武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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でも悠仁みたいに爆散しないなぁ

 

 

 

 

 五条悟は、補助監督である伊知地潔高の運転する車の後部座席に身を預けながら、静かに夜の道を進んでいた。任務はすでに終えている。つい先ほどまで対峙していた呪霊は跡形もなく祓われ、現場に残るのは僅かな残穢と、焼け焦げた空気の名残だけだった。普段であればそのまま自身の術式を用いて帰路につくところだが、この日は気まぐれに伊知地の運転する車へと乗り込み、移動という過程そのものを楽しむように時間を使っていた。

 

 車内は静かだった。

 

 エンジン音とタイヤがアスファルトを擦る低い振動だけが、規則正しく空間を満たしている。五条はその中で一冊の冊子を手に取っていた。表紙は擦り切れ、紙は黄ばんでおり、保存状態としては決して良いとは言えない。だがその中身に目を通す彼の表情には、珍しく純粋な興味の色が浮かんでいる。

 

 如来神掌。

 

 武術。

 

 術式ではない。

 

 それでいて、術式に近い現象を引き起こす。

 

 五条の思考はそこに向いていた。

 

 「確かこの後、学長とのお話がありましたよね?まだ少し時間はありますけど……どこか寄りますか?」

 

 運転席から伊知地が声をかける。慎重で控えめな口調はいつも通りであり、必要以上に踏み込むこともなく、しかし必要な確認は怠らない。

 

 「ん、いやいいよ。このまま——」

 

 そう答えかけた瞬間、五条の意識が外へと向く。

 

 違和感。微細なもの。

 

 だが確実に存在する。

 

 空気の密度が、ほんの僅かに変わった。

 

 気配。呪力。

 

 隠しているつもりの“何か”。

 

 五条は言葉を途中で切り、冊子を懐へと戻す。

 

 「……やっぱりここで降りるわ」

 

 軽く言う。だが、その判断に迷いはない。

 

 「えっ?ここで降りるんです?え?何か試してます?僕がここで止めて大丈夫なやつですか?もし違ったら殴られる的な……」

 

 伊知地が一瞬戸惑いながらも、ブレーキを踏みつつ言葉を重ねる。その声には若干の焦りが混じっているが、手の動き自体は正確で、車は滑らかに減速していく。

 

 「殴らないよ。ほら行った行った」

 

 五条はドアを開け、外へと降り立ちながら軽く手を振る。その態度はあまりにも自然で、まるでただの寄り道でもするかのような軽さだったが、その視線はすでに別の一点へと向けられている。

 

 伊知地は一瞬だけ迷いを見せたが、すぐに頷き、アクセルを踏む。車は再び動き出し、やがて夜の道の先へと消えていった。

 

 残されたのは、五条一人。

 

 ポケットに手を突っ込み、特に構える様子もなく、その場に立つ。

 

 夜。静寂。

 

 そして——

 

 その背後の空。満月が浮かぶその白い光の前に、影が差す。

 

 次の瞬間。

 

 それは落ちた。一直線に。空気を裂き、重力を叩きつけるようにして。

 

 五条の背後、地面へ。

 

 轟音。

 

 衝撃。

 

 アスファルトが蜘蛛の巣状にひび割れ、その中心が陥没する。周囲の地面が持ち上がり、破片が弾け飛び、遅れて低い地鳴りが周囲へと広がっていく。その衝撃に伴い、空気の温度が一気に上昇し、周囲の空間が歪むほどの熱が発生する。

 

 だが、五条は振り返るだけだった。

 

 「君、何者?」

 

 軽い声音。

 

 問いかけというより、確認。

 

 そこに警戒や焦りはない。ただ事実として“現れたもの”を認識しているだけだ。

 

 落下したそれは、ゆっくりと姿を現す。

 

 歪な体躯。頭頂に火山のような構造を持ち、内部で煮え立つような呪力を宿す存在。

 

 特級呪霊——漏瑚。

 

 「ヒャアッ!!」

 

 甲高い声を上げながら、漏瑚は間髪入れず腕を振るった。その手から放たれた何かが、五条の身体をかすめるようにして背後へと飛び抜け、コンクリートの壁へと激突する。

 

 それは単なる投擲物ではなかった。

 

 壁に触れた瞬間、まるで生き物のように張り付き、形を変える。

 

 歪な穴。

 

 火山の噴出口にも似た構造。漏瑚の頭部にあるそれと同質のもの。

 

 そして、次の瞬間。

 

 そこから、爆熱が噴き出した。

 

 炎ではない。熱そのものが奔流となって吐き出される。

 

 空気が焼ける。地面が溶ける。

 

 視界が白く染まるほどの高温が一瞬で周囲を覆い尽くし、五条の立つ位置ごと飲み込んだ。アスファルトは融解し、液体のように崩れ、周囲に生えていた木々は一瞬で炭化し、形を保つことなく崩れ落ちる。

 

 全てを焼き尽くす熱。

 

 逃げ場はない。

 

 直撃。

 

 完全な命中。

 

 ——のはずだった。

 

 「存外、大したことなかったな」

 

 漏瑚は、自身が放った爆熱の余波が渦巻く中心を見据えながら、低く言い放った。吐き出された炎は周囲一帯を焼き尽くし、アスファルトは融解して波打ち、空気そのものが歪むほどの高温が未だその場に留まっている。常であれば、対象は跡形もなく消し炭と化しているはずだった。

 

 だが、その炎がゆっくりと晴れていく。

 

 煙と熱の幕が裂けるようにして開き、その奥にあったものが露わになる。そこに立っていたのは、焼けることも、崩れることもなく、まるで最初から何も起きていなかったかのように佇む男の姿だった。

 

 「ばぁ!ビックリした?誰が大したことないって?」

 

 口元に手を当て、わざとらしく驚かせる仕草をしながら現れたのは五条悟だった。その声色には緊張の欠片もなく、むしろ遊びの延長のような軽さがある。炎に包まれたはずの場所から無傷で現れたという事実と、その態度の乖離が、場の異様さを際立たせていた。

 

 「小童め……」

 

 漏瑚が低く唸る。だがその内側では、単なる苛立ちとは別の感覚が生まれていた。目の前の存在は明らかに異常だ。呪霊である自分と対等、あるいはそれ以上に“存在として成立している”。

 

 (呪霊のくせにしっかりコミュニケーションがとれる。その上この呪力量——未登録の特級か)

 

 五条は目隠し越しの六眼で漏瑚を観察しながら、静かに思案する。その視界に映るのは単なる外見ではない。呪力の総量、質、循環、放出の速度、その全てが明確に捉えられている。

 

 特級。それも、既存の枠に収まらない類。

 

 「特級はさ、特別だから特級な訳。こうもホイホイ出てこられると調子狂っちゃうよ」

 

 軽口のように言うが、その言葉の裏には事実認識がある。特級という存在は本来、例外であるはずのものだ。それが目の前に当たり前のように現れている状況そのものが、すでに異常だった。

 

 「矜持が傷ついたか?」

 

 漏瑚が嘲るように言う。その声には怒りと同時に、相手を測る意図が含まれている。

 

 「いや、楽しくなってきた。それに——試したいことあるんだよね」

 

 五条は肩をすくめるようにして答えた。笑みは崩れない。その目は確かに、目の前の存在を“興味の対象”として捉えている。

 

 「楽しい?試したい?笑わせるなよ小童、死ねぇい!」

 

 漏瑚の頭頂の火山が激しく脈動する。次の瞬間、その内部から何かが弾けるように飛び出した。小型の存在。だが数は一つではない。次々と、無数に。

 

 火礫蟲。

 

 漏瑚の呪力から生成されたそれらは、空中で軌道を変えながら一斉に五条へと襲いかかる。飛翔速度は速く、軌道は不規則で、単純な回避では捌ききれない数と密度を持っていた。

 

 だが、届かない。

 

 五条の周囲で、それらは一様に静止する。触れる直前で、まるで見えない壁に阻まれたかのように停止し、それ以上一歩も進むことができない。

 

 無下限。

 

 距離そのものを無限に引き延ばし、接触という結果を成立させない絶対的な防壁。

 

 (これ当たるとどうなるんだろうね?)

 

 五条は興味本位で、そのうちの一体へと指先を伸ばす。触れる——正確には“触れようとする”その瞬間。

 

 「アアアアアアアアアアアア!!!」

 

 火礫虫が甲高い奇声を上げた。音そのものが鋭く、耳を刺すように響き、その直後、内部に溜め込まれていたエネルギーが一気に解放される。

 

 爆発。

 

 閃光と熱が瞬間的に膨張し、周囲の空気を弾き飛ばす。

 

 (うるさ!)

 

 五条はわずかに顔をしかめながら、その場から軽く跳び上がる。爆発の余波を避けるというより、単純に距離を取っただけの動きだったが、その軌道は無駄がなく、次の状況を見据えた位置取りになっている。

 

 上空、俯瞰、状況の把握。

 

 「音と爆発の二段構え。器用だね」

 

 冷静に分析する。その直後。

 

 地上から一つの影が跳び上がる。

 

 漏瑚だ。

 

 手に炎を纏わせ、一直線に五条の頭部を狙って振り下ろす。その動きには迷いがなく、殺意がそのまま形になったような鋭さがあった。

 

 そうして漏瑚の振るった炎が、一直線に五条の頭部を包み込んだ。爆ぜるように広がる熱は空気を歪ませ、接触した瞬間に対象を焼き尽くすほどの密度を持っている。その炎は確かに命中していた。逃げ場はない。回避も間に合わない。直撃——そう認識できるだけの確かな手応えが、漏瑚の内にあった。

 

 その一瞬の隙を、漏瑚は逃さない。

 

 頭が炎に包まれた五条の背後へと踏み込み、腕を伸ばし、その背中へと触れる。接触。それは確実な“結果”だ。無下限をすり抜けたのではない。五条の意識が前方へ向いている、その刹那の空白を突いた侵入だった。

 

 「まだまだ」

 

 低く呟き、追撃へと移る。触れた以上、ここから先は焼き尽くすだけだ。内側から、骨ごと、存在ごと消し飛ばす。

 

 だが、その動きが完結するよりも早く。

 

 間髪入れず、五条の腕が動いた。

 

 一瞬の瞬きの間に伸びた手が、漏瑚の腕を正確に掴む。迷いもズレもない、確定した軌道での把握。そこに焦りや無理は一切なく、まるで最初からその位置にあると分かっていたかのような自然さだった。

 

 「な!?」

 

 漏瑚の動きが止まる。掴まれた腕から逃れる前に、状況が一段階先へ進む。

 

 「いや、もう終わりだね」

 

 五条の声は変わらない。軽い。だが、その言葉の意味は決定的だった。

 

 そのまま、掴んだ腕を起点に身体を引き寄せ、間合いを完全に掌握する。距離が消える。逃げ場がない。防御も間に合わない。

 

 そして。

 

 拳が放たれる。

 

 一直線。

 

 漏瑚の胴体へ向けて。

 

 だが、その動きの中で、五条の意識は別のものをなぞっていた。

 

 (冊子にはこう書いてあった——()()()()如来掌。力を打つのではなく通す。拳ではなく掌)

 

 思い出すのは、あの汚れた冊子の一節。荒唐無稽に見えた理論。だが、虎杖悠仁の動きを見た今、それは単なる理想論ではないと理解している。

 

 (そして絵の通りにいけば……)

 

 拳が接触する。

 

 瞬間。

 

 五条はそのまま拳を開いた。

 

 打撃ではない。

 

 通す。

 

 表面を叩くのではなく、内側へと流し込む。

 

 拳から掌へ形が変わる。

 

 力の性質が変わる。

 

 外殻を破る衝撃と、その奥へ侵入する流れが、時間差なく重なる。

 

 二重の衝撃。いや、連続した一つの流れ。

 

 一の型如来掌。

 

 「グボッ!!」

 

 漏瑚の身体が歪む。表面だけではない。内部から押し広げられるようにして、構造そのものが崩れる。衝撃は外へ逃げず、内側へと浸透し、骨格を軋ませ、呪力の核へ直接干渉する。

 

 爆発ではない。崩壊でもない。

 

 “通された”。

 

 その結果としての破壊。

 

 漏瑚の身体が大きくのけ反り、次の瞬間、地面へと叩きつけられるように吹き飛んだ。融解したアスファルトを抉りながら転がり、ようやく動きを止める。

 

 静寂が一瞬、戻る。

 

 五条はその場に立ったまま、軽く手を振るようにして掌を戻す。その動作には力みがなく、今の一撃が全力ではないことを示していた。

 

 「……なるほどね」

 

 小さく呟く。

 

 その視線は、ただ倒れた漏瑚へと向けられているのではない。

 

 “技”そのものへと向いていた。

 

 「でも悠仁みたいに爆散しないなぁ」

 

 五条は空中に立つようにして静止し、視線だけを落として倒れ伏す漏瑚を見据えながら呟いた。その声音は軽く、どこか興味深げでありながらも、目の奥では確かな検証が進められている。先ほど放った一撃は確実に内部へ通り、構造を破壊するだけの威力を持っていたにも関わらず、虎杖悠仁が行うそれとは決定的に何かが違っている。その差異を、五条は戦闘の最中でありながら冷静に観察していた。

 

 地面では、漏瑚が腹部を押さえながらゆっくりと身を起こそうとしている。崩壊した肉体は再構築されつつあるが、その動きには明らかな鈍りがあり、先ほどの衝撃が内部にまで到達していることは疑いようがなかった。だが、それでもなお立ち上がるその執念は、特級呪霊たる所以でもある。

 

 「小童がぁぁぁ!!!」

 

 怒号が響く。頭頂の火山が激しく脈動し、怒りに呼応するように呪力が膨れ上がる。周囲の空気が焼け、地面がひび割れ、熱が押し寄せる。だが、その全ては五条へ届く前に、見えない境界で止められていた。

 

 「フフ……でもやっぱり爆散させてみたいよね。あの差は何だろうね、単純な出力じゃない……となると、反転術式のアウトプットかな?でもそれは()()()()()()()

 

 独り言のように言いながら、五条はゆっくりと降下していく。その動きには一切の警戒がなく、相手が反撃してくることを前提にしながらも、それを問題としない絶対的な余裕があった。

 

 漏瑚は歯を軋ませながら五条を睨みつける。怒りだけではない。理解できないものに対する苛立ちと、届かない現実への焦燥が混ざり合い、呪力の波として溢れ出している。

 

 「何をぺちゃくちゃと……消し炭にしてやる!!!」

 

 叫びと同時に、火山口から溢れ出した炎が膨れ上がる。圧縮された熱量が一気に解放され、周囲一帯を飲み込むように広がっていく。その密度は先ほどの比ではなく、触れれば一瞬で形を失うほどの破壊力を持っていた。

 

 しかし。

 

 五条はその炎の中へ、何の躊躇もなく踏み込んだ。

 

 「ここまでやって、まだ理解できないのか?」

 

 炎に包まれながらも、その声は明瞭に響く。

 

 「君の攻撃じゃ、僕に触れることさえできない」

 

 事実を、ただ告げる。

 

 「いいかい?僕の周囲にはね、無限があるんだ。あ、もう分かってるよね?」

 

 軽い調子。だが、その意味は絶対的だった。

 

 次の瞬間。

 

 五条の姿が“消える”。

 

 いや、消えたのではない。

 

 距離が消えた。

 

 無拍子。

 

 踏み込みの予兆も、加速の過程も存在しない。ただ結果として、五条はすでに漏瑚の眼前にいた。無下限呪術によって距離を収束させ、空間そのものを折り畳むことで成立する移動。その挙動は、認識する前に結果が到達する。

 

 (今度は——僕の術式も混ぜてみよう)

 

 五条の内で、試行が切り替わる。

 

 拳を握る。

 

 ただの打撃ではない。

 

 術式。

 

 無下限。

 

 収束。

 

 それらを一つの動作へ重ねる。

 

 振り抜く。

 

 漏瑚は反応できない。視認した時には、すでに拳が存在している。

 

 胴体に着弾。

 

 その瞬間、五条は拳を開き、掌へと変える。先ほどと同じ流れ。だが、その内側には術式が絡んでいる。距離を収束させたまま、衝撃を逃がさず、内部へと圧縮して送り込む。

 

 二重。いや、重なり合った一撃。

 

 外殻を打ち、内側を貫く。

 

 「ガバァッ!!!」

 

 漏瑚の口から音が漏れる。叫びではない。衝撃に押し出された空気が、形を持っただけのもの。

 

 次の瞬間。

 

 胴体に、穴が空いた。

 

 爆ぜたわけではない。

 

 焼かれたわけでもない。

 

 “抜けた”。

 

 内部を貫通し、構造を維持できなくなった結果として、空洞が生まれる。

 

 その穴の縁からは、遅れて熱と呪力が漏れ出し、形を保てなくなった肉体が崩れかける。

 

 「あら、強すぎたか」

 

 五条は軽く首を傾げながら言った。その声音には反省も驚きもなく、ただ純粋な結果確認の色だけがある。

 

 

 「グフッ……おのれぇ……」

 

 漏瑚は歪んだ息を吐き出しながら後方へと跳び退いた。穿たれた胴体の風穴は呪力によって急速に塞がりつつあるが、その再生の過程すら乱れるほどに、先ほどの一撃は内部へ深く侵入していた。単なる損傷ではない。構造そのものを乱された感覚が、肉体の奥に残り続けている。

 

 距離を取る。

 

 逃げではない。

 

 態勢の立て直しだ。

 

 五条悟という存在を、ただの術師として処理することはできないと、すでに理解している。

 

 対面に立つ五条は、まるで何事もなかったかのように空中へと浮かび上がり、そのままゆっくりと漏瑚を追った。急ぐ様子はない。焦りもない。ただ、相手がどこへ動こうと、その全てを把握しているかのような余裕だけがそこにあった。

 

 やがて二人は湖の上で向かい合う。

 

 水面は揺れているはずなのに、五条の足元では波紋すら生じない。漏瑚の足元では熱によって水が蒸発し、白い蒸気が立ち上る。対照的な二つの存在が、同じ場所に立っているという事実そのものが、既に異常だった。

 

 「貴様の術式でさえも……領域内では無意味だろう」

 

 漏瑚は低く言い放つ。その声には怒りと同時に、確信があった。どれだけ個として強かろうと、領域という絶対的な支配空間の中では、術式の優位性がすべてを覆す。必中。回避不能。そこに例外はない。

 

 腹部の傷が完全に塞がる。

 

 再構築が完了する。

 

 そして、掌印を組む。

 

 動きに迷いはない。

 

 ここから先は、個の戦闘ではない。

 

 空間ごと、支配する。

 

 「領域展開!!」

 

 その言葉と同時に、漏瑚から呪力が爆発するように溢れ出した。圧縮されていた熱量が解放され、周囲の空間を押し広げながら侵食していく。現実の構造が書き換えられ、地形が歪み、空間の法則が塗り替えられていく。

 

 

 

 「蓋棺鉄囲山」

 

 

 

 世界が変わる。

 

 湖は消え、地面は赤く染まり、無数の火口が広がる灼熱の大地が顕現する。空は黒く閉ざされ、熱気が重くのしかかる。立っているだけで肉が焼け落ちるほどの環境が、逃げ場なく周囲を覆い尽くした。

 

 五条を含め、全てがその内側に取り込まれる。

 

 必中の領域。

 

 逃げ場のない支配空間。

 

 だが。

 

 「へぇ……領域展開」

 

 五条は、ただ感心したように呟いた。

 

 恐怖も警戒もない。

 

 ただ、興味。

 

 その瞬間、領域の必中効果が発動する。不可避の攻撃が、空間そのものから五条へと押し寄せる。回避も防御も意味を持たないはずのそれは、しかし——

 

 届かない。

 

 五条の周囲で、全てが止まる。

 

 無限。

 

 到達する前に、距離が無限に引き伸ばされる。

 

 結果として、触れられない。

 

 「……なるほどね」

 

 五条は目隠しへと手を伸ばし、ゆっくりとそれを外した。露わになった瞳が、領域の構造そのものを見通す。六眼が捉えているのは、表面的な熱でも圧でもない。この空間を成立させている情報そのものだ。

 

 「領域展開に対して、最も有効な方法を知っているかい?」

 

 軽く言う。

 

 だがその内容は、絶対的な解答だった。

 

 「それはね——こちらも領域展開をする」

 

 掌印を組む。

 

 その動作は簡潔でありながら、無駄が一切ない。形を成した瞬間、呪力が溢れ出す。だがそれは漏瑚のような暴力的な放出ではない。静かに、しかし確実に、空間そのものを書き換えるための“情報”として広がっていく。

 

 押し合う。

 

 領域と領域が。

 

 空間の主導権を巡って。

 

 そして。

 

 「領域展開——」

 

 五条の声が、静かに落ちる。

 

 

 「『無量空処』」

 

 

 その瞬間。

 

 世界が、上書きされた。

 

 

 五条悟の声が落ちた瞬間、その場に存在していた世界の構造が、根本から書き換えられた。漏瑚が展開した灼熱の領域は、圧倒的な熱量と密度をもって空間を支配していたはずだったが、その支配は一瞬で上から塗り潰される。火山も大地も、燃え盛る熱も、全てが意味を失い、代わりに広がったのは、無限の情報が漂う静寂の領域だった。

 

 光がある。

 

 闇がある。

 

 だがそれらは区別されていない。

 

 無数の概念が同時に存在し、同時に干渉し、しかし決して収束しない。認識しようとすればするほど、その過程が無限に分割され、結果へ辿り着くことを拒絶される空間。

 

 それが、五条悟の生得領域。

 

 無量空処。

 

 領域展開に対して最も有効な手段——それは同じく領域を展開し、より洗練された術で上書きすること。呪術の極致である領域展開同士がぶつかった時、その優劣を決めるのは純粋な完成度と練度であり、そこに例外は存在しない。

 

 結果は明白だった。

 

 漏瑚の領域は、抵抗すら許されず消え去った。

 

 その中心で、漏瑚の身体は完全に静止している。瞳だけが僅かに揺れているが、その揺れすらもやがて止まることは明白だった。思考は回転している。だが行動へ至ることができない。無限に分解された過程の中で、全てが停滞している。

 

 その姿を、五条はただ見下ろしていた。

 

 ——そして。

 

 「なんて事があったんだけどさ」

 

 場面は変わる。

 

 呪術高専、学長室。

 

 戦闘を終えた五条悟は、夜蛾正道へと報告を行っていた。テーブルを挟んで向かい合い、湯気の立つ茶が静かに置かれている。その空間は先ほどまでの戦場とは対照的に、落ち着いた静寂に包まれていた。

 

 夜蛾は湯呑みに口をつけ、一口啜ってから視線を上げる。

 

 「未登録の特級呪霊が二体か……それに逃げられたと」

 

 低く、重い声音。

 

 その言葉の裏には、事態の重大さを正確に測る冷静な判断がある。

 

 五条は椅子に深く腰掛け、どこか軽い調子のまま肩を竦めた。

 

 「そうそう。片方は完全に捕まえたと思ったんだけどね。ちょっとした横槍でさ」

 

 本来であれば、決着はついていた。無量空処に囚われた時点で、漏瑚に抵抗の余地はない。実際、五条はそのまま頭部をもぎ取り、領域を解除して情報を引き出す段階へ移行していた。

 

 だが、そこにもう一体の特級呪霊が介入した。

 

 花御。

 

 森の気配を纏うその呪霊が放った花弾による攪乱、その一瞬のズレが状況を変えた。結果として、漏瑚は回収され、取り逃がす形となった。

 

 五条はその詳細をあえて軽く流す。

 

 「まぁでも面白かったよ。ああいうの久しぶりだし」

 

 口調は変わらない。だが、その目は笑っていない。

 

 夜蛾はその様子を見ながら、ゆっくりと湯呑みを置いた。

 

 「……面白いで済ませるな」

 

 短く言う。

 

 だが、その一言で十分だった。

 

 今回の件が、単なる偶発的な事象ではないことは明らかだ。未登録の特級呪霊が複数、意思を持って動き、連携している。その時点で、背後に何かしらの意図が存在していると考えるのが自然だった。

 

 五条は少しだけ視線を上げる。

 

 「何か大きな事が起こりそうな予感がするよ」

 

 軽く言う。

 

 しかし、その言葉には珍しく曖昧さがなかった。

 

 夜蛾は一瞬だけ黙り込み、そして小さく息を吐いた。

 

 「お前の予感は大体当てにならん」

 

 即座に切り捨てる。

 

 「……だが、そうだな。警戒しておくことに損はないか」

 

 続けて言うその言葉は、完全な否定ではなかった。

 

 むしろ、最悪を想定した判断。

 

 五条は口元をわずかに緩める。

 

 「交流会もあるしね」

 

 何気ない一言。だが、その裏には別の意味が含まれていた。

 

 戦力が集まる。人が動く。

 

 そして……

 

 “狙いやすくなる”。

 

 静かな部屋の中で、二人の思考は同じ方向を向いていた。

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