ようこそ殺戮至上主義の教室へ   作:戦竜

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第六章 少女の執念

潮の匂いが、林の奥まで入り込んでいた。

 

海は遠くない。

 

木々の間を吹き抜ける風に湿気が混じり、

ざらついた塩の感触を皮膚に残していく。

日が高くなったせいか気温は少し上がっていたが、

それでもこの島の空気には妙な冷たさがあった。

命が次々と断たれていく場所に特有の、肌にまとわりつくような冷えだ。

 

一之瀬帆波は、林の中を一人で歩いていた。

正確には、数時間前までは一人ではなかった。

 

同じクラスの生徒たちがいた。

彼女を信じようとした者。

彼女に縋ろうとした者。

彼女を恐れ始めた者。

そして、もうついていけないと背を向けた者。

 

だがいま、その誰もそばにはいない。

 

いなくなったのは、散り散りに逃げたからか。

死んだからか。

あるいは自分が遠ざけたからか。

 

その違いを、一之瀬はもう細かく分けて考えなくなっていた。

 

足元の落ち葉を踏みしめる。

音がする。

その音だけが、自分がまだ生きている証明のように思えた。

 

バッグは重い。

支給された水と食料、医療用品、そして斧。

最初はその斧が恐ろしくて仕方なかった。

人を殺すための道具を、自分が握っているという事実に吐き気すら覚えた。

 

けれどいまは違う。

 

重い。

頼りになる。

そして何より、握っていると少しだけ落ち着く。

 

柴田を殺した感触は、まだ手の中に残っていた。

 

最初の一撃。

鈍い音。

そのあとに続いた音。

 

何度も思い出そうとはしていない。

けれど忘れようとしても、脳が勝手に再生する。

それなのに、不思議と涙は出なかった。

 

罪悪感がないわけではない。

むしろ、自分が取り返しのつかないことをしたという認識はある。

あるのに、涙や悲鳴や自己嫌悪に沈んでいる余裕がなかった。

 

この島では、感情は後回しになる。

処理できない感情の山を抱えたまま、次の一歩を踏み出さなければならない。

 

「……はは」

 

自分でも意味の分からない笑いが漏れた。

 

こんなときに、どうして笑いが出るのか。

たぶん、それくらい壊れかけているのだろうと、

一之瀬はどこか他人事のように考えた。

 

彼女はもともと、人の中心にいることが多かった。

 

誰かの相談に乗り、誰かを庇い、誰かをまとめる。

そういう役割を無理なく果たしてきた。

 

それは偽善ではなかった。

本気でそうしたいと思っていたし、実際そうすることで救われた相手もいたはずだ。

 

けれどこの島で、その性質は裏目に出た。

 

人を集めたから狙われた。

人を信じたから乱れた。

人を守ろうとしたから、誰も守れなかった。

 

だったら、何が正しかったのだろう。

 

最初から切り捨てればよかったのか。

最初から殺せばよかったのか。

最初から一人で動いていればよかったのか。

 

どれが正解だったのか、一之瀬には分からない。

ただ一つだけ確かなことがある。

 

今までの一之瀬帆波では、ここでは勝てない。

 

その結論だけが、骨のように硬く胸の中に残っていた。

 

 

龍園翔は、まだ海辺にいた。

 

岩陰。

砂。

波の音。

そして目の前には、一つの死体。

 

須藤健。

 

身体の大きい男だった。

戦えば面倒だっただろう。だが、運が悪かった。

支給武器がフォークなどというふざけた代物だったせいで、

近づく前に蜂の巣にされて終わった。

 

龍園は須藤の死体を見下ろしながら、鼻で笑う。

 

「可哀想にな」

 

言葉に同情の色は一切ない。

 

死体の横には、食料と水を少しだけ目立つように残している。

バッグもわざと荒らしきっていない。

 

不自然さはある。

だが、極限状態で食料に飢えた人間は、

その不自然さを見たいように解釈する。

これは罠かもしれない、と考えながらも、

もしかしたらまだ回収できるかもしれない、という希望が先に出る。

 

そこを狩る。

 

龍園にとって人を待ち伏せることは、あまり手間だとは思えなかった。

相手がどう動くか考え、その心理を先回りし、選択肢を潰したうえで叩く。

やっていることはこれまでの学内の支配構造と大差ない。

違うのは、敗者が傷ではなく死を受け取ることだけだ。

 

「……龍園くん」

 

背後から、か細い声がした。

 

ひよりだった。

 

岩陰の少し後ろ、身を低くした位置にいる。

手には小型拳銃。だが、その握り方はまだぎこちない。

指先には力が入りすぎ、肩も強張っていた。

 

「もう少し低くしろ」

 

龍園は振り返らず言う。

 

「見つかったら先に撃たれる」

「……はい」

 

ひよりは慌てて姿勢を下げる。

 

彼女の目は、昨日の夜の時点でかなり死んでいた。

石崎、アルベルト、伊吹が目の前で処理され、自分だけが生かされた。

その理由が頭が回るからというだけだったことも理解している。

 

つまり彼女は助かったのではない。

使い道があるから、延命されたにすぎない。

 

その事実は、ひよりの中で静かに何かを削っていた。

 

「……誰か、本当に来るんでしょうか」

「来る」

 

龍園は即答した。

 

「須藤みてぇな目立つ死体をそのまま放っとけばな。

しかも食料つきだ。食いつくやつは必ずいる」

「でも、危険です」

「危険だからこそ意味がある」

 

龍園は口元を歪めた。

 

「安全な場所で安全な獲物だけ狩っても、試験は終わらねぇ。

でかいのを落とすなら、こういう場を使うしかねぇんだよ」

 

ひよりは黙る。

 

理解はできる。

だが納得はしたくない。そういう顔だった。

 

龍園はそんな彼女を一瞥もせず、続ける。

 

「いいか。お前がやることは一つだけだ」

「……」

「俺が前で引きつける。お前は死角から撃て」

 

ひよりの喉が上下する。

 

「私、まだ……」

「まだ、なんだ」

「人を、撃てるかどうか……」

 

波音が一度、妙に大きく聞こえた。

 

龍園はようやく振り返る。

 

その目に、苛立ちはない。

むしろ、ああやっぱりそこか、という程度の冷静さだった。

 

「撃てるかどうかじゃねぇ」

 

低い声。

 

「撃たなきゃ、お前が死ぬ」

「……」

「俺が守ってやると思うなよ」

 

ひよりは肩を震わせた。

 

龍園は言葉を重ねる。

 

「お前を今まで生かしてきたのは、使い道があるからだ。

だが、肝心なとこで引き金を引けねぇなら、その時点で価値はなくなる」

 

ひよりは何か言おうとして、言えなかった。

 

価値。

 

その言葉が重い。

 

龍園にとって自分は、人間ではなく価値で測られる対象だ。

以前から何となく察していた部分はある。

だが、この島に来てからは、それが隠しようもなくむき出しになっていた。

 

それでも、ひよりは離れられない。

 

離れた瞬間、死ぬからだ。

 

彼女に銃の腕はない。

体力もない。

単独で戦えるだけの胆力もまだない。

 

ならば龍園のそばにいるしかない。

たとえそれが、喉元に刃を突きつけられ続けるような立場だったとしても。

 

「……分かりました」

 

ひよりは小さく答えた。

 

「ちゃんと撃ちます」

 

その声はかすれていたが、龍園はそれで十分だと判断した。

 

「最初からそう言え」

 

そしてまた海辺へ視線を戻す。

獲物はまだ来ない。

だが時間の問題だ。

 

 

一之瀬は、林を抜ける手前で足を止めた。

 

風の向きが変わっている。

潮の匂いが濃い。

海が近い。

 

同時に、腹が空いていた。

 

空腹というより、身体の内側が空洞になったような感覚に近い。

昨日からろくに食べていない。喉も渇いている。

水はまだ少し残っているが、食料は心許なかった。

 

このままではまずい。

 

斧を握り直し、一之瀬は慎重に前へ進む。

 

海辺は危険だ。

開けている場所は視線が通る。狙われやすい。

そんなことは分かっている。

 

それでも、開けた場所には物もある。死体もある。

死体があるということは、物資もある可能性が高い。

 

いつからだろう。

そんなふうに考えるようになったのは。

 

人が倒れているのを見て、その人の安否より先に、バッグの有無を見る。

武器が残っていないか確認する。水があるか、食料があるか、弾があるか――。

 

吐き気がするほど嫌悪すべき発想のはずなのに、

いまはそれが生きるための当然の思考になっていた。

 

木々の間から、砂浜の一部が見えた。

 

そして、その手前に倒れている人影。

 

一之瀬の目が細くなる。

 

須藤健。

 

知っている顔だった。

何度か言い争ったこともあるし、相容れない部分も多かった。

だが、それでも同じ学年の生徒だった。

その須藤がいま、砂の上で動かなくなっている。

 

一之瀬はすぐには近づかなかった。

 

地形を見る。

岩場。

林の境界。

死体の位置。

バッグの散らばり方。

 

不自然だ。

 

明らかに不自然だった。

 

バッグが半端に開き、食料が見える位置にある。

武器らしきものも転がっている。だが完全に回収されていない。

遺体そのものも、隠すでもなく晒されている。

 

罠だ。

 

そう判断するのに、時間はかからなかった。

 

それでも一之瀬は、その場を離れなかった。

 

なぜなら彼女は、もう一つの可能性も同時に考えていたからだ。

 

――罠だと分かっている相手を、逆に狩れるかもしれない。

 

以前ならそんなことは考えなかっただろう。

危険を避け、仲間と合流し、なんとか穏便にやり過ごす方法を探していたはずだ。

 

だがいまの一之瀬は違う。

 

危険人物を先に消せるなら、そのほうがいい。

罠を張るような人間がいるなら、それは今後必ず脅威になる。

だったら、ここで殺す。

 

その結論が、驚くほど自然に出てきた。

 

斧を強く握る。

汗で柄が滑りそうになる。

 

一之瀬は低い姿勢のまま、じりじりと位置を変えた。

正面から死体へ近づくのではなく、少し大きく回って林の縁を使う。

相手が岩陰や木陰にいるなら、その視線の角度をずらせるかもしれない。

 

波音。

風。

自分の鼓動。

 

その三つだけが異様に大きく感じられる。

 

そして――

 

「よう」

 

声がした。

 

岩陰から、龍園翔が現れる。

 

一之瀬の瞳が細くなった。

 

「……やっぱり」

「察しは悪くねぇな」

 

龍園は笑う。

 

手にはアサルトライフル。

構えには余裕がある。

こちらが気づいていることも、織り込み済みなのだろう。

 

「須藤くんを殺したんだね」

「そうだ。餌にした」

 

あまりにも隠さない態度に、一之瀬の内側で何かがざらりと擦れる。

 

以前の彼女なら、ここで怒りを露わにしたかもしれない。

だがいまは違った。

 

怒りはある。

吐き気もある。

けれど、そのどちらも行動を急がせるほど純粋ではない。

 

龍園が危険人物であること。

いまここで殺せるなら、それが最善であること。

その計算が先に立つ。

 

「一之瀬」

 

龍園は銃口をわずかに持ち上げた。

 

「お前、顔つき変わったな」

「そうかもね」

「はっ。クラスの聖女が、ようやく現実を知ったってとこか」

「あなたみたいな人に言われたくない」

 

龍園は喉の奥で笑う。

 

「だが悪くねぇ。そういう目のほうが、殺すときに気持ちいい」

 

同時に、引き金が引かれる。

 

連射。

 

アサルトライフルの乾いた連射音が、海辺の空気を裂いた。

 

砂が弾ける。

木の幹が抉れる。

弾丸が低い軌道で一直線に一之瀬へ襲いかかる。

 

一之瀬はほぼ反射で横へ飛んだ。

砂浜へ転がる。

衝撃で息が詰まる。

背後の木の幹が弾け、木片が顔へ降りかかった。

 

斧しかない以上、正面から突っ込めば終わる。

 

だが――

 

距離を詰めなければ、勝ち目もない。

龍園の射撃は荒っぽいようでいて、逃げ道をしっかり潰してくる。

 

海辺へ出過ぎれば遮蔽物がない。

林へ戻れば木に隠れられるが、そのぶん動きは制限される。

 

一之瀬は瞬時に判断する。

 

林の縁を使う。

木を盾に、少しずつ詰める。

相手が撃ち切る瞬間を待つ。

 

連射。

停止。

位置替え。

 

また連射。

 

龍園は砂浜を横に滑るように移動していた。

岩場を踏み、角度を変え、林から出てくる瞬間を狙う。

 

足運びが速い。

 

こちらに接近を許さないよう、常に距離を保つよう動いている。

 

あれでは一直線の突撃では届かない。

 

「その程度か、一之瀬!」

 

龍園が叫ぶ。

その声は楽しそうだった。

 

「その斧、飾りかよ!」

 

挑発。

 

だが、一之瀬は乗らない。

木陰から木陰へ。

 

呼吸を整える。

 

胸が苦しい。

脚も重い。

 

昨日からの疲労が抜けていない。

それでも、いまは動ける。

 

そして一之瀬は、自分でも気づいていた。

 

龍園を恐れている自分と同時に――

どこかで、勝てるかもしれないと思っている自分がいる。

 

たぶんもう、戻れない。

 

怖いだけではない。

 

殺せるかもしれない相手を見ると、先に殺したいと思ってしまう。

 

それは変質だった。

 

明確な、以前の自分からの乖離だった。

 

龍園が岩陰から少し踏み出す。

 

一之瀬はその瞬間を狙った。

斧を両手で握り、低く、速く、一直線ではなく斜めに踏み込む。

龍園が舌打ちしながら連射。だが一之瀬は完全には止まらない。

肩を掠める。腕が裂けるように痛む。胸部から血が吹き出す。それでも前へ。

 

「――─っ!」

 

龍園の頬を冷や汗が垂れる。

 

アサルトライフルが火を吹いた。

連射。

弾丸が一之瀬の身体をかすめる。

 

肩。

腕。

肉が裂ける。

血が飛ぶ。

 

だが――止まらない。

 

一之瀬は前へ出る。

 

さらに連射。

今度は胸を撃ち抜かれる。

身体が大きく揺れる。

普通ならそこで倒れる。

 

だが一之瀬は倒れなかった。

 

歯を食いしばる。

前へ出る。

 

「……っ、あああああああああああああ!!」

 

叫びながら距離を詰める。

 

血が砂へ滴る。

腕が震える。

呼吸が崩れる。

それでも斧を振り上げる。

 

龍園の目に、ほんの一瞬だけ本物の驚きが浮かんだ。

ここまで食らいつくとは思っていなかったのだろう。

一之瀬はその顔を見て、逆に確信する。

 

怖がってる。

 

この男も、死ぬのは怖い。

その認識が、一之瀬に奇妙な力を与えた。

絶対的な怪物だと思っていた相手にも、恐怖がある。

その事実が、彼女の足をさらに前へ出させた。

 

「死ねえぇぇっ!!」

 

斧が振り下ろされる。

龍園が後ろへ飛ぶ。

だが完全には避けきれない。

 

刃が龍園の肩を掠める。

制服が裂け、血が散った。

 

「ちっ!」

 

龍園が笑った。

獰猛な笑み。

 

龍園は体勢を崩しながらもアサルトライフルを向け直す。

一之瀬はなおも前へ出る。なおも食らいつく。

 

「いいじゃねえか!」

 

アサルトライフルが再び吠える。

至近距離の乱射。

 

弾丸が一之瀬の腹を貫く。

脚を撃つ。

肩を撃つ。

身体が揺れる。

 

それでも――一之瀬は倒れない。

 

「死ねえええぇぇ!!死ねええええぇぇぇっ!!」

 

一歩。

また一歩。

 

血まみれのまま、前へ出る。

 

斧を振る。

 

めちゃくちゃに、めちゃくちゃに。

狙いも構えもない。

 

ただ、龍園を殺すためだけの振り下ろし。

その執念は、もはや理性ではなかった。

 

狂気に近い。

 

だが――龍園はその狂気に、ほんのわずかに押されていた。

 

一之瀬が踏み込む。

龍園が下がる。

また踏み込む。

また下がる。

 

「ははっ……!」

 

龍園が笑う。

 

「最高じゃねえかよ!」

 

また乱射。

砂が弾ける。

木が砕ける。

 

それでも一之瀬は止まらない。

何度も撃たれながら、何度も立ち上がる。

 

血を吐く。

膝が折れる。

それでも前へ出る。

斧を振り上げる。

 

その迫力に、龍園の目が細くなった。

 

圧倒されている。

 

獣のように戦うこの女に、確実に押されている。

 

一之瀬はもう、止まらない。

 

「死ねええええええええええええええ!!」

 

斧が振り上がる。

龍園が体勢を崩す。

避けきれない。

斧の刃が肩口を深く裂き、血が弧を描いて飛んだ。

 

もう少し。

もう一撃。

それが入れば、殺せる。

 

その瞬間だった。

 

パンッ。

 

乾いた銃声が、横合いから響いた。

 

一之瀬の身体が止まる。

 

何が起きたのか、一瞬理解できない。

 

次の瞬間、胸の奥に熱が走った。

遅れて痛みが来る。

 

「……え」

 

視線が揺れる。

 

龍園ではない。

別の場所。

 

岩陰の少し後ろ、林に近い位置。

そこに椎名ひよりがいた。

 

両手で拳銃を握り、顔面蒼白のまま、こちらを見ている。

 

「……椎名、さん」

 

一之瀬の口から、ほとんど反射で名前が漏れた。

 

ひよりの顔がひどく歪む。

泣きそうなのか、吐きそうなのか、自分でも分からないような表情だった。

 

龍園がその横顔をちらりと見る。

 

「よくやった」

 

ただ、それだけ言う。

 

その一言で、ひよりの肩がぴくりと揺れた。

褒められた。

認められた。

そういう反応ではない。

もっとずっと切実で、もっとずっと空っぽな震えだった。

 

一之瀬はよろめく。

斧を支えにしなければ、その場で倒れていたかもしれない。

 

胸を押さえる。血が広がる。

呼吸が浅い。

まだ即死ではない。だが長くはもたない。

 

「どうして……」

 

誰に向けた問いか、自分でも分からなかった。

 

ひよりにか。

龍園にか。

それとも、ここまで来てしまった自分にか。

 

ひよりの唇が震える。

 

「わ、たし……」

 

うまく声にならない。

 

「わたし、は……」

 

撃った。

人を。

しかも知っている相手を。

その事実に、彼女自身がまだ追いついていない。

 

龍園がひよりの肩を軽く叩く。

 

「次も撃てるな?」

 

ひよりはびくりとした。

 

そして、数秒の沈黙のあと、小さく、小さくうなずく。

 

そのうなずきは、決意というより降伏に近かった。

自分がもう戻れないと悟った者の、静かな諦め。

 

一之瀬はそれを見て、何とも言えない感情を抱いた。

 

哀れだった。

醜かった。

そして少しだけ、自分に似ていると思った。

 

誰もが、この島で壊れていく。

壊れ方が違うだけだ。

 

「……そう」

 

一之瀬は掠れた声で言った。

 

「あなたも……そっちに行くんだ」

 

ひよりは泣きそうな顔で首を振りかけた。

だが途中で止まる。

 

否定できない。

もう撃ってしまったから。

 

龍園が前へ出る。

 

一之瀬はその動きを見た。

とどめを刺しに来る。

そう分かる。

 

斧を握り直そうとした。

だが指先に力が入らない。

 

龍園は少し離れた位置で立ち止まり、目を細めた。

 

「惜しかったな、一之瀬」

 

その声音には、本当に少しだけ感心が混じっていた。

 

「お前、思ったよりやるじゃねぇか」

 

一之瀬は笑った。

自嘲に近い、乾いた笑い。

 

「……そんなの、嬉しくない」

「だろうな」

「でも」

 

息が苦しい。

声を出すだけで血の味がする。

 

「あなた、怖がってた」

 

龍園の目がわずかに変わる。

 

「斧が当たりそうになったとき……ちゃんと、怖がってた」

 

龍園は数秒黙ったあと、口元を歪めた。

 

「だからなんだ」

「それだけ」

 

一之瀬は言う。

 

「怪物じゃないなら……よかった」

 

龍園の表情から笑みが少し消える。

その言葉が気に入らなかったのかもしれない。

 

だが彼はもう反論しなかった。

 

代わりに、アサルトライフルを向ける。

 

一之瀬はそれを見ても、不思議ともう恐怖は薄かった。

 

クラスを守れなかった。

柴田を殺した。

ここまで来てしまった。

 

だったら、終わり方くらいは受け入れるしかない。

 

彼女は最後に、ひよりを見た。

 

ひよりは泣いていた。

声を出さず、ただ涙だけが落ちている。

 

その顔を見て、一之瀬は少しだけ笑う。

 

「……ちゃんと、生きて」

 

その言葉が届いたかどうかは分からない。

 

次の瞬間、龍園が引き金を引いた。

 

連射ではなかった。

短いバースト。

必要最低限。

 

一之瀬の身体がゆっくり傾き、砂の上に倒れる。

斧が手を離れ、乾いた音を立てた。

 

波が寄せては返す。

その音だけが残る。

 

ひよりは、しばらく動けなかった。

 

目の前には一之瀬の死体。

自分が撃った。

龍園が終わらせた。

その事実が、何度も頭の中で反響する。

 

「……立て」

 

龍園の声。

 

ひよりは反応が遅れた。

龍園がもう一度、今度は少し強く言う。

 

「立て。いつまでも見てんじゃねぇ」

 

ひよりはよろよろと立ち上がる。

 

脚が震えていた。

拳銃を握る手も、まだ冷たく痺れている。

 

「……私」

「なんだ」

「撃ちました」

「見てた」

「人を」

「そうだ」

 

龍園は一之瀬の死体から使えそうなものを回収しながら、あっさり言った。

 

ひよりはその横顔を見る。

 

そこに罪悪感はない。

興奮もない。

あるのは作業としての集中だけだ。

 

その姿は恐ろしい。

けれど同時に、奇妙な安定感もあった。

 

この男は迷わない。

迷わないから生き残る。

迷う自分は、そのそばで命令に従うしかない。

 

そう理解してしまった瞬間、ひよりの中で何かが決定的に沈んだ。

 

「……次も」

 

ひよりは小さく言った。

 

「次も、撃ちます」

 

龍園は振り返る。

 

そして、ほんの少しだけ笑った。

 

「最初からそうしとけ」

 

それだけだった。

 

優しい言葉ではない。

慰めでもない。

だが、ひよりにとってはいま唯一の役割の承認だった。

 

生きたい。

死にたくない。

役に立たなければ捨てられる。

 

なら撃つしかない。

 

ひよりは涙を拭わないまま、一之瀬の死体をもう一度見た。

胸の中に重いものが沈んでいる。苦しい。吐きそうだ。

けれどそれを外へ出してしまえば、自分はもう前へ進けない気がした。

 

だから押し込める。

 

感情を。

罪悪感を。

恐怖を。

 

押し込めて、歩く。

 

龍園の後ろを。

 

眷属のように。

 

そうして第二日目の午後、海辺でまた一人、有力な生徒が消えた。

一之瀬帆波はここで脱落し、龍園翔はさらに蛇じみた狩人になり、

椎名ひよりは静かに龍園の眷属へ変質した。

 

島はなおも狭まっていく。

 

誰かが死ぬたびに、生存者は濃くなる。

残るのは、強い者だけではない。

壊れ方を選べた者。

あるいは、壊れたまま前へ進める者だ。




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