武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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悠仁、大丈夫か?痛くないか?

 

 

 

 京都高のメカ丸ってやつが言ってたのは、渋谷に宿儺の指がいっぱいあるってことだ。それと、もう一つ——五条先生が封印されたって話。

 

 頭の中で何度も繰り返してるのに、どうにも実感が追いつかない。言葉としては理解できてるはずなのに、納得がまるでできないまま、違和感だけが残り続けてる。

 

 というか五条先生が封印なんかされちまったってどういう状況だよ。あの人が負けるとか、捕まるとか、そういうイメージ自体がそもそも浮かばないから、考えようとするほど逆に現実味が消えていくし、そのズレがそのまま胸の奥に引っかかって離れない。

 

 「『おい小僧、油断するなよ』」

 

 頭の奥で宿儺の声が響く。

 

 「分かってる」

 

 短く返す。

 

 足は止めていない。地面を蹴るたびに空気が裂ける音が遅れて響き、視界の中の景色が流れる前に削れていくみたいに消えていく中で、身体は勝手に前へ進み続けている。

 

 渋谷。

 

 五条先生が封印された場所。

 

 それと同時に、宿儺の指が集められてる場所。

 

 この二つが同じ場所に重なってる時点で、偶然なわけがない。考えなくても分かる。誰かが意図的に状況を作ってる。しかもかなり手間かけて、俺を外した状態で成立するように組んでる。

 

 「クソ……」

 

 思わず舌打ちが漏れる。

 

 やっぱりあの時戻ってればよかったんじゃねぇかって考えが、一瞬だけ頭をよぎる。宿儺の指の気配を追って、日本中を走り回ってたあの時間、その間に全部が進んでたって考えれば、今の状況は綺麗に繋がる。

 

 俺がいない。

 

 五条先生が封印される。

 

 渋谷に指が集められる。

 

 全部、順番通りだ。

 

 「全部、仕組まれてたってことかよ……!」

 

 苛立ちが声に混じる。

 

 「『封印か……五条悟が封印——()()するからだ。ククッ』」

 

 宿儺が笑う。

 

 喉の奥で転がすみたいなその笑い方は、状況そのものを楽しんでるようにしか聞こえない。

 

 「笑ってんじゃねぇよ」

 

 思わず吐き捨てる。

 

 こいつが原因の一つなのは間違いない。あっちだこっちだって適当なこと言いやがって、そのたびに気配追わせて、結果として当たってたのは八十八橋だけで、あとは全部外れ。気づけば日本中走り回ってるとか、普通に考えておかしいだろ。

 

 「お前が適当なこと言ってなかったら、もう少し早く戻れてたかもしれねぇだろ」

 

 吐き出す。

 

 だが返ってきたのは、怒りでも否定でもなく、いつも通りの調子だった。

 

 「『それでも辿り着いたのだろう?小僧』」

 

 軽い言い方。

 

 だが言ってること自体は間違ってない。

 

 結果だけ見れば、こうして俺は渋谷に向かってるし、指の位置も分かってる。遠回りだったかもしれないが、完全に無駄だったとも言い切れないのが余計にムカつく。

 

 「……チッ」

 

 舌打ちが漏れる。

 

 納得はしてない。

 

 でも、今それをどうこう言ってる場合じゃないのも分かってる。

 

 足に力を込める。踏み込みが深くなる。

 

 加速が一段上がる。

 

 空気の抵抗が肌に叩きつけられる感覚が強くなって、音が遅れて追いかけてくる。

 

 視界の中の景色が、流れる前に消える。

 

 考えることは一つでいい。

 

 渋谷に行く。五条先生を助けて、それと指を全部回収する。

 

 それ以外は全部後回しだ。

 

 そうして、さらに速度を上げた。

 

 景色がグングン変わっていく。ビルが増えて、道路の幅が狭くなって、視界の中に人工物が詰め込まれていくのに合わせて、流れの密度も上がっていくのが分かる。

 

 地面を蹴るたびに空気が遅れて裂けるような音を立てて、身体の前にあるはずの抵抗が後ろへ引きずられていくみたいに消えていく中で、俺は車の合間を縫うように走り抜け、足場が途切れれば躊躇なく跳び上がり、そのままビルの側面に足を叩きつけて軌道を変え、さらに高い位置へと繋げていく。

 

 踏み込む。

 

 跳ぶ。

 

 掴む。

 

 その一連の動作を切らさずに繋ぎ続けることで、移動は走るというよりも滑空に近い感覚に変わっていく。風圧が頬を叩き、視界の端で街の輪郭が削れていく中で、意識は一点に固定されていく。

 

 そうして、見えた。

 

 渋谷。

 

 此処に来るまでは、まだ人の気配があった。街の熱が残っていて、流れも雑多で、生きている場所の形をしていた。だが、渋谷駅に近づくにつれて、それが急に途切れる。

 

 消えている。人の流れがだ。

 

 今俺が立っている場所には、ほとんどというか誰もいない。音も少ない。車の音も、人の声も、遠くに押しやられたみたいに薄くなっていて、代わりに別のものだけがはっきりと存在している。

 

 濃い。

 

 宿儺の指の気配。

 

 これまで感じてきたものとは比べ物にならないくらいに濃く、重く、輪郭がはっきりしている。数も一つじゃない。複数、いやそれ以上、重なっている。

 

 間違いない。

 

 メカ丸の言ってた通りだ。

 

 「行くか」

 

 自然と口に出る。

 

 「『そうだ、はやく行け』」

 

 宿儺が急かす。

 

 「うるせぇ」

 

 短く返して、そのまま駅の入口へ踏み込む。

 

 入った瞬間、空気が変わる。

 

 鼻に刺さる匂いが一気に強くなる。血だ。しかも新しい。乾ききっていない、生きていたものの匂いがそのまま残っていて、呼吸をするたびに肺の奥に入り込んでくる。

 

 視界の中に転がっているものが、自然と目に入る。

 

 肉片。

 

 歪んだ身体。

 

 人間だったもの。

 

 そして、見覚えのある形。

 

 「ツギハギの人型呪霊。アイツもいんのか」

 

 七海さんと一緒に行った任務で戦った奴。俺の魂に触れて逃げた奴だ。あの時は逃したが、今回は逃さない。

 

 そのまま下へと進む。

 

 階段を降りるたびに、死体の数が増えていく。改造人間の崩れた身体、人間の倒れたままの姿、どれも流れが完全に止まっていて、そこにあるのはもう“残り物”だ。

 

 戦闘の跡が濃い。

 

 壁に残った衝撃の痕、削れた床、空気に残る残穢。混ざっている。五条先生のもの、呪霊のもの、それと呪詛師のものが全部混ざって、空間に沈んでいる。

 

 かなり激しくやってる。

 

 そのままさらに降りて、通路に出たところで、前方に三つの影が立っているのが見える。距離はあるが、流れで分かる。どれも普通じゃない。

 

 悍ましい呪力。

 

 二人は人間に見える。形も、動きも。ただ流れが歪んでいる。もう一人は完全に呪霊だ。構造そのものが違う。

 

 なのに、違和感が残る。

 

 魂の輪郭。

 

 三つとも同じ形をしている。人間のそれだ。

 

 見た目は呪霊なのに、何故人間……。

 

 「『ほぉ……ククッ、なるほどな』」

 

 宿儺が笑う。

 

 何か分かった顔してるが、説明する気はないらしい。

 

 「貴様、虎杖悠仁か?」

 

 真ん中の男が言う。

 

 視線が合う。妙な感覚が残る。敵だと分かっているのに、どこかで引っかかる感じがある。

 

 「俺が虎杖悠仁だ」

 

 答える。

 

 こいつらからは人を殺した匂いがする。呪詛師だ。

 

 「そうか、なら——死んでもらう!」

 

 男が両手を合わせた瞬間、空間の流れが変わる。血の気配が一気に濃くなる。

 

 術式。

 

 「『あの構えと血の圧縮、赤血か』」

 

 宿儺の声と同時に、血が一直線に飛んでくる。圧縮されたそれは空気を裂きながら迫り、そのまま正面から叩きつけられる。

 

 避けるより受けた方が速い。

 

 判断と同時に身体が動く。腕をクロスさせ、正面から受け止める。

 

 衝撃が来る。

 

 重い。

 

 押し込まれる。

 

 骨に響く。

 

 貫通する力だが、踏み込みを深くして止める。

 

 血が弾ける。

 

 その一部が口の中に入る。

 

 違和感が走る。

 

 「ん……?」

 

 その瞬間、視界が歪んだ。

 

 知らないはずの記憶が、脳の奥から一気に溢れ出した——

 

 「『おい!小僧!待て———』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 脹相の赤血操術、その極致に近い精度で一点へと収束された穿血が虎杖悠仁へと到達した瞬間、空気そのものを裂きながら生じた衝撃波が周囲の粉塵と血飛沫を巻き上げ、直撃と同時に骨格を通して内側へと圧力を押し込む。

 

 虎杖は咄嗟に腕を交差させることで致命的な貫通を防ぎ、その代償として弾けた血液が飛散し、わずかな隙間から口腔内へと侵入したことで、単なる打撃では終わらない接触が成立した。

 

 その瞬間、変質が起きる。

 

 視界が揺らぐ。

 

 現実の構造が崩れるわけではないが、認識の焦点が急速にずれ、目の前の通路と三つの影が霞んでいく一方で、別の光景が強引に割り込むように浮かび上がる。

 

 

 そして虎杖悠仁の脳内に溢れ出す、存在しない記憶——

 

 

 「ははは!悠仁!捕まえてみろ!」

 

 「待てー!兄ちゃーん!」

 

 それは幼き日、兄弟で鬼ごっこをしている記憶だった。

 

 『おい!小僧!』

 

 声が響く。

 

 だが、それは記憶の中のものではない。現実側から引き戻そうとする声。

 

 それでも、意識は抗えない。

 

 薄暗い、夕方の公園で()()の兄弟が走り回っていた。

 

 日が沈みかけ、空の色が橙から紫へと移り変わる途中の曖昧な時間帯で、街灯が点き始めるにはまだ早く、しかし視界の隅々に影が滲み始めるような、どこか現実と夢の境目に立っているかのような光の中で、子供たちが走り回っている。

 

 「ユウジがオニだー!」

 

 「わー!にげろー!」

 

 「悠仁!遅いぞー!」

 

 声が重なる。

 

 無邪気な笑いが連鎖する。

 

 だが、その輪の中には、明らかに人ではない存在が混じっていた。皮膚の色が不自然に濁っているもの、腕の長さが均衡を欠いているもの、眼球の配置が人間のそれから逸脱しているもの、それでも誰一人としてそれを異物として扱う様子はなく、同じ速さで走り、同じ方向へ逃げ、同じように笑っている。

 

 異常が、異常として成立していない。

 

 それがこの記憶の歪みだった。

 

 「イテッ!」

 

 短い悲鳴。

 

 前のめりに身体が崩れ、膝が地面に叩きつけられる。砂が弾け、乾いた音が遅れて響く。

 

 『小僧!気をしっかり持て!』

 

 再び声が割り込む。

 

 現実の側からの警告。

 

 だが、意識は引き戻されない。

 

 皆が立ち止まり、駆け寄る。

 

 走る動作が一斉に止まり、進行方向を変え、中心へと収束する。その動きに躊躇はなく、判断の遅れもない。まるでそれが当然の行動であるかのように、全員が同じ一点へと向かう。

 

 そして1番の兄である脹相が悠仁を起こした。

 

 膝をつき、腕を掴み、力を入れすぎることなく引き上げるその動作は正確で、指の掛け方一つに至るまで迷いがない。

 

 「悠仁、大丈夫か?痛くないか?」

 

 低く、落ち着いた声。

 

 そこに含まれる感情は明確で、迷いも誤魔化しもない。

 

 心配。それだけが、純粋に存在している。

 

 悠仁は一瞬だけ顔を歪めるが、すぐにそれを振り払うようにして立ち上がり、膝についた砂を払うよりも先に顔を上げる。

 

 「うん!だいじょうぶ!兄ちゃん!」

 

 そして、笑う。

 

 迷いなく。

 

 疑いなく。

 

 そこにいる全員が“兄弟”であると信じている顔で。

 

 その光景は、現実には存在しない。

 

 だが、記憶として流れ込んでくるそれは、あまりにも鮮明で、温度も、匂いも、触れた感触までもが伴っていて、単なる幻覚では片付けられない重さを持っていた。

 

 そして、その異常な記憶は——まだ終わらない。

 

 場面が変わった。

 

 先ほどまでの夕暮れの公園とは打って変わり、視界に広がるのは屋内の空間だった。

 

 質素な家だが、どこか暖かい家。壁は年季が入っており、木目が浮き出た床はところどころ擦り減っている。それでも掃除は行き届いていて、生活の痕跡がそのまま積み重なったような、静かな温もりを感じさせる場所だった。

 

 低い天井にぶら下がる電灯が、柔らかい光を落としている。その光は強すぎず、部屋の隅まで均等に届くわけではないが、その曖昧さが逆に空間の輪郭を優しく包み込み、影すらも落ち着いたものへと変えていた。

 

 その中心にある食卓。

 

 そこに、全員が揃っている。

 

 十人。

 

 兄弟たちが並んで座っている。

 

 姿は様々だ。人間の形を保っている者もいれば、腕の長さや指の数が異なる者、顔の構造そのものが歪んでいる者もいる。それでも、その違いはこの場では意味を持たない。誰一人としてそれを異物として扱わず、同じ食卓を囲み、同じ時間を共有している。

 

 食卓の上には料理が並んでいた。

 

 湯気を立てる皿。

 

 肉の焼ける匂い。

 

 油の甘い香りと、少し焦げた表面の香ばしさが空気に混ざり、部屋全体に広がっている。

 

 『起きろ!小僧!』

 

 声が響く。

 

 現実側からの呼びかけ。

 

 だが、反応はない。

 

 虎杖悠仁の意識は、完全にこの記憶の中に引き込まれている。

 

 「今日は悠仁の好きなハンバーグだ!いっぱいこねたな!偉いぞ〜悠仁!」

 

 声がかかる。

 

 脹相だ。

 

 その声には、からかいも誇張もなく、ただ純粋に褒める意図だけが込められている。

 

 「うん!やった!」

 

 悠仁が笑う。

 

 即答だった。

 

 その笑顔に迷いはない。

 

 自分が褒められていることを、そのまま受け取っている顔だった。

 

 「ユウジもハンバーグつくレルのかー!すごイナー!」

 

 別の兄弟が声を上げる。言葉の節々に違和感はあるが、感情そのものは真っ直ぐで、羨望と驚きがそのまま乗っている。

 

 「すごいすごい!」

 

 さらに声が重なる。

 

 笑いが広がる。

 

 それは連鎖して、空気を満たしていく。

 

 人数分の料理が運ばれる。

 

 皿の上に乗せられたハンバーグは形こそ不揃いだが、どれも丁寧に焼かれていて、表面にはしっかりとした焼き色がついている。肉汁がにじみ出て、光を受けてわずかに輝く。

 

 箸が伸びる。

 

 ナイフの代わりに使われる道具が肉を押し切る。

 

 断面から湯気が上がる。

 

 音がする。

 

 咀嚼の音。

 

 皿と器が触れ合う軽い音。

 

 笑い声。

 

 それらが混ざり合って、一つの空間を作り上げている。

 

 皆んなで仲良く食べる記憶。

 

 誰も奪わない。

 

 誰も拒まない。

 

 ただそこにあるものを分け合い、同じ時間を共有している。

 

 その中で、悠仁は自然にその輪の中心にいる。

 

 誰かに促されるわけでもなく、誰かを気にするでもなく、ただ当たり前のようにそこに座り、当たり前のように食べている。

 

 異形の存在が隣にいても、それを恐れる様子はない。

 

 違和感すら抱いていない。

 

 そこにいる全員が“家族”であると、疑いなく認識している。

 

 その空間は、あまりにも穏やかで、あまりにも自然だった。

 

 現実とはかけ離れているはずなのに、その中にいる者にとっては、それが唯一の現実であるかのように成立している。

 

 そして——その記憶は、まだ続いていく。

 

 

 虎杖悠仁は簡潔に言えば気絶した。脹相の血を摂取したことによって、虎杖悠仁自身が持つ常軌を逸した感覚が引き金となり、存在しない記憶が強制的に呼び起こされ、それが脳内へと流れ込むことで処理能力を大きく超過し、神経系統に過負荷が発生した結果、意識は現実から切り離されるように深部へと沈み込んだ。

 

 それは、過去に東堂葵との接触によって流入した記憶とは比較にならないほど濃密であり、単なる情報の流入ではなく、あたかも本来存在していたはずの時間や関係性が後から埋め込まれるかのような形で脳内に展開されるため、拒絶や選別といった防御機構が成立せず、虎杖悠仁の精神は受け入れることしかできない状態へと追い込まれていった。

 

 さらに、その記憶の内容自体が問題だった。家族という繋がり、兄弟という関係、当たり前のように隣に存在し、当たり前のように言葉を交わし、当たり前のように時間を共有するという、本来ならば虎杖悠仁が得ていなかったはずの温度を伴った像が、現実と同等、あるいはそれ以上の質量を持って流れ込み続けることで、思考はその処理に占有され、外界との接続を維持する余裕を完全に失った。

 

 その結果として、意識は途切れる。虎杖悠仁はその場に崩れ落ち、動きを止めた。

 

 虎杖悠仁の生得領域の内側に存在する両面宿儺ですら、この現象には干渉することができない。異常であることは認識しているし、虎杖悠仁の精神が外界から切り離され、別の像へと引き込まれていることも理解しているが、その過程そのものが虎杖悠仁という個体の内側で完結しているため、外部からの介入は成立しない。宿儺は繰り返し声をかけるが、その声は届く層にまで意識が存在していない以上、応答が返ることはなかった。

 

 そして現実側では、穿血を受けたまま気絶した虎杖悠仁へと、壊相と血塗が踏み込む。間合いはすでに詰まっており、相手は完全に無防備な状態である以上、攻撃に躊躇はない。壊相が前に出ると同時に重心を落とし、肩から先へと力を流し込むようにして指先へ呪力を収束させ、そのまま一直線に虎杖の胴体へと貫手を突き出す。空気が押し退けられ、圧縮された力が肉へと食い込み、皮膚が裂け、筋繊維が押し広げられながら指先が内部へ侵入し、骨に到達する寸前で止まると同時に内部で圧が爆ぜ、血液が外側へと弾け飛んだ。

 

 その動作に重なるように、血塗が両腕を振り上げる。振り下ろしの軌道は迷いがなく、両手を重ねた状態で頭部へと叩きつける動きは単純でありながら質量と速度を伴っており、直撃と同時に衝撃が頭蓋を通して地面へと伝播し、鈍い音が床から反響する。骨格が軋み、衝撃波が周囲へと広がるが、それでも虎杖悠仁の身体は反応を示さないまま、その場に沈んだ。

 

 呼吸はある。だが意識はない。完全に沈黙している。

 

 壊相と血塗は、攻撃の手応えとは別の違和感に気づく。触れた瞬間、ただ肉を貫いたという感覚では終わらず、血液を通して何かが逆流するように感覚へと入り込んでくる。壊相の指先から、血塗の掌から、虎杖悠仁の血が単なる液体ではなく、情報を伴ったまま侵入してくるような異質な感覚が走り、両者の思考がわずかに遅れる。

 

 「なんだ……これ?」

 

 壊相が困惑の表情で呟く。

 

 「うぇ?」

 

 そして血塗が戸惑いの声を漏らすが、その違和感は言葉にするよりも先に内側で膨れ上がっていく。

 

 「なんだ……?」

 

 そして同時に、脹相もまた穿血の経路を通じて虎杖悠仁の血を認識していた。血の流れを辿るようにして接続されたその感覚の中で、視界が歪み、思考が揺らぎ、現実とは異なる像が強引に差し込まれる。

 

 この場にいる宿儺を除く全員の脳内に存在しない記憶が、溢れ出していた。

 

 

 そして脹相、壊相、血塗の三人は、それぞれの内側に流れ込んだ存在しない記憶を認識した瞬間、その記憶がただの幻覚や錯乱ではなく、自分たちの根幹に直接触れてくる類のものであることを本能的に悟っていた。

 

 そこに映っていたのは、兄弟として過ごした時間であり、共に走り、共に食卓を囲み、当たり前のように一人を気遣う温度であり、理屈では到底説明のつかないそれらが、しかし感情としては抗いようもなく“本物”だったからこそ、脹相は目の前で倒れている虎杖悠仁へ向けていた殺意を維持できず、壊相と血塗もまた困惑と戸惑いで動きが鈍り、その場に留まること自体が耐えられないかのように後退し、やがて三人ともその場を離れていった。

 

 通路には、虎杖悠仁ただ一人が倒れている。

 

 完全な無防備だった。両腕は力なく投げ出され、頭部は横を向き、胸だけが僅かに上下している。だが、その身体はただ倒れているだけでは終わらない。穿血を受け、壊相の貫手が胴を抉り、血塗の打撃が頭蓋に衝撃を通していたはずの傷口が、既に目に見える速度で塞がり始めていた。皮膚の下、血脈に沿って金色の光が断続的に明滅し、そのたびに白い蒸気が細く立ち昇る。裂けた肉は内側から縫い合わされるように繋がり、抉れた部位は周辺の筋繊維が蠢いて埋まり、砕けかけていた骨も鈍い軋みを立てながら元の位置へと噛み合っていく。その自己再生は単純な呪力操作によるものではなく、元来持つ異常な回復体質に加え、経絡を開いたことによって全身の生命力の巡りが常識外れの効率へと引き上げられた結果だった。

 

 そして、その場へと新たな影が近づく。

 

 「いた」

 

 通路の奥から聞こえた少女の声は、小さく抑えられていたが、確かな目的を帯びていた。続いてもう一人が、慎重に周囲を見渡しながら声を重ねる。

 

 「生きてるよね?」

 

 「うん、なんか光ってるけど生きてる。今しかない」

 

 姿を現したのは、セーラー服を着た女子が二人。美々子と菜々子だった。場違いなほど若い外見をしているが、その目には怯えよりも焦燥と決意が宿っている。二人は虎杖の傍まで駆け寄ると、倒れたその顔を覗き込み、呼吸があることを確認したうえで、互いに短く頷いた。菜々子の手には、布で包まれていた宿儺の指が一本握られている。乾いた黒褐色のそれは、ただの遺物には見えず、見るだけで肌の上を不快な気配が這うような圧を放っていた。

 

 「ごめん、でもこれしかない」

 

 誰に向けた言葉なのかも曖昧なまま、菜々子はそう呟き、虎杖の顎を押し上げる。美々子が口をこじ開け、菜々子が指を捩じ込むように押し入れる。喉が微かに痙攣し、咽頭が反射的に収縮した瞬間、その指は飲み込まれていった。

 

 その瞬間、虎杖の身体に紋様が浮かぶ。黒い模様が皮膚の上を這い、額から頬、首筋へと一気に走るが、それは一瞬で現れ、一瞬で消えた。肉体の主導権は移らない。代わりに通路の空気だけが一気に重く沈み、圧の質が変わる。

 

 「もう一本……!」

 

 美々子がポケットへと手を伸ばす。次の指を取り出そうとした、その時だった。

 

 「チィッ!貴様ら!!今何本喰わせた!?」

 

 火山が噴き上がる直前のような怒声と熱気が、通路の奥から一気に押し寄せてくる。美々子と菜々子が振り返るより早く、数多の術師を退けながら進んできた漏瑚が、宿儺の指の気配を辿ってその場へ到達していた。頭部の火口から立ち昇る熱で空気が歪み、床に残る血がじゅう、と音を立てて乾いていく。

 

 「い、言わない!!美々子!!」

 

 菜々子が叫び、美々子も呪具を構えようとする。だが遅い。漏瑚の腕が軽く振られただけで灼熱が奔り、爆ぜた熱塊が二人の身体を呑み込んだ。肉が焼け、布が燃え、悲鳴は喉の奥で潰れる。次の瞬間には、二人は炭と化して崩れ落ちていた。

 

 漏瑚は一瞥すらくれず、そのまま虎杖の前へ進み出る。

 

 「小細工を……だが結果は悪くない」

 

 低く呟くと、懐から何かを取り出して床へ広げた。それは宿儺の指十本。夏油から譲られた分を含め、封じられていた禍々しい遺物が一列に並ぶたび、通路の気配が急激に変質していく。一本ごとに空間は濁り、床の残穢がざわつき、眠る虎杖の肉体にうっすらと反応が走る。

 

 漏瑚は虎杖の顎を鷲掴みにして無理やり持ち上げると、意識のないその口をこじ開け、一本目を放り込む。喉が動く。続けざまに二本目、三本目。指が舌を叩き、歯列に擦れ、血と唾液で濡れたまま次々と奥へ押し込まれていく。虎杖の喉が痙攣し、胸郭が激しく上下するたびに、漏瑚はさらに乱暴に口を開かせ、容赦なく指を飲ませていった。

 

 一本、また一本。

 

 宿儺の気配が濃くなる。虎杖の皮膚の下で何かが蠢き、金色の再生光に混ざって、別種の不吉な脈動が全身へと広がり始める。

 

 そして——まだ終わらないまま、その変化は次の段階へと踏み込もうとしていた。

 

 

 

 

 呪いの王——両面宿儺が目醒める。




宿儺「…………………」
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