武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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虎杖、如来神掌の使い手……

 

 

 

 映画館ってのは、あんまり縁がない場所だと思う。

 

 そもそも映画自体をまともに観た記憶がほとんどない。爺ちゃんと一緒に暮らしてた頃、テレビで流れてるやつをぼんやり眺めてたことはあるけど、内容までしっかり覚えてるものはほぼないし、気付いたら別のことをしてたってことの方が多かった気がする。今思えば、あの頃は時間の使い方がかなり偏ってた。

 

 朝起きて体を動かして、飯を食って、また修行して、気が付いたら夜になってる。その繰り返しで、娯楽に時間を割くっていう発想自体がなかった。強くなるための時間を削るっていう選択肢が、最初から頭に無かったんだと思う。

 

 ……まぁ、例外はあるけど。

 

 山で拾ったエロ本。

 

 あれは今でも家にちゃんと隠してあるし、ふと思い出すと確認したくなるあたり、自分でもどうかと思うけど、あれはあれで貴重な経験だった気もする。最近は任務続きで全然帰れてないから放置したままだけど、そうなると逆に気になってくるんだよな。

 

 それと同時に、爺ちゃんの仏壇にも手を合わせてないことに気付いて、少しだけ引っかかる。忙しいのは事実だけど、だからって後回しにしていいものでもない。ああいうのは、自分で区切りをつけてやるべきだと思う。

 

 そんなことを考えながら、俺は映画館の前に立っていた。

 

 キネマシネマ。

 

 ここで男子高校生が三人、異様な死に方をした。

 

 資料で見た写真を思い出す。頭部が不自然に潰れたような形になっていて、どう見ても普通じゃない。だけど、ただの惨状って感じでもなくて、無駄な破壊がないというか、余計な痕跡がほとんど残っていない。

 

 呪霊の仕業にしては、妙に引っかかる。

 

 「ではいきましょうか、虎杖君」

 

 隣に立っていた七海さんが静かに言う。

 

 白を基調としたスーツに、整えられた金髪のオールバック、丸眼鏡。立ってるだけで“ちゃんとしてる人”って分かるあたり、この人ほんとに分かりやすい大人だなと思う。五条先生にもこういう落ち着きがあればな、と一瞬だけ思うけど、あの人にそれを求めるのは無理だろうなともすぐに納得する。

 

 「うす」

 

 短く返して、俺たちは中に入る。

 

 館内は当然ながら無人だった。封鎖されてる以上、人がいるはずもないけど、それでもこの静けさは少し違和感がある。普段なら人の気配や音で満たされている場所が、丸ごと切り離されたみたいに静まり返っている。

 

 足音だけがやけに響く。

 

 空気が重いわけじゃないのに、どこか張りついてくるような感覚があるのは、ここに残っている“何か”のせいだろう。

 

 「虎杖君、残穢は見えますか?」

 

 七海さんが横目で確認してくる。

 

 残穢。

 

 呪霊や術式の痕跡。

 

 普通は見えないし、感じ取るのも難しいものだけど、今の俺にはそれがはっきりと分かる。視界に映るというより、空間に残ってる“流れ”をそのまま拾ってる感覚に近い。

 

 視線を巡らせる。

 

 床、壁、空間。

 

 そこに細く続く痕跡がある。

 

 完全に途切れているわけじゃない。むしろ、一定の方向へと引っ張られているみたいに伸びている。

 

 「……あっちに続いてる」

 

 通路の奥を指さす。

 

 残穢だけじゃない。微かに残ってる気配の流れも、同じ方向を指している。片方だけなら偶然もあり得るけど、両方揃ってるなら話は変わる。

 

 「上出来です。追いましょう」

 

 七海さんが短く言う。

 

 その言葉に頷いて、俺は歩き出す。

 

 さっきまでのたこ焼きの匂いはもう完全に消えていて、代わりにここに残っているのは、薄くて、でも確実に感じる違和感だ。ただの呪霊ならもっと荒い痕跡を残すはずなのに、これは妙に統一感がある。

 

 嫌な予感がする。

 

 足を進めるごとに、その感覚は少しずつ強くなる。

 

 静かな館内を進みながら、呼吸を整える。無理に力を入れる必要はないけど、いつでも動ける状態にはしておく。身体の中を巡る“流れ”も、自然と安定していく。

 

 こういう切り替えは、前よりずっとやりやすくなった。

 

 楽しい時間から、仕事の時間へ。

 

 その境目が、はっきりしてきた気がする。

 

 「……さて」

 

 小さく息を吐く。

 

 あとは、この先にいる“何か”を確かめるだけだ。

 

 そうして痕跡を辿っていくと、屋上へと続く扉の前に辿り着いた。通路の奥にぽつんと設置されたその鉄扉は、特別重々しい作りでもないはずなのに、今は妙に圧を持ってそこに存在しているように見える。手前で足を止めた瞬間、ここまで感じていた薄い違和感が一段階濃くなり、まるで境界線を踏み越える直前に立っているかのような感覚が、胸の奥にじわりと広がった。

 

 扉の向こうから流れ込んでくる気配は明確だった。呪霊のものだと即座に分かる嫌な粘つきが空気に混ざっているが、それだけでは終わらない。そこに、確かに別の層が重なっている。人の気配だ。それも、ただ残り香のように漂っているのではなく、現在進行形で“そこに在る”と断言できるほどの輪郭を持っている。

 

 この施設は既に封鎖されていて、人が立ち入る余地はない。だからこそ、この感覚はおかしい。理屈で否定できるはずなのに、感覚の方がそれを否定させてくれない。呪霊の中に人間がいるのか、それとも人間が呪霊に侵食されているのか、どちらとも言い切れない曖昧な状態が、そのまま気配として流れ出している。

 

 その異様さに、胸の奥がわずかにざわついた。

 

 恐怖というほど強いものではないが、直感的に“触れ方を間違えればまずい”と感じる種類の違和感だ。これまで祓ってきた呪霊とは明らかに性質が違う。表面だけを見れば同じように見えても、内側にあるものがまるで別物だと、身体が勝手に理解している。

 

 「いきましょう」

 

 七海さんの声が、静かにその空気を切った。

 

 ドアノブに手をかけたまま、わずかにこちらへ視線を寄越す。その目には迷いがない。状況の異常さを理解した上で、それでも踏み込むと決めている目だ。

 

 「了解」

 

 短く返しながら、呼吸を一つ整える。身体の内側を巡る“流れ”が自然と安定し、余計な緊張を削ぎ落としていく。力を入れすぎる必要はない。ただ、必要な分だけを残しておけばいい。

 

 七海さんが扉を開ける。

 

 次の瞬間、外の光が一気に流れ込んできて、視界が白く弾けた。夕方の西陽が真正面から差し込んでいて、コンクリートの床に反射した光がさらに強く跳ね返る。ほんの一瞬だけ視界が鈍るが、すぐに慣れる。

 

 屋上は駐車場になっていて、広く開けた空間に静けさが張り付いている。風はほとんどなく、空気が淀んでいるせいか、どこか密閉された空間のような重さがある。その中心に——確かに、いた。

 

 「正面に一体、あちらの陰に一体隠れてますね」

 

 七海さんが指差す。

 

 言われる前から分かっていた。気配が濃すぎて、むしろ見落とす方が難しい。

 

 正面に立っている個体へと視線を向ける。

 

 犬のような四足の姿勢を取っているが、その造形は明らかにおかしい。顔は人間に近く、骨格のバランスも獣のそれとは噛み合っていない。手足は長く、無理やり引き延ばされたような不自然な比率で、筋肉の付き方も均一ではない。さらに、頭部からは髪の毛が生えている。その一点だけでも異様なのに、それが全体の歪さと噛み合って、逆に妙な現実味を帯びていた。

 

 そして、腕。

 

 そこに、普通に腕時計が装着されている。

 

 金属の光沢が西陽を反射し、秒針が規則正しく時を刻んでいるのが見える。その“当たり前すぎる動き”が、この異形の中で浮き上がっていて、かえって不気味さを増していた。

 

 気配を改めて捉える。

 

 やはり、混ざっている。

 

 呪霊特有の濁った流れが外側を覆っているのに、その内側にある核は、人間の魂とほとんど変わらない形を保っている。完全に崩壊しているわけでも、別のものに置き換わっているわけでもない。ただ、形を残したまま歪められている。

 

 まるで、無理やり上書きされたみたいだ。

 

 「……気持ち悪いな」

 

 自然と口から漏れる。

 

 見た目の問題じゃない。存在の在り方そのものが歪んでいる。

 

 「『オベ……オーベントウー』」

 

 呪霊が声を発する。

 

 最初はただの音の羅列かと思ったが、よく耳を澄ますと発音自体は人間のそれと同じだ。意味が崩れているだけで、言葉として成立する直前の形を保っている。その中途半端さが、余計に生々しい。

 

 「私は正面を。虎杖君はあちらの陰の呪霊をお願いします」

 

 七海さんが淡々と告げる。

 

 既に意識は戦闘へと完全に切り替わっている。余計な感情は挟まれていないが、その内側にある判断の速さと精度ははっきりと伝わってくる。

 

 「うす」

 

 頷く。

 

 やることは単純だ。

 

 だが、単純じゃない相手だということも分かっている。

 

 「虎杖君、もし無理そうであればすぐに呼んで下さい。私は大人であなたは子供。大人は子供を守る義務があります」

 

 歩きながら七海さんが言う。

 

 その言葉は軽く聞き流せるものではないが、今はそれに対して深く返す余裕はない。

 

 「大丈夫っすよ」

 

 短く返しながら、視線を陰へと向ける。

 

 もう一体の気配。

 

 そちらも同じように歪んでいるのが、距離を取っていてもはっきりと分かる。

 

 七海さんがスーツのボタンを外し、懐から呪布を巻かれた鉈を取り出す。その瞬間、周囲の空気がわずかに張り詰めた。呪具としての圧が、静かに空間へと広がる。

 

 俺も一歩踏み出す。

 

 足裏がコンクリートを捉え、重心が前へと移る。身体の中を巡る“流れ”が自然と整い、無駄な力が抜けていく。視界の中で、余計な情報が削ぎ落とされ、必要なものだけが残る。

 

 胸の奥のざわつきは消えないままだが、それを無理に消す必要もない。

 

 そのまま抱えた状態でいい。

 

 距離を詰める。

 

 陰の奥に潜むもう一体へと、迷いなく踏み込んだ。

 

 距離を詰めると、相手は明確にこちらを認識した。

 

 その瞬間だった。

 

 呪霊が、まるで強い光でも浴びたかのように、びくりと身体を震わせて一歩、二歩と後退る。その動きは攻撃のための間合い取りではなく、明確に“距離を取ろうとする”それで、敵対対象に対して見せる反応としてはどこか噛み合っていなかった。

 

 「……なんだ?」

 

 思わず眉を寄せる。

 

 夕方の西陽が横から差し込んでいるせいで視界が明るいのは確かだが、それだけで呪霊がここまで露骨に退く理由にはならない。むしろ、これまで対峙してきた連中は光だろうが音だろうが関係なく、ただ獲物として飛びかかってくるだけだった。

 

 今、目の前にいるこれは違う。

 

 俺を見て、怯んでいる。

 

 理由が分からないまま一歩踏み込むと、さらに一歩分だけ距離を空けるように後退る。その動きはぎこちなく、しかし確かに“避けている”という意思があった。

 

 その時、背後から七海さんの声が届いた。

 

 「虎杖君!君は幾つか死線を潜り抜けたと聞きました。でもそれで大人になったわけじゃない」

 

 振り向かずとも分かる距離で、落ち着いた声音が届く。

 

 戦闘の最中にしては妙に落ち着いた調子で、内容もどこか戦いとは無関係に聞こえるが、その実、意識の置き方を調整するような言葉でもあった。

 

 「枕元の抜け毛が増えたり、お気に入りの惣菜パンがコンビニから消えたり……そういう小さな絶望の積み重ねが、人を大人にするんです」

 

 ……いや、今それ言うのか。

 

 内心で思わずツッコミを入れる。

 

 言っていること自体は理解できるし、むしろ妙に実感のある話だとも思うが、戦闘に入る直前のタイミングで語る内容としてはかなり独特だ。普通ならもっと直接的な注意とか指示が飛んできそうなものなのに、この人はそういうことを一切しない。

 

 けれど、そのおかげか、張り詰めていた意識がほんのわずかに緩む。

 

 無駄な力が抜ける。

 

 戦闘に集中するための余白が、自然に確保される。

 

 「……なるほど」

 

 短く返す。

 

 それ以上の言葉は今は必要ない。

 

 意識を目の前へ戻す。

 

 まだ距離を取ったままこちらを見ている呪霊に向き直り、その輪郭を改めて捉え直す。歪んだ身体の中に、確かに残っている人間の気配。その両方が混在した状態が、見れば見るほど違和感を強めていく。

 

 呼吸を整える。

 

 身体の内側を巡る“流れ”に意識を向けると、それは自然と安定し、余計なざわつきを押し流していく。指先から足先まで、無駄な力が抜け、必要な部分だけが静かに残る。

 

 両手で印を組み、重心を落とす。

 

 構える。

 

 その瞬間、呪霊の反応が変わった。

 

 「『タスタスタスケテ!!!』」

 

 叫び声。

 

 今度は明確な言葉として耳に届いた。

 

 懇願だ。

 

 それと同時に、呪霊がこちらへと飛びかかってくる。先ほどまで後退っていた動きとは打って変わって、衝動的で制御の利いていない突進だった。

 

 だが、その軌道は読みやすい。

 

 真正面からの単純な突撃。

 

 半歩だけ身体をずらす。

 

 足運びを最小限に抑え、接触の瞬間を外すことで、相手の勢いをそのまま横へ流す。視界の端で、歪な腕が空を切るのが見えた。

 

 ガラ空きになる背中。

 

 そこへ、掌を当てる。

 

 叩き込むのではなく、通す。

 

 体内を巡る“流れ”に合わせて、力を一点に集め、そのまま相手の内側へと滑り込ませるように送り込む。衝撃は最小限に抑えられているが、内部には確実に届く形だ。

 

 「『アァ……ありがとうございます……』」

 

 ……は?

 

 思考が一瞬止まる。

 

 今のは、はっきりと意味の通る言葉だった。

 

 感謝。

 

 祓われる直前に、そんな言葉を口にする呪霊なんて、これまで一度も見たことがない。

 

 掌に伝わる感触も、これまでとは違っていた。消えていく感覚の中に、どこか“軽くなる”ような感触が混じっている。まるで解放されたみたいな、そんな印象が一瞬だけ残る。

 

 「……なんだ今の」

 

 自然と呟きが漏れる。

 

 理解が追いつかない。

 

 これが呪霊だというなら、あまりにもおかしい。

 

 だが、その疑問に被せるように、頭の奥から響く声があった。

 

 「『クククッ……ハーッハッハッハッハ!!!』」

 

 宿儺の笑い声。

 

 抑える気もなく、ただ愉快そうに響くその声が、余計に状況の異常さを際立たせる。

 

 「……何がおかしいんだよ」

 

 内心で返す。

 

 だが、宿儺は答えない。

 

 ただ笑っている。

 

 その笑いが、これから先にある何かを示しているようで、胸の奥に残っていたざわつきが、少しだけ形を持ち始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 家入硝子。

 

 呪術高専に所属する医師であり、国内でも数少ない反転術式をアウトプット可能とする存在であり、同時に現代最強の呪術師である五条悟、そしてかつて特級呪術師でありながら呪詛師へと転じた夏油傑と同じ時代を過ごした人間でもある。

 

 その立場は単なる医療担当に留まらず、呪術界における“例外”の観測者としての側面も持っていた。通常の術師では扱いきれない現象、あるいは理論の外側にある事象に対し、淡々と向き合い、解析し、そして必要とあれば処理する。それが彼女の役割であり、また日常でもある。

 

 そんな家入の元へ、一体の“呪霊の遺体”が運び込まれてきた。

 

 事前に七海建人から受けていた連絡は簡潔なものだった。「写真に写る呪霊です。調べてみて下さい」——それだけだが、その短い一文の中に含まれている異常性は、家入にとって十分に察するに足るものだった。

 

 検死室の無機質な空気の中、金属製の台の上に遺体が乗せられる。白い布で覆われたその輪郭は、人型とも獣型とも判別し難い歪な形状をしており、布越しに滲む血の色が、僅かにその異質さを強調していた。

 

 家入はその時点で違和感を覚えていた。

 

 呪霊は基本的に“遺体”という形を残さない。核が祓われた時点でその構造は崩壊し、肉や血に見えるものが一時的に飛散することはあっても、やがてそれらは呪力の残滓ごと消失する。それが呪霊という存在の前提であり、例外は極めて少ない。

 

 だが、今目の前にあるそれは違う。

 

 消えない。

 

 崩れない。

 

 “そこに在り続けている”。

 

 その事実だけで、既に通常の枠組みから逸脱していると断言できた。

 

 「どれどれ」

 

 ()()()()()()()()()()()を咥えたまま、家入は手袋を嵌める。無駄のない動作でメスを手に取り、白布の端を掴んで静かに引き剥がした。

 

 現れたのは、犬のような四足の姿勢を取ったまま硬直している異形だった。だがその表面の造形は不自然に人間的で、顔の骨格や四肢の構造には、明確に“人間だったもの”の痕跡が残っている。

 

 家入は迷いなくメスを入れた。

 

 皮膚を裂き、筋繊維を断ち、内部へと進む。

 

 抵抗感。

 

 それは呪霊のそれではない。

 

 「……これは」

 

 刃の先で露わになった内部構造を見て、わずかに目を細める。

 

 心臓、肺、血管、神経。

 

 並びも配置も、ほぼ完全に人間のそれと一致している。形状は歪み、引き延ばされ、無理やり組み替えられているが、構成そのものは変わっていない。単なる模倣ではなく、元の構造をそのまま改変した形だ。

 

 骨も同様だった。

 

 関節の位置、骨密度、構造的な連結。

 

 すべてが“人間の骨格”を基準にしている。

 

 呪霊がこのような構造を持つことはあり得ない。

 

 これは“呪霊の形をした何か”であって、呪霊そのものではない。

 

 家入はそのまま手を頭部へと移した。

 

 専用の器具で頭蓋を固定し、メスを入れ、慎重に開いていく。骨を分離し、内部を覗き込んだ瞬間、わずかに空気が変わった。

 

 「……」

 

 脳。

 

 その構造もまた人間のものと一致している。

 

 だが、脳幹付近に明確な異常が見られた。

 

 圧迫、変形、そして“意図的な干渉”の痕跡。

 

 自然な損傷ではない。事故でも外傷でも説明がつかない形で、特定の領域だけが歪められている。意識や自我の制御に関わる部分を直接弄られたような、不自然な改変だった。

 

 家入はゆっくりとメスを置く。

 

 手袋を外し、ポケットから携帯を取り出した。

 

 数回のコール音の後、相手が出る。

 

 「『はい、七海です』」

 

 「家入だけど、届いた検死体……これ元人間だね」

 

 間を置かずに告げる。

 

 断定だった。

 

 「『やはりそうですか……虎杖君もそう言っていました。人間の気配がすると』」

 

 七海の声は落ち着いているが、その奥にある緊張は僅かに伝わってくる。想定はしていたのだろうが、確証を得たことで状況の重さが一段階上がった。

 

 「虎杖が?」

 

 家入はわずかに眉を上げる。

 

 「へぇ……今そこにいる?」

 

 「『います』」

 

 短く返ってくる答えに、家入は口元だけで僅かに笑った。

 

 「じゃあ替わって」

 

 その声音は軽いが、次に何を確認するかは既に決まっている。

 

 「コイツらの死因はザックリ言うと“体を改造された事によるショック死”だ。君が殺したんじゃない、その辺り履き違えるなよ」

 

 「『あざっす』」

 

 家入硝子は携帯を耳から離すと、そのまま無造作にポケットへと押し込み、検死台の上に横たわる異形へと視線を戻した。照明に照らされたその肉体は、もはや“呪霊”と呼ぶにはあまりにも生々しく、かといって人間と断じるには形が歪み過ぎている。中途半端に残された人の構造が、逆にその異常性を際立たせていた。

 

 わずかに息を吐き、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 咥えていたタバコの先端に火を点けると、橙色の火が一瞬だけ揺れ、そのまま安定した。

 

 次の瞬間だった。

 

 家入の肺がわずかに膨らむ。

 

 それだけで、空気の流れが変わった。

 

 周囲の気圧が一瞬だけ引き寄せられるように歪み、タバコの先端で燃えていた火は、まるで引きずり込まれるように内部へと吸い込まれていく。燃焼は途中で止まることなく、むしろ加速するかのように進行し、葉の部分が一気に焼け落ちる。

 

 煙が立ち上る間もない。

 

 ほんの一吸い。

 

 それだけで、タバコは根元まで焼き尽くされ、灰だけが残った。

 

 家入はそのまま、ゆっくりと息を吐き出す。

 

 吐き出された煙は、通常のそれとは明らかに違っていた。拡散することなく、一本の流れとなって前方へと押し出される。まるで形を持ったかのように直進し、空気を押し退けながら一直線に伸びていく。

 

 そして——

 

 鈍い音とともに、検死室の壁に細い亀裂が走った。

 

 煙が触れた部分を起点に、蜘蛛の巣のように広がるひび割れ。その現象は一瞬で止まったが、確かに“何かが衝突した”痕跡だけが、そこに残っている。

 

 家入はそれを一瞥するだけで、特に気に留める様子もなく視線を逸らした。

 

 「イライラするね」

 

 ぽつりと零す。

 

 声は低く、抑えられているが、その内側にある感情は明確だった。

 

 怒り。

 

 苛立ち。

 

 だがそれは、目の前の死体に対してではない。

 

 その“原因”に対するものだ。

 

 検死台の上のそれは、もはや何も語らない。ただそこにあるだけの存在だが、その在り方そのものが、何が行われたのかを雄弁に物語っている。人間の構造を維持したまま、意図的に歪め、別の存在へと変質させる。

 

 そこにあるのは、実験にも似た痕跡。

 

 命を素材として扱う行為。

 

 そして、それを可能にするだけの技術。

 

 「……趣味が悪いどころじゃない」

 

 小さく呟く。

 

 再び視線を遺体へと向ける。

 

 脳幹への干渉。

 

 自我の圧殺。

 

 肉体構造の改変。

 

 どれを取っても、一朝一夕でできるものではない。術式か、それに準ずる何かかはまだ断定できないが、少なくとも偶発的に起きた現象ではないことだけは確かだ。

 

 そして——

 

 それに対処しに行っている人間がいる。

 

 家入はわずかに視線を上げた。

 

 天井。

 

 何もない空間。

 

 だが、その先にいるであろう存在を思い浮かべる。

 

 「虎杖、如来神掌の使い手……」

 

 名前を口にする。

 

 あの少年が持つものは、呪術とは異なる系統の力だ。だからこそ、この異常に対してどう作用するのかは未知数だが——少なくとも、見えているものの質は他の術師とは違う。

 

 「しっかりやりな」

 

 短く言い放つ。

 

 それは独り言でありながら、どこかで届くことを前提にした言葉でもあった。

 

 検死室には再び静寂が戻る。

 

 だが、その静けさは先ほどまでのものとは違う。

 

 壁に残ったひび割れと、検死台の上の異形。

 

 それらが示すものは、これから先に起こる事態の輪郭を、既に十分過ぎるほど浮かび上がらせていた。

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