに軽井沢。
そして自分。
高円寺との死闘は終わった。
だが同時に、終盤戦は確実に始まったのだと、廃墟の冷えた空気が告げていた。
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