武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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ヤクザの黒塗りの車にランニング中に突っ込んで

 

 

 

 

 10年後──

 

 虎杖少年は小学1年生から高校入学までのおよそ10年もの間、常軌を逸した修行を続けていた。

 

 「フッ」

 

 鋭く吐き出された息と共に、掌が空気を切り裂く。

 

 踏み込んだ足が地面を捉え、腰が回り、背中を通って腕へ流れた力が、最後に掌へと集まる。その一連の動作は無駄がなく、流れるように繋がっていた。山の中の小さな滝の前、濡れた岩の上で虎杖悠仁は黙々と掌を突き出し続けている。

 

 如来神掌の会得は生半可なものではない。

 

 あの古びた冊子に書かれていたのは、武術の解説というよりも、むしろ修行の方法そのものだった。荒唐無稽としか思えない鍛錬から、地道な筋力鍛錬まで、とにかく様々なものが細かく記されている。普通の人間なら途中で投げ出すような内容ばかりだが、虎杖悠仁はそれらを一つずつ愚直に続けてきた。

 

 「ハッ」

 

 掌が滝の水を叩く。

 

 飛沫が弾け、冷たい水滴が周囲へ散った。

 

 最初に書かれていた修行は、掌を水へ突き出すというものだった。掌打を打ち込む先は人ではなく、水。水面でも川でも滝でも構わない。ただひたすら水に向かって掌を突き出し続けろと書かれている。力任せでは意味がない。足で地面を踏み、腰を回し、背中を通して腕へ力を流し、その流れを最後に掌へ集める。全身の力を一点へ通す感覚を覚えろ、と。

 

 虎杖少年は最初、家の台所でそれをやった。

 

 蛇口を全開にし、流れ続ける水へ向かって何度も掌を突き出す。だが当然のように水道代が跳ね上がり、祖父の倭助に見つかった時には盛大に怒鳴られた。

 

 それから場所を変えた。

 

 修行場所は山の滝だ。

 

 町外れの山道を登った先に、小さな滝がある。人がほとんど来ない静かな場所で、冷たい水が岩肌を滑り落ちている。虎杖少年はそこに立ち、毎日何百回も掌を突き出した。

 

 夏でも水は冷たい。

 

 飛沫が顔へ当たり、服はすぐに濡れる。

 

 それでも続けた。

 

 掌が水を割るまで。

 

 水の流れに負けない軌道を体が覚えるまで。

 

 ただ黙々と続けた。

 

 だが修行はそれだけでは終わらない。

 

 本には他にも様々な鍛錬が書かれていた。

 

 まずは走り込み。

 

 ただ走るだけではない。坂道、山道、石段、あらゆる地形を駆け抜ける。足を鍛え、地面を踏む力を身につけろと書かれていた。虎杖少年は学校から帰ると山へ向かい、日が沈むまで何度も坂道を駆け上がった。

 

 呼吸法もある。

 

 ゆっくり息を吸い、腹を膨らませ、長く吐く。呼吸を整え、体の力の流れを感じ取れと書かれていた。意味は完全には理解できなくても、虎杖少年はその通りに呼吸を繰り返した。

 

 筋力鍛錬も欠かさない。

 

 腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット。限界までやり、体が動かなくなってもさらに数回続ける。体の芯が燃えるように痛くなっても、歯を食いしばって繰り返した。

 

 さらに座禅。

 

 岩の上に座り、背筋を伸ばし、目を閉じる。そして心を空にしろと書かれている。最初の頃は雑念だらけで三分も持たなかったが、続けているうちに風の音や山の気配がはっきりと感じ取れるようになっていった。

 

 そして型の反復。

 

 如来神掌には十の型がある。一つ目の型でさえまともに形になるまで一年はかかった。だが虎杖悠仁はそれを諦めず、何千回も、何万回も繰り返した末に、十の型すべてをどうにか再現できるところまで到達していた。

 

 時に修行中は大変な目に遭うことも多かった。

 

 型の練習中、踏み込んだ足が地面の窪みを崩し、その拍子にオオスズメバチの巣を破壊してしまったことがある。怒り狂った蜂の大群に全身を刺され、顔も腕も体もパンパンに腫れ上がった。質量保存の法則を完全に無視したような膨れ方で、さすがの虎杖少年も山道を這うようにして病院へ向かった。

 

 当然そのまま入院。

 

 だが数時間後にはほぼ回復し、看護師を呆れさせながら退院、その足で再び山へ戻った。

 

 さらに別の日。

 

 山道で修行していた時、デカい熊と遭遇したこともある。

 

 巨大な体毛の塊が藪の向こうから現れ、低い唸り声を上げながらこちらを見ていた。普通の人間なら恐怖で動けなくなる場面だが、虎杖少年は一瞬だけ驚いたあと、なぜかその場で構えを取った。掌を引き、足を踏み込み、型の姿勢を崩さないまま熊と向き合う。

 

 結果として熊は数秒ほど睨み合った後、興味を失ったように山の奥へ去っていった。

 

 そんな無茶苦茶な修行を、虎杖悠仁は10年続けてきた。

 

 その結果、彼の身体は普通の高校生とは比べ物にならないほど鍛え上げられていた。

 

 だが。

 

 その修行の果てに、ひとつだけ残されたものがあった。

 

 如来神掌、最後の一行。

 

 経絡を開く。

 

 その意味だけは、今も分からないままだった。

 

 「マジで分からん」

 

 虎杖悠仁は眉間に皺を寄せながら、小さく呟いた。

 

 場所は高校の体育館。新入生がずらりと並び、壇上では校長がなにやら長い挨拶をしている。春の空気はまだ少し冷たく、窓から入る光が床を白く照らしていた。普通の新入生なら周囲の様子を気にしたり、隣の席の人間と小声で話したりするところだが、虎杖悠仁はそんなことにまったく興味がない様子だった。

 

 膝の上には、古びた冊子がある。

 

 ページは擦り切れ、角は丸まり、紙の色はすっかり黄ばんでいた。小学一年生の頃に手に入れてから、十年間読み続けてきた本だ。内容のほとんどは暗記していると言っていい。

 

 それでも。

 

 最後の一行だけが理解できない。

 

 経絡を開く。

 

 たったそれだけの言葉。

 

 方法も手順も説明もない。ただその文字がぽつんと置かれているだけで、まるでそれが当然分かるはずだと言わんばかりの書き方だった。

 

 悠仁は冊子を睨みつける。

 

 「いや分かるわけねぇだろ」

 

 心の中で文句を言う。

 

 十年だ。

 

 水打ち、走り込み、呼吸法、筋力鍛錬、座禅、型の反復。本に書いてあることは全部やった。滝の前で何万回も掌を突き出し、山道を走り回り、腕が上がらなくなるまで鍛え続けた。

 

 それでも、この最後だけが分からない。

 

 体育館の中では入学式が続いている。

 

 しかし悠仁の耳にはほとんど入っていなかった。

 

 周囲のざわめきも、校長の声も、すべて背景の音にしか感じない。彼の頭の中を占めているのは、如来神掌の最後の課題だけだった。

 

 そんな悠仁の背後で、小さなざわめきが起きていた。

 

 「おい……アイツ『西中の虎』か?」

 

 「……あぁ」

 

 隣の列の男子が顔を寄せて囁く。

 

 「間違いねぇ。西中の虎だ」

 

 その言葉に、周囲の視線がちらちらと集まり始める。

 

 だが悠仁は気づかない。

 

 冊子に顔を近づけたまま、眉間に皺を寄せている。

 

 「いやマジで分からん……」

 

 完全に自分の世界に入っていた。

 

 その様子を見ながら、周囲ではひそひそ話が続く。

 

 「アイツ山の中で熊と遭遇してぶっ飛ばしたらしいぜ」

 

 「マジで?」

 

 「俺の従兄弟が見たって言ってた」

 

 別の生徒が話に加わる。

 

 「俺が知ってるのはオオスズメバチに刺されてハルクみたいにパンパンに膨れて入院したってやつだな」

 

 「それ死ぬだろ普通」

 

 「だよな。でも数時間で退院したらしい」

 

 「意味分かんねぇ……」

 

 さらに別の声。

 

 「マジか……俺はヤクザの黒塗りの車にランニング中に突っ込んで拉致られたって話聞いたぞ」

 

 「は?」

 

 「それで車の中で暴れて、逆にヤクザが逃げたとか」

 

 「もう都市伝説じゃん……」

 

 そんな噂話が広がっている間も、当の本人は完全に別のことを考えていた。

 

 悠仁は冊子を指で叩く。

 

 「経絡を開く……」

 

 ぼそりと呟く。

 

 まるで呪文のように繰り返す。

 

 すると隣の席の生徒がびくっと肩を震わせた。

 

 だが悠仁は気づかない。

 

 彼の思考はすでに別の方向へ向かっていた。

 

 (経絡ってなんだ?)

 

 筋肉か?

 

 骨か?

 

 神経か?

 

 それとももっと別の何かか?

 

 もし本当に何か開かなきゃいけない場所があるなら、もうとっくに開いててもおかしくない。十年も修行してるのだから、そろそろ何か起きてもいいはずだ。

 

 だが。

 

 何も起きない。

 

 悠仁は天井を見上げた。

 

 「……もしかして」

 

 小さく呟く。

 

 「この本、普通に嘘とか?」

 

 その瞬間、背後で誰かが息を呑んだ。

 

 西中の虎。

 

 熊を殴り倒した男。

 

 ヤクザを追い返した怪物。

 

 そんな男が、入学式の最中に真顔で武術書を疑っているとは、誰も想像していなかった。

 

 そうして入学式が終わり、生徒たちはぞろぞろと体育館を出て、それぞれのクラスへ向かって歩き始めた。

 

 その流れの中に、虎杖悠仁の姿もあった。

 

 だが周囲の新入生たちと違い、悠仁は誰とも話さない。教室へと向かう廊下を歩きながら、なぜかずっと天井を見上げている。腕を組み、眉間に深い皺を寄せ、まるで人生最大の難問に直面しているかのような顔つきだった。

 

 その歩き方はあまりにも異様である。

 

 周囲の生徒たちは自然と距離を取っていた。

 

 だが悠仁本人はまったく気づいていない。

 

 彼の頭の中では、今まさに激しい葛藤が繰り広げられていた。

 

 (いや、この本は嘘じゃない!)

 

 心の中で強く否定する。

 

 十年間続けてきた修行。

 

 水打ち、走り込み、呼吸法、筋力鍛錬、座禅、そして型の反復。普通の人間がやらないようなことを毎日繰り返してきたのだ。

 

 (俺は確かに強くなってる!)

 

 それは自分でも分かる。

 

 走れば誰より速いし、跳べば誰より高い。力だって普通の高校生とは比べ物にならない。全力で拳を振れば、岩くらいなら普通に砕ける自信がある。

 

 (気功波は出せないけど!)

 

 そこだけはちょっと残念だった。

 

 漫画みたいに空を飛んだり、手から光線を出したりするのを少し期待していたのだが、残念ながらそういう現象は一度も起きていない。

 

 だがそれでも。

 

 (ここまでやってきて全部嘘とかマジでショックだけど……)

 

 悠仁は眉間をさらに寄せる。

 

 (なんだよ経絡を開くって……どう開くんだ?)

 

 最後の一行。

 

 たった数文字。

 

 経絡を開く。

 

 それだけが、どうしても分からない。

 

 十年も修行してきたのに、最後の課題だけ意味が理解できないというのは、かなり精神的にくるものがあった。

 

 悠仁は廊下を歩きながら小さく唸る。

 

 「うーん……」

 

 少し進んでまた呟く。

 

 「なぜだ……?」

 

 さらに歩きながら、腕を組んだまま天井を睨む。

 

 「どういうことだ?」

 

 周囲の喧騒とは完全に別の世界だった。

 

 新入生たちは新しい制服に少し緊張した様子で、友達同士で話したり、クラス表を確認したりしている。その中で一人だけ、武術書の謎について本気で悩みながら歩いている男がいる。

 

 それが虎杖悠仁だった。

 

 周囲の生徒たちは、そんな彼の様子を遠巻きに見ていた。

 

 ピンク色の髪。

 

 無駄にがっしりした体格。

 

 そして眉間に深い皺を刻みながら、意味不明な言葉をぶつぶつ呟いている。

 

 普通に考えて怖い。

 

 ひそひそ声が広がる。

 

 「西中の虎……ヤベェやつだ」

 

 「やっぱ噂マジだったんだな」

 

 「なんか見えてるだろあれ」

 

 別の男子が小声で言う。

 

 「俺たちには見えないナニカを見てやがる」

 

 「こえぇよ……」

 

 「スピリチュアルとかそういうやつじゃね?」

 

 「いやもう完全に戦う人の顔だろあれ」

 

 中学を卒業したばかりの新入生たちには、刺激が強すぎる光景だった。

 

 そんな視線を一身に浴びながらも、悠仁はまったく気づかない。

 

 ただひたすら考えている。

 

 (経絡……)

 

 (開く……)

 

 その時だった。

 

 悠仁の足が、ぴたりと止まった。

 

 廊下の真ん中で突然立ち止まり、顔を上げる。

 

 周囲の生徒たちが一斉にビクッとした。

 

 悠仁は天井を見つめながら、ぽつりと呟く。

 

 「……もしかして」

 

 そして腕を組んだまま、真剣な顔で言った。

 

 「開けるのか?いや、違うか……」

 

 虎杖悠仁は廊下の真ん中で腕を組みながら小さく呟いた。

 

 ((何がだ!?))

 

 周囲の生徒たちの心の声が、ほとんど同時に一致する。

 

 入学したばかりの高校生にとって、目の前の光景はあまりにも奇妙だった。ピンク色の髪をした大柄な新入生が、腕を組み、眉間に皺を寄せながら天井を睨みつけ、突然「開けるのか?」だの「違うか……」だのと呟いているのだ。

 

 しかも声が妙に真剣だった。

 

 冗談を言っている様子ではない。

 

 周囲の生徒たちは、まるで猛獣の檻の近くを通るかのような慎重さで距離を取りながら教室へと入っていった。

 

 そして──

 

 そんなこんなで二ヶ月が経つ。

 

 結局、虎杖悠仁は“経絡を開く”という最後の課題がさっぱり分からないまま、修行を続けていた。

 

 学校生活そのものは、特に問題なく過ぎていた。

 

 授業を受け、昼飯を食い、放課後になると山へ向かう。滝の前で掌を突き出し、坂道を走り、型を繰り返す。入学してからも生活の流れはほとんど変わらない。

 

 だが。

 

 頭の片隅には、ずっとあの文字が残っていた。

 

 経絡を開く。

 

 意味が分からない。

 

 方法も分からない。

 

 それでも修行は続けている。

 

 そんなある日の夜だった。

 

 虎杖悠仁は学校を終えたあと、病院へ立ち寄っていた。祖父の倭助の見舞い、そして看取りのためだ。

 

 病室で静かに息を引き取った祖父の姿を見届け、手続きを済ませ、外へ出た頃には空はすっかり暗くなっていた。

 

 胸の奥には、重いものが残っている。

 

 だが立ち止まるわけにはいかない。悠仁は静かに息を吐き、いつものように修行へ向かうことにした。

 

 場所は学校の裏山だ。夜の校庭を通り抜け、山へ入る。それがいつもの流れだった。

 

 だが、校門の前に立った時、悠仁の足が止まった。

 

 「なんだ?この気配……」

 

 思わず呟く。

 

 学校全体から、妙な気配が漂っていた。邪悪で、陰湿で、どろりとしたもの。言葉にするのは難しいが、とにかく嫌な感じだった。

 

 実を言うと、悠仁はこの学校に入学した時から、うっすらと嫌な気配を感じていた。校舎の奥の方、古い校舎の影、夜になると何かが溜まっているような空気。

 

 だが。

 

 この夜だけは違う。

 

 濃い。

 

 まるで、腐った沼の中に足を踏み入れたような重さがあった。

 

 悠仁は腕を組み、校舎を見上げる。

 

 その瞬間だった。

 

 「うわ!」

 

 轟音。

 

 四階の窓が、内側から爆発した。

 

 ガラスが砕け、壁が吹き飛び、破片が夜空へ飛び散る。

 

 「え?え?何が?」

 

 突然の非日常に、悠仁は思わず目を丸くした。

 

 爆発した場所をじっと見つめる。

 

 すると。

 

 校舎に開いた穴の奥で、何かが動いていた。

 

 人影。

 

 そして──

 

 巨大な何か。

 

 「なんだ……あれ」

 

 悠仁の目に映っていたのは、呪霊だった。だが悠仁にはそんな知識はない。

 

 熊や猪と遭遇したことはある。山での修行中、何度か野生動物と鉢合わせしたこともあった。

 

 だが。

 

 あんな異形の化け物を見たことはない。

 

 黒く歪んだ体。

 

 異様に伸びた腕。

 

 人の形をしているようで、どこか決定的に違う。

 

 そしてその前で、一人の青年が戦っていた。

 

 「うわ……」

 

 悠仁は目を細める。

 

 青年は血を流している。

 

 体はすでに限界に近いようで、今にも倒れそうだった。

 

 さらに、その奥では巨大な怪物が二人の人間を取り込もうとしていた。

 

 悠仁は目を凝らす。そして気づく。

 

 「あれって確か以前俺を勧誘してきたオカルト研究会の先輩2人!?」

 

 驚きの声が漏れた。

 

 「あれ!?え!?どゆこと!?アレ!?」

 

 先輩たちは怪物の触手のようなものに捕まっている。

 

 体がゆっくりと怪物の口へ引き込まれていく。

 

 その光景は、悠仁が昔見た映画のワンシーンを思い出させた。

 

 遊星からの物体X。人間が化け物に取り込まれていく、あの映画だ。

 

 「……マジかよ」

 

 悠仁は小さく息を吐いた。

 

 そして。

 

 思い出す。

 

 ついさっき亡くなった祖父の言葉を。

 

 『お前は強いから人を助けろ』

 

 静かな夜風が校庭を吹き抜ける。

 

 悠仁はゆっくりと息を整えた。

 

 「……いくか」

 

 次の瞬間。体は、校舎へ向かって走り出していた。

 

 虎杖悠仁が踏み込んだ瞬間、コンクリートの地面が鈍い音を立ててひび割れた。脚に込められた力が地面へ叩きつけられ、その反動を利用するように身体が前方へ弾け飛ぶ。砕けた細かい石が宙に舞い、踏み出した場所に蜘蛛の巣状の亀裂が走ったが、悠仁の身体はすでにそこにはない。脚は信じられない速度で回転し、次の一歩、さらに次の一歩と踏み込むたびに、地面が小さく爆ぜるような音を立てる。

 

 側から見ればまるでヘリコプターのプロペラのように脚が回っているようにも見えるが、その速度は人間の動きとして理解できる範囲を完全に逸脱していた。普通ならば助走が必要になる距離でも、悠仁はわずか数歩でトップスピードへ到達し、そのまま一直線に校舎へ突っ込んでいく。夜の校庭を横切るその影はほとんど残像のようにしか見えず、風が遅れて追いかけるほどだった。

 

 そして校舎の直前。

 

 悠仁はさらに踏み込んだ。

 

 次の瞬間、身体が跳ね上がる。

 

 跳躍だった。

 

 しかしその高さは常識外れだった。地面を蹴った反動だけで、身体は一直線に空へ持ち上がり、校舎の壁面を軽く越え、破壊された四階の穴へと到達する。普通の人間なら落下の恐怖で身体が固まる高さだが、悠仁の動きには一切の迷いがなかった。空中で身体を捻り、膝を引き絞り、標的へ狙いを定める。その視線の先には、先輩二人を飲み込もうとしている巨大な異形の怪物がいた。

 

 「オラァ!」

 

 咆哮と同時に脚が振り抜かれる。

 

 飛び蹴りだった。

 

 悠仁の身体が回転しながら怪物へ叩き込まれ、膝と脛に込められた全体重と加速の力がそのまま衝撃となって炸裂する。鈍い破裂音が廊下に響き、怪物の巨大な身体が横へ弾き飛ばされた。壁へ叩きつけられた衝撃で窓枠が歪み、ガラスの破片がさらに床へ散る。怪物はぐらりと体勢を崩し、先輩たちを拘束していた肉のような腕も一瞬だけ力を失った。

 

 悠仁はその隙を逃さない。

 

 着地した瞬間にはすでに前へ踏み込み、怪物の肉の塊に腕を突っ込むようにして先輩たちの身体を掴み取る。ぬめりを帯びた異様な感触が腕にまとわりつくが、そんなものに構っている余裕はない。腕の筋肉が隆起し、肩の関節が軋むほどの力で引き剥がすと、ぐちゃりと音を立てて肉の拘束が裂け、二人の身体が怪物の体内から引き抜かれた。

 

 「ぐっ……!」

 

 悠仁は一歩下がり、二人を抱え直す。

 

 先輩たちは意識が朦朧としているのか、力なく腕を垂らしていたが、呼吸はまだある。悠仁は一瞬で状況を確認すると、そのまま二人を両肩へ担ぎ上げた。体格の大きな男子生徒二人を同時に担いでいるにもかかわらず、悠仁の足取りはほとんど揺らがない。

 

 その様子を、すぐ近くで戦っていた青年が呆然と見ていた。

 

 「なんだ!?」

 

 血を流しながら、思わず声を漏らす。

 

 突然四階の窓から人間が飛び込んできたかと思えば、巨大な怪物へ飛び蹴りを叩き込み、そのまま人質を引き剥がして担ぎ上げているのだ。状況の異常さに理解が追いつかないのも無理はなかった。

 

 悠仁はそんな青年へちらりと視線を向ける。

 

 そして。

 

 歯を見せて笑った。

 

 「俺は虎杖悠仁!」

 

 声が廊下に響く。

 

 両肩に先輩二人を担いだまま、堂々と名乗りを上げる。

 

 「助けにきた!!!」

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