武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
両面宿儺が渋谷に顕現した。
特級呪霊漏瑚によって宿儺の指を一気に十本呑ませられたことにより、肉体は強制的に主導権の書き換えを受ける形で受肉が成立する。虎杖悠仁の魂は、脹相の血によって引き起こされた存在しない記憶の奔流に加え、短時間での指の過剰摂取による急激な負荷を同時に受けたことで処理能力を完全に超過し、深層へと沈み込んだまま外界への干渉を失っていた。その結果として、本来であれば均衡を保つはずだった二者の関係は崩れ、悠仁と宿儺のいずれの意図でもない形で肉体の主導権が完全に入れ替わる。
宿儺は立っている。渋谷の中心、崩落した地面と砕けた建造物の只中にあって、その姿だけが異様なほど静謐だった。呼吸は整い、視線は定まり、表面だけを見れば何の変化もない。しかしその内側では、明確な感情が渦を巻いている。怒りだ。抑え込まれてはいるが消えてはいない。燃え滾る焔のように、静かに、だが確実に内側を侵食していた。
虎杖悠仁に宿って以降、宿儺は常に“挑戦する側”にいた。相手を見極め、価値を見出し、その上で闘争を成立させる。圧倒的な力を持ちながらも、ただ蹂躙するだけでは満足しない。その姿勢は一貫している。戦いという行為を単なる破壊ではなく、選別と過程の積み重ねとして捉え、その一つ一つを愉しむ。それが宿儺の本質だった。
虎杖悠仁という存在は、その中でも異質だった。これまで経験したことのない規格外であり、呪術全盛の時代ですら出会うことのなかった性質を持つ。単純な強さではない。成長の余地と変化の幅、そして予測不能な揺らぎ。その全てが、宿儺にとっては磨き上げる価値のある素材だった。
何より、それを自らの手で完成させる権利があった。削り、試し、追い込み、引き上げる。その過程そのものが価値であり、結果はその先にある副産物に過ぎない。
十五。
それが宿儺に残された回数だった。一つ一つが至高の闘争に等しい、選び抜かれた機会。だが、その内の十一が一瞬で消えた。準備もなく、選別もなく、ただ一方的に消費されたそれは、喪失ではなく剥奪に近い。
「収まらん」
低く押し殺した声が漏れる。外に放たれることはない。だが、確かにそこにある。
宿儺は内側を確認する。虎杖悠仁の魂は深層に沈んだまま動かない。呼びかけても応答はなく、外界への干渉も完全に断たれている。主導権を奪い返す兆しは現時点では見えず、この状態がどこまで続くかも不明だった。
「宿儺様」
背後に気配が現れる。音はない。だが、確実にそこにいる。
宿儺は振り向かない。気配だけでそれを認識する。
「裏梅か」
「お久しうございます」
応じる声は静かで、深く抑えられている。白と黒の袈裟を纏い、切り揃えられた白髪を揺らすその人物は、地に跪き頭を垂れていた。中性的な顔立ちは整っているが、その奥にある気配は冷徹で鋭い。
「お前、指を持っているな」
「はっ……三本所有しております。取り込まれますか?」
「いや、まだだ」
即答だった。迷いはない。
「かしこまりました」
裏梅はそれ以上を問わない。理由は不要だった。
「大方この騒動を引き起こしたのは
宿儺の言葉は断定であり、確認ではない。状況を総合し、既に答えを得ている。
「申し訳ございません」
裏梅は即座に頭を下げる。言い訳はない。誤魔化しもない。ただ事実を受け入れ、謝罪する。
その背にかかる圧が、通常ではないことを理解しているためだ。呪力、威圧、そして怒り。その全てが、これまでの比ではない密度で存在している。
「よい……ん?」
宿儺の視線がわずかに動く。何かを捉えた反応だった。
「宿儺様?」
裏梅が顔を上げる。
「急用だ。俺の指を盗んだ愚図を殺そうかと思ったが……俺は行く。俺が自由になる日は来るか分からぬが、まぁそう遠い日ではないだろう。またな裏梅」
言い終えると同時に、宿儺の姿が消える。移動の痕跡は残らない。空間にわずかな揺らぎだけが残り、その存在がそこにあったことを示していた。
「御意に、お待ち申しております」
裏梅はその消えた方向へと視線を向け、静かに言葉を落とす。そのまま気配を消し、自身もまたその場から姿を消した。
宿儺が感じ取ったもの。
それは単なる呪力の強弱ではない。空間そのものに沈み込むような圧倒的存在感だった。渋谷全域を覆う混濁した気配の中にあって、明確に異質であり、他の全てを押し退けて浮かび上がる一点。その性質は荒々しく、制御されていないにも関わらず、確固たる形を持っている。
(小僧よりかは些かだが……まぁマシか)
宿儺は内心でそう評する。虎杖悠仁という例外を基準にすれば劣るが、それでも並の存在ではない。少なくとも、ただ潰して終わるだけでは意味がない程度には価値がある。
次の瞬間、宿儺の姿がその場に現れる。移動の過程は存在しない。ただ結果として、その場に“いる”。
視界に入った光景は単純だった。
巨大な異形。
人の形をしているが、その構造は明らかに逸脱している。背には法陣を思わせる輪を背負い、肉体は均衡を無視したように肥大している。その腕が振り上げられ、今まさに金髪の術師——重面春太へと叩き込まれようとしていた。
(ふむ)
短く思考する。
価値のない存在が潰されるだけならば、わざわざ介入する理由はない。だが、この状況は単純な殺し合いではない。背後にある構造、成立している術式、その性質を確認する必要がある。
宿儺は踏み込む。
地面が弾ける。
音は遅れて響く。
瞬間的に距離を詰め、そのまま腕を振るう。
衝突。
魔虚羅の拳が重面へと届く寸前、その軌道が僅かに逸れる。宿儺の介入によって力の流れが崩れ、衝撃は横へと逃がされる形で地面へと叩きつけられる。コンクリートが砕け、衝撃波が周囲へと拡散し、瓦礫が跳ね上がる。
重面は転がるように吹き飛び、そのまま地面に叩きつけられるが、即死は免れる。
宿儺はそのまま歩を進め、別の存在へと視線を向ける。
倒れている男。
血に濡れ、呼吸は浅く、意識も不明瞭な状態。
(伏黒恵か、瀕死だな。この助けたゴミは誰か知らんが、この場の気配からして十種影法術の調伏の儀か)
状況を瞬時に整理する。伏黒恵の状態は明らかに限界を超えている。通常であれば既に戦闘不能、時間の問題で生命維持すら困難になる段階だ。それにも関わらず、この場に存在している理由は一つしかない。
調伏の儀。
視線を上げる。
そこに立つ異形。
背に法陣を宿した巨躯の存在が、ゆっくりと動きを戻している。破壊のために生まれたそれは、敵味方の区別を持たない。ただ条件を満たした対象を、順に潰すだけの存在。
(このゴミが死ねば調伏の儀は終了し、伏黒恵の死が確定する)
重面春太。
この場における“対象”。
調伏の儀は術者と対象によって成立する。対象が死亡した場合、儀式は強制的に終了し、その時点で術者に結果が返る。調伏が未完であれば、その反動はそのまま術者に向けられる。
つまり——
このまま進めば、伏黒恵は確実に死ぬ。
宿儺は静かに立っている。
状況を理解し、次に取るべき行動を選別するために。
そして宿儺は一歩、伏黒恵へと歩み寄る。瓦礫に半ば埋もれるように倒れたその身体は、既に限界を超えており、呼吸は浅く、脈も不安定で、このまま放置すれば時間を待たずして生命活動が途絶える状態にあった。視線を落とし、状態を一瞥するだけで、損傷の程度と回復の見込みを把握する。その上で、躊躇なく手を伸ばした。
(小僧に感謝しろ)
掌を胸へ当てる。
接触と同時に、呪力の性質が反転する。
負から正へ。
体内に流れ込むそれは、破壊ではなく修復を目的とした力へと変質し、損傷した組織へと直接作用する。反転術式のアウトプット。宿儺の操作精度は極めて高く、必要以上の干渉を行わないまま、致命傷のみを的確に補修していく。裂けた筋繊維が繋がり、破断した血管が再結合し、流れ出ていた血が止まる。
伏黒の表情が、わずかに緩む。
苦痛に歪んでいた顔が僅かにほどけ、呼吸のリズムが整い始める。完全な回復ではない。だが、死の淵から引き戻すには十分だった。
(やはり小僧の肉体だからか、効きが良いな。これも『流れ』とやらか……ククッ全快しそうだ)
宿儺は内心で呟く。虎杖悠仁という器の特性、その内部を巡る“流れ”が、反転術式の効率を底上げしていることを理解する。単なる回復ではない。肉体そのものの反応が良すぎる。力を流し込めば、それに応じて即座に応答する。扱いやすさという点において、この肉体は極めて優れていた。
その時、離れた位置からか細い声が上がる。
「あっあのぉ〜」
重面春太。先程の一撃を辛うじて免れたその男は、地面に座り込んだまま、恐る恐る宿儺へと視線を向けていた。状況を理解しきれていない表情ではあるが、本能的な恐怖だけは確実に機能している。
「黙れ、口を開くな、おとなしくしてろ」
宿儺は視線を向けることなく言い放つ。その一言だけで、重面の動きが完全に止まる。声を出すことすら許されないと理解した瞬間、喉が引き攣り、呼吸音だけが不規則に漏れる。
宿儺はそのまま顔を上げる。
視線の先。
そこに立つ異形。
八握剣異戒神将魔虚羅。
背に法陣を背負い、歪な均衡を保った巨躯が、ゆっくりとこちらを見据えている。その存在は、ただ立っているだけで周囲の空間を侵食し、均衡を崩す。調伏の儀によって呼び出されたそれは、術者と対象の双方を破壊対象として認識する絶対的な存在だった。
(調伏の儀を終わらせるには異分子の俺がこの式神を倒し、調伏の儀を無かった事にする)
宿儺は状況を整理する。伏黒恵は既に瀕死であり、このまま儀式が進行すれば確実に巻き込まれて死ぬ。調伏が未完のまま対象が死亡すれば、その結果は術者に返る。それを防ぐためには、儀式そのものを成立させない形で破壊する必要がある。
つまり——
外部からの介入。
異分子としての排除。
その条件を満たすのは、自身のみ。
宿儺はゆっくりと一歩踏み出す。
地面が沈む。
空気が震える。
魔虚羅の輪がわずかに回転し、応答するようにその巨体が動きを見せる。互いに視線が交差するその瞬間、空間の密度が一段階引き上がる。
「……味見、といったところか」
宿儺が呟く。
その声音には、僅かな愉悦が混じっていた。
そして、宿儺と魔虚羅が同時に動いた。互いに踏み込んだ瞬間、接地していた地面が耐えきれずに弾け飛び、砕けたコンクリートが周囲へと散乱する。踏み込みの圧だけで地盤が陥没し、衝撃波が地表を這うように広がるが、その余波が視認される頃には既に両者の姿はその場から消失していた。速度は音を置き去りにし、残されたのは破壊された地面と遅れて響く轟音のみ。
次の瞬間、二つの影が交差する。
衝突。
宿儺は腕を振るい、魔虚羅は腕部に備わる刃を振り抜く。互いの攻撃が真正面からぶつかり合い、その接触点で空気が耐えきれずに破裂する。圧縮された空気が一気に解放され、衝撃波となって周囲へと放射される。地面が抉れ、周囲の瓦礫が吹き飛び、建物の外壁に亀裂が走る。その一撃は単なる打撃ではなく、接触した空間そのものを破壊するほどのエネルギーを伴っていた。
「ほぉ」
宿儺が短く声を漏らす。その視線は魔虚羅の腕部、そこに備わる刃へと向けられていた。
(あの刃……対呪霊に特化した退魔の剣か。反転術式に似た正のエネルギーを纏っている。俺が呪霊だったら今の一撃で消し飛んでいたな……ククッ小僧と同じか)
瞬時に性質を看破する。刃に宿るのは負の呪力ではない。反転術式に類似した正のエネルギー、それも極めて純度の高いものが刃全体を覆っている。呪霊という存在そのものを否定するための性質であり、触れれば即座に存在を崩壊させる力。宿儺自身は呪霊ではないため直接的な致命打にはならないが、それでも無視できる類の攻撃ではない。
互いに一度距離が開く。だがそれは後退ではない。次の一手を選択するための僅かな間に過ぎない。
宿儺の指先が、わずかに動く。
対象を捉える。
軌道を定める。
「解」
発声と同時に、不可視の斬撃が空間を切り裂く。圧縮された呪力が刃となり、一直線に放たれるそれは、進行方向に存在する全てを分断する性質を持つ。
魔虚羅の巨体に直撃する。
刹那、肉体が断たれる。
抵抗はない。
両断。
そのまま斬撃は勢いを失わず、背後にあったビルへと到達し、鉄骨とコンクリートをまとめて切り裂く。構造を支えていた柱が断たれ、建物全体が歪み、崩壊の兆候を見せる。
宿儺はその光景を見据えながら、わずかに口角を上げる。
(小僧!凄まじい肉体だ!)
その評価は、自身の技ではなく、今使用している肉体に向けられていた。虎杖悠仁という器の強度と反応速度、それがこの出力を支えている。通常の術師の肉体では成立しない制御と威力が、問題なく引き出されているという事実が、宿儺の内に明確な実感として残っていた。
そして——
魔虚羅の背後に浮かぶ法陣が、重く軋むような音を立てて一度だけ回転する。鈍い金属音に似た響きが空間に広がり、その一回転が確定した瞬間、先ほど宿儺によって両断されていたはずの肉体が、誤差なく元の形へと復元される。断面は存在しなかったかのように消え失せ、血も損壊も、全てが初めからなかったかのように巻き戻されていた。
(傷が癒えている。いや回帰と言っていい。何かしたな)
宿儺はその現象を即座に見極める。単なる再生ではない。結果の否定、あるいは現象そのものへの適応による修正。受けた事象に対して、最適な形へと自身を変質させる能力。その兆候が、今この一回転で明確に示されていた。
宿儺は思考を切らず、そのまま再度指先を動かす。
斬撃が放たれる。
空間を裂き、不可視の刃が直線的に魔虚羅へと到達する。先ほどと同質の術式、同じ原理、同じ威力。それが再び命中するはずだった。
だが、摩虚羅が応じる。
腕部の刃が振るわれる。
軌道が交差する。
不可視の斬撃が、正確にその刃に捉えられる。
逸らされる。
衝突の瞬間、斬撃は本来の進路を外れ、魔虚羅の後方へと流れる。そのまま直線上にあったビルへと叩き付けられ、鉄骨とコンクリートをまとめて切断する。建物の構造が崩れ、重心を失った外壁が歪みながら崩壊を始める。
(弾いた!!見えているのか!!俺の術が!!小僧と同じ!!)
宿儺の内に、明確な興味が芽生える。不可視であるはずの術式を認識し、対応し、軌道を逸らした。単なる防御ではない。理解し、適応している。
口元が吊り上がる。
笑みが浮かぶ。
その瞬間、魔虚羅が踏み込む。巨体に似合わぬ速度で距離を詰め、その腕がしなるように振るわれる。関節の可動域を逸脱した軌道で加速しながら、鞭のようにしなり、宿儺の上半身を狙って一直線に叩き込まれる。
(ふん……呪力の強化までしてくるようになったか)
宿儺はその変化を見逃さない。刃に宿る正のエネルギーに加え、打撃そのものにも呪力による補強が加えられている。適応の範囲が拡張されている証拠だった。
迫る腕を、宿儺は正面から受け止める。掌で掴み、衝撃をそのまま殺す。地面が沈み、周囲の瓦礫が跳ね上がるが、宿儺の体勢は微動だにしない。力の流れを完全に制御し、そのまま相手の動きを封じ込める。
そして、空いた胴体へと踏み込む。
距離は零。
拳が振り抜かれる。
衝撃が直撃する。
摩虚羅の巨体が歪み、そのまま弾き飛ばされる。複数のビルを貫通し、壁を突き破り、鉄骨をへし折りながら直線的に吹き飛ぶ。その軌道上にあった構造物は次々と破壊され、最終的に瓦礫の山の中へと叩き込まれて停止する。
だが、その静止を待たずして、宿儺の姿がその場に現れる。移動の過程はない。結果として、既にそこにいる。
(コイツの能力は推し測るに、あらゆる事象への適応、法陣が回るのが合図だな。俺の術から回帰し、その後弾いたのがいい例だ。それならば……)
宿儺は瓦礫の中に埋もれる魔虚羅を見据えながら、次の手を選択する。単発の攻撃では意味がない。適応される前に、理解が追いつかない密度で叩き潰す必要がある。
「ククッこれを耐えれるか?」
呟く。
両手が動く。
掌印が結ばれる。
閻魔天印。
空間が軋む。
呪力が収束する。
そして——
「領域展開」
言葉と同時に、内側に溜め込まれていた呪力が爆発的に解放される。空間そのものが歪み、現実の構造が書き換えられていく。
「伏魔御廚子『◽️◽️』」