武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
宿儺との邂逅を経て、辛うじて命を繋いだ羂索は、人の気配が完全に途絶えた開けた場所へと辿り着いていた。
そこはつい先程まで戦場であった地点。
両面宿儺と八握剣異戒神将魔虚羅が激突し、その決着が強引に捻じ伏せられた場所であり、地形そのものが戦闘の痕跡として刻み込まれている。
大地には巨大な穴が穿たれていた。
底は見えない。
ただ暗く、深く、まるで地そのものが抉り取られたかのように口を開けている。その周囲には倒壊したビル群が無造作に転がり、コンクリートの塊や鉄骨がねじ曲がったまま散乱していたが、羂索の関心はそこには向いていなかった。
「……あの宿儺が、ね」
ぽつりと呟く。
その声音には、僅かな興味と違和感が混じっている。
「あんな控えめな領域を展開するなんて意外だな。それに——妙だ」
ゆっくりと視線を穴の奥へと落とす。
「宿儺の領域展開っぽくない」
本来であれば、彼の領域は圧倒的な破壊と殺戮を伴うはずだった。だがこの痕跡には、どこか“制御された痕”が残っている。規模ではなく、選択の痕跡。意図的に範囲を限定したような、不自然な収束。
それが何を意味するのか。
完全な答えには至らないが、羂索はそれ以上深く考えることをやめた。
今は優先すべきことがある。
「さて……真人の術式を抽出するとしよう」
言いながら、穴の縁へと歩み寄る。
「時期尚早だったけど、それはまぁ些細な問題だ」
軽く肩を竦める仕草には、本心からの余裕が滲んでいる。計画にズレは生じているが、それを致命とは捉えていない。むしろ、そのズレすらも許容範囲として組み込んでいるようだった。
羂索は静かに手を翳す。
そして術式を発動する。
呪術において、生得術式には段階が存在する。領域展開という完成形に至るまでの過程の中で、それとは別に“極致”と呼ばれる領域がある。
極ノ番。
それは術式の本質を一点に集約し、通常運用とは異なる形で発現させる奥義。
羂索が今用いる肉体——夏油傑の術式は『呪霊操術』。
呪霊を取り込み、支配し、使役するという極めて単純かつ強力な能力だ。
その極ノ番が——
「うずまき」
低く告げられる。
背後に、歪んだ気配が生まれる。
それは一つの形を持たない。
渦。
呪霊が圧縮され、混ざり合い、境界を失いながら一つの塊へと変質していく。呻き声のような音が重なり合い、空間そのものを軋ませるほどの密度で収束していくそれは、単なるエネルギーの塊ではない。
その中心にあるのは、かつて真人であったもの。
魂を操作する呪霊の残滓が、核として組み込まれている。
「極ノ番『うずまき』」
放たれる。
圧縮された呪力が一気に解放され、螺旋を描きながら大穴の底へと叩き込まれる。轟音と共に空気が歪み、地面が振動する。
だが、それは攻撃が目的ではない。
「……ふむ、良い感じ」
羂索は静かに呟いた。
既に目的は達成されている。
真人からの術式抽出。
無為転変。
魂に干渉し、その形を変える力。
それが今、羂索の手中にある。
次の動作に迷いはない。
羂索は膝をつき、大地へと手を触れさせる。
そして——発動する。
「無為転変」
瞬間、術式が地面を走る。
目に見えない波紋のように広がり、地中を伝い、都市全体へと浸透していく。刻まれた術式痕は空間を経由して上空へと転写され、そこからさらに拡散する。
対象は、既に選定されている。
羂索が事前にマーキングしていた無数の人間たち。
その全てに対して、同時に作用が及ぶ。
魂の形が書き換えられる。
脳の構造が変質する。
非術師は術師へと。
未完成は完成へと。
強制的な“適応”。
それが一瞬で、広範囲にわたって実行される。
「よしよし……」
満足げに頷く。
さらに懐から一枚の結ばれた紙を取り出す。
それは長い年月をかけて結ばれてきた契約の証。
過去の術師たちとの縛り。
「それと——これも、もういらないね」
軽く指を動かし、紙を解く。
拘束が外れる。
契約は破棄され、封じられていたものが解放される。
紙はそのまま、大穴の中へと投げ捨てられた。
そして——解き放たれる。
呪霊。その数、一千万。
抑え込まれていた存在が一斉に外界へと溢れ出し、渋谷を起点として拡散していく。
都市が、世界が、再び呪いに呑まれていく。
羂索はその光景を見下ろしながら、ゆっくりと笑みを深めた。
「死滅回游の始まりだ」
静かに告げる。
それは宣言であり、確定した未来の提示だった。
「ふふ……聞いているかな?宿儺」
視線はどこにも向けられていない。
だが確実に、“誰か”に向けられている。
「再び呪術全盛——平安の世がやってくるよ」
その言葉と共に、羂索の姿は闇の中へと溶けるように消えた。
その頃——
「ナナミン!?」
目の前の光景を認識した瞬間、頭の奥に残っていた夢の余韻は一気に霧散した。何か強烈なものを見ていた感覚だけが残っているのに、肝心の内容が指の隙間から零れ落ちるみたいに思い出せない。だが、そんな曖昧な感覚に引っ張られている余裕はなかった。
そもそもナナミンってなんだ。
七海さんだろ普通に。
なんでこんな呼び方が自然に出てくるのか自分でも分からないが、今はそんな違和感に構っている場合じゃないと判断して思考を切り捨てる。
俺はすぐに七海さんへと駆け寄った。
壁に寄り掛かっている身体は明らかに限界を超えている。左半身は焼け爛れて皮膚の原型を失っている箇所があり、裂傷と出血も酷い。片目は潰れているし、呼吸も浅く不安定だ。見ただけで分かる。これは放っておけば確実に死ぬ状態だ。
「うっ……その呼び方はやめて下さい」
それでも返ってくる言葉に、意識があることだけは確認できた。だが、その声に込められた力の弱さが逆に現実を突きつけてくる。
なんでこんな事に——と考えかけた瞬間、頭の奥に割り込んでくる声があった。
「『おい小僧、話がある。生得領域にこい』」
宿儺。
(は?今そんな場合じゃねぇだろ!)
即座に切り返す。内容なんてどうでもいい。今優先すべきことは一つしかない。
俺は七海さんの胸に手を当てた。
やり方は分かる。
感覚として既に身体に馴染んでいる。呪霊に対してやってきた“あの流れ”を、今度は人間に合わせて調整するだけだ。
自分の内側に巡っている呪力へ意識を向ける。荒々しく、ただ破壊のためにあるような宿儺の呪力を掴み取り、それをそのまま使うのではなく、自分の中にある“流れ”に沿って反転させていく。性質が変わる感覚がはっきりと分かる。暴力的だったものが、静かに、しかし確かな力を持って別の形へと変質していく。
そのまま七海さんへと流し込む。
金色の光が滲むように広がり、焼け爛れた箇所や裂けた傷口へと浸透していく。内部で何かが繋がっていく感触が、手のひら越しに伝わってくる。
「……反転術式ですか、そんなことまで」
七海さんが息を吐く。さっきよりも明らかに呼吸が整い始めているのが分かる。
「ナナミン!ちょっと静かにしてて!」
「だからその呼び方……ゴホッ!」
「ほら〜だから大人しくしてろ……」
軽口を叩きながらも、意識は手元から逸らさない。流れを崩さないように、余計な力を入れず、必要な分だけを丁寧に送り続ける。
その最中だった。
空気が変わる。
ただの気配じゃない。空間そのものに何かが広がっていくような感覚で、遠くから波紋が押し寄せてくるみたいに呪力が拡散していくのが分かる。それも一つや二つじゃない。複数の点から同時に、街全体へ染み込むように広がっている。
なんだこれ。
明らかに異常だ。
背筋が冷たくなる。
「ブラザー!!」
不意に、場違いなくらいでかい声が響いた。
聞き慣れた声だ。
状況にそぐわないはずなのに、その声だけが妙に現実感を伴って耳に残る。
俺は反射的に顔を上げた。
通路の先から人影が二つ。
それが現れた瞬間、さっきまで周囲に広がっていた妙な圧迫感とは別の意味で空気が動いたように感じた。視線を向ければ、その輪郭はすぐに見慣れたものへと収束していき、距離が詰まるごとに確信へと変わっていく。
案の定、東堂と——釘崎だった。
「おいブラザー!!無事か!!!」
「ちょっとアンタ!虎杖じゃん!こんなとこで何してんのよ!?」
二人はほぼ同時に声を上げながら駆け寄ってくる。足取りは重くないが、動きの端々に疲労が滲んでいて、さっきまで戦闘をしていたことは疑いようがなかった。釘崎の服は汚れと破れが目立ち、呼吸もわずかに荒い。それでも目の光は死んでいないあたり、あいつらしいと言えばあいつらしい。一方の東堂はというと、相変わらず上半身裸で、全身に薄い傷を負っているにもかかわらずその存在感は全く衰えていない。
……というか。
あれ?
俺も上半身裸じゃねぇか。
いつの間にだよ。
さっきまで普通に着てたはずなのに、全く記憶がない。戦闘中に破れたのか、それとも——いや、考えても分からないことを今追うのはやめた方がいいと判断して、その違和感を一旦脇に押しやる。
「七海さん!やっば!死にそうだけど……」
釘崎が俺の横に滑り込むようにしてしゃがみ込み、七海さんの状態を一目見て顔をしかめた。その反応は当然で、見た目だけで分かるほど損傷が酷い。左半身は焼け爛れ、皮膚はまともに残っていない部分もあるし、全身の裂傷も深い。普通ならとっくに意識を失っていてもおかしくない状態だ。
だが、その言葉に東堂がすぐさま割って入る。
「釘崎野薔薇、訂正しろ。七海術師はまだ死なん。
落ち着いた声だった。
状況を冷静に見て、判断している声音。
「反転術式ィ?アンタそんなのできたの?」
釘崎が驚きと疑いを混ぜた視線を向けてくる。
その問いに対して、すぐに言葉が出なかった。
呪霊相手にやってたことを応用しただけ——そう言えば説明としては通るはずなのに、どうにもそれだけじゃ足りない気がする。今こうして七海さんに流している“これ”は、もっと自然で、もっと馴染んでいる感覚がある。初めてやるはずなのに、身体の奥では何度も繰り返した動きみたいに感じられる。
しかも、その記憶が妙に新しい。
ついさっき、どこかでやっていたような感覚が、指先の奥に残っている。
「……」
一瞬だけ思考が止まる。
そして、その違和感の正体に辿り着く。
多分——宿儺だ。
あいつがやったことが、そのまま俺の中に残ってる。やり方も、感覚も、全部。だから俺は迷わずにできているし、躊躇もない。
納得はできる。
けど同時に、どこか気持ち悪い。
自分のものじゃないはずの技術が、自分の身体で当たり前みたいに再現できているこの感覚は、違和感として確かに残る。
「……まぁ、できるようになってた」
短くそう答えて、俺は視線を七海さんに戻した。
今は深く考えるべきじゃない。
流れを維持することに集中する。
俺の手のひらから流れ込む呪力は、反転された性質を保ったまま、七海さんの身体の奥へと染み込んでいく。壊れた組織がゆっくりと繋がり、焼けた箇所の内部で再生が始まる感触が、確かな手応えとして伝わってくる。完全には程遠いが、それでも確実に“死”から引き戻している実感があった。
その最中でも、さっき感じたあの妙な広がりは消えていない。
遠くで、何かが起きている。
呪力が拡散して、街全体に染み込んでいくような感覚。
嫌な予感が消えない。
だけど今は——目の前の命を繋ぐことが先だ。
俺は息を整えながら、さらに意識を深く沈めた。
そうして俺と七海さん、東堂と釘崎は一旦その場を離れ、崩れかけた通路を抜けて外へと出た。地下の濁った空気から一転して、夜の冷たい風が肌に触れると、ようやく少しだけ呼吸が楽になる気がする。それでも渋谷の街は既に戦場と化していて、どこを見ても無事な場所なんてほとんど残っていなかった。倒壊したビル、焼け焦げた道路、遠くから響く破壊音と悲鳴が混ざり合って、現実感が薄れていくような光景の中を、俺たちは無言のまま進んでいく。
東堂と釘崎に案内される形で辿り着いたのは、渋谷外縁に設置された高専側の拠点だった。そこには既に何人もの術師が集まっていて、負傷者の手当てや状況の整理が行われている。その中心にいる家入さんの姿を見つけた瞬間、ようやく緊張が少しだけ解けた。
俺はすぐに七海さんを家入さんへと引き渡す。
「後は頼みます」
そう言った時、自分の声が思ったより落ち着いていたことに少し驚いたが、それも一瞬で消えた。次の瞬間には周囲から一斉に視線が集まり、そのまま距離を詰められていたからだ。
囲まれる。
逃げ場はない。
そして——質問が飛んでくる。
「アンタいつ戻ってきたのよ」
「虎杖、助かったよ」
「特級とやり合ってるの見たぞ。お前やっぱすげぇよ」
「サッカーで逃げたって聞いたけど嘘だよな?」
「ブラザー!」
「明太子!」
……いや最後の二つは置いといて。
情報量が多すぎる。
というか、なんで俺サッカーから逃げたことになってるんだ。
一瞬だけ混乱するが、すぐに思い当たる。
そうだ、俺は交流会の途中で抜け出した。高専から盗まれた指を探すために、宿儺が行け行けうるさいから夜な夜な抜け出して行ったんだ。
「あ!!」
声が勝手に出る。
「指!指だよ!指!俺、京都校のメカ丸に言われて渋谷に来たんだよ!」
言いながら、頭の中で断片的だった記憶が繋がっていく。
そうだ、あの時——
「宿儺の指?」
誰かが聞き返す。
「そんなのまであったのか?」
「改造人間とか、呪詛師とか、五条先生の封印とかでそれどころじゃねぇ感じだったな」
周囲の会話が重なっていく中で、状況の異常さが改めて浮き彫りになる。五条先生の封印。改造人間。呪詛師の暗躍。そしてその裏で動いていた指の存在。全部がバラバラに見えていたはずなのに、どこかで繋がっている気がしてならない。
その時だった。
「『小僧、今すぐ生得領域に来い』」
頭の奥に声が響く。
宿儺だ。
しかも、今までにないくらい低く、重い声音だった。
軽口でも、嘲りでもない。
明確に“急を要する”と分かる声。
なんだよ、今度は……。
さっきからずっと引っかかってる“何か”と関係してるのかもしれない。
だけど——今この場で意識を飛ばすわけにはいかない。
目の前の状況がそれを許さない。
「まぁともかく五条が封印されてこれからやべぇ事になる。呪霊やら呪詛師やらが暴れまくるだろう……!?」
日下部さんが現状の危機について言いかけた、その瞬間だった。
地面が揺れる。
軽い振動じゃない。
明確に、下から突き上げられるような衝撃。
空気が震える。
そして押し寄せてくる。
呪力。
さっき地下で感じたものとは比べ物にならない規模で、街全体に拡散していく“何か”。
「なんだこの夥しい気配は……!」
誰かが呟く。
それは、この場にいる全員が同時に感じ取っていた。
異常だ。
数が違う。
質も、量も、何もかもが。
俺は無意識に拳を握っていた。
胸の奥で、さっきから引っかかっている“違和感”が、確信へと変わっていく。
これはただの戦いじゃ、終わらない。
2018年11月1日午前1時。
その時刻を境に、状況は一変した。
渋谷という一点に集約されていた異常は、もはや局地的な災害では収まらず、明確な意思を持った“拡散”へと転じる。原因は一つ。呪詛師によって解き放たれた呪霊——その総数は、凡そ一千万。
常識では捉えきれない規模のそれらは、渋谷区を中心として一斉に外へと溢れ出し、まるで濁流のように東京都全域へと広がっていった。街路を埋め尽くし、建物の影を伝い、地下と地上を問わず侵食するその光景は、単なる戦闘ではなく、災害と呼ぶべき様相を呈している。
だが、その拡散は完全な自由を得ていたわけではなかった。
薨星宮にて管理されていた結界術が強引に書き換えられ、その適用範囲が本来の規格を逸脱した形で拡張される。都道府県境にまで及ぶ異常なスケールで張り巡らされた結界は、外部への流出を物理的に抑え込み、日本全国への拡大という最悪の事態だけは辛うじて防がれていた。
それでもなお、東京都23区は既に“内部崩壊”の域に達していた。
呪霊の数は多すぎる。
一体一体の強度が低いとしても、その総量が意味を持つ。対応に当たる術師の数を遥かに上回り、各地で局所的な壊滅が連鎖的に発生していく。民間人の被害も急増し、秩序という概念そのものが崩壊しかけていた。
この一連の事象は、後に“渋谷事変”と呼称される。
そして、その首謀者として名が挙がったのは——既に死亡しているはずの人物だった。
呪詛師、夏油傑。
かつて五条悟によって殺害されたはずの存在が、再び表舞台に現れ、これほどの規模の事件を引き起こしたという事実は、呪術界全体に衝撃を与える。だが同時に、その異常性を深く追及する余裕はなかった。
事態は既に、判断と処断を急ぐ段階に入っていたからだ。
呪術総監部は即座に動く。
まず、夏油傑に対して“再度の処刑”を通達。生死の確認すら曖昧な存在に対しての決定ではあるが、重要なのは形式ではなく、その危険性の排除であるという判断が優先された。
続いて、五条悟に対する処分。
渋谷事変における共犯と認定し、呪術界からの永久追放を決定する。同時に、現在施されている封印を解除する行為そのものを禁忌とし、違反者には重罰を科すことを明文化した。
封印された最強の術師は、もはや救出対象ではない。
排除すべき危険因子として扱われる。
さらに、東京高専学長である夜蛾正道に対しても処断が下る。
五条悟および夏油傑という二名の特級術師を育成し、結果として今回の事変を誘発した責任を問う形で、死刑が認定された。直接的な関与の有無ではなく、影響力そのものを罪とする判断である。
そして虎杖悠仁。
その存在に対する扱いも、ここで大きく転じる。
これまで適用されていた死刑執行猶予は取り消され、速やかな死刑の実施が決定された。理由は単純であり、かつ決定的である。
両面宿儺の器。
それだけで、排除の対象としては十分だった。
さらに、その執行役として指名されたのは一人の術師。
特級術師、乙骨憂太。
かつて同じく規格外の力を持ち、呪術界において例外として扱われた存在が、今度は処断する側として選ばれる。その決定は象徴的であり、同時に逃げ場のない現実を突きつけるものでもあった。
渋谷事変は終わっていない。
むしろ、この瞬間から——
呪術界そのものが、新たな局面へと突入していく。
そして渋谷事変の余波は、呪術界の内部においても明確な亀裂を生み出していた。
総監部による一連の強権的な決定——五条悟の永久追放、夜蛾正道の死刑認定、そして虎杖悠仁の死刑執行命令。それらは秩序維持の名の下に下された判断であったが、現場に立つ術師たちの多くにとっては納得し得るものではなかった。
結果として、呪術高専の一部生徒および関係者は、総監部の意向に従うことを拒否する。
それは明確な反旗であり、同時に現実的な選択でもあった。
渋谷から溢れ出した呪霊の群れは未だ収束しておらず、各地で被害が拡大し続けている以上、優先すべきは命の救済であるという判断が彼らの行動原理となる。民間人の避難誘導、呪霊の討伐、そして封印された五条悟の解放。その全てが並行して進められるべき課題であり、もはや上層部の決定に従っている余裕など存在しなかった。
その中心にいるのが、虎杖悠仁である。
爆心地とも言える渋谷の只中を、彼は疾走していた。
「フッ」
一歩踏み出す。
それだけで景色が跳ぶ。
脚力は常識を逸脱しており、踏み込んだ地面が遅れて弾け飛び、衝撃波が音を追い越して空間を震わせる。視界に映る瓦礫や崩壊した建造物は、彼にとっては障害物にすらならず、ただ通過点として後方へと流れていくだけだった。
その進路上に、巨大な呪霊が現れる。
形状は不定。膨張した肉塊のような異形が通路を塞ぐように蠢いているが、虎杖は減速しない。
「ハッ」
踏み込みと同時に拳を叩き込む。
衝突の瞬間、肉体内部で練り上げられた力が一点に集約され、呪霊の核を貫通する。外殻は遅れて崩壊し、圧縮されていた衝撃が爆ぜることで、周囲の壁面ごと粉砕された。
だが、その直後には既に別の気配が接近している。
背後から伸びてきた異形の腕。
「シッ」
振り向きざまに掌底を打ち込む。
接触した瞬間に内部構造ごと崩壊し、呪霊の肉体は弾けるように四散する。力の伝達に無駄がない。打撃というよりも、“触れた結果として壊れている”という印象に近い。
さらに横合いから突進してくる別個体。
回避は選ばない。
「ッ」
そのまま衝突する。
ぶつかるというよりも、押し潰す。質量差を無視した暴力的な突破によって、呪霊は形を保てずに霧散し、その残滓だけが後方へと飛び散る。
連続した動作に淀みはない。
思考よりも先に身体が最適解を選択し、結果として最短での殲滅を実現している。
その背後には、常に三つの気配があった。
「悠仁、お前は強いな。お兄ちゃん冥利に尽きるよ」
脹相が静かに言う。
その視線は弟を誇るそれであり、同時に戦況を冷静に見極める術師としてのものでもある。
「流石私たちの弟だ!」
壊相が声を張り上げる。
感情を隠すことなく表に出し、その高揚が周囲の空気をわずかに和らげる。
「イイネェ!」
血塗が軽い調子で続く。
だが、その言葉とは裏腹に、三者とも周囲への警戒を怠ってはいない。
彼らはかつて敵対した存在であり、呪胎九相図として人の枠から外れた存在である。渋谷事変後、彼らは自らの意思で高専に身を委ねるという選択を取った。処断を受け入れるための行動であったが、状況の急変によりその扱いは保留され、どさくさに紛れた結果として現在は虎杖悠仁と行動を共にしている。
血の繋がり。そして共有された“記憶”は確かに存在する。
それが彼らを結び付けていた。
瓦礫の中を駆け抜けながら、虎杖は次の標的を捉える。
止まる理由はない。
この街には、まだ祓うべきものが溢れている。
直哉「僕より速い術師がおるって?堪忍したってや、おるわけないやろそんな………」