武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
「やぁ、宿儺」
その声はあまりにも場違いなほど軽く、緊張で張り詰めた空間に不自然なほど滑り込んだ。
宿儺と真人、その二者の間に割り込むようにして現れたのは、袈裟を纏った長髪の男だった。ゆったりとした所作、柔らかく歪められた口元、そして額に走る縫合の痕。その姿は紛れもなく夏油傑のものでありながら、そこに宿る気配は明確に別物である。
呪術全盛の時代から生き続けている術師。
羂索。
宿儺はその存在を一瞥した瞬間、眉間に深い皺を刻み、内側から呪力を滾らせる。静かに立っているにもかかわらず、その周囲の空気が歪むほどの圧が生まれ、床に散らばる瓦礫がわずかに軋む音を立てる。
そのまま両手を動かす。
掌が組まれる。
閻魔天印。
動作は滑らかで、迷いがない。既に術式は発動の段階に入り、呪力は外界へと解放される直前まで収束している。
「領域——」
発動の言葉が紡がれようとした、その瞬間。
「あー!ちょっとちょっと!それはおかしいだろう?宿儺」
羂索が慌てたように両手を前へ突き出す。声の調子は軽いままだが、その動きには明確な焦りが滲んでいた。発動されれば、この場にいる全てが巻き込まれる。それを理解しているからこそ、言葉よりも先に身体が動いている。
その背後で、真人は完全に固まっていた。
何が起きているのか理解できていない。
目の前で交わされているやり取りの意味も、その危険性も、全てが処理しきれず、ただ状況に取り残されている。
さらにその奥、羂索の背後に位置していた七海建人もまた、この異常な光景に思考が追いついていなかった。元より限界に近い状態であり、全身の損傷と失血によって意識は既に曖昧になっている。その上でこれだけの呪力と圧に晒されれば、耐えられるはずもない。
(あれは——虎杖君)
霞む視界の中で、かろうじて捉えた影。
羂索と真人、その隙間から見えたのは虎杖悠仁の姿だった。
だが、違う。
何かが決定的に違う。
上半身は裸で、無駄のない筋肉が露わになっている。その肉体は異様なまでに鍛え上げられており、皮膚の上には禍々しい紋様が浮かび上がっている。呼吸一つで空気が震え、立っているだけで周囲の密度が変わる。
(宿儺が受肉している……!?)
七海の思考がそこに辿り着く。
それは最悪の仮定であり、同時にこの状況を最も正確に説明する答えでもあった。
七海建人が意識を保つために必死に思考を巡らせている、その最中だった。
宿儺は一切の躊躇もなく、指先をわずかに振るう。
それはあまりにも小さな動作だったが、そこに込められた意味は絶対だった。
「解」
声に出されることはない。
だが、その術は確実に発動している。
空間が裂ける。
不可視の斬撃が発生し、直線的に前方へと走る。その軌道は羂索を貫通し、そのまま後方にいる真人へと到達するように設定されていた。回避の余地はない。認識すら許さない速度で迫る死の一閃だった。
「いやいや」
羂索が腕を振るう。
それは計算された防御ではない。斬撃の形状も軌道も視認していない。ただそこに在る“殺意”と“圧”を感じ取り、身体が反射的に動いたに過ぎない。
ガキンッ、と硬質な音が響く。
斬撃は弾かれる。
「ヒヤヒヤするよ」
羂索の手元から白い煙が立ち昇る。
その掌に収まっているのは四角い物体——獄門疆。
特級呪物。
その存在は例外的に“破壊されない”という性質を持つ。単純な強度ではなく、存在そのものに対して縛りが課されているためであり、他を害さないという制約と引き換えに、絶対的な保存が保証されている。故に、それは両面宿儺の斬撃であっても断ち切ることはできない。
「俺の邪魔をするなよ。羂索」
宿儺の声音が落ちる。
その直後、姿が消える。
痕跡は残らない。
気配すら消失し、視界から完全に抜け落ちる。
次の瞬間には七海建人の傍に立っていた。動作の連続性は存在せず、そこに至る過程が丸ごと省略されたかのような移動だった。宿儺は無造作に七海の身体を担ぎ上げると、そのまま再び元の位置へと戻る。
介入されたという結果だけが残る。
(小僧がもう目醒める。何としてでも機嫌だけは損なわせてはいけない。ケヒッ……俺がここまでするんだ。十回と言わず、十五回は戦わせて貰わなければ割に合わんぞ)
内側で思考が巡る。
虎杖悠仁の覚醒は目前に迫っている。ここで無差別に破壊を広げれば、その影響は確実に反動として返ってくる。ならば調整する。対象を整え、条件を揃え、後の闘争に備える。そのために一時的に手を貸すことすら、宿儺にとっては合理の範囲内だった。
「おや、宿儺がそんな事をするなんて珍しいね」
羂索が目を細める。
その視線は七海を担ぐ宿儺へと向けられ、そこに純粋な興味と愉悦が混ざっている。予想外の行動を観察すること自体が、この男にとっての楽しみだった。
「黙れ、その呪霊は俺が殺す。お前は去ね」
宿儺は短く告げる。
余計な言葉はない。
ただ自身の意思を提示するのみ。
それに対し、羂索はゆっくりと一歩踏み出した。
真人を庇うように。
その動きは緩やかだが、意味は明確だった。進路を塞ぎ、干渉を前提とした位置取り。衝突は避けないという意思表示である。
「ふふ、そういうわけにはいかないんだよ宿儺。私と結んだ縛りを忘れたとは言わせないよ」
声音は柔らかいまま。
だが、その内側には一切の揺らぎがない。
「縛り?お前と結んだ縛りと呪霊、なんの関係がある」
宿儺の視線が僅かに細まる。
問いは表面的なものではない。相手の意図、発言の裏にある構造を測るための確認だ。
羂索は笑みを崩さない。
むしろ、その問いを待っていたかのように、わずかに顎を引き、背後の真人へと視線を流す。
「あるんだよ」
一拍の間が落ちる。
その沈黙は短い。だが、そのわずかな空白の中で空気は確実に張り詰め、空間そのものが引き絞られるように緊張を帯びていく。
「真人はね。“死滅回游”に使うんだよ」
羂索の言葉は軽い。
まるで雑談でもするかのような口調で放たれたそれは、しかし内容としてはこの場の均衡を根底から揺るがすに足る重さを持っていた。
「死滅回游だと?……そうか、そういうことか」
宿儺は短く呟く。
そこに驚きはない。提示された断片を一瞬で繋ぎ合わせ、その背後にある構造を理解したことを示す、確認に近い声音だった。思考は既に結論へと到達しており、今さら説明を受ける必要すらない。
視線は羂索に向けられたまま微動だにしない。
その内側では、複数の要素が同時に組み上がっていく。真人の術式——魂の形状を操作する能力。それを媒介として成立しうる変化の可能性。そして千年前、自身がこの男と結んだ縛り。その全てが矛盾なく一本の線として収束する。
「……お前は呪霊に俺の指の気配がする物を持たせ、広範囲に拡散させたな」
淡々と告げる。
推測ではない。既に確定した事実を、そのまま言語化しているに過ぎない。宿儺の中では構図は完全に再現されている。指そのものではなくとも、近似した気配を持つ媒介をばら撒き、呪霊を動かし、標的を誘導する。そしてそれらを統括する術式が存在する以上、全体の制御は成立する。
「呪霊を操る術式が今の肉体のものか」
言葉が続く。
視線は羂索の肉体——夏油傑のそれへと向けられていた。単なる器ではない。その術式ごと利用しているという前提での観察だった。
羂索はわずかに肩を竦める。
否定はしない。
むしろ、その理解の速さを愉しむように、口元の笑みを深める。
「そういうこと」
あっさりと認める。
隠す必要がないという余裕が、その態度に滲んでいた。
「だから真人を祓われるのは少し困る」
軽く続けられる言葉。
だが、その意味は明確だ。この場での衝突を避ける意思はない。ただし優先順位は決まっている。真人は必要な駒であり、その役割が終わるまでは排除されてはならない——そう断言しているに等しい。
空気がさらに重くなる。
宿儺の周囲で呪力がわずかに揺れる。膨張するわけでも、噴き出すわけでもない。ただ密度だけが上がり、圧として空間に滲み出る。怒りは消えていない。だが、それを解放する段階ではないと判断している。
選択の問題だ。
ここで何を優先するか。
目の前の呪霊を殺すか。
それとも、その背後にある構図ごと利用するか。
宿儺は何も言わない。
ただ、わずかに口角が吊り上がる。
その表情には、理解と、そして別の愉悦が混ざっていた。
声はない。
喉も鳴らさない。
だが確かに嗤っている。
その歪みから滲み出る悪意と歓喜が、周囲の神経を逆撫でするように圧として広がる。七海建人を担いだまま立つその姿は、本来あり得ないはずの異様さを伴っていたが、それを指摘できる余裕を持つ者は、この場には存在しない。
「何がおかしいんだい?宿儺」
羂索が問う。
声音は変わらず柔らかい。だがその実、相手の反応を探るための間合いを測っている。ここでの一手が致命に繋がる可能性を理解しているからこその慎重さだった。
「おかしい?笑わせるなよ羂索」
宿儺の声が低く落ちる。
先ほどまでの静かな嗤いとは異なり、明確な意志を伴った声音であり、その一言だけで空気の温度がわずかに下がる。
「俺の指を盗んだのは、お前も一枚噛んでいるだろう」
断定。
疑いではない。既に結論へと至った上での提示に過ぎない。視線は羂索を射抜いたまま、その背後にある構図ごと見透かしている。
実際にはそれ以上だ。
首謀者は目の前にいる。
だが羂索はそれを口にしない。宿儺から滲み出る怒りを理解しているからこそ、ここで刺激するべきではないと判断している。
「……そうだと言ったら?」
わずかに間を置いて返す。
表情は変わらない。だが言葉の選び方には明確な意図がある。
「私を殺すのかい?私の目的を知っているだろう?だからこそ宿儺も、千年前に私の案を承諾し、呪物に成り下がってまで時を超えた」
事実を並べる。
感情は乗せない。
あくまで論理として提示することで、交渉の土台を維持する。
「指を盗んだのは君の為を思ってだよ」
軽い声音。
だがその裏には、これは裏切りではないという主張がある。全ては計画の一部であり、最終的には宿儺に利益をもたらす行為である、と。
矢継ぎ早に言葉を重ねるが、焦りはない。必要な事実だけを選び取って提示している。
「それに——宿儺が執心しているその器……それは私が作ったものだ。感謝してもらいたいね」
わずかに笑みが深まる。
その一言に含まれる意味は重い。
虎杖悠仁という存在の成り立ち。その異質性。その強度。全てが偶然ではないと示唆する言葉だった。
「チッ……気色の悪い事をする」
宿儺が舌打ちする。
わずかな苛立ちが表に出る。
その視線は鋭いまま、羂索の奥へと突き刺さる。
羂索は肩を竦める。
「ふふ、ご想像にお任せするよ」
否定もしない。肯定もしない。曖昧に濁すことで、それ以上の情報開示を避ける。
「何の話をしてるの?さっきから……」
横から声が漏れる。
状況についていけていない真人が、困惑と苛立ちを混ぜたまま口を挟んだ。理解できない会話に対する拒絶が、そのまま言葉になっている。
「君は黙ってるんだ、真人」
即座に羂索が制する。
その一言で空気が締まる。
発言権はここにはない。
この場で言葉を交わせるのは、自分と宿儺だけだと示す声音だった。
そしてふと宿儺が自らの手を見下ろす。
その指先には、ほんの僅かな震えが走っていた。外部からの干渉ではない。内側から押し返されるような感覚であり、それが意味するところは明確だった。虎杖悠仁の意識が浮上し、肉体の主導権を奪い返そうとしている。まだ完全ではないにせよ、その兆候は既に無視できる段階を過ぎており、猶予が残されていないことを宿儺自身が理解していた。
「御託はいい。今直ぐ決めるんだな」
低く押し殺した声音が落ちる。視線は羂索へと固定されたまま一切動かず、その場にいる全ての存在へ逃げ場を与えない圧として空間に滲み出ていた。
「その呪霊を半殺しにして術式で取り込むのか、それとも小僧に殺させるのか。いいか?小僧は俺より甘くない。呪霊なら尚更だ。お前の意見なぞ関係ない。全てが破綻するぞ」
淡々と告げられた内容は脅しではない。未来の確定した分岐を、そのまま提示しているに過ぎない。虎杖悠仁が主導権を取り戻した場合、交渉という概念そのものが消滅する。その瞬間、この場にある全ての前提が崩壊し、残るのは一方的な殲滅だけとなる。真人という駒が必要とされている現状において、それは計画全体の破綻を意味していた。
「……それは困るね」
羂索がわずかに間を置いて応じる。声音は変わらないが、その一拍に思考の深さが滲む。提示された条件を即座に整理し、最も損失の少ない選択肢を導き出した結果としての返答だった。
ゆっくりと振り返る。
視線の先にいる真人は、完全に圧に呑まれていた。肉体は硬直し、思考は停止に近い状態で、ただそこに立ち尽くしているだけの存在へと成り下がっている。状況の理解どころか、自身に何が起きようとしているのかすら認識できていない。
「仕方ないね。時期尚早だけど………なら半殺しだ」
軽く言い放つと同時に、羂索は両手を打ち鳴らす。その動作には一切の重みがなく、まるで些事を処理するかのような軽さだったが、決定の内容は覆ることのないものだった。
宿儺はそれを一瞥するだけで十分だった。
「フン」
短く鼻を鳴らし、次の瞬間には指先がわずかに動く。
「捌」
その一挙動だけで空間が裂ける。不可視の斬撃が無拍子で放たれ、距離も時間も無視するかのように真人へと到達する。回避も防御も成立しない。認識が追いつく前に結果だけが訪れる。
「あ」
真人の口から間の抜けた声が漏れた、その瞬間。
首から下の肉体が完全に崩壊した。皮膚も筋肉も骨も区別なく分解され、粉末のように四散する。圧縮されていた衝撃が遅れて解放され、背後の壁が内側から爆ぜるように破壊される。
残されたのは頭部のみ。
そのわずかな猶予の中で、羂索は即座に動いた。躊躇は一切ない。真人の頭部へと手を翳し、術式を発動する。魂そのものへ干渉し、存在の定義ごと取り込むその動作は滑らかで、抵抗が生じる余地すら与えない。既に半壊している状態では、抗うこと自体が成立しなかった。
「じゃ、また後で」
何事もなかったかのように言い残す。その口調は軽いが、その軽さこそがこの男の本質だった。
「さっさと去ね」
宿儺が吐き捨てる。
興味を失った声音。
その直後、羂索の姿が消える。気配も残滓もほとんど残さず、その場から完全に離脱した。
残された空間に、静寂が落ちた。
そして宿儺はゆっくりと歩き出す。
足取りは重くも軽くもない。ただ一定で、迷いのない動きだった。瓦礫の上を踏みしめても音はほとんど立たず、その存在だけが空間の中で浮いているような違和感を伴う。
壁際へと寄る。
担いでいた七海建人の身体を無造作に降ろすのではなく、僅かに動きを緩め、衝撃を逃がすようにして座らせた。乱雑に扱えばそのまま命を落としかねない状態であることを、理解しているかのような所作だったが、その意図が慈悲でないことは明らかだった。
ただの調整だ。
この後に訪れる展開を崩さないための。
「小僧、感謝しろ」
宿儺が低く呟く。
返答はない。
当然だ。
その相手はまだ沈んでいる。
宿儺はそのまま目を閉じる。
意識を沈めるのではなく、逆に押し戻すように。内側からせり上がってくる存在へと、肉体の座を明け渡すための動作だった。
次の瞬間。
肉体に浮かび上がっていた紋様が、静かに消えていく。
皮膚の上を走っていた異形の線が、まるで最初から存在しなかったかのように薄れ、消失する。それに伴い、周囲に満ちていた呪力の質も変質していく。禍々しく濃密だったそれが、別の流れへと組み替えられ、内側へと収束していく。
そして、目が開かれる。
「あれ、俺は……は?」
宿儺のそれではない。
虎杖悠仁の声。
意識が浮上する。
断絶していた記憶と現実が繋がり切らないまま、状況だけが一気に流れ込んでくる。身体の感覚、空気の重さ、残留する呪力、その全てが同時に押し寄せ、思考が追いつかない。
だが、視界に入ったものだけは即座に理解できた。
目の前にいる存在。
崩れ落ちる寸前の状態で座り込んでいる男。
七海建人。
「
声が上がる。
自分でも意識していない呼び方だった。これまで口にしたことのない呼称であるにもかかわらず、違和感なく、むしろ自然に出てきたその言葉に、虎杖自身が一瞬だけ引っかかる。だが、その違和感を追う余裕はない。
七海の状態が、それを許さない。
血が流れている。
呼吸が浅い。
全身の損傷が視認できるレベルで蓄積している。
「うっ……その呼び方はやめて下さい」
七海が僅かに顔をしかめる。
その声は弱い。
だが、確かに意識はある。
それを確認した瞬間、虎杖の表情が変わる。
安堵と焦燥が同時に混ざり合い、次に取るべき行動へと意識が収束していった。
五条悟「うお!?なんか凄い揺れた!!」
初めてアンケートを取ってみました。沢山の回答ありがとうございます。
順番に領域展開→解→とりあえず話す→捌。でしたので、そんな流れで書いてみました(徹夜)
世界斬でも特級呪物は破壊できないんですかね?それなら優秀な防御アイテムとして機能しそうな気もします。