潮の匂いが、林の奥まで入り込んでいた。
海は遠くない。
木々の間を吹き抜ける風に湿気が混じり、
ざらついた塩の感触を皮膚に残していく。
日が高くなったせいか気温は少し上がっていたが、
それでもこの島の空気には妙な冷たさがあった。
命が次々と断たれていく場所に特有の、肌にまとわりつくような冷えだ。
一之瀬帆波は、林の中を一人で歩いていた。
正確には、数時間前までは一人ではなかった。
同じクラスの生徒たちがいた。
彼女を信じようとした者。
彼女に縋ろうとした者。
彼女を恐れ始めた者。
そして、もうついていけないと背を向けた者。
だがいま、その誰もそばにはいない。
いなくなったのは、散り散りに逃げたからか。
死んだからか。
あるいは自分が遠ざけたからか。
その違いを、一之瀬はもう細かく分けて考えなくなっていた。
足元の落ち葉を踏みしめる。
音がする。
その音だけが、自分がまだ生きている証明のように思えた。
バッグは重い。
支給された水と食料、医療用品、そして斧。
最初はその斧が恐ろしくて仕方なかった。
人を殺すための道具を、自分が握っているという事実に吐き気すら覚えた。
けれどいまは違う。
重い。
頼りになる。
そして何より、握っていると少しだけ落ち着く。
柴田を殺した感触は、まだ手の中に残っていた。
最初の一撃。
鈍い音。
そのあとに続いた音。
何度も思い出そうとはしていない。
けれど忘れようとしても、脳が勝手に再生する。
それなのに、不思議と涙は出なかった。
罪悪感がないわけではない。
むしろ、自分が取り返しのつかないことをしたという認識はある。
あるのに、涙や悲鳴や自己嫌悪に沈んでいる余裕がなかった。
この島では、感情は後回しになる。
処理できない感情の山を抱えたまま、次の一歩を踏み出さなければならない。
「……はは」
自分でも意味の分からない笑いが漏れた。
こんなときに、どうして笑いが出るのか。
たぶん、それくらい壊れかけているのだろうと、
一之瀬はどこか他人事のように考えた。
彼女はもともと、人の中心にいることが多かった。
誰かの相談に乗り、誰かを庇い、誰かをまとめる。
そういう役割を無理なく果たしてきた。
それは偽善ではなかった。
本気でそうしたいと思っていたし、実際そうすることで救われた相手もいたはずだ。
けれどこの島で、その性質は裏目に出た。
人を集めたから狙われた。
人を信じたから乱れた。
人を守ろうとしたから、誰も守れなかった。
だったら、何が正しかったのだろう。
最初から切り捨てればよかったのか。
最初から殺せばよかったのか。
最初から一人で動いていればよかったのか。
どれが正解だったのか、一之瀬には分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
今までの一之瀬帆波では、ここでは勝てない。
その結論だけが、骨のように硬く胸の中に残っていた。
◯
龍園翔は、まだ海辺にいた。
岩陰。
砂。
波の音。
そして目の前には、一つの死体。
須藤健。
身体の大きい男だった。
戦えば面倒だっただろう。だが、運が悪かった。
支給武器がフォークなどというふざけた代物だったせいで、
近づく前に蜂の巣にされて終わった。
龍園は須藤の死体を見下ろしながら、鼻で笑う。
「可哀想にな」
言葉に同情の色は一切ない。
死体の横には、食料と水を少しだけ目立つように残している。
バッグもわざと荒らしきっていない。
不自然さはある。
だが、極限状態で食料に飢えた人間は、
その不自然さを見たいように解釈する。
これは罠かもしれない、と考えながらも、
もしかしたらまだ回収できるかもしれない、という希望が先に出る。
そこを狩る。
龍園にとって人を待ち伏せることは、あまり手間だとは思えなかった。
相手がどう動くか考え、その心理を先回りし、選択肢を潰したうえで叩く。
やっていることはこれまでの学内の支配構造と大差ない。
違うのは、敗者が傷ではなく死を受け取ることだけだ。
「……龍園くん」
背後から、か細い声がした。
ひよりだった。
岩陰の少し後ろ、身を低くした位置にいる。
手には小型拳銃。だが、その握り方はまだぎこちない。
指先には力が入りすぎ、肩も強張っていた。
「もう少し低くしろ」
龍園は振り返らず言う。
「見つかったら先に撃たれる」
「……はい」
ひよりは慌てて姿勢を下げる。
彼女の目は、昨日の夜の時点でかなり死んでいた。
石崎、アルベルト、伊吹が目の前で処理され、自分だけが生かされた。
その理由が頭が回るからというだけだったことも理解している。
つまり彼女は助かったのではない。
使い道があるから、延命されたにすぎない。
その事実は、ひよりの中で静かに何かを削っていた。
「……誰か、本当に来るんでしょうか」
「来る」
龍園は即答した。
「須藤みてぇな目立つ死体をそのまま放っとけばな。
しかも食料つきだ。食いつくやつは必ずいる」
「でも、危険です」
「危険だからこそ意味がある」
龍園は口元を歪めた。
「安全な場所で安全な獲物だけ狩っても、試験は終わらねぇ。
でかいのを落とすなら、こういう場を使うしかねぇんだよ」
ひよりは黙る。
理解はできる。
だが納得はしたくない。そういう顔だった。
龍園はそんな彼女を一瞥もせず、続ける。
「いいか。お前がやることは一つだけだ」
「……」
「俺が前で引きつける。お前は死角から撃て」
ひよりの喉が上下する。
「私、まだ……」
「まだ、なんだ」
「人を、撃てるかどうか……」
波音が一度、妙に大きく聞こえた。
龍園はようやく振り返る。
その目に、苛立ちはない。
むしろ、ああやっぱりそこか、という程度の冷静さだった。
「撃てるかどうかじゃねぇ」
低い声。
「撃たなきゃ、お前が死ぬ」
「……」
「俺が守ってやると思うなよ」
ひよりは肩を震わせた。
龍園は言葉を重ねる。
「お前を今まで生かしてきたのは、使い道があるからだ。
だが、肝心なとこで引き金を引けねぇなら、その時点で価値はなくなる」
ひよりは何か言おうとして、言えなかった。
価値。
その言葉が重い。
龍園にとって自分は、人間ではなく価値で測られる対象だ。
以前から何となく察していた部分はある。
だが、この島に来てからは、それが隠しようもなくむき出しになっていた。
それでも、ひよりは離れられない。
離れた瞬間、死ぬからだ。
彼女に銃の腕はない。
体力もない。
単独で戦えるだけの胆力もまだない。
ならば龍園のそばにいるしかない。
たとえそれが、喉元に刃を突きつけられ続けるような立場だったとしても。
「……分かりました」
ひよりは小さく答えた。
「ちゃんと撃ちます」
その声はかすれていたが、龍園はそれで十分だと判断した。
「最初からそう言え」
そしてまた海辺へ視線を戻す。
獲物はまだ来ない。
だが時間の問題だ。
◯
一之瀬は、林を抜ける手前で足を止めた。
風の向きが変わっている。
潮の匂いが濃い。
海が近い。
同時に、腹が空いていた。
空腹というより、身体の内側が空洞になったような感覚に近い。
昨日からろくに食べていない。喉も渇いている。
水はまだ少し残っているが、食料は心許なかった。
このままではまずい。
斧を握り直し、一之瀬は慎重に前へ進む。
海辺は危険だ。
開けている場所は視線が通る。狙われやすい。
そんなことは分かっている。
それでも、開けた場所には物もある。死体もある。
死体があるということは、物資もある可能性が高い。
いつからだろう。
そんなふうに考えるようになったのは。
人が倒れているのを見て、その人の安否より先に、バッグの有無を見る。
武器が残っていないか確認する。水があるか、食料があるか、弾があるか――。
吐き気がするほど嫌悪すべき発想のはずなのに、
いまはそれが生きるための当然の思考になっていた。
木々の間から、砂浜の一部が見えた。
そして、その手前に倒れている人影。
一之瀬の目が細くなる。
須藤健。
知っている顔だった。
何度か言い争ったこともあるし、相容れない部分も多かった。
だが、それでも同じ学年の生徒だった。
その須藤がいま、砂の上で動かなくなっている。
一之瀬はすぐには近づかなかった。
地形を見る。
岩場。
林の境界。
死体の位置。
バッグの散らばり方。
不自然だ。
明らかに不自然だった。
バッグが半端に開き、食料が見える位置にある。
武器らしきものも転がっている。だが完全に回収されていない。
遺体そのものも、隠すでもなく晒されている。
罠だ。
そう判断するのに、時間はかからなかった。
それでも一之瀬は、その場を離れなかった。
なぜなら彼女は、もう一つの可能性も同時に考えていたからだ。
――罠だと分かっている相手を、逆に狩れるかもしれない。
以前ならそんなことは考えなかっただろう。
危険を避け、仲間と合流し、なんとか穏便にやり過ごす方法を探していたはずだ。
だがいまの一之瀬は違う。
危険人物を先に消せるなら、そのほうがいい。
罠を張るような人間がいるなら、それは今後必ず脅威になる。
だったら、ここで殺す。
その結論が、驚くほど自然に出てきた。
斧を強く握る。
汗で柄が滑りそうになる。
一之瀬は低い姿勢のまま、じりじりと位置を変えた。
正面から死体へ近づくのではなく、少し大きく回って林の縁を使う。
相手が岩陰や木陰にいるなら、その視線の角度をずらせるかもしれない。
波音。
風。
自分の鼓動。
その三つだけが異様に大きく感じられる。
そして――
「よう」
声がした。
岩陰から、龍園翔が現れる。
一之瀬の瞳が細くなった。
「……やっぱり」
「察しは悪くねぇな」
龍園は笑う。
手にはアサルトライフル。
構えには余裕がある。
こちらが気づいていることも、織り込み済みなのだろう。
「須藤くんを殺したんだね」
「そうだ。餌にした」
あまりにも隠さない態度に、一之瀬の内側で何かがざらりと擦れる。
以前の彼女なら、ここで怒りを露わにしたかもしれない。
だがいまは違った。
怒りはある。
吐き気もある。
けれど、そのどちらも行動を急がせるほど純粋ではない。
龍園が危険人物であること。
いまここで殺せるなら、それが最善であること。
その計算が先に立つ。
「一之瀬」
龍園は銃口をわずかに持ち上げた。
「お前、顔つき変わったな」
「そうかもね」
「はっ。クラスの聖女が、ようやく現実を知ったってとこか」
「あなたみたいな人に言われたくない」
龍園は喉の奥で笑う。
「だが悪くねぇ。そういう目のほうが、殺すときに気持ちいい」
同時に、引き金が引かれる。
連射。
アサルトライフルの乾いた連射音が、海辺の空気を裂いた。
砂が弾ける。
木の幹が抉れる。
弾丸が低い軌道で一直線に一之瀬へ襲いかかる。
一之瀬はほぼ反射で横へ飛んだ。
砂浜へ転がる。
衝撃で息が詰まる。
背後の木の幹が弾け、木片が顔へ降りかかった。
斧しかない以上、正面から突っ込めば終わる。
だが――
距離を詰めなければ、勝ち目もない。
龍園の射撃は荒っぽいようでいて、逃げ道をしっかり潰してくる。
海辺へ出過ぎれば遮蔽物がない。
林へ戻れば木に隠れられるが、そのぶん動きは制限される。
一之瀬は瞬時に判断する。
林の縁を使う。
木を盾に、少しずつ詰める。
相手が撃ち切る瞬間を待つ。
連射。
停止。
位置替え。
また連射。
龍園は砂浜を横に滑るように移動していた。
岩場を踏み、角度を変え、林から出てくる瞬間を狙う。
足運びが速い。
こちらに接近を許さないよう、常に距離を保つよう動いている。
あれでは一直線の突撃では届かない。
「その程度か、一之瀬!」
龍園が叫ぶ。
その声は楽しそうだった。
「その斧、飾りかよ!」
挑発。
だが、一之瀬は乗らない。
木陰から木陰へ。
呼吸を整える。
胸が苦しい。
脚も重い。
昨日からの疲労が抜けていない。
それでも、いまは動ける。
そして一之瀬は、自分でも気づいていた。
龍園を恐れている自分と同時に――
どこかで、勝てるかもしれないと思っている自分がいる。
たぶんもう、戻れない。
怖いだけではない。
殺せるかもしれない相手を見ると、先に殺したいと思ってしまう。
それは変質だった。
明確な、以前の自分からの乖離だった。
龍園が岩陰から少し踏み出す。
一之瀬はその瞬間を狙った。
斧を両手で握り、低く、速く、一直線ではなく斜めに踏み込む。
龍園が舌打ちしながら連射。だが一之瀬は完全には止まらない。
肩を掠める。腕が裂けるように痛む。胸部から血が吹き出す。それでも前へ。
「――─っ!」
龍園の頬を冷や汗が垂れる。
アサルトライフルが火を吹いた。
連射。
弾丸が一之瀬の身体をかすめる。
肩。
腕。
肉が裂ける。
血が飛ぶ。
だが――止まらない。
一之瀬は前へ出る。
さらに連射。
今度は胸を撃ち抜かれる。
身体が大きく揺れる。
普通ならそこで倒れる。
だが一之瀬は倒れなかった。
歯を食いしばる。
前へ出る。
「……っ、あああああああああああああ!!」
叫びながら距離を詰める。
血が砂へ滴る。
腕が震える。
呼吸が崩れる。
それでも斧を振り上げる。
龍園の目に、ほんの一瞬だけ本物の驚きが浮かんだ。
ここまで食らいつくとは思っていなかったのだろう。
一之瀬はその顔を見て、逆に確信する。
怖がってる。
この男も、死ぬのは怖い。
その認識が、一之瀬に奇妙な力を与えた。
絶対的な怪物だと思っていた相手にも、恐怖がある。
その事実が、彼女の足をさらに前へ出させた。
「死ねえぇぇっ!!」
斧が振り下ろされる。
龍園が後ろへ飛ぶ。
だが完全には避けきれない。
刃が龍園の肩を掠める。
制服が裂け、血が散った。
「ちっ!」
龍園が笑った。
獰猛な笑み。
龍園は体勢を崩しながらもアサルトライフルを向け直す。
一之瀬はなおも前へ出る。なおも食らいつく。
「いいじゃねえか!」
アサルトライフルが再び吠える。
至近距離の乱射。
弾丸が一之瀬の腹を貫く。
脚を撃つ。
肩を撃つ。
身体が揺れる。
それでも――一之瀬は倒れない。
「死ねえええぇぇ!!死ねええええぇぇぇっ!!」
一歩。
また一歩。
血まみれのまま、前へ出る。
斧を振る。
めちゃくちゃに、めちゃくちゃに。
狙いも構えもない。
ただ、龍園を殺すためだけの振り下ろし。
その執念は、もはや理性ではなかった。
狂気に近い。
だが――龍園はその狂気に、ほんのわずかに押されていた。
一之瀬が踏み込む。
龍園が下がる。
また踏み込む。
また下がる。
「ははっ……!」
龍園が笑う。
「最高じゃねえかよ!」
また乱射。
砂が弾ける。
木が砕ける。
それでも一之瀬は止まらない。
何度も撃たれながら、何度も立ち上がる。
血を吐く。
膝が折れる。
それでも前へ出る。
斧を振り上げる。
その迫力に、龍園の目が細くなった。
圧倒されている。
獣のように戦うこの女に、確実に押されている。
一之瀬はもう、止まらない。
「死ねええええええええええええええ!!」
斧が振り上がる。
龍園が体勢を崩す。
避けきれない。
斧の刃が肩口を深く裂き、血が弧を描いて飛んだ。
もう少し。
もう一撃。
それが入れば、殺せる。
その瞬間だった。
パンッ。
乾いた銃声が、横合いから響いた。
一之瀬の身体が止まる。
何が起きたのか、一瞬理解できない。
次の瞬間、胸の奥に熱が走った。
遅れて痛みが来る。
「……え」
視線が揺れる。
龍園ではない。
別の場所。
岩陰の少し後ろ、林に近い位置。
そこに椎名ひよりがいた。
両手で拳銃を握り、顔面蒼白のまま、こちらを見ている。
「……椎名、さん」
一之瀬の口から、ほとんど反射で名前が漏れた。
ひよりの顔がひどく歪む。
泣きそうなのか、吐きそうなのか、自分でも分からないような表情だった。
龍園がその横顔をちらりと見る。
「よくやった」
ただ、それだけ言う。
その一言で、ひよりの肩がぴくりと揺れた。
褒められた。
認められた。
そういう反応ではない。
もっとずっと切実で、もっとずっと空っぽな震えだった。
一之瀬はよろめく。
斧を支えにしなければ、その場で倒れていたかもしれない。
胸を押さえる。血が広がる。
呼吸が浅い。
まだ即死ではない。だが長くはもたない。
「どうして……」
誰に向けた問いか、自分でも分からなかった。
ひよりにか。
龍園にか。
それとも、ここまで来てしまった自分にか。
ひよりの唇が震える。
「わ、たし……」
うまく声にならない。
「わたし、は……」
撃った。
人を。
しかも知っている相手を。
その事実に、彼女自身がまだ追いついていない。
龍園がひよりの肩を軽く叩く。
「次も撃てるな?」
ひよりはびくりとした。
そして、数秒の沈黙のあと、小さく、小さくうなずく。
そのうなずきは、決意というより降伏に近かった。
自分がもう戻れないと悟った者の、静かな諦め。
一之瀬はそれを見て、何とも言えない感情を抱いた。
哀れだった。
醜かった。
そして少しだけ、自分に似ていると思った。
誰もが、この島で壊れていく。
壊れ方が違うだけだ。
「……そう」
一之瀬は掠れた声で言った。
「あなたも……そっちに行くんだ」
ひよりは泣きそうな顔で首を振りかけた。
だが途中で止まる。
否定できない。
もう撃ってしまったから。
龍園が前へ出る。
一之瀬はその動きを見た。
とどめを刺しに来る。
そう分かる。
斧を握り直そうとした。
だが指先に力が入らない。
龍園は少し離れた位置で立ち止まり、目を細めた。
「惜しかったな、一之瀬」
その声音には、本当に少しだけ感心が混じっていた。
「お前、思ったよりやるじゃねぇか」
一之瀬は笑った。
自嘲に近い、乾いた笑い。
「……そんなの、嬉しくない」
「だろうな」
「でも」
息が苦しい。
声を出すだけで血の味がする。
「あなた、怖がってた」
龍園の目がわずかに変わる。
「斧が当たりそうになったとき……ちゃんと、怖がってた」
龍園は数秒黙ったあと、口元を歪めた。
「だからなんだ」
「それだけ」
一之瀬は言う。
「怪物じゃないなら……よかった」
龍園の表情から笑みが少し消える。
その言葉が気に入らなかったのかもしれない。
だが彼はもう反論しなかった。
代わりに、アサルトライフルを向ける。
一之瀬はそれを見ても、不思議ともう恐怖は薄かった。
クラスを守れなかった。
柴田を殺した。
ここまで来てしまった。
だったら、終わり方くらいは受け入れるしかない。
彼女は最後に、ひよりを見た。
ひよりは泣いていた。
声を出さず、ただ涙だけが落ちている。
その顔を見て、一之瀬は少しだけ笑う。
「……ちゃんと、生きて」
その言葉が届いたかどうかは分からない。
次の瞬間、龍園が引き金を引いた。
連射ではなかった。
短いバースト。
必要最低限。
一之瀬の身体がゆっくり傾き、砂の上に倒れる。
斧が手を離れ、乾いた音を立てた。
波が寄せては返す。
その音だけが残る。
ひよりは、しばらく動けなかった。
目の前には一之瀬の死体。
自分が撃った。
龍園が終わらせた。
その事実が、何度も頭の中で反響する。
「……立て」
龍園の声。
ひよりは反応が遅れた。
龍園がもう一度、今度は少し強く言う。
「立て。いつまでも見てんじゃねぇ」
ひよりはよろよろと立ち上がる。
脚が震えていた。
拳銃を握る手も、まだ冷たく痺れている。
「……私」
「なんだ」
「撃ちました」
「見てた」
「人を」
「そうだ」
龍園は一之瀬の死体から使えそうなものを回収しながら、あっさり言った。
ひよりはその横顔を見る。
そこに罪悪感はない。
興奮もない。
あるのは作業としての集中だけだ。
その姿は恐ろしい。
けれど同時に、奇妙な安定感もあった。
この男は迷わない。
迷わないから生き残る。
迷う自分は、そのそばで命令に従うしかない。
そう理解してしまった瞬間、ひよりの中で何かが決定的に沈んだ。
「……次も」
ひよりは小さく言った。
「次も、撃ちます」
龍園は振り返る。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「最初からそうしとけ」
それだけだった。
優しい言葉ではない。
慰めでもない。
だが、ひよりにとってはいま唯一の役割の承認だった。
生きたい。
死にたくない。
役に立たなければ捨てられる。
なら撃つしかない。
ひよりは涙を拭わないまま、一之瀬の死体をもう一度見た。
胸の中に重いものが沈んでいる。苦しい。吐きそうだ。
けれどそれを外へ出してしまえば、自分はもう前へ進けない気がした。
だから押し込める。
感情を。
罪悪感を。
恐怖を。
押し込めて、歩く。
龍園の後ろを。
眷属のように。
そうして第二日目の午後、海辺でまた一人、有力な生徒が消えた。
一之瀬帆波はここで脱落し、龍園翔はさらに蛇じみた狩人になり、
椎名ひよりは静かに龍園の眷属へ変質した。
島はなおも狭まっていく。
誰かが死ぬたびに、生存者は濃くなる。
残るのは、強い者だけではない。
壊れ方を選べた者。
あるいは、壊れたまま前へ進める者だ。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると助かります。