武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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それに……悲しむ人がいます

 

 

 

 

 「撥体っ!!!!」

 

 叫びと同時に、真人の身体から歪な肉塊が膨れ上がった。魂同士を無理やり接合した際に生じる拒絶反応を意図的に引き起こし、その歪みをそのまま外側へと押し出す。膨張したそれは形を成す間もなく裂け、いくつもの顔の断片や四肢の名残を孕んだまま、一つの巨大な肉壁として前方へと押し出された。蠢きながら押し寄せるそれは単なる質量ではなく、内部に複数の魂を閉じ込めたままの異形であり、ぶつかるだけで周囲を巻き込み、押し潰すための“盾”であり“弾”でもあった。

 

 真人は迷わなかった。

 

 その選択は撤退。

 

 理由は単純でありながら、彼にとっては決定的だった。虎杖悠仁の魂から放たれる光、それ自体が理解の範疇を逸脱している。さらに、生得領域()の内側で垣間見たあの存在——言語化できない圧と形を持つ“何か”が、真人の認識に深く焼き付いていた。あれは触れてはいけない領域だと、本能ではなく“魂”が理解してしまった。人の負から生まれた呪霊である彼が、初めて明確な拒絶と危機を感じ取った対象だった。

 

 「ッ!」

 

 肉壁が迫る。

 

 その瞬間、虎杖悠仁の意識は一点に収束していた。

 

 視界に映るのは、ただの異形ではない。そこに込められている“流れ”、歪められた魂の重なり、その奥にある構造が一瞬で繋がる。映画館での違和感、改造人間の反応、消え際に残された言葉。それらが断片ではなく一本の線として繋がり、誰が何をしているのかを理解させた。

 

 ——犯人。

 

 ——出処。

 

 ——そして、“泣いていた”理由。

 

 「許さねぇ」

 

 虎杖の指が静かに組まれる。

 

 掌印。

 

 「第八式——如来掌」

 

 無駄のない動作で形を作り、そのまま前へと突き出す。

 

 「『万仏朝宗』」

 

 音はない。

 

 だが確実に、そこから“何か”が放たれた。

 

 巨大な不可視の掌波。

 

 それは衝撃として広がるものではなく、空間そのものを伝って進む“浄化”の流れだった。瞬時に練り上げられた正の呪力がその中に組み込まれ、触れた対象の内部へと直接作用する。肉壁へとぶつかったそれは、表面を破壊することなく、その内側にある魂へと干渉した。

 

 閉じ込められていた複数の魂が、一斉に揺らぐ。そして安堵する。

 

 歪みがほどける。

 

 無理やり繋ぎ合わされていたものが、本来の形へと戻ろうとする。苦痛に歪んでいた輪郭が静まり、混濁していた“流れ”が澄んでいく。断片的に混ざり合っていた意識が、最後に一瞬だけ整合を取り戻し、そのまま静かに消えていく。

 

 肉壁は崩れない。

 

 だが、その“中身”は既に別のものへと変わっていた。

 

 「う、うわああああ!!!」

 

 真人は叫びながら後退する。

 

 掌波そのものには触れていない。だが、その余波とも言うべき変化を目の当たりにした瞬間、理解してしまった。あれは触れた時点で終わる類のものではなく、存在の在り方そのものに干渉する力だと。

 

 距離を取る。

 

 逃げる。

 

 選択はそれしかなかった。

 

 下水道の奥へと身を翻し、形を崩しながら高速で離脱する。空間を歪ませるように移動し、視界から消えた時には既に気配も薄れていた。

 

 残されたのは、静かに解けていく肉塊と、その場に立つ二人の術師だけだった。

 

 「虎杖君……」

 

 七海建人が声を漏らす。

 

 目の前で起きた一連の現象は、彼の知識と経験の中にあるどの戦闘とも一致しない。肉体を破壊せず、しかし内側だけを変質させる術理。さらに、それが一瞬で成立している事実に対し、理解よりも先に困惑が浮かぶ。

 

 虎杖悠仁は前を見たまま、わずかに息を整えた。

 

 その視線の先には、既に何もいない。

 

 だが、確かにそこに“いた”存在の残滓だけが、まだ空間に薄く残っている。

 

 「アイツが全部やった」

 

 低く言う。

 

 「人間の魂を弄くり回して……逃げちまった!クソッ!さっさと倒しておけば……」

 

 言葉の中に、明確な怒りが混ざっていた。

 

 「……あのツギハギの呪霊が元凶というわけですね」

 

 崩れゆく肉塊を静かに見下ろしながら、七海建人は低く呟いた。

 

 足元に転がるそれは、もはや原形を留めていない。肉の塊としての形すら曖昧になり、内部に宿っていたはずの“何か”は既に消え去っている。だが、ただの残骸とは違う。そこには確かに人間だった痕跡が残っており、呪霊として処理するにはあまりにも歪で、かといって人として扱うには遅すぎる。そうした境界の外にある存在を、今まさに目の当たりにしたという事実が、七海の思考に重く沈んでいた。

 

 そして、その全ての起点が、先ほど逃走したあの呪霊にある。

 

 術式によるものか、それともそれに類する別種の干渉かは断定できない。しかし、少なくとも“人間の魂を加工する”という領域に踏み込んでいる以上、通常の呪霊とは一線を画していることは明白だった。五条悟から聞かされていた未登録の特級呪霊の存在、それと結びつけて考えるのが自然だと七海は判断する。

 

 「虎杖君、戻りましょう」

 

 短く告げる。

 

 感情を排した声音だったが、その内側には既に次の行動への組み立てが始まっている。ここでの戦闘は一応の収束を迎えたが、事態そのものは何一つ解決していない。むしろ核心に触れたことで、優先すべき対象が明確になっただけだ。情報を持ち帰り、再構築し、次の一手へ繋げる。そのための撤退だった。

 

 「……っす」

 

 虎杖悠仁が応じる。

 

 その声は普段よりわずかに低く、短い。構えを解いた後も、彼の視線は前方に固定されたままだった。逃走した敵の軌跡を追っているわけではない。だが、その場に残る“流れ”を無意識に辿るように、意識の一部をそこへ残しているのが分かる。

 

 戦闘の余韻は既に消えかけている。呼吸は整い、身体の動きにも無駄はない。それでもなお、彼の内側にある何かが完全には静まっていないことを、七海は感じ取っていた。

 

 (凄い子だ……)

 

 思考の中で、言葉が零れる。

 

 如来神掌。

 

 それは術式ではない。呪術として体系化されたものではなく、術師としての常識に当てはめることもできない。それにも関わらず、現象としては明確に術式に近い作用を引き起こしている。対象の内部へ直接干渉し、結果を変質させるあの一撃は、呪力の扱いとして見れば極めて洗練されており、同時に既存の枠組みから外れている。

 

 五条悟が語っていた言葉が脳裏をよぎる。

 

 ——“あれは面白いよ”

 

 軽い口調の裏にあった確信を、今なら理解できる。

 

 (術式ではないのに、術式のような現象を起こす……)

 

 それは偶然ではない。

 

 虎杖悠仁という存在そのものが、その境界を曖昧にしている。

 

 七海は踵を返し、歩き出す。

 

 虎杖も遅れてそれに続いた。

 

 下水道の通路を進むにつれて、先ほどまでの戦闘の気配は徐々に薄れていく。湿った空気と淀んだ水の匂いが再び支配的になり、非日常だった空間が元の静けさを取り戻していく。その変化の中で、二人の足音だけが規則的に響いていた。

 

 やがて、地上へと続く梯子が見えてくる。

 

 七海が先に登り、虎杖が続く。

 

 蓋を押し上げた瞬間、夜の空気が流れ込んできた。

 

 外はすっかり暗くなっている。街灯の光が路面を照らし、下水道の中とは別種の静けさが広がっていた。

 

 七海はポケットから携帯を取り出し、迷いなく発信する。

 

 数回のコールの後、相手が出た。

 

 「伊知地さん、首尾はどうですか?」

 

 「『あ、はい!吉野順平を呪術師として保護、()()してます。現在吉野宅で母親の帰りを待っています』」

 

 受話器越しの声はやや早口で、しかし状況は整理されている。現場の対応としては問題ない。

 

 「承知しました。私達も今からそちらへ向かいます」

 

 簡潔に告げ、通話を切る。

 

 携帯をポケットへ戻しながら、七海は一度だけ虎杖の方へ視線を向けた。

 

 虎杖悠仁は、何も言わず前を見ている。

 

 その目に浮かんでいるのは迷いではない。

 

 怒りと、理解と、そして次に何をするべきかを既に決めている者の目だった。

 

 七海はそれ以上何も言わず、歩き出す。

 

 次の場所へ。

 

 次の段階へ。

 

 

 

 

 時は少し遡る。

 

 虎杖悠仁と七海建人が下水道へと向かった後、伊知地潔高は単独で吉野順平の追跡に当たっていた。彼の役割は戦闘ではない。状況の整理と情報の回収、そして必要であれば対象の確保。それが彼に与えられた任務であり、同時に自身が最も適していると理解している領域でもあった。

 

 手にしているのは小さな籠。中には四級にも満たない呪霊——蠅頭が数体、じっと息を潜めるように収まっている。通常であれば取るに足らない存在だが、今回は用途が違う。対象が呪力を持ち、術式を行使するならば、この蠅頭が反応する。それをもって術師として拘束する。極めて実務的で、伊知地らしい手段だった。

 

 吉野順平は特別警戒する様子もなく、自宅へと戻っていた。尾行は容易であり、距離を保ちながら観察する限り、不審な行動は見られない。ただ、歩く速度や視線の動き、周囲との距離の取り方に、どこか閉じた印象がある。外界に対して意識を向けていないというより、向ける必要を感じていないような歩き方だった。

 

 やがて住宅街の一角、古びた外観の一軒家の前で足を止める。

 

 だが、そこには既に先客がいた。

 

 玄関先のコンクリートに腰を下ろし、だらしなく背を丸めている男。太った体躯に、首元から流れる汗をハンカチで拭いながら、苛立ちとも焦燥ともつかない気配を漂わせている。その男が顔を上げた瞬間、伊知地は即座に人物を特定した。

 

 吉野順平の担任教師。

 

 学校側の記録から確認していた人物と一致する。

 

 男は立ち上がると、吉野に向かって声を張り上げた。

 

 「ダメじゃないか吉野、学校休んじゃ。それにあの三人の葬式でないのか?仲良かったろ?」

 

 言葉は表面上、常識的な指摘に聞こえる。だが、その実態は一方的な押し付けに過ぎない。相手の状況や関係性を理解しようとする姿勢は一切なく、ただ“そうあるべきだ”という形だけを押し付けている。

 

 電信柱の陰からそのやり取りを見ていた伊知地の眉が、わずかに歪む。

 

 (あぁ……なんて酷いことを)

 

 既に調査は済んでいる。

 

 映画館で死亡した三名と吉野順平が親しい関係ではなかったこと、むしろ一方的な被害を受けていた側であること、その事実は明確に把握していた。にも関わらず、この教師はその前提を無視し、さらに追い詰める言葉を選んでいる。悪意というより、無自覚な加害性。だが、その質は決して軽くない。

 

 吉野は俯いたまま、何も返さない。

 

 だが——

 

 次の瞬間、その指がわずかに動いた。

 

 印。

 

 微細な動きだが、見逃すことはできない。

 

 空気がわずかに変質する。

 

 術式発動の前兆。

 

 「っ!」

 

 伊知地の思考が一気に加速する。

 

 籠を足元に置くと同時に、地面を蹴った。かつて術師を志した身である以上、最低限の身体操作と呪力の扱いは身に付いている。派手な技は使えないが、こうした瞬間的な介入であれば十分に対応できる。距離は十数メートル。直線的に詰めれば一瞬だ。

 

 教師の言葉が続く。

 

 「聞いてるのか吉野——」

 

 その途中で、伊知地が割り込む。

 

 勢いを殺さず、そのまま二人の間に身体を滑り込ませた。

 

 教師の視線が不意に遮られ、言葉が途切れる。

 

 伊知地は息を整える間もなく、静かに、しかしはっきりと声を発した。

 

 「教育委員会の者ですが、あなたはそう言った事をする権利をお持ちで?」

 

 言葉は柔らかい。

 

 だが、その内側にある拒絶は明確だった。

 

 教師が一瞬、言葉を失う。

 

 その背後で、吉野順平の指の動きが止まった。

 

 術式は、未発動のまま。

 

 結局のところ、教師をその場から退かせるまでに、伊知地潔高は想定以上の時間と労力を費やすことになった。

 

 権限の話を持ち出し、形式を整え、相手の言葉を否定するのではなく“それ以上続ける理由がない”と納得させる形に持ち込む。感情的に反発させれば事態は悪化するだけだと理解しているからこそ、終始一貫して穏やかな態度を崩さなかったが、その裏では常に吉野順平の挙動へと意識を向け続けていた。

 

 術式発動の兆候。

 

 あのまま数秒遅れていれば、何が起きていたか分からない。

 

 教師が去った後、残された空気は妙に重かった。騒がしさが消えたことで、かえって沈黙が際立つ。玄関先に立ち尽くす吉野の横顔は無表情に近く、しかしその奥にあるものは決して空ではないと、伊知地には分かっていた。

 

 「……少し、歩きませんか」

 

 強制ではない。

 

 提案としての言葉だった。

 

 吉野は一瞬だけ視線を動かし、それから小さく頷いた。

 

 夜の住宅街を抜け、やがて河川敷へと出る。街灯の届かない範囲では闇が濃くなり、代わりに遠くの光が水面に揺れている。風は弱く、湿り気を帯びた空気が静かに流れていた。

 

 適当な場所に腰を下ろす。

 

 スーツ姿の男と、私服の高校生。並んで座るその構図はどこか不釣り合いで、だが周囲に人影がないこともあって、誰に見られるでもない静かな空間が出来上がっていた。

 

 しばらく、言葉はなかった。

 

 沈黙を無理に埋める必要はないと、伊知地は知っている。言葉が必要な時は、向こうから出てくる。そういう種類の間だと理解していた。

 

 やがて、吉野が口を開く。

 

 「あの……あなたは呪術師ですよね?」

 

 確認。

 

 断定ではない。

 

 だが、ただの勘ではない精度を含んだ問いだった。

 

 「あれ……気づいていましたか」

 

 伊知地は苦笑を浮かべる。

 

 隠していたつもりはあるが、完全ではない。先ほどの介入も含め、注意深く見ていれば察することはできるだろう。

 

 吉野の視線は逸れない。

 

 探るような、だが敵意のない目だった。

 

 「吉野くん、私は補助監督という立場でして、呪術師をサポートしています」

 

 簡潔に説明する。

 

 肩書きだけでは伝わりにくいことも承知の上で、それでも事実としての線引きは明確にしておく必要があった。

 

 「はぁ」

 

 短い相槌。

 

 理解しているのか、していないのか、それは分からない。ただ、否定はされていない。

 

 「あ!あまり舐めないでくださいね?こう見えても呪術はしっかり使えますよ?」

 

 少しだけ調子を変える。

 

 重くなりすぎる空気を、ほんの僅かに緩めるための意図だった。

 

 「そ、そうなんですか」

 

 戸惑いを含んだ返答。

 

 だが、その一瞬だけ、張り詰めていた空気がわずかに緩んだのを伊知地は見逃さなかった。

 

 再び静けさが戻る。

 

 河川の流れが遠くで音を立てている。

 

 夜風が、わずかに草を揺らす。

 

 伊知地は視線を前方へ向けたまま、ゆっくりと言葉を選ぶ。

 

 「吉野くん、私は君の気持ちが分かります」

 

 断定。

 

 だが、それは軽々しく口にしていい言葉ではない。

 

 それでも敢えてそう言ったのは、ここで曖昧にする方が不誠実だと判断したからだった。

 

 吉野の肩が、ほんの僅かに動く。

 

 反応は小さい。

 

 だが確かに、言葉は届いていた。

 

 「私にはそれはそれは強い先輩というか上司というか……がいましてね。その人は毎回私に言うんですよ。無理難題をね。あれができなきゃマジビンタとか、これやらないとマジ肩パンとか……酷くないですか?」

 

 伊知地は苦笑混じりにそう言った。

 

 夜の河川敷に似つかわしくない軽い口調だったが、内容は決して誇張ではない。彼の脳裏には、常識という枠を軽々と飛び越えてくる人物の姿が浮かんでいた。理不尽で、予測不能で、それでいて絶対的に信頼されている存在。振り回される側としてはたまったものではないが、それでも完全に否定できない何かを持っている人物だった。

 

 「す、すごいですね」

 

 吉野順平は戸惑いながらもそう返す。

 

 驚きの方が強いのか、それとも呆れに近い感情なのか、その声音は曖昧だったが、少なくとも先ほどまでの硬さはわずかに緩んでいる。伊知地はそれを感じ取りながら、言葉を続けた。

 

 「でもね吉野くん、その人は悪意があって言ってるわけじゃないんです。やり方はめちゃくちゃですし、言葉も雑ですけど、根っこのところではちゃんと考えてる。だから私も、その人のことが嫌いなわけじゃないんです」

 

 視線は前を向いたまま。

 

 直接相手を見ないのは、押し付けにならないようにするためだった。

 

 「でも……吉野くんは違いますよね」

 

 少しだけ、声の調子が落ちる。

 

 「さっきの先生のこと、嫌いですね?それに、多分……他にも」

 

 問いではなく、確認に近い言い方だった。

 

 吉野の肩が、ほんのわずかに強張る。

 

 「えっ……あ、はい」

 

 短い肯定。

 

 隠す気はなかったのか、それとも隠しきれないと判断したのか。いずれにしても、その返答は素直だった。

 

 伊知地は小さく頷く。

 

 「いいんです、それで」

 

 間を置かずに言う。

 

 「嫌いなものを無理に好きになる必要はありませんし、受け入れる必要もない。そういうものは、自分の認知する世界から外してしまえばいいんです」

 

 穏やかな声。

 

 だが、その中には明確な線引きがあった。

 

 「“気にしない”って言葉で片付けると簡単に聞こえますけど、実際はそんなに単純じゃないですよね。見えてしまうものは見えてしまうし、聞こえてしまうものは耳に入る。それでも、その中でどこまでを自分の中に入れるかは、自分で決めていいんです」

 

 河川の水音が、静かに続く。

 

 そのリズムに合わせるように、言葉もゆっくりと流れていく。

 

 「ただし——」

 

 伊知地はそこで一度言葉を切った。

 

 わずかに視線を横へと向ける。

 

 吉野の表情は、暗く沈んでいるわけではない。だが、内側に何かを溜め込んでいるのは明らかだった。

 

 「殺してしまうのは、違います」

 

 はっきりとした口調だった。

 

 強く言い切るわけでも、責めるわけでもない。ただ、それが越えてはいけない一線だと示すための声音。

 

 「もし、吉野くんがそういう手段を選んでしまったら——その時点で、あなたの世界はもっと狭くなってしまう。自分を守るための選択のはずが、自分自身を追い込む結果になる」

 

 言葉は続く。

 

 だが、説教にはならないよう、慎重に選ばれている。

 

 「それに……悲しむ人がいます」

 

 静かに。

 

 確実に。

 

 その一言だけを置く。

 

 家族。

 

 あるいは、それ以外の誰か。

 

 具体的な名前を出さないことで、逆にその意味は広がる。

 

 吉野は何も言わない。

 

 だが、視線がわずかに揺れた。

 

 それだけで十分だった。

 

 伊知地はそれ以上踏み込まない。

 

 ただ同じ方向を見ながら、隣に座っている。

 

 それだけで、今は足りると判断していた。

 

 

 そうして現在。

 

 虎杖悠仁と七海建人は吉野順平の自宅へと到着し、先に現地で接触していた伊知地潔高と合流していた。住宅街の一角にあるその家は、外観こそ特別目立つものではないが、玄関先に漂う生活の気配が妙に濃く、先ほどまでの戦闘の空気とはまるで異なる現実を感じさせる場所だった。

 

 「失礼します」

 

 七海が靴を揃えながら静かに声をかける。

 

 「お邪魔しまーす!」

 

 それに続いて虎杖が明るく言いながら中へ入る。その声音は、先ほどまでの張り詰めたものとは違い、自然と周囲の空気に馴染む軽さを持っていた。

 

 「いらっしゃーい!」

 

 奥から姿を見せたのは、吉野順平の母親だった。

 

 年相応の疲れは見えるものの、どこか豪放で、細かいことを気にしない気質が一目で伝わる女性だ。息子の連れてきた来客を前にしても緊張する様子はなく、むしろ楽しげに状況を受け入れている。

 

 「順平にこんな友達がいるなんて驚き!丁度ご飯作ろうかな思ってたんだけど!嫌いなもんある?」

 

 問いかけというより、既に半分決定している流れの中での確認だった。

 

 「ないっすね!」

 

 虎杖が即答する。

 

 「私も特にありません」

 

 七海も短く続く。

 

 やり取りは簡素だが、それで十分だった。

 

 そのまま自然な流れで台所に火が入り、食事の準備が始まる。油の弾ける音、包丁のリズム、鍋から立ち上る湯気。それらが空間を満たしていくにつれ、そこは完全に“日常”へと戻っていった。

 

 先ほどまで人の魂を歪めた存在と対峙していた者たちが、同じ場所で食卓を囲む。

 

 その落差は大きい。

 

 だが、それを不自然と感じる者はいなかった。

 

 むしろ、だからこそ必要な時間だった。

 

 食事は賑やかに進み、会話も途切れない。吉野の母親が酒を開けてからは、その勢いはさらに増し、話題は脈絡を持たずに飛び続ける。虎杖はそれに合わせて笑い、時折話を拾いながら場を回し、伊知地は控えめに相槌を打ち、七海は必要以上には口を挟まないまま静かに食事を進めていた。

 

 やがて時間が過ぎ、酒の勢いも限界に達する。

 

 吉野の母親はそのままテーブルに突っ伏し、完全に眠りに落ちた。

 

 「すみません……」

 

 吉野が小さく呟く。

 

 「いいっていいって」

 

 虎杖が軽く笑って返す。

 

 その後、自然な流れで吉野の部屋に移動し、映画を観ることになった。

 

 画面の中で流れる映像。

 

 複雑に組まれた物語。

 

 だが虎杖は、その内容の大半を理解しきれてはいなかった。展開の意図や細かい伏線を追うよりも、目の前で起きている出来事をそのまま受け取ることに意識が向いている。それでも問題はない。彼の生来の根明な気質と、どこか俯瞰するような落ち着きが、その場の空気に自然と馴染ませていた。分からないなりに楽しむ術を、既に身につけている。

 

 静かな時間が流れる。

 

 だが——

 

 その均衡が、微かに揺れた。

 

 「『小僧、指だ』」

 

 脳内に直接響く声。

 

 両面宿儺。

 

 その一言だけで、虎杖の意識は一気に切り替わる。

 

 表情は変わらない。

 

 だが、内部の“流れ”が一瞬で戦闘状態へと移行した。

 

 「ちょっとトイレ」

 

 軽く言い残し、立ち上がる。

 

 足音を抑えながら階下へ降りる。その動きは自然でありながら、無駄が一切ない。

 

 気配を辿る。

 

 確実に“ある”。

 

 居間。

 

 テーブルの上。

 

 そこに、ぽつんと置かれているものがあった。

 

 呪物。

 

 指。

 

 そして——

 

 その背後。

 

 眠りこける吉野の母親の背後に、黒い影が立っている。

 

 呪霊。

 

 距離は数歩。

 

 気づかれる前に、終わらせる。

 

 「消えろ」

 

 声は低く、静かだった。

 

 だが、その一言だけで十分だった。

 

 虎杖の身体が前へ滑り、掌が呪霊に触れる。反転された力が内部へ流れ込み、存在そのものを崩す。音もなく、抵抗もなく、呪霊はそのまま消え去った。

 

 残るのは、静寂と、テーブルの上の指だけ。

 

 虎杖はそれを手に取る。

 

 指先に伝わる感触は、ただの物体ではない。内側に宿るものが、明確に異質だと分かる。

 

 「なんでこんな急に……?」

 

 呟きは小さい。

 

 だが、その問いに答えるものは、まだどこにもなかった。




メロンパン「スニーキングミッション、というやつだね」


この時の真人が撥体できるかちょっと記憶が定かじゃないですが、できるということにして下さい。
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