神室真澄の呼吸は、すでに走る者のそれではなかった。
短く、浅い。
吸っても吸っても足りず、肺の奥が焼けるように痛む。
喉は乾き切り、胸の内側に熱を帯びた鉛でも詰め込まれたように重い。
それでも彼女は足を止めなかった。
止まるという選択肢が、この島ではそのまま死に直結すると理解していたからだ。
背中には坂柳有栖。
身体の軽い少女であるはずなのに、いまの神室にはその重みが妙に現実的だった。
人一人を背負っている。
その事実が、疲労のたびに骨へ食い込むように伝わってくる。
林の中は昼になっても薄暗かった。
木々が密集し、枝葉が日差しを遮っている。
夜のような完全な闇ではないが、見通しが良いとも言えない。
数メートル先の草むらに誰かが伏せていたとしても、
よほど動かない限り見落とすかもしれなかった。
だから神室は、走りながらも視線を止めない。
左。
右。
前方の木の陰。
背後からの気配。
そのすべてに神経を張り詰め続けているせいで、疲労は倍加していた。
「……神室さん」
背中から、坂柳の静かな声が落ちてくる。
「まだ喋る元気があるなら黙ってて」
神室はぶっきらぼうに返した。
息が乱れているせいで、普段以上に棘のある声になった。
それでも坂柳は気を悪くした様子もなく、数秒沈黙したあとでまた口を開く。
「出血量が増えています」
「見れば分かる」
「応急処置を優先したほうが――」
「その場で座り込んでる間に撃たれたら意味がないわよ」
神室は吐き捨てるように言った。
右肩の傷は、最初はただ熱いだけだった。
だが時間が経つにつれ、じくじくとした痛みに変わり、
腕を振るたびに鈍い痺れが走るようになっている。脚の傷もまずい。
踏み込むたびに力が抜けそうになる。それでも、まだ動くことはできる。
できるうちは進むしかない。
「……橋本くんは」
坂柳が言いかけて、そこで止まった。
神室は答えない。
答える必要がないからだ。
廃病院から離脱するとき、橋本は明確に時間を稼ぐ役を引き受けた。
生還している可能性はゼロではない。だが期待するだけ無駄だろう。
あの状況で誰かを残して逃げるというのは、そういうことだ。
坂柳も理解している。
理解しているから、あえて最後まで言い切らなかった。
枝を踏み抜く音。
小さく舌打ちする。
こんな些細な音ですら神経に障る。
島に来てから、静寂は休息ではなく脅威になった。
音がしないことは安心材料にならない。
むしろ、いつ何が飛んでくるか分からない不気味さだけが増す。
「……少し、下ろしてください」
「断るわ」
「このままでは二人とも動けなくなります」
「うるさいわね」
神室はようやく少し歩調を緩めた。
だが止まらない。立ち止まらない。
「あんたを歩かせたほうが遅い」
「それでも、運び続けるよりは――」
「坂柳」
神室は低く言った。
「あんた、まだ分かってないの?」
坂柳がわずかに黙る。
「あんたが歩けないのは、単なる不便じゃない。致命的なの。
こんな場所で、一秒でも判断が遅れたら終わる。
なら、私が背負ったほうがまだまし」
そこに情だけがあるわけではない。
神室自身、それは理解していた。
坂柳はクラスの頭脳だ。
この状況で生かす価値があるのは、自分よりむしろこっちだ。
神室は戦えるが、長期的な読み合いや状況整理は坂柳のほうが上だ。
ならば守るべきはどちらか。答えは出ている。
その打算を、坂柳は当然見抜いているだろう。
それでも彼女は静かに言った。
「ありがとうございます」
「……礼を言われる筋合いじゃない」
「いいえ。筋合いはあります」
神室は苦笑した。
こういうところが、この女はずるい。
人を駒のように扱うくせに、そのくせ時々、
妙にまっすぐな言葉を差し込んでくる。だから完全に嫌いになれない。
やがて視界が少し開けた。
林の密度が薄くなり、斜面がゆるやかに下っている。
地図を頭の中でなぞれば、海辺からは離れているはずだが、
完全な奥地とも言い切れない位置だ。
神室は木の幹に手をつき、ようやく一度だけ膝をついた。
「……神室さん」
「黙って。休憩一分する」
背中から坂柳を下ろす。
その瞬間、全身の重みが一気に戻ってきて、神室は思わず深く息を吐いた。
腹部の傷が脈打つ。
脚はもう、ただの痛みではなく熱と鈍麻が混ざり合ったような感覚になっている。
坂柳は地面へ座り込まず、杖を使って立ったまま周囲を見ていた。
その姿は相変わらず落ち着いている。だが近くで見れば、顔色は悪い。
彼女とて疲労していないわけではないのだ。
「神室さん。水を」
坂柳が差し出したペットボトルを受け取る。
喉がひどく乾いていた。だが神室は一気には飲まない。
口を湿らせる程度にとどめる。
そんな基本的な節制すら、この状況では生死を分ける。
「……あんたも飲んで」
「ええ」
坂柳も一口だけ飲んだ。
そのときだった。
離れた場所で、乾いた銃声が二発鳴った。
神室の身体が反射的に強張る。
坂柳もすぐに顔を上げる。
「近いですね」
「……ああ」
近い。
遠くの断続的な銃声とは違う。
風に流される前の、生々しい音だ。
数百メートル圏内かもしれない。
神室は立ち上がろうとして、ほんの一瞬だけ足がもつれた。
その一瞬を、坂柳は見逃さない。
「もう限界です」
「まだ行ける」
「いいえ。行けません」
「……」
「ここで無理を続けても、遠からず二人とも動けなくなります」
神室は苛立ち混じりに舌打ちする。
それでも反論が続かなかったのは、坂柳の指摘が正しいからだ。
ここまでで何人殺した。
何人を見捨てた。
何発の弾が飛び交う中を抜けてきた。
そのすべての蓄積が、いま自分の身体に来ている。
急所の近くに深い傷を負い、血を流しすぎた。
素人目から見ても、神室はもう長くない。
神室は木にもたれ、目を閉じた。
短く。ほんの一瞬だけ。
だが、その静止だけで分かった。
この先は、無理を通せば足が止まる。
止まった瞬間に、坂柳まで終わる。
坂柳が静かにバッグを開ける音がした。
神室は目を開けた。
彼女の手にはM29 .44マグナムというリボルバーがある。
綾小路のコルト・パイソンよりも大きく、威力も反動も大きい。
華奢な女子には不釣り合いな拳銃。
そこでようやく、神室は小さく笑った。
「……そう来るか」
「もっと早く言うべきでした」
「やめて」
神室は首を振る。
「そういう言い方、似合わないわよ」
坂柳はわずかに視線を伏せた。
「あなたを置いていくつもりはありませんでした」
「でも置いてくしかない」
「ええ」
認めた。
その素直さが、逆に神室の胸を刺した。
誰かを置いていく。
誰かに置いていかれる。
この島では、それが珍しくない。
珍しくないはずなのに、自分の番が来るとこんなにも現実味がある。
神室は数秒、空を見上げた。
枝葉の隙間から白い光が落ちている。綺麗な空だと思った。
こんな場所で死ぬには、あまりにも不釣り合いなくらいに。
「……坂柳」
「はい」
「あんたは、勝って」
坂柳の瞳がわずかに揺れる。
「それは命令ですか?」
「いや」
神室は笑った。
「願いよ」
坂柳は何も言わなかった。
ただ、リボルバーを握る指先に、ほんの少しだけ力が入る。
「あんたが勝ったほうが、まだマシ。龍園でも、他の雑魚でもない。
あんたなら……少なくとも意味のある勝ち方をする」
「買いかぶりすぎです」
「かもね」
それでも神室はそう思った。
坂柳有栖は性格が悪い。人を駒として扱う。だが、少なくとも愚かではない。
意味もなく人を消費する側の人間ではない。そこが龍園とは違う。
「神室さん」
「なに」
「あなたは、とても優秀でした」
「それ、慰めになってない」
苦笑しながら言うと、坂柳もわずかに口元を緩めた。
短い沈黙のあと、神室は目を閉じた。
「……頼むわ」
坂柳は小さく息を吸う。
銃声は一発だった。
それ以上の描写はなかった。
神室真澄という生徒は、この島のどこにでもある静かな林の中で、
誰にも看取られず、ただ一人の少女の判断によって役目を終えた。
坂柳はしばらくその場を動かなかった。
だが泣きはしない。笑いもしない。
ただ、倒れた神室を見下ろし、その沈黙を数秒だけ受け止める。
「……ありがとうございました」
それから帽子の位置を直し、杖をついた。
もう背負ってくれる人間はいない。
だが、ここから先は自分の番だ。
坂柳有栖は一人でゆっくりと歩き出した。
◯
一方で、綾小路清隆、堀北鈴音、軽井沢恵の三人もまた、林を進んでいた。
三人行動という言葉だけを切り取れば、わずかな安定が生まれたようにも見える。
だが実際には、その空気はひどく不安定だった。
軽井沢は綾小路の少し後ろを歩いている。
距離は近い。だがべったりと寄り添うほどではない。
そうしないと堀北の目があるからか、
あるいは本人にもまだ整理がついていないのか。
いずれにせよ、彼女は綾小路を頼りながらも、完全には落ち着けていなかった。
堀北は堀北で、綾小路の合理主義に対する嫌悪と、
そこに頼らざるを得ない現実の間で揺れている。
軽井沢を加える判断が正しいかどうかも、まだ決めきれていない。
そして綾小路だけが、三人の中で一人だけ温度が違った。
彼は前を歩き、音を拾い、地形を確認し、必要なときだけ短く指示を出す。
誰かと感情を共有しようとはしない。
ただ、移動し、生存率を上げるための行動を積み重ねている。
「……ねえ」
軽井沢が小さく口を開いた。
「なんだ」
「あたしたち、このままどこまで行くの?」
「当面は人の少ない場所まで下がる」
「人の少ない場所なんて、本当にあるの?」
「あるかどうかじゃない。ある前提で動く」
軽井沢はそれ以上言えなくなった。
綾小路の答えは、希望を与えるものではない。
だが、不思議と不安だけを増幅させるものでもなかった。
あまりにも迷いなく断じられると、
人はそれを仮の支柱として受け取ってしまうのかもしれない。
堀北が横から言う。
「あなた、軽井沢さんを加えた理由は戦力だけ?」
「それ以外に何がある」
「……彼女は精神的に不安定よ」
「だから捨てるべきだと言いたいのか?」
「そうは言っていないわ」
「なら問題ない」
綾小路は歩みを緩めず返す。
「いま重要なのは、単独行動のリスクを減らすことだ。
三人なら最低限の見張りも回せる。荷物も分担できる。戦闘時の選択肢も増える」
「それは机上の話でしょう」
「机上じゃない。現実だ」
淡々とした声だった。
軽井沢は二人の間に挟まれるように歩きながら、小さく唇を噛んでいる。
自分が議論の対象になっていることを理解しているのだろう。だが反論はしない。
いまの彼女には、綾小路に見捨てられることが最悪なのだ。
その空気を切るように、前方の茂みが揺れた。
三人同時に足を止める。
綾小路の手がリボルバーへ伸びる。
堀北はナイフを握る。
軽井沢もハンドガンを持ち直した。
「……誰かいるの?」
聞こえてきたのは、若い女の声だった。
張り詰めた沈黙のあと、草をかき分ける音。
そして姿を現したのは――佐倉愛里だった。
「……清隆くん?」
彼女は目を見開く。
こちらもまた一瞬、言葉を失った。
その後ろから、さらに人影が現れる。
長谷部波瑠加。
三宅明人。
幸村輝彦。
いわゆる綾小路グループの面々だった。
彼らは一瞬だけ強く警戒し、次の瞬間には明らかな安堵を顔に浮かべた。
「マジか……清隆!」
三宅が思わず声を上げる。
「生きてたのか、お前」
「そっちもな」
綾小路は短く返す。
それだけの会話なのに、不思議なことに場の空気が少しだけ緩んだ。
堀北はその変化を敏感に感じ取った。
殺し合いが始まってから初めてと言ってもいい。
知っている顔に会ったことで、ほんのわずかに日常の残り香が戻ってくる。
敵ではないかもしれない、撃たなくてもいいかもしれない、
そういう錯覚に近い安心が、たしかにそこにあった。
長谷部が周囲を見て、早口に言う。
「とりあえずよかった……。
いや全然よくはないんだけど、知ってる人に会えたの大きい。
もうさ、誰が誰撃つか分かんなくて頭おかしくなりそうだったんだけど」
「みんな無事だったの?」
軽井沢が訊く。
その言葉に、佐倉の顔が少し曇った。
「……無事、っていうか。まだ生きてる、かな」
それが精一杯なのだろう。
三宅が肩をすくめる。
「途中で二回くらいヤバかった。
銃声も近かったし、走って逃げるしかない場面もあったし」
「食料は?」
綾小路が問う。
「一応ある」
幸村がバッグを少し持ち上げた。
「ただ、全員分となると多くはない」
「物資の確認をしたいわ」
堀北が言うと、長谷部は警戒半分、同意半分の目で頷いた。
「だよね。そういうのちゃんとやんないとヤバいし」
ここまで来て、ようやく彼らは小さな空き地のような場所へ腰を落ち着けた。
周囲に木があり、真上だけがやや開けている。
完全に安全とは言えないが、立ったまま話すよりはましだった。
バッグがいくつか置かれる。
水。
パン。
簡易食料。
医療用品。
誰もが、最低限の持ち物を守るのに精一杯だったことが見て取れる。
物資の偏りも大きい。武器については全員がすぐには見せたがらなかったが、
それでもこの場では互いに完全な敵対を選ばない雰囲気があった。
「……なんか」
佐倉がぽつりと言った。
「こうしてると、ちょっとだけ普通に戻ったみたい」
その一言に、誰もすぐには返せなかった。
普通。
その言葉が、いまどれほど遠いかを全員が理解していたからだ。
それでも長谷部が、無理やり明るくするように言う。
「いや、戻ってはないけどね!?全然戻ってはないんだけど、
でもまあ……一人で震えてるよりはマシっていうか」
「そうだな」
三宅も苦く笑う。
「ずっと一人だとマジで頭おかしくなる」
軽井沢は、その会話に少しだけ救われたような表情を見せた。
堀北も、完全にではないが警戒をほんの少し緩める。
たしかに危険はある。
だがこの人数なら、見張りの交代もできるし、移動ルートの相談もできる。
何より、いまこの場で銃を向け合わずに済んでいるという事実そのものが貴重だ。
綾小路だけが、その輪の中で一人だけ静かだった。
佐倉が彼の顔を窺うように見て、遠慮がちに言う。
「清隆くん、怪我とかしてない……?」
「問題ない」
「そっか。よかった……」
そのよかったには、佐倉なりの本心がこもっていた。
この島に来てからずっと、誰も彼も他人を信用できなくなっている。
そんな中で、以前から知っている相手が生きていて、しかも目の前にいる。
その事実だけで心が少し緩むのだろう。
幸村が持っていたパンを一つ出す。
「食べるなら今のうちだ。
止まってる時間が長いのは危険だが、全員動きっぱなしではもたない」
理性的な判断だった。
だから長谷部も三宅も反対しない。
軽井沢もおずおずとバッグに手を入れる。堀北も頷いた。
小さな輪ができる。
人が集まり、食料を口にする。
たったそれだけのことが、昨日までの学校生活の記憶を嫌でも呼び起こした。
教室での昼休み。試験のあと。誰かと一緒に座って会話する時間。
もちろん、同じではない。
だが似ている部分があるからこそ、人は安心してしまう。
その安心こそが、綾小路には危険に見えていた。
長谷部たちは、まだ理解が足りない。
いや、理解したくないのかもしれない。
知っている者同士が集まれば、以前の関係性を少しは持ち込めると信じている。
その甘さが、ここでは致命傷になる。
食料は有限だ。
弾も有限。
行動範囲はこれからさらに狭まる。
人が多いほど発見される危険も増す。
そして何より――この中の誰も、最後まで自分に付き従える人間ではない。
長谷部は感情が先に立つ。
三宅は判断が遅れる。
幸村は理屈を理解しても、極限状況で冷徹さを徹底できるタイプではない。
佐倉は言うまでもない。
彼らは善良である。
少なくとも以前の学校生活においては、それでよかった。
だがこの島では、善良さは消耗品でしかない。
綾小路は静かにバッグへ手を入れた。
その動きを最初に見たのは堀北だった。
「……綾小路くん?」
違和感だった。
警戒心でも、不安でもない。
もっと曖昧な、説明しがたい不穏さ。
長谷部がパンを持ったまま顔を上げる。
「どうしたの?きよぽん」
綾小路は答えない。
バッグの中から取り出したのは、櫛田のマシンガンだった。
その瞬間、空気が凍った。
誰も一瞬では理解できない。
なぜここでそんなものを出すのか。
それがどういう意味を持つのか。
理解が追いつくより先に、綾小路は引き金を引いた。
連射音が、林の空気を容赦なく引き裂く。
長谷部が言葉にならない声を漏らして倒れる。
三宅が反射的に立ち上がろうとして、その途中で力を失う。
幸村は目を見開いたまま崩れ落ちた。
佐倉は、何が起きたか理解するより先に身体を撃ち抜かれ、静かに横へ倒れた。
時間にすれば数秒。
会話も、食事も、わずかな安堵も、その数秒で完全に粉砕された。
静寂が戻る。
だがそれは休息の静寂ではない。
ついさっきまで人の声があった場所に、
もうその声が存在しないという、異様な空白だった。
軽井沢の手からパンが落ちる。
堀北は立ち上がりかけて、しかし言葉が出ない。
目の前の光景を、脳が拒絶している。
いま、綾小路が。
知っている相手を。
味方になり得たかもしれない相手を。
ほとんど躊躇なく撃ち殺した。
「……どうして」
ようやく堀北の口から出たのは、それだけだった。
綾小路は銃口を下ろす。
呼吸ひとつ乱れていない。
その顔にも、後悔も怒りも浮かんでいない。
「人数が多すぎる」
淡々とした返答。
「……それだけで?」
「それだけで十分だ」
堀北は言葉を失う。
綾小路は続ける。
「この人数で固まれば、まず目立つ。食料も保たない。行動方針も分裂する。
誰かがつまずけば全員が遅れる。誰かが取り乱せば、それが連鎖する」
まるで、すでに決めていた結論を読み上げるような口調だった。
「彼らは使えない」
「使えないから殺したというの?」
「ここでは、そういう判断になる」
「狂ってるわ」
堀北の声は低かった。
怒鳴るよりもずっと危うい温度だった。
「あなた、自分が何をしたのか分かってるの?」
「分かってる」
「この人たちは敵じゃなかった!」
「今はな」
綾小路は死体へ目を向ける。
「だが後でどうなる?禁止エリアが広がる。食料が尽きる。武器の差が出る。
追い詰められたとき、彼らが最後まで今の顔でいられる保証はどこにある?」
「そんなもの――」
「ない」
綾小路は言い切った。
「だから先に切った」
その言葉は、あまりにも簡潔で、あまりにも残酷だった。
軽井沢が小さく震えている。
「……清隆」
その呼びかけには、救いを求める響きがあった。
だが綾小路は、彼女のほうを見ない。
ただ死体の位置と周囲の物資を確認し、必要なものだけを淡々と回収し始める。
それがさらに、堀北の怒りを刺激した。
「やめなさい!」
思わず声が強くなる。
「何が問題だ」
「問題しかないでしょう!」
堀北は死体の一つ一つを見た。
長谷部。
三宅。
幸村。
佐倉。
彼らはさっきまで生きていた。会話をしていた。パンを食べていた。
ほんの少しだけ、普通に戻ったような顔をしていた。
その一瞬の安堵ごと、綾小路は撃ち抜いたのだ。
「あなたは……人を何だと思ってるの」
綾小路は一瞬だけ動きを止めた。
そして、静かに答える。
「状況次第で、守る対象にも、捨てる対象にもなる」
「そんなの、人間じゃない」
「そうかもしれないな」
認めた。
そのことが、堀北には余計に腹立たしかった。
軽井沢は青ざめたまま綾小路を見ている。
彼女にとって綾小路は頼るべき相手だ。
だがその相手が、あまりにも簡単に人を切り捨てる現実を前に、
恐怖と依存が奇妙に入り混じっている。
綾小路は回収した水と食料をバッグへ入れると、短く言った。
「移動する」
「……まだそんなことを」
「銃声を聞きつけて誰かが来る」
それは正論だった。
正論であることが、なおさら腹立たしい。
堀北は数秒その場に立ち尽くし、それでも結局、動かなければならなかった。
軽井沢も、泣きそうな顔のままついてくる。
三人がその場を離れるとき、背後には四つの遺体だけが残された。
ついさっきまで小さな輪を作り、言葉を交わしていたはずの人間たち。
その光景は、この島の本質をどこまでも正確に表していた。
知り合いであることは、免罪符にならない。
情は盾にならない。
再会は救いではなく、しばしば選別の機会にすぎない。
淘汰。
それは強い者だけが残るという単純な話ではない。
迷いを捨てた者。
切るべきものを切れる者。
そういう人間が、先に他者を減らしていく。
綾小路清隆は、その意味で最も恐ろしい側にいた。
敵を排除するからではない。
味方に見えるものすら、自分の基準で即座に切り落とせるからだ。
堀北は歩きながら、自分の呼吸が乱れていることに気づいた。
怒り。
嫌悪。
それだけではない。
恐怖だ。
龍園のような露骨な暴力は分かりやすい。
一之瀬のように壊れていく姿もまだ理解できる。
だが綾小路は違う。
彼は壊れていない。
壊れていないまま、こういう判断を下せる。
それが何より怖かった。
軽井沢もまた無言だった。
彼女は綾小路に置いていかれたくない。
だがその綾小路が、知っている相手をほとんど躊躇なく撃ち殺した。
なら、自分はどうなのか。役に立たなくなったら同じように切られるのではないか。
そう考えないはずがない。
それでも、彼女は離れられない。
離れた瞬間に死ぬかもしれないからだ。
そして綾小路は、そんな二人の感情を知ってか知らずか、ただ前へ進む。
振り返らない。
言い訳もしない。
慰めもしない。
ただ状況を見て、必要な選別をしただけだとでも言うように。
林を抜ける風が少し強くなった。
どこか遠くで、また銃声が鳴る。
この島では、まだ多くの生徒が生きている。
そしてその大半は、これからさらに選別されていく。
偶然で。
恐怖で。
裏切りで。
あるいは綾小路清隆のような冷徹な意思によって。
第二日目の正午はまだ遠い。
なのに、すでに世界は狭まりすぎていた。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると助かります。