武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
下水道。
街の地下深くに広がるその空間は、地上の喧騒とは完全に切り離された別世界だった。湿った空気は重く淀み、壁面を伝う水滴が一定の間隔で滴り落ちる音だけが、静寂の中に規則的なリズムを刻んでいる。鼻を刺すような腐臭と、鉄錆に似た匂いが混ざり合い、長時間留まれば感覚が鈍るほどの不快さを持っていた。
人が歩くことを想定されていない通路。
光も届かず、ただ最低限の機能だけが維持されている場所。
そんな環境の中に、二つの存在があった。
一つは呪霊。
一つは人間。
「やぁ真人、調子はどうかな?」
声をかけたのは、袈裟を纏った男だった。
夏油傑。
かつて特級呪術師として呪術界の頂点に立ちながら、その思想を理由に離反し、呪詛師へと転じた存在。現在では多くの呪霊を従え、人間社会そのものを敵視する危険人物として認識されている。
その声音は穏やかで、まるで旧知の友人に語りかけるかのような軽さを含んでいた。
「ぼちぼちだよ。実験も上手くいってるし、宿儺の器への揺さぶりもそれなりにイケてる感じかな」
応じたのは、無造作に地面へと腰を下ろしていた呪霊——真人だった。
白く長い髪を揺らしながら、掌の上で小さな何かを転がしている。その動作は遊戯に近い軽さを帯びているが、そこで扱われているものは決して軽い存在ではない。
それは人間だった。
真人の術式『無為転変』によって魂の形を直接改変され、原型を留めないほどに歪められた存在。肉体と魂の対応関係を強制的に書き換えられた結果、もはや人としての機能も尊厳も失っている。
その小さな塊は、かすかに震えながら、意味を成さない声を漏らしていた。
だが真人はそれを気にする様子もなく、指先で転がし続ける。
「そうか……順調そうで何よりだ」
夏油は軽く頷く。
その視線は、真人の手の中にある“それ”を一瞥しただけで、特に言及することはなかった。彼にとっても、それは既に価値のある存在ではないのだろう。
「で、今日はどうしたの?わざわざこんなとこまで来るなんてさ」
真人が顔を上げる。
その表情には好奇心が浮かんでいたが、警戒の色は薄い。夏油に対しては、ある種の信頼のようなものを置いているのが見て取れる。
「少しね、警告しておこうかと思ってね」
夏油はそう言って、わずかに視線を細めた。
その空気が、ほんの一瞬だけ変わる。
軽い会話の延長に見えていたやり取りの中に、わずかな重みが混ざる。
「いや、当初の計画に変更はないんだけど……虎杖悠仁には、少し気をつけた方がいい」
その名を口にした時、空気の温度がわずかに下がった。
真人は一瞬だけ動きを止める。
だがすぐに、また手の中のそれを転がし始めた。
「え?そうなのか?でも宿儺の器ってだけでしょ?それ以外はただの人間じゃないの?」
声音は軽い。
あくまで興味の延長としての問いだった。
「いや、強いよ」
夏油は短く答える。
その一言に、余計な装飾はない。
だが、それだけで十分だった。
普段の彼であれば、もう少し言葉を重ねる場面でも、あえてそれ以上は語らない。その沈黙が、逆にその評価の確かさを示していた。
真人は手を止める。
視線がわずかに細くなる。
「……へぇ」
小さく漏らす。
それは驚きというより、興味の方向が定まった時の反応だった。
「まぁ、とにかく気をつけてよ」
夏油はそれだけ言うと、踵を返す。
それ以上の説明も、説得もない。
必要な情報だけを残し、余計な干渉を避けるように、そのまま暗い通路の奥へと歩き去っていく。その背中はすぐに闇へと溶け込み、気配もやがて完全に消えた。
残されたのは、真人一体。
「ふーん……」
小さく呟く。
手の中の“それ”を再び転がしながら、先ほどの言葉を反芻する。
強い。
気をつけろ。
それだけで、十分に興味を引くには足りていた。
「アイツがあそこまで言うなら、ちょっとくらいは気をつけるかな」
軽く肩を竦める。
だがその声音には、警戒よりも好奇心の方が強く滲んでいる。
「でもさ……やっぱり気になるよね」
視線がゆっくりと上を向く。
地上。
そのさらに先。
宿儺の器。
虎杖悠仁という存在。
「どういう風に壊れるのか」
口元が歪む。
楽しげに。
歪んだ期待を孕んで。
夏油の警告は、確かに届いていた。
だがそれは、抑止にはならない。
むしろ逆に、その興味をより強く刺激する結果となっていた。
この選択が何を招くのか。
その結末を、今この場で理解している者は誰もいない。
ただ一つ確かなのは——
この時点で既に、流れは決定的に動き始めているということだった。
映画館から呪術高専に戻ってきたあとも、頭の中に残っているのは、さっき見た光景だった。
手を見る。
何もついてない。血も、汚れも、痕もない。だけど、あの時の感触だけは妙に鮮明に残っている。掌底を当てた瞬間に伝わってきた内部の手応え、それが崩れていく感覚、その奥で“何かがほどける”ような感触。
そして——
「『アァ……ありがとうございます』」
最後に聞いたあの言葉。耳に残って離れない。
呪霊を祓ったはずなのに、感謝された。意味が分からない。今までそんなことは一度もなかったし、これから先もあるとは思っていなかった現象が、目の前で起きた。
家入さんは言っていた。あの状態に変えられた時点で既に“死んでいる”と。だから俺が殺したわけじゃないと。理屈としては分かる。
分かるけど——
「……なんか、すっきりしねぇ」
小さく呟く。
胸の奥に、引っかかりが残っている。
割り切れない。
割り切ろうとすればできるのかもしれないけど、それをするのも違う気がする。あの感覚は、なかったことにしていいものじゃない。
「虎杖君、状況を整理しましょう」
七海さんの声で、意識が引き戻される。
「あ、うっす」
顔を上げる。
いつの間にか部屋に戻っていて、七海さんはホワイトボードの前に立っていた。伊知地さんも隣にいて、手際よく資料を並べている。現場の空気とは違って、ここは現実的な整理の場だ。
視線をホワイトボードへ向ける。
地図、写真、メモ、線で結ばれた痕跡。
バラバラだった情報が、一つの流れとして繋がり始めているのが分かる。
「これは“窓”が集め報告してくれたものです。残穢や行方不明者、変死者の傾向から、“ある程度”犯人のアジトが絞れました」
七海さんが指で示す。
その動きは無駄がなく、説明も簡潔だ。余計な感情が挟まらない分、情報がそのまま頭に入ってくる。
地図上に示されたポイント。そこに向かって収束していく線。確かに、中心は見えてきている。
「なら、そこに行って犯人を叩き潰せば終わりってわけだ」
自然と身体が動く。
椅子から立ち上がりながら口にする。
今の流れなら、それが一番早い。余計な遠回りをする理由もないように見える。だが、七海さんは首を横に振った。
「いえ……まだ“ある程度”の段階です。それに、少し気になる点もあります」
落ち着いた声。急がない。焦らない。
確実に詰める。その姿勢が、そのまま言葉に乗っている。
「映画館では亡くなった男子高校生三名の他に、もう一人、同じ時間帯に映画を観ていた人物がいます。こちらです」
新たな資料が貼られる。
写真、名前、年齢、住所。
情報が並ぶ。
「吉野順平。被害者三名と同じ高校に通う生徒です」
共通点。
それだけでも無視はできない。
あの場にいた。
同じ時間、同じ空間に。
「虎杖君には、彼を追って——」
そこまで言いかけたところで。
「七海さん、いいですか?」
伊知地さんの声が入る。
珍しい。
この人がこうやって話を遮るのは、あまり見たことがない。
七海さんもそれを理解しているのか、特に咎めることなく視線を向けた。
「どうしましたか、伊知地さん」
「吉野順平は、私が調べておきます」
言い切る。
その声には、いつもの控えめな調子の中に、はっきりとした意志が混ざっていた。
「七海さんと虎杖君は、判明しているアジトへ向かって下さい」
部屋の空気が一瞬だけ変わる。
役割の分担。
選択。
どちらを優先するか。
俺はそのやり取りを黙って見ていた。
どっちが正しいとかじゃない。
ただ——
どっちも、必要な動きだと思った。
そうして俺と七海さんは伊知地さんの運転で現地へと向かった。車内は妙に静かで、エンジンの振動とタイヤがアスファルトを滑る音だけが一定のリズムで続いている。窓の外に流れていく街の光は、昼間とは違ってどこか薄っぺらく見えて、ビルの隙間や路地の奥に溜まった暗がりの方が、逆に現実味を持ってそこにあるように感じられた。
映画館での一件からまだ3時間ほどしか経っていないはずなのに、頭の中ではあの光景が何度も反芻されていて、時間の感覚が少しだけ歪んでいるような感覚があった。
膝の上に置いた手に視線を落とすと、当然そこには何も残っていない。血も汚れも、触れた痕跡すら見えないのに、意識を向けるとあの時の感触だけはやけに鮮明に蘇る。掌底を当てた瞬間に伝わってきた内部の崩れ方、抵抗が抜けていく感覚、そして最後に残った“ほどけるような軽さ”。それと同時に聞こえた言葉まで、嫌にくっきりと思い出せるのが、余計に厄介だった。
「ではここで」
車がゆっくりと減速し、路肩に寄せられて止まる。エンジンが止まった瞬間、車内の音が一段と静まり返り、現実へと引き戻される感覚があった。
「伊知地さん、吉野順平をお願いします」
七海さんが淡々と告げると、伊知地さんも短く頷いて応じる。役割は既に決まっていて、そこに迷いはない。俺はドアを開けて外に出たが、夜の空気は思っていたよりもひんやりとしていて、肌に触れた瞬間に体温との差がはっきりと分かる。9月とはいえ、この時間帯になれば昼間の熱はほとんど抜けていて、代わりに静かな冷たさが周囲に満ちていた。
周囲を軽く見回すと、表面上は何も変わらない街の一角に見える。だが足元に意識を落とした瞬間、地面の下からじわりと滲み上がる気配がはっきりと感じ取れた。映画館で感じたものと同質で、それよりもさらに濃く、重たく、明確な“異物”としてそこに存在している。
「あそこから入れます」
七海さんが示した先には、下水道へと続く入口があった。金属製の蓋が外され、その下に続く梯子が闇の中へと伸びている。その開口部を見下ろした瞬間、そこから流れ出してくる空気の質が明らかに異なることが分かり、自然と呼吸が浅くなる。
先に七海さんが降り、その後を追うように俺も梯子へと足をかける。一段一段と降りていくにつれて、地上の空気が遠ざかり、代わりに湿った匂いと淀んだ気配が全身にまとわりついてくる。底に足をつけた時には、もう完全に別の空間へと入り込んだ感覚があった。
その瞬間、はっきりと分かる。
呪霊の気配。
しかも数が多い。点ではなく面で広がっているような濃さで、そこに“いる”というより、この空間そのものに染み込んでいるような感じだった。
「進みましょう」
七海さんが迷いなく歩き出す。俺もそれに続きながら周囲の気配を拾っていくが、進めば進むほどその密度は増していき、やがて“個”として認識できるレベルまで輪郭が浮かび上がってきた。
現れたのは、人の形をした異形だった。歪んだ四肢、不自然に伸びた関節、均一でない筋肉の付き方、そのどれもが本来の構造を無視して捻じ曲げられたような状態で、見た目だけでも十分に異常だと分かる。それにも関わらず、その内側にある気配は確かに人間のものを残していて、呪霊として完全に割り切るにはあまりにも生々しさが残っていた。
「……改造人間か」
自然と口に出る。映画館で見たものと同じだが、数が違う。単体ではなく、群れとして存在している分、異様さも一段と強く感じられた。
だがそれ以上に引っかかるのは、その反応だった。こちらを認識した瞬間、連中は一歩引いた。まるで光を嫌うかのように、あるいは本能的に距離を取ろうとするかのように、明確な後退の動きを見せる。その様子は映画館での一体と完全に一致していて、偶然では片付けられない一致だった。
「……またかよ」
小さく呟きながら、思考を一度止める。理由は分からないが、今はそこに引っ張られるべきじゃない。必要なのは対処であって、解明じゃない。
構える。右手を施無畏印、左手を与願印に組み替えた瞬間、体内を巡る“流れ”が一気に整い、散っていた感覚が一本の線として繋がる。余計な力が抜け、必要な部分だけが残るこの状態は、もはや考えるまでもなく身体に染み付いたものだった。
その瞬間、空気が変わる。暗がりの奥から、複数の気配が一斉に動いたのが分かる。
「『タスケテ!!』『タスタスタスケテ!!』『タスケテ……!!』」
重なり合う声。統一されていないはずなのに、意味だけは揃っている。助けを求める言葉が、濁った響きのまま一斉に押し寄せてくる。その声に引きずられるように、無数の改造人間が崩れた動きでこちらへと殺到してきた。
奥歯を噛む。最悪に近い状況だが、それでも迷っている暇はない。視界に入る動きを捉え、距離と速度を測りながら、最初に対処すべき対象を瞬時に絞る。
「虎杖君」
横で七海さんが鉈を構える。その動きは無駄がなく、既に戦闘に入っていることを示していた。俺も一歩踏み出し、迫り来る異形の群れへと身体を預けるように前へ出る。
この状況でやることは一つだ。目の前の連中を止める。それ以外に、今考えることはない。
「フッ」
息を落とした瞬間、身体が先に動いた。構えを崩さず、そのまま地面を蹴る。踏み込みは音を伴わず、視界の中で距離だけが急激に縮む。目の前で歪な人型がこちらへ飛びかかってくるのが見えたが、その動きがこちらに届くよりも先に、俺の間合いが相手の内側に入り込んでいた。
宿儺の呪力を掴む。引き出すのではなく、自分の中を巡る“流れ”にそのまま組み込むようにして取り込み、負の性質をそのまま裏返す。反転は意識してやるというより、既に身体が覚えている動作に近い。そうして整えた力をそのまま掌へと集約し、飛び込んできた呪霊の胴へ、滑り込ませるように当てた。
衝撃は外へ弾けず、内側へ沈む。抵抗は一瞬だけ存在して、次の瞬間にはほどけるように消えていく。その感触が消えきる前に、相手の輪郭が崩れ始めた。
「『ありがとう』」
まただ。
消えながら、確かにそう言った。しかも涙を流しながらだ。歪んだ顔のまま、感謝を残して消えていくその様子は、さっきと同じで、同じだからこそ余計に引っかかる。呪霊を祓っているはずなのに、助けたみたいな反応をされるこの感覚は、どうにも馴染まない。
次の気配が来る。背後から、横から、複数。
身体を半身にずらし、軌道を外す。突進してきた個体を紙一重でかわしながら、次の動きへと繋げる。視界の中で複数の影が重なり合い、数の多さがはっきりと分かるが、だからといって焦る必要はない。
「……数多いな」
呟きながら、次の個体へ踏み込む。
だが、それだけだ。
この程度の数でどうにかなる相手じゃない。
俺は次々と間合いを詰め、掌で触れるたびに内部へと力を流し込んでいく。直接叩くのではなく、触れた瞬間に崩す。接触と同時に決着がつく感覚は、もはや一連の流れとして身体に染み付いている。一方で、七海さんも無駄のない動きで鉈を振るい、正確に急所を断っていく。動きは最小限で、しかし確実に仕留める。その連携は言葉を交わさずとも成立していて、互いの間合いを侵さず、それでいて隙も生まれない。
崩れる音、断ち切られる音、そして消えていく気配が重なり、やがて通路に満ちていた圧が一気に軽くなる。
そうして、最後の一体が消えた時には、周囲には静けさだけが残っていた。
「虎杖君、やはり強いですね。それが如来神掌という武術ですか」
七海さんが鉈を軽く振って血を払うような仕草をしながら言う。声はいつも通り落ち着いているが、その中にわずかに興味が混ざっているのが分かった。
「そうっすね。七海さんも覚えたい?」
軽く返す。
「えっ、覚えられるのですか、それ」
珍しく少しだけ間の抜けた反応が返ってきた。
「へへっ、学びたければ教えますよ——って、あれ!?」
言いかけて止まる。
そういや俺……冊子、五条先生に渡したままだったわ。完全に忘れてた。頭の中で「あーやらかしたなこれ」と思いながら、なんとも言えない気分になる。
「それにしても、いくら異形、手遅れとはいえ……殺すのは気分が悪いですね」
七海さんがぽつりと漏らす。
その言葉には共感しかなかった。改造された時点で既に死んでいると分かっていても、目の前で動いていたものを斬り伏せる感覚は、完全に割り切れるものじゃない。理屈と感覚が一致しないまま残る違和感は、俺の中にも同じようにある。
「……っすね」
短く返す。
納得しているわけじゃない。けど、否定もできない。そんな曖昧な位置にその感情はある。
「出てくるなら早く出て——」
七海さんが周囲へ向けて声をかけようとした、その時だった。
「いやぁ良かった良かった」
軽い声が、下水道の奥から響いた。
その声と同時に、空気が変わる。
さっきまでの改造人間とは明らかに違う、濃く、重く、それでいて輪郭のはっきりした呪力が、こちらへ向かって歩いてくるのが分かる。圧があるのに、嫌な濁り方じゃない。むしろ“はっきりしすぎている”感じがして、逆に気味が悪い。
「五条悟が来ても困るけど、あんまり弱すぎると実験にならないからさ」
現れたのは、人型の呪霊だった。白い長髪、ツギハギだらけの皮膚、その見た目だけでも異質なのに、立っているだけで周囲の空気が歪むような圧を持っている。少年院で戦ったやつとは、明らかに格が違う。
「君が宿儺のうつ——!?」
そいつが俺を見た瞬間、言葉を途中で止めた。
驚いている。
明確に、俺を見て反応している。
「……なんだ?」
思わず呟く。顔に何かついてるわけでもないはずだが、明らかに普通の反応じゃない。
「虎杖君、気を引き締めて下さい。無理なら逃げても構いません。私が時間を稼ぎます」
七海さんの声が横から入る。
その声音は変わらず落ち着いているが、警戒の密度は一段階上がっているのが分かる。
俺も視線をそいつに向けたまま、静かに呼吸を整えた。
さっきまでの相手とは、明らかに違う。
——これは、本番だ。
真人は焦っていた。
それは戦況が不利だとか、目の前の術師が想定以上に強いだとか、そういう類の焦りではない。もっと根本的な、存在そのものに触れられたような違和感に近い感情だった。両面宿儺の器——虎杖悠仁。その存在を視界に収めた瞬間、真人の知覚する世界に“光”が差し込んだからだ。
真人の術式『無為転変』は魂を直接扱う。肉体ではなく、その奥にある形そのものに干渉する術式である以上、真人にとって“魂の視認”は特別な行為ではない。むしろ呼吸と同じで、そこにあるものは見えて当然だった。だからこそ、これまでに見てきた人間の魂も、改造してきたそれも、すべて理解の範疇に収まっていた。歪み、削れ、捻じ曲がり、形を変える。どれもが扱える対象であり、恐れる理由など一切なかった。
だが——虎杖悠仁のそれは違った。
(なんだよ、あれ……!!)
視界の中心に在るそれは、確かに“人の形”をしている。だが同時に、ただの人間の魂として処理するにはあまりにも異質だった。輪郭は揺らがず、歪まず、異常なまでに明確で、そこから放たれる光が周囲を押し退けるように広がっている。その光は攻撃ではない。ただ在るだけで周囲に影響を及ぼす、存在そのものが発している圧だった。
まるで後光のように。
真人がこれまで作り替えてきた改造人間たちは、その光を前にして本能的に後退していた。命令でもなく、術式でもなく、ただ“近づいてはいけない”と理解してしまったかのような反応で距離を取る。その様子は滑稽であると同時に、普段ならあり得ない現象だった。
だが真人自身は違う。
人の負から生まれた呪霊である以上、恐れという概念は存在しない。理解不能であることと、恐怖は別だ。
「ヒャァッ!」
踏み込む。
地面が軋むほどの勢いで加速し、そのまま一直線に虎杖悠仁へと手を伸ばす。その速度は常人どころか術師であっても反応が追いつかない領域にあり、実際、七海建人の身体は一瞬遅れた。だが——虎杖悠仁だけは違った。
構えたまま、動かない。
避けるでも、防ぐでもなく、ただその接触を受け入れるようにそこに在る。その態度が、逆に真人の感覚をわずかに狂わせた。
指先が触れる。
魂に干渉する。
『無為転変』
術式が発動した瞬間、世界が反転した。
真人が立っていたのは、先ほどまでの下水道ではない。黄金に満たされた空間、水面に浮かぶ蓮の葉、その静謐さの中に明確な異質が混ざる世界だった。空間全体が均一な輝きを帯びているにも関わらず、中心だけが歪んでいる。そこに視線を向けた瞬間、理由は理解できた。
骨の山。
その上に座る存在。
「ほぉ……小僧の魂に触れたか」
両面宿儺。
その存在を認識した瞬間、空気が一段階重くなる。だが真人はそれすらも観察対象として捉えていた。
「お?そうかこうなるか……クックック……面白いものが見れそうだ」
宿儺が笑う。
その声音には明確な愉悦が混じっていた。
同時に、真人の背後に“何か”が立ち上がる。
気配。
いや、それは気配というにはあまりにも巨大で、空間そのものを埋め尽くすような存在感だった。真人が振り向いた瞬間、視界に映り込んだのは、天を覆うほどの巨大な影。
如来。
言葉として認識するより先に、それは“そうである”と理解させられる存在だった。形は曖昧でありながら明確で、輪郭は掴めないのに確実にそこに在る。視界を埋め尽くすその存在は、ただそこに立っているだけで圧を放っていた。
「小僧の魂に触れた報いというやつか……ケヒッ」
宿儺の笑いが響く。
次の瞬間、巨大な如来が触地印を結ぶ。
「う!うわああああああああああ!!!!」
その動作はゆっくりとしたものに見えたが、同時に逃れようのない速度で成立していた。掌が落ちる。世界ごと押し潰されるような圧がかかる。
だが——
その直前で、空間が途切れた。
視界が戻る。
下水道。
湿った空気。
現実。
「離せよ」
声が耳元で響いた。
真人が認識した時には、既に腕を掴まれている。握られているというより、固定されている感覚に近い。逃れようとする前に、そのまま力が加わる。
「!?!?」
理解が追いつかない。
次の瞬間、視界が回転する。
投げられた。
身体が宙を舞い、そのまま地面へと叩き付けられる。衝撃が全身を貫き、遅れて音が響いた。
真人は転がりながら、ようやく自分が“触れてはいけないもの”に触れたのだと理解し始めていた。
宿儺「」