武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
「助けにきた!!!」
……なんて勢いよく言ったけど、正直言って今ちょっと後悔している。
いやだってさ。
なんだよあの化け物。
さっき思いっきり飛び蹴りぶち込んだのに、なんか手応えが妙なんだよ。殴ったとか蹴ったとか、そういう感じじゃない。肉に当たったっていうより、泥の塊を蹴り飛ばしたみたいな、ぐにゃっとした嫌な感触だった。しかも壁に叩きつけたはずなのに、全然ダメージ受けてる感じがしない。
生き物じゃないのか?
というか、そもそも生き物なのかあれ。
こ、こえぇ〜……
もちろん声には出さない。
こんな派手に登場しておいて「うわ怖い」とか言ってたらダサすぎるだろ。先輩二人も見てるし、化け物の後ろにはなんか血だらけの兄ちゃんもいるし、ここでビビったらカッコつかない。
俺は内心を必死に押し込めながら、肩から先輩二人を降ろして壁際に寝かせる。
呼吸はある。よし、生きてる。
その瞬間だった。
『いまなんじぃ〜』
化け物が喋ったぁぁぁ!!
いやいやいや待て待て待て!なんだよアイツ!
口っぽいところがぐにゃぐにゃ動いて、変な声出してるんだけど!しかも日本語っぽい!いや違う!なんか日本語っぽいけど微妙に違う!
気持ち悪!!
というか──
『なななんじーぃぃ!!!』
こっち来てね?
やっぱ来てる。
しかもゆっくりだけど、確実に俺の方へ向かってきてる。
俺は即座に動いた。
超高速でまた先輩二人を抱えて更に離れた壁際まで移動し、そっと床へ寝かせる。担いでいた時は気づかなかったけど、二人ともぐったりしていて意識はほとんどないみたいだった。ここならとりあえず巻き込まれない。
よし。
俺は振り返り、化け物と向き合う。
その時だった。
「おい!逃げろ!」
化け物の後ろから声が飛んできた。
さっき血を流してた兄ちゃんだ。黒髪ツンツンで、俺と同じくらいの年齢に見える。さっきまであの化け物と戦ってたっぽいし、かなりボロボロだけど、まだ立っている。
でも。
まぁ。
余計なお世話ってやつ?
山で修行してるとさ、たまにデカい動物と会うんだよ。ヒグマとかイノシシとか。ああいうのって普通の人はめちゃくちゃ怖がるけど、実際に向き合うと分かることがある。
強いかどうか。危ないかどうか。
そして──
殺せるかどうか。
目の前の化け物は、確かに気持ち悪い。形も変だし、声も変だし、さっきの蹴りの感触も妙だった。
でも。
見た感じ、ちゃんと形はある。
つまり。
「大丈夫だ!」
俺は手を軽く振って答えた。
「問題ない!」
なんてったって俺は、めちゃくちゃ修行してる。
十年だぞ十年。
山で走って、滝を殴って、岩を叩いて、腕立てして、型を繰り返して、何回掌を振ったかもう覚えてない。普通の人間がやらないようなことを、ずっと続けてきた。
だから、多分なんとかなる。
化け物がゆっくり近づいてくる。
足みたいなものが床を擦り、ぐにゃぐにゃした腕が伸びる。目玉みたいなものがいくつもこっちを見ていて、正直かなり気持ち悪い。
でも、逃げる理由はない。
俺は腰を落とした。足を開き、重心を下げる。拳を握る。
体の中の力が、自然と一点に集まっていく。
十年間、何度も繰り返してきた構えだった。
「見せてやるぜ!!!」
俺は拳を引き絞る。
「俺の修行の成果!!!」
化け物が近づいてくる。
床を引きずるように歪んだ脚を動かし、ぐにゃりと曲がった腕を伸ばしながら、目玉の塊みたいな顔をこちらへ向けている。その姿は明らかにこの世の生き物とは思えない形だったが、そんな見た目に気圧されている時間はなかった。距離が詰まれば先輩たちが危ないし、背後ではさっきのツンツン頭の兄ちゃんが血を流しながら踏ん張っている。ここで逃げるという選択肢は最初から頭の中に存在していない。
化け物が更に一歩近づく。
その動きに合わせて、俺も一歩前へ出た。
踏み込みは一歩でいい。
その一歩がすべてを決める。
足の裏が床を捉えた瞬間、脚から腰へ、腰から背中へ、背中から肩へと力が流れ込む。十年も繰り返してきた動きは考えるより早く体が勝手にやってくれる。踏み込みと同時に身体は一気に加速し、廊下の景色がぐっと引き寄せられるように変わった。さっきまで数メートル先にいた化け物の巨体が、次の瞬間にはもう目の前に迫っている。
その勢いのまま拳を放つ。
狙いは多分胴体だ。
ぐにゃぐにゃしていてどこがどこか分かりにくいが、中心っぽい場所へ拳を叩き込む。
予備動作すらない無拍子の一撃。
相手に構えを悟らせないまま、一瞬で距離を詰めて打ち込む拳。それがこの技の基本であり、如来神掌の流れでもある。拳は真っ直ぐに突き出され、化け物の肉の塊へ深くめり込んだ。
拳が着弾した瞬間、俺はそのまま腕を引かない。
拳を開く。
同時に手首を返し、指を広げる。
掌は自然と施無畏印の形になる。
拳打の直後に続く掌底。
流れのまま叩き込む二段の衝撃。
「一の型『如来掌』」
低く呟きながら掌を押し込んだ。
拳で押し込み、掌で突き抜く。
衝撃が腕から伝わり、化け物の身体の奥へ潜り込む感覚があった。次の瞬間、鈍い破裂音が廊下に響き、巨大な体が後方へ吹き飛んだ。衝撃が胴体を突き抜けたのか、背中側から何かが弾けるような音まで聞こえる。
威力としては悪くない。
それなのに。
手応えが最悪だった。
肉を殴った感触でも骨を砕いた感触でもなく、泥の塊を突き抜けたような妙な感触しか残らない。吹き飛んだはずの化け物の身体は、ぐにゃりと歪みながらも崩れる様子がなく、むしろ蠢きながら形を保っている。
その様子を見ていたツンツン頭の兄ちゃんが叫んだ。
「無駄だ!呪力がなければ呪霊に攻撃は効かない!いくら強くてもだ!!」
呪力?
呪霊?
聞いたこともない単語だった。
「マジか」
思わず口から出る。
俺の目の前では、さっき俺が空けた風穴みたいな穴が、ぐにゃぐにゃと蠢く肉の動きによってみるみる塞がっていく。普通の生き物なら確実に致命傷になっているはずの穴なのに、まるで粘土をこね直すみたいに形を戻してしまう。
その光景はかなり気味が悪かった。
化け物は低い唸り声を上げる。
穴が塞がると同時に、再びこちらへ身体を向けてきた。
その瞬間、背後から鋭い声が飛ぶ。
「いけ!玉犬!」
ツンツン頭の男の声だった。
その声と同時に、床へ落ちた影が大きく揺れる。次の瞬間、影の中から白い犬と黒い犬が弾けるように飛び出した。二匹は地面を蹴った瞬間にはすでに化け物へ向かって走り出しており、その速度はかなり速い。
白い犬が先に飛びかかる。
黒い犬が横から食らいつく。
鋭い牙が化け物の身体へ突き刺さり、肉の塊を引き裂いた。
「うおお!!すげぇ!!犬!!」
俺は思わず叫んでいた。
白い犬と黒い犬が、まるで弾丸みたいな勢いで動き回った。
床を蹴ったと思った瞬間には天井近くまで跳び上がり、次の瞬間には化け物の横へ回り込み、鋭い牙を突き立てて肉を引き裂く。二匹はまるで意思を共有しているみたいに連携していて、片方が飛びかかればもう片方が横から噛みつき、逃げようとすればすぐ別の角度から飛び込んでくる。白い犬が喉元に食らいつき、黒い犬が胴体へ牙を立て、肉の塊みたいな体を容赦なく引き裂いていく様子は、さっきまで俺が苦戦していた相手とは思えないほど一方的だった。
犬がピュンピュン動く。
ワンワーンと唸りながら縦横無尽に駆け回り、化け物を完全に蹂躙していた。
犬、強くね?
俺が思わず呆然としていると、化け物の身体がぐにゃりと崩れはじめた。さっきまであんなに巨大だった塊が、まるで熱で溶ける蝋みたいに形を失い、黒い煙みたいなものを上げながら徐々に縮んでいく。最終的には床にいくつかの肉片だけが残り、それさえもじわじわと崩れていった。
その残骸に、犬たちが近づく。
そして。
ムシャムシャ食べはじめた。
え?
食うのそれ?
俺は思わず目を丸くした。
「え?美味いのかそれ?」
さっきまで人を食おうとしてた化け物だぞ?
犬たちはそんな俺の疑問を完全に無視し、まるで普通の餌でも食べているかのような勢いで肉片を平らげていく。数秒もすると床に残っていた残骸はほとんどなくなり、廊下にはさっきまでの戦闘が嘘みたいに静けさが戻っていた。
その空気の中で、黒髪ツンツンの男がふうっと息を吐いた。
「フゥー……助かった」
男はようやく構えを解き、肩の力を抜いたままこちらへ歩いてくる。さっきまで血を流して戦っていたからか動きは少し重そうだったが、それでもしっかりとした足取りだった。
「名前は──」
そう言いながら近づいてくる。
俺はその瞬間、反射的に動いた。
先輩二人を床に置いていた場所へ、さっきと同じ勢いで一気に走る。体が勝手に動いたと言っていい。次の瞬間にはもう先輩たちの横にしゃがみ込み、二人を抱え上げたまま男の方へ向き直っていた。
「俺は虎杖悠仁だ。この学校の生徒」
名乗る。
すると男は少しだけ眉をひそめた。
「さっきからその動きはなんなんだ?まるでギャグ漫画みたいな……」
俺の動きのことを言っているらしい。
確かに自分でも速いとは思うけど、そんな変か?
男は小さく首を振った。
「……まぁいいか」
そして改めて名乗る。
「俺は呪術高専の伏黒恵だ。此処には呪物の回収に来たんだが──」
「じゅぶつ?」
聞き慣れない言葉だった。
そういえばさっきも呪霊だの呪力だの言っていた気がする。呪いって言葉が入ってる時点でなんか怪しい感じはする。
呪物。
つまり呪いのアイテムか?
その瞬間、俺の意識がふとポケットへ向いた。
入っているのは、あの冊子。
如来神掌の本。
まさか俺の本を狙ってるのか?
いや待て違うか。
別に呪われてる感じしないし!
むしろ十年使ってるし俺の相棒みたいなもんだし!
そんなことを考えていると。
「ん?」
抱えていた先輩の体から、何かがポトッと落ちた。
俺は二人を抱えたままその場にしゃがみ込み、床に落ちたそれを拾い上げる。
手の中に収まったのは──
指だった。
人間の指みたいな形。
ただし、どう見ても普通じゃない。
爪が異様に長く、黒く変色していて、皮膚もどす黒く乾いた感じになっている。触っているだけでなんとなく嫌な感じがするというか、見ているだけで気持ち悪くなる見た目だった。
「なんだこれ?」
俺が指を掲げる。
伏黒がそれを見て頷いた。
「そう、それが呪物だ。特級呪物『両面宿儺の指』」
「きも!」
思わず言葉が出た。
だってマジで気持ち悪い。
俺の手の中にあるそれは、人の指っぽい形をしているくせに、明らかに普通じゃない禍々しさがあった。多分人差し指かなと思うけど、正直あまり触りたくないタイプの物体だ。
「どうすんのこれ……」
伏黒に聞こうとしたその瞬間だった。
背筋がぞくりとした。
頭上から、嫌な気配。
反射で動く。
俺は先輩二人を抱えたまま身体を捻り、伏黒の胸を押す。
「避けろ!!!」
次の瞬間、さっきまで俺と伏黒が立っていた場所が轟音と共に崩れ落ちた。床が割れたわけじゃない。天井が崩れたわけでもない。廊下の天井そのものがぐにゃりと歪み、肉の塊みたいに変形しながら落ちてきたのだ。天井の板が裂け、黒い肉のようなものが剥がれ落ち、その中心から目玉と牙が生えた巨大な顔が現れる。つまり、さっきまで普通の天井だと思っていた部分が、そのまま呪霊に変化して襲いかかってきたというわけだ。
「うおっ……!」
崩れた瓦礫が床に叩きつけられ、コンクリートの破片が飛び散る。もし一歩遅れていたら、間違いなく下敷きになっていた距離だった。俺は先輩二人を抱えたまま後方へ跳び、伏黒も同時に飛び退いている。埃が舞い上がり、視界が少し白くなる中で、さっきまで天井だったものが完全に形を変え、巨大な呪霊として床の上に降り立った。
ひぇー。
マジで危なかったぜ。
俺は肩に担いだ先輩たちの様子を一瞬確認してから、伏黒の方へ顔を向けた。
「怪我ねぇか!?」
伏黒は瓦礫の向こうから立ち上がり、軽く肩を回してからこちらを見る。
「あぁ……」
短く答えたあと、少しだけ目を細めた。
「よく気付いたな」
その視線は、どこか考え込むようだった。
(コイツ呪力がないくせに気配に敏感だな……さっきの規格外の膂力といい、まさか真希さんと同じ天与呪縛か?)
何を考えているのかは分からないが、伏黒はすぐに意識を前へ戻した。
俺も同じ方向を見る。
そこにいたのは、さっきより明らかにデカい化け物だった。
『ハラハラハラヘヘヘヘッッッッタ』
気味の悪い声が廊下に響く。
呪霊が俺たちを見据えている。
口からだらだらと涎を垂らし、長い舌で口元を舐めている姿は完全に獲物を見る肉食獣そのものだった。
見た目はかなりひどい。
手足が六本。
目が四つ。
長い尻尾まである。
背中にはびっしりと毛が生え揃っているのに、それ以外の部分にはほとんど毛がない。皮膚はぬめぬめしていて、ところどころ骨みたいなものが浮き出ている。
ネズミっぽい?
いや、なんとも言えない。
とにかくキモい!
俺が観察していると、横から伏黒の声が聞こえた。
「お前は二人を連れて逃げろ」
伏黒は低く構え、両手を組みながら言う。
その足元では、さっきの白い犬と黒い犬が牙を剥き出しにして呪霊へ唸っていた。
「担ぎながら動けるのはお前だけだ」
なるほど。
確かに二人担いで走れるのは俺くらいかもしれない。
でも。
「いやいや!」
俺はすぐに首を振った。
「二人で一緒にやった方がいいだろ!伏黒!」
そう言いながら、俺は先輩二人を抱えたまま一瞬で後方へ走り、廊下の角を曲がった先の壁際へそっと寝かせる。そしてそのまま踵を返し、全力で戻った。
数秒後には、また伏黒の横に立っている。
伏黒が目を見開いた。
「は?」
「お待たせ」
「お前いつのまに……」
言いかけて、伏黒は首を振る。
「……いやまあいい」
そして短く言った。
「さっきも言ったが、呪いは呪いでしか祓えない」
さっきも聞いた言葉だ。つまり俺の攻撃は効かない。呪力ってやつがないから。
俺はポケットの中の感触を思い出した。さっき拾った、あの指。
「なぁ伏黒」
俺は聞く。
「なんでアイツら俺たちを狙ってんだ?」
伏黒は顎で示した。
「その指だ」
「指?」
「呪物を狙ってる。呪物を食って、より強い力を得るためにな」
なるほど。この気色悪い指を食うと呪力がパワーアップするわけか。
俺は手の中の指を見た。黒くて爪が長くて、見た目はかなりキモい。
でも、話を聞く限り、答えは単純だった。
そうかそうか。なんだ。
簡単な方法があるじゃねぇか。
俺は伏黒の方を見た。
「伏黒!」
声を上げる。
「コイツ食えば呪力をゲットできんだな?」
伏黒の顔が一瞬固まった。
「は?」
「おっしゃ!」
「は!?何言って──」
伏黒が止めるより早かった。
俺は指を口へ放り込む。そのまま噛まずに──
飲み込んだ。
次の瞬間、視界が暗くなった。
音が消えた。
体の感覚がふっと消え、足元の床の感触すら分からなくなる。
次の瞬間には、まったく違う場所に立っていた。
そこは黄金の世界だった。
一面に広がるのは蓮の葉と花。
水面の上に巨大な蓮が無数に浮かび、そのすべてが黄金の光を放っている。空も地面も境界が曖昧で、まるで仏像の世界に迷い込んだみたいな不思議な光景だった。
その中心に似つかわしくないものがあった。
骨の山。
無数の骸骨が積み上げられた山の上に、ひとつの玉座が置かれている。
そこに座っていたのは──
四本の腕を組み、退屈そうに頬杖をつきながら、こちらを見下ろしている。
男が口を開いた。
「貴様……ここはなんだ?」
低い声だった。
俺は周囲を見回す。
黄金の蓮。
骨の山。
玉座。
そして、俺と同じ顔の男。
状況が意味不明すぎる。
「いや」
俺は思わず言った。
「俺が聞きたいんだが!?」
虎杖悠仁が特級呪物『両面宿儺の指』を丸呑みにした瞬間、彼の意識は唐突に暗転した。さっきまで立っていた校舎の廊下も、伏黒恵の姿も、巨大な呪霊の気配も、すべてが一斉に遠ざかるように消え去り、感覚という感覚がふっと途切れる。重力も音も空気の感触も消えた空白の一瞬が訪れ、その直後、虎杖悠仁は自分が今まで一度も認知したことのない場所へ立っていることに気付いた。
そこは現実のどこにも存在しない景色だった。
足元に広がるのは水面のようでありながら水ではない。鏡のように滑らかな光の層が果てしなく続き、その上には巨大な蓮の葉が無数に浮かんでいる。葉の一枚一枚は人間の背丈を軽く越えるほどの大きさを持ち、中央には金色に輝く蓮の花が咲き誇っていた。花弁の一枚一枚が淡く光を放ち、空間全体を柔らかな黄金の光で満たしている。その光は眩しいというよりも静かに染み込むような性質を持ち、見る者の意識をゆっくりと包み込むようだった。
空もまた奇妙だった。
青空でも夜空でもない。上空には雲のようなものが浮かんでいるが、それは白ではなく金色に近い色合いを帯びており、まるで巨大な仏像の背後にある後光が空そのものへ広がったかのような印象を与えていた。風の音はない。それでも蓮の葉はわずかに揺れており、その動きはまるで世界そのものが呼吸しているかのような静かな律動を感じさせる。
この場所は虎杖悠仁が十年にわたる修行の末、
本来、生得領域というものは呪術師であっても明確に認識する機会は少ない。術式の根幹となる魂の空間でありながら、ほとんどの場合は無意識の奥底に沈んだまま表面へ現れないものだ。ところが虎杖悠仁という少年は、如来神掌の修行を十年間続ける中で呼吸法、座禅、精神集中といった鍛錬を繰り返し、結果として自覚のないまま精神の内側を異様なほど研ぎ澄ませていた。本人にその自覚はないが、その鍛錬は結果として心象世界の構造を安定させ、この黄金の蓮の世界を形作る土台となっていたのである。
だが、その静謐な世界にはあまりにも場違いなものが存在していた。
蓮の葉が広がる黄金の水面の中央付近、そこだけはまるで別の空間を無理やり継ぎ足したかのように景色が歪んでいる。美しい蓮の花が咲くはずの場所に、黒く積み上がったものがある。それは骨だった。無数の骸骨が山のように積み重なり、白骨が幾層にも折り重なって巨大な丘を形作っている。その頂点には粗雑に作られた玉座が置かれ、周囲の黄金世界とは明らかに調和しない禍々しい気配を放っていた。
その玉座に座る存在がいる。
四本の腕を組み、退屈そうに頬杖をつきながら、足元の世界を見下ろしている男。鋭い目つき、口元に浮かぶ嘲笑、そして人間離れした威圧感を帯びた気配。顔立ちは驚くほど虎杖悠仁に似ているが、纏う雰囲気はまるで正反対だった。悠仁が持つ素朴な生命力のようなものがそこにはなく、代わりにあるのは長い年月を生きた怪物のような静かな残酷さだった。
その存在こそが両面宿儺である。
黄金の蓮の世界の中に、異物のように存在する骨の山。その玉座に座る呪いの王。そしてその玉座を見上げる位置に立つ、もう一人の人物。
この心象世界には、今、二人しか存在していない。
虎杖悠仁。
そして両面宿儺である。
玉座に座る存在は、ゆっくりと目を開いた。
それは凡そ千年ぶりの受肉だった。長い長い時間を呪物として封じられ、指という形でこの世に残り続けていた呪いの王、両面宿儺。その魂は今、虎杖悠仁という少年の身体へ取り込まれ、ようやく再び世界へ触れることになった。
しかし。
目覚めた瞬間、両面宿儺の意識には明確な違和感があった。
そこが、自身の生得領域ではなかったからである。
本来、受肉した瞬間に展開されるはずの心象世界は、自らの魂の形をそのまま反映した空間になる。千年前の宿儺の生得領域は、死と呪いの象徴とも言える禍々しい空間だった。骨と血と呪力の渦が支配する領域であり、そこでは宿儺こそが絶対の支配者となる。
だが。
今、宿儺の目の前に広がっているのはまるで別物だった。
一面に広がるのは蓮の葉。
巨大な葉が黄金の光を受けて静かに揺れ、その上には金色の蓮の花が咲き誇っている。空間全体が柔らかな光に包まれ、静謐で穏やかな空気が流れていた。まるで仏の浄土のような世界であり、千年前に無数の人間を殺戮した呪いの王にとっては、あまりにも異質で場違いな景色だった。
ただし。
その黄金世界の中心には、宿儺自身の気配が存在している。
蓮の葉の海の中央には骨が積み上げられた山があり、その頂上に粗末な玉座が置かれていた。そこに座る存在こそが両面宿儺であり、その骨の山は宿儺の魂が持つ本来の領域が無理やり形を保とうとしている痕跡でもあった。
つまり、この空間は完全な宿儺の領域ではない。
そして同時に、完全な別人の領域でもない。
宿儺は顎に手を当て、目の前の景色をゆっくりと見渡す。
「……ほう」
わずかに眉を動かした。
宿儺の視線の先には、一人の男が立っている。
蓮の葉の上に、まっすぐ立っている。
顔立ちは、玉座に座る宿儺と同じだった。
だが纏う雰囲気はまるで違う。
男の身体は見事に鍛え上げられていた。肩幅は広く、腕や背中の筋肉は無駄なく発達し、十年の鍛錬によって作り上げられた肉体がそこにある。立ち方には迷いがなく、呼吸は静かで安定しており、その姿は武術を積んだ者特有の重心の低さを感じさせた。
その男こそ、虎杖悠仁だった。
宿儺は頬杖をついたまま、悠仁を見下ろす。
「貴様……ここはなんだ?」
低く、ゆったりとした声だった。
問いというより、状況を確認するための言葉だった。
その問いに対し、蓮の葉の上に立つ悠仁は眉をひそめながら口を開いた。
「いや、俺が聞きたいんだが!?」
声には困惑が滲んでいる。
当然だった。
ついさっきまで学校の廊下で呪霊と戦っていたはずなのに、気がつけば黄金の蓮の世界に立っているのだから混乱しない方がおかしい。
悠仁は周囲を見回し、骨の山と玉座を見て、もう一度宿儺を見る。
「ていうかお前誰?」
あまりにも率直な質問だった。
宿儺は一瞬だけ目を細めた。
そして、ゆっくりと笑う。
「ほぉ……」
頬杖をついたまま、悠仁を観察する。
「自身の生得領域を認知していないとは」
宿儺の口元がわずかに歪む。
「俺はそんな痴れ者に受肉し、あまつさえ抑え込まれ、領域すらも塗り替えられたのか」
悠仁は首を傾げた。
「な、なんて?」
難しい単語が多すぎる。というか、そもそも話が全然分からない。
悠仁は頭を掻きながらもう一度聞く。
「だから誰だよ?」
その問いを聞いた瞬間。両面宿儺は、はっきりと笑った。
喉の奥から低い笑い声が漏れる。
「ククッ……」
その笑いには、長い退屈の後に面白い玩具を見つけた者のような愉悦が混ざっていた。
「面白い」
宿儺はゆっくりと玉座から身を起こす。
四本の腕を軽く動かし、骨の山の上から悠仁を見下ろした。
「では」
目が細くなる。
「
如来神掌なんですが、カンフーハッスルしか観てないので、正味どういった技があるか分かりません。とにかく強いってのは分かります。