武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
「『よし小僧、早く食え』」
頭の奥に直接叩き込まれる声に、思わず眉を寄せる。相変わらず遠慮がねぇというか、容赦がねぇというか、もう少しこう……間を置くとかできねぇのかよ、と内心でぼやきながらも、手の中にあるそれを軽く見下ろした。
八十八橋の下で手に入れた指。最初は薄く漂う気配を拾っただけだったが、辿ってみれば案の定そこにいた。群がる雑魚を祓い、奥に潜んでいた本体を引きずり出して祓い、そのまま取り出したそれは、確かに“あいつ”に繋がる感触を持っている。高専から持ち出された六本とは違う、もっと前からどこかに転がっていた類のものだろうと、触れた時点で何となく分かった。
……ついでに橋ごと壊しちまったのは、まぁ、仕方ねぇ。あの場で手加減なんて考えてる余裕はなかったし、人気もなかった。暗い場所だったし、多分バレねぇだろ。多分な。
「わかったよ」
小さく呟きながら、森の中にある岩へと腰を下ろす。人の気配はない。風が葉を揺らす音だけが耳に入る静かな場所で、周囲を一度だけ確認してから足を組み、背筋を伸ばす。
呼吸を整える。
さっきまで動き続けていた身体の熱が、ゆっくりと落ちていくのを感じる。焦ったまま取り込むのはなんとなく嫌だ。流れを整えて、余計なものを削ぎ落としてからじゃないと、うまく噛み合わない気がする。
指を口に運ぶ。
躊躇はない。
そのまま飲み込む。
瞬間、視界が落ちた。
光が消え、音が遠ざかり、身体の感覚が一度すべて剥がされるように抜け落ちる。底へ沈むような感覚の直後、今度は逆に引き上げられる。
目を開けると、黄金の世界が広がっていた。
足元には水面。そこに無数の蓮が浮かび、波もないのにどこか揺らいでいるような気配を持っている。何度見ても慣れきることはないが、それでももう違和感として引っかかることはない。そういう場所だと身体が覚えている。
ゆっくりと立ち上がり、水の上に足を置く。沈まないことを確かめるでもなく、そのまま一歩踏み出す。距離の感覚は曖昧なのに、確実に近づいているのが分かる不思議な感覚の中で、視線を上げた。
骨が積み上げられた山。
その頂点にある玉座。
そこに、いた。
四本の腕を持ち、俺と同じ顔をした男が、頬杖をついたままこちらを見下ろしている。
「小僧……やっとか」
落ちてくる声は重い。空間そのものを押し沈めるような圧が含まれていて、さっきまで頭の中で響いていた声とは比べ物にならないほど輪郭が濃い。
俺はそのまま歩みを進め、見上げる位置まで来て止まる。
「そうだな、全く……お前は本当にうるせぇな」
軽く肩を回しながら返すと、宿儺は頬杖を外し、組んでいた腕をほどいてゆっくりと立ち上がった。その動作ひとつで空気が変わる。何かが満ちるように圧が増し、空間そのものが一段深く沈んだような感覚が広がる。
黒閃の後に残っているあの冴えた感覚が、むしろそれをはっきりと捉えさせる。視界も、音も、気配も、全部がやけにクリアだ。その分、この場の異質さも、目の前の存在の重さも、余計にくっきりと分かる。
「ふんっ……」
短く鼻を鳴らし、宿儺がこちらを見据える。
視線がぶつかる。
逃げ場はない。最初からそんなものは用意されていない。
「では小僧——始めよう」
その一言で、空気が張り詰めた。
気づいた時には、もう目の前に立っていた。さっきまで骨の山の上にいたはずなのに、その距離が一瞬で消えている。踏み込んだとか、移動したとか、そういう過程が丸ごと抜け落ちたみたいな感覚で、ただ結果だけがそこにある。速い、なんて言葉で片付けるには雑すぎる動きだと、反射的に理解させられる。
「油断するなよ」
低く落ちる声と同時に、二本の右腕が重なるように、しかし微妙に軌道をずらしながら突き出される。単純な連撃じゃない、片方に意識を向ければもう片方が刺さる形で、逃げ道そのものを潰しにきている。
だが、見える。
黒閃を打った後から、全部が妙にはっきりしている。動きの始まり、力の流れ、軌道のズレ、その全部が繋がって見える。だから俺は半身をずらす。真正面から避けるんじゃなく、軸をずらして通り道を作るようにして、二本の腕が身体の横を抜けていくのを横目で捉えた。
そのまま左腕を一瞬だけ引く。大きな溜めは作れないが、それで十分だと身体が分かっている。引いた瞬間にその反動をそのまま前へ流し、縦拳を突き出す。最短距離、無駄のない軌道で、そのまま宿儺の胴へ叩き込む——はずだった。
止まる。
宿儺の左腕が、正面から俺の拳を受け止めていた。
ただ止められたんじゃない。衝撃を殺されている。押し込めない。芯の部分だけを掴まれて、そこから先に進まない感覚に、思わず歯を食いしばる。
「油断するなと言ったろう」
声と同時に、右腕がわずかに動いた。ほんの小さな動きなのに、そこから生まれる“線”が見える。
斬撃。
来る。
身体を沈める。掴まれている腕を軸にして、引かれる力を逆に利用しながら体勢を崩す方向へ流す。そのまま回るようにして位置をずらした瞬間、目の前を何かが通り過ぎた。音は遅れて届き、水面が裂け、背後で蓮の葉が一部が滑り落ちるように崩れる。
まともに受けていたら、今ので終わっていたかもしれねぇ。
掴まれている腕をそのまま捻る。関節の可動域を越える方向へ力をかけ、引き剥がすつもりで身体ごと回すが、動かない。力は通っているのに、相手の芯が一切ズレない。逆にこちらが引かれる。
距離が一瞬で詰まる。
「遅い」
至近距離で落ちる声。
次の瞬間、膝が突き上げられる。腹に入る衝撃は重く、内側まで響くが、身体は崩さない。踏みとどまりながら、そのまま額を叩きつける。頭突き。距離が潰されているなら、その距離で当てるしかない。
鈍い音が響き、宿儺の頭がわずかに揺れる。その一瞬で拘束が緩む。逃さず腕を引き抜き、そのまま一歩下がって間合いを切る。
息を吐く。
身体の中の流れは乱れていない。むしろ、さっきよりもはっきりしている。視界も、動きも、全部が繋がっている感覚がある。黒閃を打った時に掴んだものが、まだ残っている。
目の前の宿儺が、口元を歪める。
明らかに楽しんでいる顔だ。
「いいな小僧」
軽く言いながら、構えを崩さないまま圧を上げてくる。さっきよりも濃い。空間そのものが重くなるような感覚が、じわじわと広がってくる。
俺も構える。
まだいける。
次は、さっきより速く動ける。
そう確信しながら、踏み込む準備を整えた。
全身を巡っている流れを、一段階引き上げる。さっきまでとは明らかに違う速度で循環していて、力を込める場所と抜く場所が自然に噛み合う感覚があるまま、水面を踏み込んだ瞬間、その反発がそのまま推進力へと変わり、水飛沫が遅れて弾けるのを視界の端で捉えながら、一気に距離を詰める。
対面の宿儺も、同じタイミングで踏み込んでくるのがはっきり見えた。
来ると分かっていても、速い。
距離が消える。
そして次の瞬間には、もうぶつかっていた。
俺の腕と宿儺の腕が正面から衝突し、骨に直接響くような重さが内側に伝わる。単純な力の押し合いじゃない、流れと流れが噛み合って、その場に固定されるみたいな感覚で、押しても引いても崩れない均衡が一瞬だけ成立する。
そのまま、宿儺が顔を寄せてくる。
距離が近い。
目が合う。
「黒閃を経験してまた一段と“開いた”な」
低く、楽しむみたいに言う。
「開いた?何のことだよ」
思わず返す。
開いたってなんだ。経絡ならとっくに通してるし、それ以上に何かあるってのか。確かにさっきから見え方は変わってる、流れもはっきりしてるし、動きも噛み合う。でもそれが“開いた”って言われても、しっくり来ねぇ。
「気づかないのか?」
宿儺の口元が歪む。
「お前は回帰という名の——」
そこで言葉が途切れる。
ほんの一瞬だけ、間が空く。
「……いや、お喋りをする必要はないな」
そのまま、弾かれる。
腕に乗っていた力を一気に崩され、流れごと持っていかれる感覚と同時に身体が後方へ吹き飛び、水面を滑るように後退しながらも足で制御して勢いを殺し、そのまま距離を取りつつ姿勢を立て直す。
その流れのまま構える。
右手を上に、左手を下に置く。
施無畏印、与願印。
呼吸は乱れていない。
流れもそのまま繋がっている。
視線の先で、宿儺がゆっくりと掌を組む。
見覚えがある形だと、認識した瞬間に空気の質が変わる。
密度が落ちるようでいて、逆に圧が増す。
広がる。
侵食する。
……領域展開。
「小僧、噛み締めろ」
声が落ちる。
次の瞬間、宿儺から呪力が溢れ出した。
ただ放出されるんじゃない、空間そのものに染み込むみたいに広がり、俺の足元、水面、視界の端、全部を巻き込むように侵食してくる。その感覚が皮膚じゃなく、もっと内側に直接触れてくるみたいで、思わず歯を食いしばる。
「——領域展開」
低く、はっきりとした声。
その一言で、空間が変わる。
「『伏魔御廚子』」
瞬間、骨と肉と血が溢れ出した。
地面も空も関係なく、ただ空間そのものから湧き出すみたいに広がっていき、俺の生得領域だったはずの場所を上書きするように侵食していく。水面の静けさは消え、蓮の光景も塗り潰され、その中心に、巨大な構造物が姿を現す。
伏魔殿。
背後に現れたそれは、ただの建物じゃない。
存在そのものが圧になって、空間を支配している。
……ふざけんな。
俺の領域に、勝手に生やしてんじゃねぇよ。
そう思った瞬間、見えた。
「……っ!」
来る。
無数の斬撃。
線として、流れとして、全部見える。
だが、数が多い。
空間そのものから発生して、逃げ場を潰すように纏わりついてくる。
避けるだけじゃ、間に合わねぇ。
視界いっぱいに広がる斬撃を前にして、俺は一度目を閉じた。見えているからこそ、逆に邪魔になるものがある。全部を追えば追うほど遅れる、そんな感覚があったから、意識を外側から内側へと引き戻し、構えを崩さないまま全身に巡っている『流れ』だけを捉える。
速くする。
さらに速く。
全身を駆け巡るそれを、一段、もう一段と押し上げる。
その瞬間、斬撃が届いた。
肉が裂ける。
骨が断たれる。
感触はある。痛みもある。だが、それ以上に、切断されたはずの箇所が“戻る”のが分かる。流れが止まらない限り、そこにあるはずのものは消えないとでも言うみたいに、裂けた肉が寄り、断たれた骨が繋がり、崩れたはずの形がそのまま修復されていく。
白い蒸気が立ち上る。
血管に沿って、金色の光が走る。
それが全身を巡り、筋肉が内側から膨らむように膨張し、外から侵食してくる斬撃を逆に押し返す。切られる側なのに、押し込んでいるのはこっちだという、訳の分からない状態が成立する。
「小僧!!やはり耐えるか!!」
宿儺の声が響く。
楽しそうだ。
明らかに。
俺は目を開く。
視界はまだ斬撃に覆われているが、その中でも“通る道”が見える。流れがぶつかっていない場所、干渉しきれていない隙間、その全部が繋がって見える。
構えは崩さない。
右手を上に、左手を下に置いたまま、そのまま静かに呟く。
「第六式——施無畏印、与願印」
全身の流れを一気に引き上げる。
限界まで高める。
そして——解放する。
内側に溜め込んでいたものを、一瞬で外へ叩きつけるみたいに、爆発させる。
「『仏光普照』」
瞬間、身体の内側から金色の光が溢れ出した。
ただの光じゃない。圧だ。流れそのものが形を持って外へと広がり、衝撃波となって空間を押し返す。
纏わりついていた無数の斬撃が、触れた瞬間に弾かれる。
削るための刃が、逆に押し返される側に回る。
骨と肉と血で構築された宿儺の領域、その侵食すら一瞬だけ止まる。
空間が震える。
拮抗する。
そして、押し返す。
全身に巡らせていた流れが、ようやく一つにまとまる。散らばっていたものが繋がり、噛み合い、どこにも引っかかりがない状態まで整ったのがはっきり分かる。そのまま印を解き、指先に集めていた感覚を拳へと収束させると、余計な思考を挟まずに踏み込んだ。
無拍子。
踏み込んだという感覚すら薄いまま、気づいた時には距離が消えている。水面も、宿儺の領域そのものも反応していない。踏み込んだ衝撃も、音も、何も置いていかずにただ位置だけが移動したみたいな感覚の中で、視界の中に宿儺が引き寄せられるように迫る。
拳に、金色の光が灯る。
溜めたわけじゃない。流れがそのまま形になって、そこにあるだけだ。
「第二式——金剛拳」
名を乗せた瞬間、宿儺の表情が変わる。
「チィッ……!!!!」
舌打ちと同時に、掌印を組んでいない腕が二本、防御に回る。反応自体は速い。だが、それでも間に合っていないと分かる動きだった。この一撃をまともに受ければどうなるか、それを理解した上で、少しでも被害を抑えようとする選択に見える。
だが——遅い。
拳が触れる。
「『金頂仏灯』」
衝突の瞬間、流れが一気に通る。
防御に回された腕ごと押し込む。骨が軋み、次の瞬間にはへし折れる感触がはっきりと伝わり、そのまま抵抗を失った先へ拳が沈み込む。
胴体に着弾する。
逃げ場はない。
内側まで突き抜ける。
宿儺の身体が折れ曲がる。
そのまま吹き飛ぶ。
水面を削るように滑り、軌跡を残しながら後方へ流れていき、ようやく止まる。
余韻だけが残る。
空間に走っていた圧が、わずかに緩む。
俺はそのまま構えを解かず、息を吐く。流れはまだ繋がっている。止める必要はない。このままでも動ける。
視線の先で、宿儺がゆっくりと身体を起こす。
腹を押さえながら、口元を歪める。
「やはり……この一撃か……よい」
低く呟く声には、痛みよりも納得の色が強い。
「お前、領域展開するのはズルいだろ。お陰でまた死ぬとこだったぜ」
軽く肩を回しながら言うと、宿儺は鼻で笑う。
「死なぬのがお前だろう。小僧……ケヒッ」
喉の奥で笑うみたいな、嫌な音だ。
それでも視線は逸らさない。
「お前のズルに俺の一撃。今回も俺の勝ちだな」
言い切る。
宿儺が一瞬だけ黙る。
その沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「……いいだろう」
——勝敗は、既に定まっていた。
肉体の主導権を巡る戦い、その決着は今回もまた虎杖悠仁の勝利という形で終息する。両面宿儺という存在が内側に在りながら、なおもその支配を許さず、逆に押し返すという構図は常識から逸脱しているが、しかしそれは偶発的な奇跡ではない。積み重ねられた修練と、特異な体質、そして“流れ”の理解が噛み合った結果として、必然的に導かれた帰結である。
その事実を前に、両者の間に無用な言葉は存在しない。
「じゃあな」
軽く手を振る虎杖悠仁の声音には、勝利の余韻も誇示もない。ただ日常の延長のように自然な響きがある一方で、その内側では既に次の行動へと意識が移行しているのが分かる。
「小僧、指を追え。分かっているな」
対する両面宿儺は、低く言葉を落とす。その声音には命令の色が濃く滲んでいるが、それと同時に、戦いの継続を望む確固たる意思が含まれていた。主導権を奪えぬ以上、次に繋がる機会を逃すわけにはいかないという判断である。
「はいはい」
虎杖悠仁は苦笑を浮かべながら応じる。
その軽さは表面上のものであり、実際には既に状況の重要性を理解しているがゆえの余裕であるとも言える。指の所在、呪力の流れ、そして外界の異変。それらを把握した上で、最短の行動を選択するための準備が整っている。
やがて彼は両手を合わせる。
乾いた音が、静かに響く。
その瞬間、存在が薄れる。
黄金の世界から、虎杖悠仁の姿が消失する。
——生得領域からの離脱。
それは内側の戦いが終わり、外界へと意識が戻る合図である。
残されたのは、両面宿儺のみ。
広がる黄金の世界、その一角に確保された小さな領域へと戻り、骨が積み上げられた玉座へと腰を下ろす。その動作には焦りはなく、むしろ次の機会を待つ余裕すら感じられる。
「残り十六本……いや十五か?」
指の数を数えるように呟き、頬杖をつく。
「まぁどっちでもいいが、興を削ぐ事をするなよ、小僧」
視線は、水面に浮かぶ蓮へと向けられる。
静謐な光景の中で、その言葉だけが異質に響く。
しかし——
この時点において、両面宿儺はまだ知らない。
外界で進行している企みの全貌を。
夏油傑、そして特級呪霊たちによって編まれた計画、その連鎖がどのような結果を生むのかを。
それは単なる攪乱では終わらない。
すなわち——不可避の転換点。因果の収束。
そして、その日が訪れる。
10月31日。
渋谷。
未曾有の大事変が、幕を開ける。
宿儺「いい、いいぞ小僧」