武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
虎杖悠仁によって回収された両面宿儺の指は、その後ただちに呪術高専へと運び込まれ、厳重な封印処理のもとで一時保管されることとなった。呪物としての危険度は言うまでもなく、特級呪物の中でも最上位に位置するそれは、扱いを誤れば周囲一帯に甚大な影響を及ぼしかねない。忌庫の内部では幾重にも施された結界が重ねられ、外界との干渉を完全に遮断する形で安置されている。
吉野順平についても、迅速に処遇が決定された。
映画館での一連の事件において、彼が特級呪霊——通称“ツギハギの呪霊”と接触していた事実は確認されている。さらに、その接触の過程で無為転変による脳への干渉を受け、結果として術式を保持する状態へと変質していた。通常であれば危険因子として厳重に監視、あるいは拘束対象となるが、今回に限っては事情が異なる。
意図的な加害の意思は確認されていない。
むしろ被害者としての側面が強い。
そのため、高専側は彼を“術師”としてではなく、“窓”として所属させるという判断を下した。呪術の現場において情報収集や報告を担う補助的な立場であり、戦闘行為からは距離を置く形となる。表向きは一般の学生としての生活を維持しつつ、必要に応じて協力を求める。極めて限定的ではあるが、彼の能力を社会に適応させるための折衷案だった。
静かに日常へと戻っていく側がある一方で、もう一つの流れは確実に動き続けていた。
逃走した特級呪霊、真人。
彼は下水道から離脱した後、既に仲間の元へと合流していた。
薄暗い空間。
外界から隔絶されたその場所には、異質な存在が複数集まっている。人の負から生まれた呪い、その中でも特に強力な個体たち。そこに、真人は明確な焦燥を抱えたまま現れた。
「夏油っ!なんなのアイツ!ヤバいよ!」
声が荒い。
普段の軽薄さを残しつつも、その奥にある焦りは隠しきれていない。
「なんだ真人、貴様がそんな焦るなど珍しい」
低く響く声が応じる。
振り向けば、そこにいるのは漏瑚だった。かつて五条悟との戦闘で首から下を失いながらも、呪力による再生を経て、現在は小学生ほどの体躯にまで回復している。その姿は完全とは言い難いが、意識も呪力も健在であり、言葉には十分な重みがあった。
「おや、もしかして虎杖悠仁に手を出したのかい?」
さらにもう一つの声が重なる。
夏油傑。
かつて特級呪術師と呼ばれ、今は呪詛師として行動する男。その表情は穏やかでありながら、内側には計算された冷静さが宿っている。
「言っただろう?強いって」
淡々とした言葉。
だが、その裏には明確な警告が含まれていた。
「あ、あれは強いとかそういう次元じゃないよ!」
真人が即座に否定する。
声に混じるのは、単なる驚きではない。
理解の外側にあるものを見てしまった者特有の拒絶感だった。
「触れたんだよ、アイツの魂に……そしたらさ、なんかこう……光っていうか、いや違うな、あれはもう“在る”だけでダメなやつっていうか……」
言葉がまとまらない。
普段であれば理屈より感覚で語ることを好む真人ですら、その体験を言語化することができない。それほどまでに、虎杖悠仁の存在は彼にとって異質だった。
そして、脳裏に焼き付いて離れない光景がある。
黄金の世界。
骨の山。
そして——
空を埋め尽くす、名状し難い“何か”。
「……面白いじゃないか」
夏油が静かに呟く。
その声音には、恐れはない。
ただ純粋な興味と、そして利用価値を測る冷徹な視線だけがあった。
事態は、確実に動き始めている。
「虎杖君、今回は助かりました」
遺体保管室の中で、その言葉はやけに真っ直ぐに響いた。冷房の効いた空気は肌にまとわりつくように重く、温度とは別の意味で身体の芯を冷やしてくる。ここに並べられているものが“消えきらなかった存在”であることを、この空間そのものが無言で証明しているようだった。
俺と七海さんは、検死台の前に並んで立っていた。今回の任務で祓った“呪霊”——いや、正確には元人間だったもの、その残骸がいくつも安置されている。映画館の屋上で七海さんが倒した個体も、そのままの形でここにある。形は崩れているのに、構造は人間のまま残っているせいで、視線を外す理由が見つからない。見れば分かる、触れなくても分かる、“人だった”という事実だけが、静かにそこにある。
七海さんは、それらを見下ろしたまま続ける。
「奴の術式は他人の魂に干渉する。恐らく虎杖君から逃走を選んだのは——」
その言葉を途中で遮った。考えるより先に、口が動いていた。
「俺の中にいる宿儺が何かやった。俺は何もやってない」
あの時の感覚は、まだ身体の奥に残っている。触れられた瞬間、皮膚じゃなくてもっと深い場所に指を差し込まれたみたいな違和感が走った。その直後に宿儺の笑い声が響いて、気づいた時には腕を掴んで投げ飛ばしていた。自分でやったのか、宿儺がやらせたのか、その境目は曖昧だ。ただ、結果だけが残っている。
真人は離れて、そのまま逃げた。
だから、あれは俺の力じゃない。そう言い切ることで、何かを切り分けようとしている自分がいるのも分かっている。
七海さんは、少しだけ間を置いた。メガネの位置を指で整えながら、静かに言葉を返す。
「いえ、結果的に被害を最小限に抑えることができました。あの呪霊が逃走して以降、あのエリアでは被害が減少しています。あなたのおかげです」
淡々としている。感情を乗せているわけじゃない。ただ事実として置かれる言葉。だからこそ、軽く流せない。
視線が自然と下に落ちる。
台の上にある一体に目が止まる。皮膚は裂け、骨格も歪んでいるのに、その奥にある構造は人間のままだ。あの時触れたやつと同じだ。違う個体のはずなのに、全部同じに見える。
掌の感触が蘇る。
あの瞬間、歪んでいた流れがほんの一瞬だけ元に戻った。崩れていた輪郭が揃って、濁っていたものが澄む。その一瞬の変化があまりにもはっきりしていたせいで、その直後の終わりが強く焼き付いている。
その時、確かに聞こえた。
「ありがとう」
消える直前、泣きながら、そう言った。
祓っているはずなのに、消しているはずなのに、どうしてそんな言葉が出てくるのか分からない。分からないまま、耳に残っている。喉の奥が少しだけ詰まる感覚があって、息を吐こうとした時に引っかかる。それが妙に気になる。
気づいたら、言葉が出ていた。
「俺は人を
口にしてから、自分でも分かる。これは迷いでも確認でもない。もう中で固まっていたものを、そのまま外に出しただけだ。
家入さんは言っていた。あの状態になった時点で既に死んでいる、だから俺が殺したわけじゃないと。理屈としては分かるし、間違っていないとも思う。頭では納得している。
でも、それとこれとは別だった。
触れたのは俺で、流れを変えたのも俺だ。その結果として消えていったのなら、それは自分の行動の延長にある。そう感じるのは、どうしても止められなかった。胸の奥に、小さく引っかかるものが残っている。
七海さんは、それを否定しなかった。
「私もです。虎杖君」
返ってきたのは、それだけだった。
短いけど、軽くない。この人は誤魔化さないし、無理に楽にもしない。だから、その言葉はそのままの重さで落ちてくる。逃げ道にはならないけど、変に歪みもしない。
ほんの少しだけ、呼吸が整う。
俺だけじゃない、という事実がそこに置かれた。それだけで、踏み外さずに立っていられる。
視線を上げる。
並んでいる遺体を見る。戻らないものがここにあって、結果だけが残っている。その現実は変わらない。
だったら、やることは決まっている。
あのツギハギの呪霊。
あいつが全部やっている。魂を弄り、壊し、繋げて、用が済めば捨てる。その先に、ここにあるものがある。
だったら——
「……あいつ、絶対ぶっ飛ばす」
自然と声が出た。低いけど、迷いはない。怒りだけじゃない。やるべきこととして、ちゃんと腹の中に落ちている。
俺はもう一度だけ遺体を見て、それから前を向いた。ここから先に繋がっているものは、もう見えている。だから逸らさないし、迷わない。
「『おい小僧、指はどうした。早く喰らえ、そして俺と戦え』」
頭の奥に直接叩きつけられるみたいな声が響いて、さっきまでの空気を遠慮なくぶち壊してきた。遺体保管室で感じていた重たい静けさが、無理やり引き剥がされるみたいに消える。こういうタイミングで割り込んでくるあたり、やっぱりコイツは空気を読むってことをしない。いや、分かってて壊してるのかもしれないけど、どっちにしろ性格は最悪だ。
心の中で一つ息を吐いてから、意識だけを内側に向ける。
(指は高専に一時保管って話だったろ。少し我慢しろ)
口に出さなくても伝わるやり取りにも、もう慣れた。前みたいにいちいち反応して消耗することもないし、必要な分だけ返して流すこともできる。とはいえ、タイミングを考えろよとは思う。こっちはさっきまで、ああいうもん見てた後なんだぞ。
「『我慢、我慢。そうか俺にそう説くか』」
(別に説いてねぇよ)
軽く返す。
この程度のやり取りでどうこうなる相手じゃないのは分かってるし、逆に深く突っ込むと面倒になるのも経験で理解してる。だから適当にいなす。それが一番楽だ。
頭の片隅で、指のことを考える。
高専には、今回回収した指の他に五本。合計六本が保管されている。つまり宿儺にとっては、少なくとも六回分の機会が用意されているってことだ。あいつからすれば、目の前に戦うチャンスが並んでいるようなもんなんだろう。
五条先生が言っていた。呪術総監部は、俺に指を一気に取り込ませるつもりはないらしい。段階的に、様子を見ながら取り込ませるつもりだと。暴走のリスクを考えれば当然だし、俺自身もそれを否定するつもりはない。
けど——
その話を、宿儺がどう思ってるかは別だ。
「『いいか小僧、取り込むなら一本ずつだ。これは絶対だ』」
声の調子が少しだけ変わる。
いつもの嘲りとは違う、妙に断定的な言い方だった。命令に近い。
(はいはい、分かってるよ)
適当に流すように返すけど、内心では少しだけ引っかかる。こっちが慎重にやろうとしてるのは分かる。でも、それを宿儺自身が強調してくるのは違和感がある。普通なら、全部一気に取り込めって言ってきそうなもんなのに。
「『貴様は俺と縛りを結んでいる。それを忘れるな』」
ああ、そうか。
思い出す。
俺と宿儺の間にある約束。指を取り込む度に、肉体の主導権を賭けて戦う。勝てば俺が主導権を保つ。負ければ——どうなるかは考えなくても分かる。
つまり、あいつにとって指は単なる力の回復手段じゃない。戦うための“機会”でもあるってことだ。
だから一本ずつ。
一回ごとに戦えるように。
そういう理屈か。
「『一気に取り込まれては興が削がれる。小僧も同じだろう?』」
勝手なことを言う。
(まぁな……!)
でも、完全に否定もできないのが腹立つ。
確かに、一気に取り込んで制御できなくなれば、それで終わりだ。俺の意識が飛ぶ可能性だってあるし、宿儺に身体を奪われるリスクも上がる。
それは避けたい。
単純に、負けたくないからだ。
(まぁ……一本ずつだろうな)
そう呟くと、宿儺は満足したのか、それ以上は何も言ってこなかった。気配だけが奥に引いていく。
静かになる。
外の空気に意識を戻す。
さっきまで感じていた重さはもうない。けど、完全に切り替わったわけでもない。遺体保管室で見たものは、ちゃんと残っている。
あの感触も、あの声も。
忘れない。
忘れるつもりもない。
指のことも、宿儺のことも、全部繋がってる。
そして、その先にいるのは——あいつだ。
あいつがやってることは、全部見た。
だから、次にやることも決まってる。
「……やること多すぎだろ、ほんと」
小さく呟く。
でも、不思議と嫌じゃない。面倒ではあるけど、迷いはない。
だったら——進むだけだ。
「それにしても……」
黄金に満ちた静寂の中で、その呟きは波紋のように広がった。
虎杖悠仁の内側に広がる生得領域。果ての見えない水面には、蓮の葉と花が無数に浮かび、空も地も境界が曖昧なまま一様に金へと染まっている。音はなく、風もない。ただ、存在そのものが圧として満ちている空間だった。
その中心。
骨が積み上げられた山、その頂点に据えられた玉座に、両面宿儺は腰を下ろしている。頬杖をつき、視線だけを遠くへと向けながら、わずかに口元を歪めていた。
「あの呪霊がこの
低く落とされた声には、明確な興味が滲んでいる。
思い返しているのは、つい先ほどの出来事だ。
呪霊——真人。
魂に触れる術式を持つそれが、虎杖悠仁という器の内側に踏み込んだ瞬間、本来あり得ない現象が発生した。この領域は虎杖悠仁のものだ。宿儺はそこに“在る”に過ぎない。支配しているわけではないにも関わらず、その空間において、
空を覆うほどの巨躯。
水面の彼方から立ち上がるようにして現れたそれは、ただの幻ではなかった。確かな重みと圧を伴い、空間そのものに干渉する存在として顕れていた。如来。穏やかな相貌を持ちながら、その内に圧倒的な威を宿した異形の象徴。
その前に立たされた真人は、明確に“裁かれる側”へと置かれていた。
触地印。
ゆっくりと結ばれた指が、落ちる。
それだけで、この領域そのものを押し潰しかねないほどの質量がそこにはあった。逃げ場も、防ぐ手段もない。ただ一方的に結果だけを与えるための一撃。
「ククッあの呪霊は小僧に助けられたな」
宿儺が小さく笑う。
現実世界からの干渉。
虎杖悠仁が無意識に外側で動いたことで、その一撃は成立する直前で途切れた。ほんの僅かな差。しかし、その差が全てを分けた。
もし、あのまま落ちていれば。
真人は、この場で完全に消滅していた。
「小僧は生得領域を持っている。そして俺の呪力を掴み利用している」
顎に手を当て、宿儺は思案する。
術式を持たぬ器。
それでありながら、この領域は確かに存在し、その内部で宿儺の呪力すら“掴み”、別の形で運用している。通常の呪術体系では説明のつかない現象が、当たり前のように成立している。
そして何より——
この領域は、宿儺のものではない。虎杖悠仁のものだ。
「領域展開は呪力を用いて生得領域を展開する結界術……」
静かに言葉を紡ぐ。
内側に閉じた領域を、外へ押し出す技。術式を付与し、縛りを重ね、完成される絶技。
もし。
この“異質な領域”が、現実へと展開されたならば。
「もし小僧が……ククッ」
喉の奥で笑いが漏れる。
それは嘲りではない。
純粋な愉悦だった。
「領域展開は術式を付与し、更に様々な縛りを施し完成する。もし小僧が領域展開をすれば、この空間が現実に展開されるわけだ。そうかそうか……愉快愉快」
目を閉じる。
黄金の世界は静止したままだが、その内側では確かに“先”が見えている。
骨の山の上で、宿儺は結論に至る。
「なんだ、受肉せずとも……いや、小僧に自ら気づかせるとしよう」
その声音には確信があった。
領域展開。
己の生得領域を現実へと押し出す、呪術の極致。もし虎杖悠仁がそれに至れば、この黄金世界はそのまま現実に顕現することになる。
その時、何が起こるか。
宿儺は理解している。
だからこそ、手は出さない。
気づかせる。
自らの意思で、その段階へと至らせる。
その過程すら、楽しむために。