高円寺六助が倒れてから、ほんの数秒だけ、世界は静かだった。
耳鳴りがしている。
ショットガンの轟音が、まだ鼓膜の内側に残っていた。
空気そのものが震え続けているような感覚。
火薬の匂い。砕けた壁材の粉塵。
床に散った木片と石片。そこに混ざる血の匂い。
廃墟は、ほんの数分前までの姿を失っていた。
崩れた柱。
抉れた壁。
砕けた床板。
そして中央には、高円寺六助の死体。
さっきまで誰よりも自信満々に立ち、
島の終盤を自分の舞台だと信じて疑わなかった男が、
いまはただの沈黙になって横たわっている。
どんなに強くても死ぬ。
どんなに美学を掲げても、弾丸はそれを尊重しない。
その当然の事実が、廃墟の中に妙に冷たいリアリティを落としていた。
綾小路清隆はしばらくその場に立ったまま、高円寺の死体を見ていた。
呼吸を整える。
右肩の掠創。
胸元の打撲と裂傷。
腕の違和感。
どれも軽傷ではない。
だがまだ動ける。
動けるうちは問題にならない。
問題は別にある。
高円寺との戦いは長すぎた。
ショットガンの音は派手すぎた。
この廃墟に生き残りの有力候補が集まっていることを、
島のかなり広い範囲に知らせてしまった。
これだけで終わるはずがない。
次が来る。
それも、かなり早く。
綾小路は視線をずらした。
堀北が倒れている。
胸を押さえ、浅い呼吸を繰り返していた。
高円寺のショットガンをまともに受けたわけではないが、
散弾と衝撃でダメージは大きい。
骨折まではしていないにせよ、すぐに動ける状態でもない。
軽井沢は、その堀北の近くで座り込んでいた。
ハンドガンを握ったまま、両肩が震えている。
さっき彼女が撃たなければ、高円寺は綾小路を仕留めていただろう。
だがその事実が彼女自身の心を軽くすることはなかった。
むしろまた一つ、自分の手を生き残るために
引き金を引ける手に変えてしまった実感だけが増している。
「……生きてるか」
綾小路が堀北に向けて言う。
堀北はすぐには答えなかった。
数秒遅れて、短く息を吸い込み、言葉を返す。
「……どうにか」
「立てるか」
「今すぐは無理」
声はかすれていたが、意識はある。
それだけで十分だった。
軽井沢がようやく顔を上げる。
「……清隆」
「なんだ」
「終わった……の?」
問いの意味は単純だ。
高円寺との戦いが終わったのか。
自分たちは助かったのか。
ここで、ほんの少しでも息をつけるのか。
だが綾小路の答えは容赦がなかった。
「終わっていない」
軽井沢の表情が強張る。
「この音を聞いて、誰も来ないと思うか?」
軽井沢は口をつぐんだ。
来る。
そう言われれば、それはすぐに分かる。
ここまで何度も、銃声が次の遭遇を呼ぶ場面を見てきたのだ。
高円寺のショットガンは、リボルバーやハンドガンとは
比べものにならないほど派手だった。
しかも連続して何発も撃たれた。
龍園のような人間なら、間違いなく食いつく。
堀北が壁に手をつき、少しだけ上体を起こす。
「残り……どれくらいだと思う?」
その問いに、綾小路は少しだけ考えた。
正確な数は分からない。
だが、推測はできる。
倉庫での20人。
夜から朝にかけて消えた者たち。
龍園の選別。
一之瀬のクラス崩壊。
坂柳クラスの損耗。
綾小路自身が処理した人数。
高円寺の狩り。
そして今、高円寺本人。
「多くて7、8人」
綾小路が言った。
軽井沢が息を呑む。
「……そんなに減ってるの?」
「減ってる」
「私たち3人と……」
堀北が低く言う。
「龍園、ひより、坂柳。あるいは他に数人」
「だいたいそんなところだ」
その言葉が、廃墟の中に重く落ちた。
最初は160人いた。
倉庫で20人死に、島に放たれ、そこでさらに削られた。
つい昨日まで同じ学校で競い合っていた人間たちが、
いまや片手で数えられるほどしか残っていない。
その事実は、数字で聞くとむしろ現実味が薄くなるほどだった。
だが現実なのだ。
そして、その中に自分たちがいる。
生き残りの中にいることは誇りではない。
ただ、その位置に来るまでに多くを失い、
多くを見て、多くを壊してきたということにすぎない。
「……ねえ」
軽井沢が小さく言う。
「もし本当に、もうそれしか残ってないなら……」
続きを言えない。
最後まで言わなくても意味は通じた。
もう逃げ切る段階ではない。
最後に近づいている。
つまり、いずれは仲間内ですら決着をつけなければならない。
ついさっき、綾小路は自分たちに銃を向けた。
高円寺の乱入で中断されただけで、その事実は消えていない。
堀北もまた、そのことを忘れてはいなかった。
「……あなた」
彼女は綾小路を見る。
「さっきの続きは、まだ残っているのかしら」
綾小路は数秒だけ沈黙した。
質問の意味は明白だ。
高円寺が来なければ、自分は堀北と軽井沢を撃っていたのか。
そして、いまその判断は撤回されたのか。
「必要ならやる」
結局、返ってきたのはそれだった。
軽井沢の顔が引きつる。
堀北の目も冷えた。
「相変わらずね」
「状況が変わってない」
「変わったわ」
堀北が言う。
「高円寺くんが死んだ。残りはさらに絞られた。
つまり、あなたにとって私たちを切る理由はむしろ増えたんじゃないの?」
綾小路は答えない。
その沈黙そのものが、答えに近かった。
軽井沢が首を振る。
「やめてよ……今そういう話……」
「避けても無駄よ」
堀北の声は静かだった。
「もう、ここまで来たの」
彼女は分かっていた。
次の遭遇が最後の連戦になる可能性が高い。
その前に、自分たち三人の間にある亀裂を見ないふりしても意味がない。
だが、そうした会話の時間そのものが残酷でもあった。
誰も完全には動けない。
誰も完全には信じていない。
それでも、今この瞬間に廃墟へ誰かが踏み込んできたら、共闘せざるを得ない。
そんな不安定さの上に、三人は立っていた。
そして。
その不安定さを破るように、廃墟の外で小石が転がる音がした。
綾小路の視線が即座に入口へ向く。
堀北の背筋が強張る。
軽井沢はハンドガンを握り直した。
足音は一つではない。
複数。
しかも隠れていない。
いや、正確には隠れるつもりはあるが、
急いでいるせいで殺しきれていない足音だった。
「来たな」
綾小路が低く言う。
その声とほぼ同時に、廃墟の入口の向こうから笑い声が聞こえた。
「派手にやってくれたじゃねぇか」
龍園翔。
その声を聞いた瞬間、軽井沢の顔から血の気が引いた。
堀北の目も鋭くなる。
入口の向こう、崩れた壁の影から龍園が姿を現す。
肩口には以前の戦いで負った傷がある。
そこを応急処置した跡が見える。
だが動きに支障はなさそうだった。
手にはアサルトライフル。口元にはいつもの獰猛な笑み。
そして、その少し後ろに椎名ひより。
小型拳銃を両手で握りしめ、顔は蒼白のままだ。
だが以前のような、ただ怯えるだけの目ではない。
死んだように沈んだ目のまま、
引き金を引くことだけを覚えた眷属の目になっている。
「……龍園くん」
堀北が吐き捨てるように言う。
「あなた、まだ生きてたの……」
「そりゃこっちの台詞だ」
龍園は笑う。
「高円寺の野郎までくたばってるたぁな。こりゃあ景気がいい」
その視線が、高円寺の死体から綾小路へ、さらに堀北と軽井沢へ順に滑る。
「ずいぶん消耗してるみてぇじゃねぇか、綾小路」
「おまえも同じだろ」
「違うな」
龍園は首を鳴らした。
「俺はまだ、てめぇを殺すために動ける」
その言葉には、本物の執着があった。
単なる勝利条件ではない。
綾小路清隆を仕留めることそのものが、龍園にとっては目的になっている。
高円寺を倒したことで、
綾小路はさらに最後に越えるべき壁としての価値を高めたのだろう。
「ひより」
龍園が短く言う。
ひよりは小さく頷く。
拳銃を構える。
軽井沢が一歩後ずさった。
堀北は歯を食いしばる。
綾小路だけが、龍園の手元を見ていた。
アサルトライフル。
弾倉。
そして、左手の動き。
何かがおかしい。
龍園は、撃つ構えに入る前に、腰のあたりへ指をかけた。
「……下がれ!」
綾小路が叫ぶ。
龍園の腕が振り抜かれた瞬間、綾小路はそれが何かを理解した。
小型の円筒。
鈍い金属光沢。
回転しながら、低い軌道でこちらへ飛び込んでくる。
手榴弾。
しかも一つではない。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
さらに、間を置かずもう一つ。
龍園は投げ慣れていた。
ただ無造作に放り込むのではない。
逃げ場を塞ぐように、廃墟の中で人が身を伏せそうな位置を読んでばら撒いている。
壁際、柱の陰、崩れた床の縁。爆発の衝撃と破片が、
内部のどこにいても回り込んでくるような配置だった。
綾小路の全身が反射で動く。
「伏せろ!!」
怒鳴りながら、堀北と軽井沢のいる側へ飛び込む。
考える時間はない。
完全に避け切ることもできない。
この狭さ、この崩れた構造、この数。
爆発は廃墟の中で反響し、衝撃を何倍にもして返してくる。
堀北が目を見開いた。
軽井沢が息を呑む。
だが、もう遅い。
最初の一発が爆ぜた。
世界が白く弾けた。
凄まじい閃光が視界を塗り潰し、その直後に、
鼓膜を内側から殴りつけるような爆音が廃墟全体を貫く。
ドン、ではない。
空気そのものが引き裂かれ、圧力が一気に膨張し、
音が遅れて全身を叩くような、芯のある衝撃だった。
床が持ち上がる。
いや、そう錯覚するほどの振動が足元から突き上げてきた。
崩れかけていた石壁が悲鳴のような音を立て、
柱の表面が割れ、天井の梁が軋む。
次の瞬間、二発目が炸裂する。
爆風が最初の衝撃を押し広げ、
砕けた瓦礫と木片と石片を巨大な散弾のようにまき散らす。
壁の一部が吹き飛び、窓枠の残骸が宙へ跳ねた。
そして、それで終わらなかった。
転がっていたドラム缶の一つに、火の舌が触れる。
中に残っていたガソリンが一瞬で蒸発し、
次の瞬間には内部から膨れ上がった圧が金属の胴を裂いた。
轟音。
三発目の爆発は、もはや手榴弾とは比べものにならなかった。
真っ赤な火柱が廃墟の中央から噴き上がる。
爆炎は獣の咆哮のように唸りながら天井を舐め、
割れた壁の裂け目から外へと噴き出した。
ドラム缶の破片が火を引きながら弾丸のように飛び、崩れた梁の一部をへし折る。
炎が走る。
割れた缶から流れた燃料へ火が移り、床の上を赤い線のように這っていく。
それはまるで生き物だった。蛇のようにうねりながら瓦礫の隙間を走り、
木屑を飲み込み、布切れに燃え移り、次の可燃物へと飛びついていく。
廃墟の内も外も、一気に巨大な爆炎が呑み込んだ。
奥で積み上がっていた板材が燃える。
崩れた壁際の布が燃える。
煙が天井へ溜まり、熱に押されてまた下りてくる。
四発目の爆発が、遅れて建物全体を揺らした。
鉄骨が悲鳴を上げる。
天井の一部が陥没し、焼けた木片と石が雨のように降り注ぐ。
熱風が渦を巻き、火薬とガソリンと焦げた埃の臭いが喉へ刺さる。
綾小路は半ば堀北を押し倒すようにして身を伏せ、
もう一方の腕で軽井沢を崩れた壁の陰へ引き寄せた。
その直後、頭上を瓦礫の塊が通り過ぎ、背後の床へ叩きつけられる。
石片が頬を掠め、熱を持った破片が肩へ食い込む。
肺の空気が一瞬で抜けた。
息ができない。
耳鳴りがひどい。
何か叫び声がした気がしたが、
それが軽井沢なのか堀北なのか、自分自身なのかも分からない。
視界が白い。
次に黒い。
そして、その間を赤い炎がちらつく。
堀北の肩が強く跳ねた。
爆風に巻き上げられた金属片が掠めたのだろう。
制服の肩口が裂け、そこから熱に焼かれたような痛みが一気に走る。
息を呑んだ直後、細かな破片が床へ散り、熱を持ったまま転がった。
「っ……!」
歯を食いしばる音だけが、喉の奥で鳴る。
軽井沢は悲鳴を上げた。
頬に破片が掠め、腕へ小さな瓦礫が叩きつけられる。
爆風で髪が大きく煽られ、毛先が焦げた臭いが鼻を刺した。
目を閉じていても、瞼の裏が赤く焼けるようだった。
「いやぁあああああああっ!!」
叫び爆音に飲み込まれる。
廃墟の中は、もう建物というより巨大な火口だった。
熱い。
空気が熱い。
呼吸のたびに喉と肺の奥が焼かれる。
爆風はまだ収まらない。
どこかが崩れるたび、新たな塵と火の粉が舞い上がる。
炎に煽られた煙が天井近くで膨れ、
行き場を失ってまた低く流れ込み、視界を潰す。
綾小路もまた、破片と衝撃をまともに受けていた。
肩。
脇腹。
背中。
どこがどれほど傷ついたか、一瞬では分からない。
痛みが遅れて波のように来る。
それでも意識は飛ばない。
飛ばしてはいけない。
ここで一瞬でも暗転すれば、その次に目を開けたときにはもう遅い。
龍園は、その程度の相手ではない。
廃墟の奥で、崩れた梁が炎の中へ落ちた。
火の粉が舞い散る。
赤い光の中で、煙は黒く濃く渦を巻いていた。
最初の爆発から数秒しか経っていない。
なのに、廃墟の景色はもう別物だった。
壁は抉れ、床は裂け、柱は一部が折れかけ、天井の残骸がぶら下がっている。
さっきまで人が身を隠すための遮蔽物だった場所が、
いまは崩落と炎の起点になっていた。
龍園はこれを最初から狙っていたのだ。
単純に爆発で殺すためではない。
建物そのものを壊し、遮蔽物も呼吸も平衡感覚も奪い、
混乱した相手へ追撃を叩き込むために。
爆煙の向こうで、何かが動いた。
綾小路は即座に頭を上げる。
煙の中を、影が揺れる。
輪郭は曖昧だ。
だがその動きに迷いはなかった。
龍園だ。
アサルトライフルの連射音が、爆発の残響を突き破って響く。
ダダダダダダダダッ!!
火と煙の向こうから吐き出された弾丸が、崩れた壁の残骸と床板を容赦なく叩く。
爆発で身を伏せた相手が起き上がる前に、動ける場所ごと刈り取る。
徹底した制圧だった。
瓦礫が跳ねる。
石片が散る。
炎の帯が弾丸の風圧で揺れる。
ひよりの拳銃の音も、その少し後方から混ざった。
乾いた、小さな発砲音。
だがこの混乱の中では、それでも十分な脅威だった。
堀北は咳き込む。
喉に煙が入り、肺が拒絶するように痛む。
「っ、けほ……!」
息が乱れる。
視界は霞み、片目では炎と煙しか見えない。
軽井沢はほとんど泣き声で呼吸していた。
火と爆発と銃声に包まれ、恐怖で身体が固まっている。
それでもまだ気絶しないだけ、
ここまでで彼女もまた何かを削りながら耐性を得てしまったのだろう。
綾小路は低い姿勢のまま、残った地形を読み直した。
爆発前の廃墟はもう存在しない。
使える柱は減り、壁は崩れ、床には火が走っている。
龍園は入口側から煙を背負ってくる。
こちらは内部深く、だが逃げ道は少ない。
最悪だ。
だが完全な詰みではない。
煙は濃い。
炎で空気の流れが乱れ、視界は敵味方ともに削られる。
つまり、龍園にとっても絶対に見通せる戦場ではない。
「堀北!」
綾小路が叫ぶ。
自分の声がうまく聞こえない。
耳鳴りの中で、自分の声だけが遠くのものみたいに歪んで響く。
「……いる!」
咳き込みながら返事があった。
それだけで十分だ。
「軽井沢!」
「っ、ぅ……いる……!」
怯えた声。
だが生きている。
綾小路は床を這うように移動し、崩れた壁の角を新しい遮蔽物にする。
手をついた床が熱い。
さっきまで燃えていたガソリンの名残が近くを走っているのだろう。
煙の向こうで、龍園が笑った。
「派手でいいだろ、綾小路!!」
その声は妙に明瞭だった。
興奮している。
この地獄絵図そのものを楽しんでいるようでもあった。
「てめぇも高円寺もまとめて燃やしてやりたかったが……まあ、上出来だ!!」
爆炎はまだ収まらない。
崩れた梁の一部が炎に焼かれながら落下し、床へ叩きつけられる。
その衝撃で火の粉が大きく舞い上がり、煙がさらに濃くなる。
瓦礫と炎と黒煙が渦巻く巨大な炉だ。
天井の裂け目から差し込む朝の光が煙に砕かれ、
赤黒い霞のようになって漂っている。
床のあちこちを火の帯が走り、
割れたドラム缶から流れ出た燃料がまだ燃え続けていた。
熱気が肌を刺す。
呼吸のたびに肺の奥が焼ける。
だが――
龍園はその中を歩いてきた。
炎の向こうから。
煙を背負うように。
ゆっくりと。
まるで、この地獄そのものを自分の舞台にしているかのように。
アサルトライフルを片手に構えた姿が、赤い炎の中で揺れる。
「クク……」
笑い声。
低く、喉の奥で転がすような笑い。
「いいなぁ……」
龍園は煙の中から姿を現した。
顔の片側が煤で黒く汚れている。
だがその口元は、明らかに笑っていた。
「最高じゃねぇかよ、この状況」
炎が背後で爆ぜる。
火柱が揺れるたびに、龍園の影が壁へ大きく伸びる。
アサルトライフルを構え、爆煙を割って進んでくるその姿は、
まるで自分で作った地獄の中を歩いてくる悪鬼のようだった。
「これだよ、これ。俺が見たかったのは」
龍園はゆっくりと歩く。
床に転がる瓦礫を踏み砕きながら。
「学校の試験だのポイントだの……そんなぬるい遊びじゃねぇ」
アサルトライフルの銃口がゆっくりと持ち上がる。
「殺すか、殺されるか」
炎が揺れる。
「それだけの世界だ」
そして――
「全員まとめて殺してやるよ!!」
引き金が引かれた。
ダダダダダダダダダダダッ!!
アサルトライフルの咆哮が廃墟を引き裂く。
弾丸が瓦礫を砕き、床を抉り、壁を穿つ。
火の粉が散る。
石片が跳ねる。
綾小路は即座に身体を転がした。
弾丸がさっきまでいた位置を叩き潰す。
背後では炎が壁を舐め、赤い光がその輪郭を揺らす。
煙と火柱が彼を包み、姿を半ば隠しながらも、
その存在感だけを異様に強調していた。
綾小路は、その姿を見てようやく理解した。
この大爆発は、龍園にとって戦闘開始の合図にすぎない。
手榴弾もガソリンも建物崩壊も、すべては自分を殺すための舞台装置だった。
再び連射。
弾丸が炎の中を切り裂いてくる。
崩れた石が砕け、火の粉がさらに散る。
綾小路は低く身体を滑らせ、その合間にリボルバーを返す。
乾いた単発。
煙が厚すぎて、当たったかどうかは分からない。
龍園は止まらない。
その背後、少し離れた位置にひよりがいる。
顔は見えない。
だがその小さな影もまた、煙の中で引き金を引く準備をしていた。
炎が崩れた梁へ燃え移る。
熱で空気が揺らぎ、視界がさらに歪む。
天井の残骸がまたひとつ落ち、派手な火の粉を散らした。
このままでは、戦っている最中に廃墟そのものが完全に崩れるかもしれない。
だが、龍園はそんなことも承知のうえで来ている。
巻き込まれてもいい。
いや、むしろそれごと押し込めるつもりなのだろう。
綾小路は息を整えた。
肺が熱い。
喉が焼ける。
視界も悪い。
それでも、意識だけは一点に絞る。
爆発は終わっていない。
この瞬間もまだ、炎の舌が床を走り、廃墟の崩壊がじわじわと進んでいる。
戦場そのものが燃えている。
ならば、その中で勝つしかない。
次が来る。
案の定、爆煙の向こうからアサルトライフルの連射音が響いた。
ダダダダダダッ!
壁の残骸を撃ち抜き、廃墟の奥へ弾を流し込む。
制圧射撃。
こちらが起き上がる前に、動ける場所ごと潰す気だ。
「ビビったか、綾小路!!」
龍園が吠える。
「こんなもんかよ!!」
ひよりの発砲も混ざる。
小型拳銃の乾いた音が、爆煙の隙間に刺さるように響いた。
綾小路は低い姿勢のまま、射線と爆煙の流れを読む。
龍園は入口側。
爆煙を盾にしながら前へ出てきている。
ひよりはやや後方、龍園の死角を補完する位置。
役割分担ができている。
龍園が前線。
ひよりが補助。
最小限だが、十分に厄介な形だった。
「堀北!」
綾小路が低く呼ぶ。
「……いる」
咳き込みながら返事が来る。
「動けるか」
「最悪だけど、まだ」
「軽井沢!」
「……っ、いる!」
半泣きの声。だが反応はある。
全員生きている。
それだけ確認できれば十分だ。
綾小路は転がるように位置を変え、崩れた壁の隙間から入口方向を見た。
龍園が来る。
煙の中を、低い姿勢で、確実にこちらを刈り取るつもりで。
「ようやく終わりだな、綾小路!」
龍園の声は興奮していた。
だが単なる興奮ではない。
執念と殺意が、ようやく形になりつつあることへの高揚だ。
綾小路は答えない。
リボルバーを構え、煙の揺れを見た。
龍園は強い。
暴力だけではない。
相手の位置を削り、選択肢を奪い、心理の隙を突いてくる。
高円寺のような真正面の怪物とは違う。
もっと生々しい人間の悪意として完成している。
だからこそ、読む余地もある。
龍園は綾小路を殺したい。
その欲望が強すぎる。
他を捨ててでも綾小路へ向かう。
そこが弱点になる。
アサルトライフルがまた火を噴く。
「いいじゃねぇか……!」
龍園の目が狂気で光る。
「それでこそ綾小路だ!!」
綾小路は弾を引きつけるように、あえて大きく右へ動いた。
龍園の銃口が追う。
その瞬間、堀北が逆方向へナイフを手に低く動いた。
まだ本調子ではない。だが射線を分散させるには十分だった。
「邪魔だ、鈴音ッ!」
龍園が怒鳴り、アサルトライフルの角度を変える。
そこへ綾小路のリボルバーが返る。
乾いた一発。
龍園が肩を引き、弾は壁を抉る。
だが龍園の進行は一瞬だけ止まった。
「ひより!」
龍園が叫ぶ。
ひよりの拳銃が綾小路へ向く。
だが彼女の腕はわずかに震えていた。
連戦の疲労だけではない。
先ほどまで一之瀬を撃ち、そして龍園の眷属としてここまで来た。
だが彼女の本質が急に戦闘向きになるわけではない。
発砲。
弾は綾小路のすぐ横を抜ける。
龍園が舌打ちする。
その一瞬を、綾小路は逃さなかった。
前へ出る。
煙と瓦礫を使い、低く、速く。
龍園もそれに反応し、アサルトライフルを振り向ける。
両者の距離が一気に詰まる。
もはや制圧射撃の段階ではない。
ここからは、どちらが一瞬早く、より正確に急所へ届かせるかの勝負。
龍園が笑う。
「そうこなくちゃなぁ!」
アサルトライフルを乱射しながら踏み込む。
綾小路は崩れた柱を蹴って身体を浮かせ、射線を半歩だけずらす。
肩を掠める熱。だが致命ではない。
リボルバーを撃つ。
龍園が身を捻って避ける。
完全には避けきれず、脇腹に深く入る。
「がっ……!」
龍園の顔が歪む。
それでも止まらない。
むしろ、痛みが闘争心をさらに煽る。
「てめえええぇぇぇぇ!!」
龍園は半ば叫びながらアサルトライフルを浴びせる。
綾小路はもう下がらない。
龍園を泳がせていた。
その認識は、本当の意味でこの瞬間に確信へ変わる。
龍園は強い。
使える駒としての価値もあった。
だが最初から、自分の敵ではない。
敵として脅威に見えるよう動かせば、他の人間も龍園へ意識を向ける。
結果、綾小路自身への視線は散る。
生き残るための囮として、龍園は有用だった。
だがその役目も、もう終わりだ。
「龍園」
綾小路は至近で言う。
「おまえは最初から、オレの敵じゃない」
龍園の目が細くなる。
「……は?」
「おまえが暴れるほど、周囲の連中を掃除してくれる。だから生かしておいた」
龍園の表情から、笑みが少しずつ消えた。
「てめぇ……」
「最大の敵だと思わせて、その実はただの囮だった。それだけだ」
その言葉は、龍園の自尊心を最も深く抉った。
殺したい。
勝ちたい。
喰らいつきたい。
そう思ってここまで来た相手に、おまえは最初から格下だったと告げられる。
その屈辱が、龍園の瞳の奥に一瞬だけ別の色を浮かばせた。
恐怖。
ほんの一瞬。
だが確かに、そこにあった。
綾小路はそれを見逃さない。
龍園はさらに撃とうとする。
だが焦りが出る。手元の精度がわずかに狂う。
その狂いは、極限の読み合いでは致命的だ。
綾小路は半歩踏み込み、弾を最小限で避け切る。
そして、リボルバーを龍園の急所へ向けた。
龍園も理解した。
間に合わない。
「――っ」
何か叫ぼうとした瞬間、綾小路が引き金を引いた。
乾いた音。
龍園の身体から血飛沫が舞い、糸を切られたようにぐらりと揺れる。
アサルトライフルが手を離れ、地面に落ちる。
それでもなお、龍園はすぐには倒れなかった。
執念だけで立っているような数秒。
その視線が、なおも綾小路を睨んでいた。
だが次の瞬間、膝から崩れ、前へ倒れる。
龍園翔の終わりだった。
ひよりは、その光景を見て動けなかった。
龍園が死んだ。
自分を生かし、使い、命令し、
ここまで引っ張ってきた男が、いま地面に沈んでいる。
何を感じるべきなのか、ひよりには分からなかった。
恐怖か。
解放か。
絶望か。
たぶん全部だ。
だがその全部を整理する時間はなかった。
綾小路が振り向く。
ひよりは反射的に拳銃を構えた。
両手が震える。
肩が痛い。以前からの傷がまだ残っている。呼吸も乱れている。
それでも撃たなければ、自分が死ぬ。
龍園の声が頭の中で反響する。
――撃て。
――役に立て。
――そうしなきゃ死ぬ。
ひよりは引き金を引く。
だが弾は綾小路の肩口をかすめるだけだった。
綾小路は表情を変えない。
怖い。
本当に怖い。
龍園とは違う。
龍園は怒りも執着も、恐怖さえも露骨だった。
だが綾小路は違う。
感情を見せないまま、必要な相手を切る。
その静けさが、ひよりには何より恐ろしく見えた。
「やめて……」
気づけば、言葉が漏れていた。
「来ないで……」
綾小路は止まらない。
ひよりはさらに一発撃つ。
外れる。
もう弾が何発残っているかも分からない。
腕に力が入らない。
視界が滲む。
「龍園くん……」
無意識に名前を呼ぶ。
返事はない。
そしてその瞬間、ひよりははっきり理解した。
自分はもう、捨てられたのだと。
龍園が見限ったわけではない。
龍園そのものが死んだ。
自分を眷属にしていた命令系統が消えた。
残ったのは、自分の手についた血と、どうしようもない恐怖だけ。
ひよりの拳銃が揺れる。
綾小路は一歩ずつ近づいてくる。
その動きに無駄はない。
もはや脅威ではない相手に対しても、油断を見せない。
それを見て、ひよりは最後の何かが折れる音を聞いた気がした。
撃てない。
もうまともに狙えない。
それでも撃たなければ終わる。
終わる。
その単語が頭の中で反響した瞬間、横から銃声が響いた。
ひよりの身体がびくりと跳ねた。
銃声。
一瞬、綾小路が撃ったのかと思った。
だが違う。
綾小路はまだ銃を構えたまま、こちらを見ているだけだった。
では、誰が撃ったのか。
視線が自然と地面へ落ちる。
そこに倒れている――龍園はまだ死んではいなかった。
その手には、石崎のハンドガンが握られていた。
龍園は最初に仲間を手に掛けた時に彼の武器を拾っていたのだ。
そして、死ぬ間際に役目を終えた――ひよりに向けて撃った。
ひよりの胸に、熱い衝撃が走る。
理解するのに、時間はかからなかった。
龍園は最後の最後まで、ひよりを駒として扱った。
盾として使い、眷属として使い、そして役目が終わった瞬間――
躊躇なく、処分した。
ひよりの膝が崩れる。
視界の端に、龍園の死体が見えた。
もう動かない。
もう命令もしない。
それでも、最後まで龍園は龍園のままだった。
「……ああ」
ひよりは小さく息を漏らした。
涙が出るかと思った。
だが出なかった。
ただ、ひどく空っぽだった。
自分は一之瀬を撃った。
人を殺した。
眷属になった。
そして最後には、眷属らしく捨てられた。
それだけのことだ。
ひよりの身体が地面へ倒れる。
その目から光が薄れていく。
綾小路はほんの一瞬だけ彼女を見下ろし、すぐに視線を外した。
感傷はない。
感傷に浸る暇もない。
戦いは終わった。
だが、まだ残っている。
廃墟の中には、龍園とひよりの死体。
高円寺の死体。
そして生きているのは、自分、堀北、軽井沢――少なくともこの場では三人だけ。
だが本当にそれだけか。
いや、まだいる。
坂柳有栖。
おそらく、最後の一人。
そして――
堀北が、瓦礫に手をついて身体を起こそうとしていた。
軽井沢はそのそばで震えながら、龍園とひよりの死体を見ている。
戦いの熱が去ったことで、別の現実が再び浮上する。
この場の敵は消えた。
だが、残る側の人数が減ったぶん、自分たちの中の問題はむしろ濃くなった。
龍園を倒したことで終わるわけではない。
高円寺を倒したことで終わるわけでもない。
最後まで残れるのは一人だけ。
その残酷な条件が、爆煙の消えた廃墟の中で、
今度は前よりもずっと明確な形を取っていた。
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