武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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武術ってドラゴンボールみたいなのか?

 

 

 

 夕方、逢魔時。生と死、そして現世と幽世の境が曖昧になる時間帯。沈みかけた太陽は西の空を赤く染め、長く伸びた影が公園の地面を斜めに横切っていた。昼間には子供の声で満ちていたはずの場所も、この時間になると嘘のように静まり返り、ブランコの鎖が風に揺れて、きぃ、きぃ、と乾いた音を立てるだけだった。遠くの道路を走る車の音もここまでは届かず、空気は妙に重く、何かが潜んでいるかのような不穏な静けさを帯びていた。

 

 人気のない公園で1人の少年が遊んでいた。

 

 名は虎杖悠仁。小学1年生。薄っすらピンク色の地毛を持つ、まだあどけなさの残る少年だった。頬には健康的な赤みが差し、瞳は大きく、どこか好奇心に満ちている。しかしその姿は、夕暮れの広い公園の中ではあまりにも小さく、ひどく頼りなく見えた。

 

 ブランコを漕ぎ、鎖を握る手に力を込めて体を前へ後ろへと揺らす。靴の裏が空を向き、次の瞬間には地面へ向かう。その単調な動きを何度も繰り返したあと、悠仁はぴょんと飛び降り、軽い足取りでジャングルジムへ駆け寄った。金属の棒をよじ登り、てっぺんまで登ると、そこからためらいもなく地面へ飛び降りる。着地の衝撃を膝で受け止め、砂がぱっと舞い上がった。

 

 誰も見ていない。褒めてくれる人も、叱る人もいない。

 

 それでも悠仁は、何事もなかったかのように滑り台へ向かい、また一人で遊び続けていた。

 

 物心つく頃には両親はどこかへと消えていた。理由も事情も、まだ小さな悠仁には理解できない。ただ気づいたときには、父の父――つまり祖父である倭助と二人きりの生活が当たり前になっていた。倭助はぶっきらぼうだが優しい老人で、毎日学校へ行けと口うるさく言いながらも、帰ってくれば温かい飯を用意してくれる。悠仁にとって家族とは、その祖父ただ一人だった。

 

 遊び疲れた悠仁は、公園のベンチへ腰を下ろした。小さく息を吐き、空を見上げる。夕焼けはもう暗さを帯び始め、木々の間から覗く空は紫色へと変わりつつあった。

 

 その時だった。

 

 音もなく、気配もなく、いつの間にか一人の老人が近づいていた。

 

 小汚い襤褸を纏い、足元は擦り切れたサンダル。顔には伸び放題の汚い髭が生え、頭頂部は禿げ上がり、残った髪はべったりと油で固まったように頭皮へ貼り付いている。口元はどこか湿っていて、ねちゃっとした笑みが張り付いていた。その姿はどう見ても怪しく、近寄りたくない種類の老人だった。

 

 しかしその老人は、まるで最初からそこに座る予定だったかのように自然な動きでベンチへ腰を下ろし、隣にいる悠仁へ視線を向けた。

 

 「おい坊主、強くなりたいか?」

 

 「え?いきなりなに?おっちゃんだれ?」

 

 悠仁は目をぱちぱちさせながら老人を見上げる。知らない大人に話しかけられたというより、突然ゲームの話でも振られたかのような、そんな呑気な反応だった。

 

 老人はその質問をまるで聞いていないかのように鼻を鳴らし、懐へ手を突っ込んだ。

 

 「ここに本がある」

 

 そう言って取り出されたのは、ボロボロの本だった。

 

 いや、1冊ではない。老人の手には、重ねられた5冊の古びた本があった。紙は黄ばみ、角は擦り切れ、何度も読まれたのか表紙は皺だらけで、どれもひどく汚れている。悠仁には文字はまるで読めなかったが、かろうじて太い筆で書かれた表紙の題名だけは判別できた。

 

 如来神掌。

 蛤蟆功。

 九陽神功。

 乾坤大挪移。

 北斗神拳。

 

 どれも同じように傷だらけの本。

 

 どれも小学生の悠仁には意味の分からない言葉ばかりだった。

 

 老人はその5冊を悠仁の前へずいと差し出した。

 

 「1000円じゃ」

 

 「はい?」

 

 あまりにも唐突な言葉に、悠仁はぽかんと口を開けたまま固まった。老人はまるで当たり前の商売でもしているかのような顔で頷き、ねっとりとした声を続ける。

 

 「どれでも1冊、1000円。世界を救う武術の奥義書じゃ」

 

 夕暮れの公園に、妙な沈黙が落ちた。

 

 「武術ってドラゴンボールみたいなのか?」

 

 虎杖少年は老人の差し出した本を両手で抱え、表紙に書かれた読めない文字をじっと見つめながらそう言った。夕焼けはさらに色を濃くし、公園の遊具の影は長く地面へ伸びている。遠くの空では鳥が数羽、ねぐらへ帰るようにゆっくりと羽ばたいていた。そんな穏やかな景色の中で、ベンチに並んで座る一人の少年と怪しい老人の光景だけが、妙に現実離れした空気を帯びていた。

 

 「そうじゃそうじゃ……まぁあれほど派手な技はないが、どれも極めれば勝てぬ者などいない究極の武術となるじゃろうよ」

 

 老人はねっとりとした笑みを浮かべながら頷く。その声には妙な説得力があり、まるで昔話でも語るかのようにゆったりとしていた。夕暮れの薄暗さの中で、その顔は皺の影に覆われ、どこか底知れない雰囲気を漂わせている。

 

 「ほえ〜」

 

 悠仁は素直に感心したような声を漏らした。

 

 頭の中では、最近テレビで観たアニメの光景がぐるぐると回っている。拳を突き出せば山が吹き飛び、空を飛びながら光のビームを撃ち合う戦い。もし自分がそんな力を手に入れたらどうなるだろうか、と子供らしい想像が止まらない。

 

 俺がドラゴンボールみたいに空飛んだりビーム出したりできるようになる……?

 

 そんな無粋な空想を胸の奥で膨らませながら、悠仁はゆっくりとポケットへ手を入れた。指先に触れた硬い金属の感触を確かめるように、ぎゅっと握りしめる。

 

 「ん〜」

 

 ポケットの中には、祖父の倭助から貰ったお小遣いが入っていた。二ヶ月分を貯めた500円玉が2枚。合計1000円。それは小学1年生の悠仁にとっては決して小さくない金額だった。近所の駄菓子屋へ行けば、大好きなチョコ菓子やポテトスナックを山ほど買える。週末の楽しみが全部消えてしまうと思うと、さすがに躊躇いが生まれる。

 

 悠仁はベンチに座ったまま、老人の差し出す本と自分のポケットを何度も見比べた。夕暮れの風が吹き、木の葉がさらさらと擦れる音が耳へ届く。公園は相変わらず静かで、他に人の姿は見えない。

 

 これを出せばお菓子は買えなくなる。

 

 だが世界を救えるほどの武術。

 

 そんな言葉は、少年の胸を強く刺激していた。

 

 悠仁はぐっと拳を握り、ぱっと顔を上げた。

 

 「おっちゃん買うわ!俺最強になる!」

 

 声は勢いよく公園へ響いた。老人は一瞬だけ目を細め、その反応を面白がるように肩を震わせた。

 

 だがやはり“最強”やら“究極”だなんて言葉に少年はめっぽう弱い。ましてやそれが自分の力で手に入ると言われれば、心が躍らないはずがなかった。

 

 悠仁は老人の持つ5冊の本の中から、特に目に入った1冊を手に取った。表紙は破れ、角は擦り切れている。だが中央に書かれた太い文字だけは不思議と力強く残っていた。

 

 如来神掌。

 

 「ほぉ、それは如来神掌じゃ。如来が繰り出す寂滅の掌を振るえるようになる武術じゃ。習得できれば坊主は敵無しじゃ」

 

 老人は満足そうに頷きながらそう言った。その声には、先ほどよりもわずかに楽しげな響きが混ざっている。

 

 「すげぇ!!」

 

 悠仁は目を輝かせた。まだ漢字の意味は分からない。それでも響きだけで胸が高鳴る。まるでゲームの最強必殺技のような名前だった。

 

 老人は喉の奥でくくっと笑い、ゆっくりと語り始める。

 

 「ホホホ、少し前──中国の青年が如来神掌を修め、邪神を打ち滅ぼした逸話があるぞ」

 

 その言葉は、夕暮れの静かな空気の中で妙に重く響いた。まるで冗談のようでありながら、どこか本当の出来事のようにも聞こえる、不思議な語り口だった。悠仁はすっかりその話に引き込まれ、本を抱えたまま老人の顔を見上げる。

 

 夕日はすでに地平線の向こうへ沈みかけ、公園はゆっくりと夜の色へ変わりつつあった。その薄暗さの中で、少年はまだ気づいていなかった。この胡散臭い一冊の古びた本が、自分の人生を大きく変えることになるなどとは、夢にも思っていなかったのである。

 

 「じゃあ1000円じゃ」

 

 老人は当たり前のことを告げるような軽い口調でそう言った。夕暮れの光はすでに弱まり、公園の影はさらに濃く長く伸びている。木々の葉は風に揺れ、擦れる音がささやきのように耳へ届いた。その中で、虎杖悠仁はほんの少しだけ躊躇するようにポケットへ手を入れる。

 

 「……はい!」

 

 だが迷いは一瞬だった。悠仁は勢いよく500円玉を2枚取り出し、小さな掌に乗せて老人へ差し出した。金属が触れ合う軽い音が、静かな公園の空気にかすかに響く。

 

 老人はその金を受け取ると、ねっとりとした笑みをさらに深くしながら指先で器用にひっくり返して確かめた。まるで長年こういう商売をしてきたかのように慣れた動作だった。やがて満足したのか、硬貨を懐へしまい込む。

 

 そしてゆっくりと立ち上がった。

 

 襤褸の服がかさりと音を立て、擦り切れたサンダルが地面を軽く踏む。夕闇に溶け込みかけたその姿は、先ほどまでベンチに座っていた老人とは思えないほど軽やかな動きだった。

 

 老人は振り返り、悠仁へ向かってにやりと笑う。

 

 「毎度あり、坊主。励めよ〜」

 

 そう言って片手をひらひらと振ると、次の瞬間にはくるりと踵を返した。

 

 そして。

 

 音もなく走り去っていった。

 

 それは老人とは思えない速さだった。背中を丸めたまま、まるで風に押された紙切れのように軽い足取りで、公園の出口へ向かって駆けていく。サンダルのはずなのに足音はほとんど響かず、数秒も経たないうちに木々の影の向こうへ消えてしまった。

 

 「……?」

 

 悠仁はぽかんとその方向を見つめた。

 

 あまりにもあっさりした別れだった。名前も聞いていないし、どこから来たのかも分からない。ただ怪しい本を売りつけて、風のように去っていった。

 

 だが小学1年生の虎杖悠仁にとって、そんなことはそれほど重要ではなかった。

 

 「世界を救う武術か〜」

 

 悠仁はベンチに座ったまま、手の中に残った本を改めて眺めた。破れた表紙、黄ばんだ紙、擦り切れた角。どう見ても古くて怪しい冊子だが、それでも少年の胸は高鳴っていた。

 

 表紙をめくる。

 

 中にはぎっしりと漢字が並んでいた。

 

 小学校1年生の悠仁には、ほとんど読めない。意味どころか、どこで文章が区切れているのかすら分からないほどだった。

 

 「うわ、わけわかんねぇ……」

 

 だが完全に理解できないわけではない。

 

 ページのあちこちには絵が描かれていた。人が足を踏み込み、腕を伸ばし、掌を突き出している動きの図。まるで漫画のコマのように、順番に動作が並んでいる。

 

 それだけは、はっきりと分かった。

 

 「これ、真似すればいいのか?」

 

 悠仁はベンチから立ち上がり、近くの砂場の前へ歩いていく。薄暗くなった公園の中で、本を片手に持ちながらページを覗き込んだ。

 

 絵には、腰を落として足を踏み込み、片手を前へ突き出す姿が描かれている。

 

 悠仁はそれを見ながら同じように足を開いた。

 

 地面をぐっと踏む。

 

 腕を伸ばす。

 

 掌を前へ突き出す。

 

 「……はっ!」

 

 小さな気合いと共に掌を押し出した。

 

 もちろん何も起きない。

 

 空気が揺れることもなく、衝撃波が飛ぶわけでもない。ただ夕暮れの冷たい空気が掌に触れただけだった。

 

 だが悠仁は落胆しなかった。

 

 むしろ顔を輝かせる。

 

 「よーし!最強だー!」

 

 少年はそう叫び、本を胸に抱きしめた。もし本当に強くなれるなら、それだけで十分だった。何日かかってもいいし、何年かかってもいい。毎日やればきっとできるようになる。子供の単純な確信が、胸の奥でぐんぐん膨らんでいた。

 

 悠仁は勢いよく走り出した。

 

 公園の出口へ向かって一直線に駆ける。砂を蹴り、遊具の影を抜け、夕闇の中をまっすぐ家へ向かった。腕の中には、たった今買ったばかりの古びた冊子。

 

 如来神掌。

 

 それがどんな武術なのか、どれほど恐ろしい力を持つのか、まだ少年は何一つ知らない。

 

 だがこの日、この瞬間から、虎杖悠仁の人生は確実に変わり始めていた。

 

 そして10年後──

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