武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
2005年12月某日。
吐く息が白く染まり、乾いた冷気が肺の奥を刺すように侵す冬の日、日本のとある街の片隅で、人の往来が絶えない通りに面した建物の外壁に背を預けながら、場の空気とはまるで噛み合わない二人の男が対峙していた。雑踏の中にありながら、そこだけが切り取られたように静まり返っているのは、彼らが纏う気配そのものが周囲の空間を押し退けているからに他ならない。
一人は禪院直毘人。禪院家二十六代目当主にして、相伝の術式である投射呪法を極めた男。その佇まいは一見すると老境に差し掛かった酒好きの老人に過ぎないが、実際にはその肉体の隅々にまで鍛え上げられた技術と経験が染み付いており、僅かな動きの中にも鋭利な刃のような緊張が潜んでいる。
もう一人は伏黒甚爾。禪院家に生まれながら術式を持たず、呪力という概念そのものから逸脱した存在であり、天与の暴君と呼ばれる男。その肉体は呪力による補強を一切必要としない完成度を誇り、ただ立っているだけで周囲の術師に違和感と本能的な警戒を抱かせる。
「俺のガキだが、あれは完全に持ってる側だ」
甚爾が壁にもたれたまま口角を上げる。その声音には親としての情など微塵も含まれておらず、あるのは純粋な“価値の評価”だけだった。自分の血を引く存在であろうと、それを人としてではなく、資産として見ていることがありありと伝わる。
「相伝なら8、それ以外でも7貰う」
軽く言い放たれた数字は、人の価値をそのまま金額へと換算する冷酷な基準であり、そこに躊躇も迷いも存在しない。
「ハッ」
直毘人が短く笑う。その笑みは嘲りではなく、むしろ興味に近いものだった。
「相伝なら
あっさりと上乗せされた評価。だがそれは単なる冗談ではない。禪院家当主としての直毘人が、その素質を“本物”と認めたが故の言葉だった。
そして時は流れ——2018年、渋谷。
都市そのものを呑み込むような混乱と破壊の中で、禪院直毘人は禪院真希、七海建人と共に特級呪霊・漏瑚と交戦し、致命的とも言える損傷を負った。炎は空気を焼き、熱は皮膚を越えて肉を焦がし、骨の奥にまで侵入してくる。通常の術師であれば即死していてもおかしくない規模の爆炎を浴びながら、それでもなお彼らは生き延びた。
直毘人と真希はすぐに家入硝子のもとへと運ばれた。
真希は天与呪縛による肉体強度の恩恵を受けていた。呪力を持たない代償として与えられた異常なまでの身体能力が、焼損した肉体を繋ぎ止め、死の淵から引き戻す結果をもたらした。
だが——直毘人は違った。
陀艮との戦闘で既に右腕を失い、深い裂傷を負っていたその身体に、さらに漏瑚の爆炎が直撃した。皮膚は炭化し、筋繊維は焼き切れ、内臓にまで達する損傷はもはや再生の範疇を超えていた。
家入の反転術式ですら、その破壊を完全に修復することはできない。せいぜい痛覚を鈍らせ、機能を一時的に繋ぎ止める程度に留まる。
白を基調とした無機質な天幕の室内に、焦げた肉の匂いが微かに残る。
ベッドの上に横たわる直毘人は、全身を包帯で覆われながらも、その意識だけはまだはっきりと保っていた。焼け爛れた皮膚の下で、残された筋肉がかろうじて呼吸を支えている。
「おいぃ……そこのお嬢ちゃん……」
掠れた声が室内に落ちる。
「禪院直毘人」
火のついていないタバコを咥えたまま、家入硝子がゆっくりと近づく。その足取りは静かだが、視線は冷静に患者の状態を観察していた。
「虎杖悠仁が……渋谷に来たな?」
焼けた喉から無理やり絞り出されるような声。それでもその言葉には確信があった。
「わかるの?」
家入が僅かに眉を動かす。
「あぁ……あの闘気、間違えようもない」
息を吐くたびに、焼けた肺が軋む音が混じる。
「宿儺の呪力に混じって感じた。あの特級呪霊がそれに気づいて直ぐに……去ったからな」
咳が混じる。血の匂いが濃くなる。
「ゲホォ……」
それでも口元には笑みが浮かぶ。
「如来神掌の使い手……一度会ってみたかった」
その言葉には、死の淵に立ちながらもなお消えない術師としての好奇と執着が滲んでいた。
「……知ってるのか」
家入がわずかに目を細める。
直毘人はかすかに喉を鳴らし、焼けた唇の端を歪めた。
それは、過去と現在が静かに繋がる瞬間でもあった。
「禪院家当主とも……なれば知っている。忌庫に所蔵された本に記述があってな……寂滅の掌を振るう、失われし武術。それに見た事もある」
直毘人は仰向けのまま天井を見つめていた。視線は焦点を結んでいるようでいて、どこか遠く、過去の記憶へと潜り込んでいるようにも見える。焼け爛れた皮膚の奥でかろうじて動く筋肉が呼吸を支え、そのたびに胸郭がぎこちなく上下するが、その声音には奇妙なほどの余裕が残っていた。
「あ、お嬢ちゃん……もうちょっと……反転術式、当ててくれんか?」
掠れた声の中に、わずかな注文の色が混じる。
「死にかけとは思えないな」
家入は小さく笑いながらも、言われた通りに手を伸ばす。掌を胸元へと当てた瞬間、微かな光が灯り、呪力が反転して正のエネルギーへと変換され、損壊した組織へと流れ込んでいく。焼けた筋繊維が僅かに緩み、痛覚が鈍化することで、直毘人の呼吸がわずかに安定した。
「ふぅ……」
深く息を吐く。その動作一つにも、内側から軋むような音が伴う。
「まぁワシはもう死ぬがの。少し話に付き合ってくれんか?」
その言葉は淡々としているが、そこに悲壮感はない。自分の終わりを既に受け入れている者の声音だった。
「いいよ」
家入は簡潔に答える。余計な言葉は挟まない。ただ必要なだけ寄り添う。その距離感は医者としてのものでもあり、同時に術師としての割り切りでもあった。
「ククッ……ゴホッ……」
乾いた笑いと共に咳が漏れる。口元にわずかに血が滲むが、それすら気にする様子はない。
「ワシはな……若い頃、見聞を広げる為に旅に出た事がある」
言葉はゆっくりと紡がれる。
「日本だけではなく、外の国も行った。あれは——確か中国だったか……あるアパートに居候していた時だ」
直毘人の視線は天井に固定されたままだが、その脳裏には当時の情景が鮮明に蘇っている。異国の空気、街の匂い、耳に馴染まない言語のざわめき、その全てが重なり合いながら、ひとつの場面を形作っていく。
「そこのアパートの大家はな、それはそれは強情で……だが優しい一面を持つ夫婦での」
わずかに口元が緩む。
「それに武術の達人でもあった。旦那の方は太極拳、奥さんは確か……獅子咆哮功」
「へぇ……」
家入が相槌を打つ。興味というよりは、話を途切れさせないための自然な反応だったが、その言葉の裏にはわずかな関心も確かに含まれていた。
「ある日な……そこに悪い組織が攻めてきた」
直毘人の声が僅かに低くなる。
「まぁ……ヤクザというかマフィアみたいな奴等だ。銃や斧を持ち、数で押し潰すことしか知らん連中でな……力の扱い方を知らん連中は、どこへ行っても同じだな」
「ふむ」
家入は煙草を指で転がしながら、視線を外さずに聞いている。
「まぁ色々あってな……ワシは手を出さず見ておった」
その言葉には、当時の自分への評価が含まれている。関与しなかったという事実を、後悔でも肯定でもなく、ただ“そうした”と受け止めている響きだった。
「ある日だ。夫婦がボロ雑巾みたいな若い男を担いで戻ってきた」
言葉がゆっくりと重くなる。
「今のワシみたいな、死に掛けだ」
その表現に、自嘲が混じる。
「はぁ」
家入は短く応じる。視線は変わらないが、その手は確実に反転術式を維持し続けている。
「あ、ちょっと反転術式弱いぞ。そうそう……いい感じだ」
直毘人がわずかに眉を動かす。焼けた神経の奥で、微細な変化を拾い上げているのが分かる。
「それでだ。夫婦はそのボロ雑巾を治療したんだ」
過去の光景が言葉となって浮かび上がる。
「包帯をぐるぐる巻いてな、妙な薬を塗りたくって、針も何本も刺しとった。見たこともないような手当てでの……術式でも何でもない、純粋な“技”だ。まぁ民間療法と言ってもいい」
「あぁ」
家入は頷く。
「そこにまたマフィアが攻めてきたんだ」
直毘人の呼吸がわずかに深くなる。
「それに今度は普通じゃない奴がいた」
一拍置く。
「火雲邪神と呼ばれとる……恐ろしく強い人間もいた」
その名を口にした瞬間、室内の空気がわずかに張り詰める。
過去の記憶であるはずなのに、その存在の重さだけが現在にまで滲み出てくるかのように、確かな圧を伴っていた。
「夫婦もまぁボロボロでな。戦える状態じゃなかった」
直毘人はゆっくりと瞼を細める。過去を覗き込むようなその視線の奥に、かつて見た光景が色濃く浮かび上がっている。
「ワシが行こうかと思った、その時だ——」
呼吸が一度途切れ、胸の奥で焼けた組織が軋む音が微かに響く。それでも語りは止まらない。
「包帯に巻かれて、蛹みたいになっとった若い男がな……目を醒ました」
「ほぉ」
家入がわずかに目を開く。その反応は僅かなものだが、直毘人の言葉の異質さを正確に捉えている。
「最初はな……ただの膨張に見えた」
直毘人の声が低く落ちる。
「包帯の内側から、肉が膨れ上がるように、内側から押し広げられるように、何かが“増えていく”感覚だ……皮膚の下で筋肉が蠢くような、血が逆流するような、そんな生理的な違和感を伴ってな」
視線は天井を捉えたまま、だがその意識は完全に過去へと沈んでいる。
「次の瞬間だ。光った」
短く、断言する。
「眩いなんてもんじゃない。目を閉じても焼き付くような光……呪力でも術式でもない、もっと別の、説明のつかん何かが、あの男の内側から溢れ出した」
家入の指先がわずかに止まる。反転術式は維持したままだが、その感覚は話に引き込まれている証でもあった。
「そして——破裂した」
その一言に、確かな重みが乗る。
「包帯が内側から弾け飛び、血も肉も飛び散ることなく、ただ“殻”だけが砕け散るように剥がれてな……その中から出てきた」
直毘人の口元が歪む。
「傷一つない姿で」
淡々とした声音だが、その裏には明確な異常への実感がある。
「それもな……圧倒的な威を放ちながらだ」
その場にいた誰もが息を呑んだ、と続けなくても分かるほど、その光景は異質だった。
「そいつはな、ワシと夫婦に言ったんだ」
わずかに喉が鳴る。
「『怪我人はジッとしてないとダメだろ』……とな」
軽い言葉。だがその場に似つかわしくないほど穏やかな響き。
「『アンタは二人を見ててくれ』ともな」
直毘人はそこで一度小さく笑う。
「……命令でも頼みでもない。ただ“そうするのが当然だろ”と言わんばかりの口調だった」
「それで?」
家入が促す。
「若い男はシンという名でな」
直毘人は目を細め思い出すように零す。
「あの戦いは今でも忘れられない。拳の一撃で人が簡単に吹き飛び、まるで子供の遊びのような動きで、大勢を一瞬で昏倒させていた。だがそれは決して軽い技ではない。重心の置き方、力の伝達、関節の連動、全てが理に適っていて、極限まで洗練された暴力だった」
直毘人は仰向けのまま、天井の向こうにあるはずもない過去を見つめるように視線を固定する。その声音は落ち着いているが、語られる内容の一つ一つには、長年積み重ねてきた経験が裏打ちされた確信が宿っていた。
「そうか」
家入は短く応じるだけだが、その返答には無関心は含まれていない。指先から流し込む反転術式の出力を微調整しながら、彼の語りの流れを途切れさせないように、最低限の相槌に留めている。
「そして……火雲邪神と戦った」
その名を口にした瞬間、直毘人の声音がわずかに沈む。軽く扱うにはあまりにも危険で、そして記憶に深く刻まれた存在であることが、その僅かな変化だけで伝わる。
「アレはとんでもない」
短く言い切るが、その一言の中に含まれている情報量は多い。
「シンはな——吹き飛ばされた」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「空高くだ。空ではない……もっと上だ」
視線が天井を貫くように伸びる。
「地面から引き剥がされるように持ち上げられ、そのまま一直線に叩き上げられた。衝突の余波で周囲の空気が一瞬遅れて爆ぜ、地面が抉れ、粉塵が巻き上がる。その中心から、ただ一人、上へと消えていった」
語りの中で、空気の流れや音の遅延までもが生々しく再現される。
「宇宙に届くのではないかと思うほどの高さだった」
その表現は誇張ではない。少なくとも、当時の直毘人の知覚では、そう認識する以外に説明がつかなかった。
「普通ならそれで終わりだ」
呼吸が一度乱れる。肺の奥で焼けた組織が悲鳴を上げるが、それでも言葉は止まらない。
「だが——戻ってきた」
断言する。
「火を纏いながらな」
その瞬間の光景を思い出したのか、直毘人の瞳がわずかに開く。
「全身が燃えているわけではない。皮膚が焦げているわけでもない。内側から滲み出た熱が、肉体の外縁に沿って流れ出し、結果として炎の形を取っている……そうとしか表現できない“熱”だった」
それは呪力とも違う。術式の発露とも違う。
「周囲の空気が焼け、音が歪み、温度差で視界が揺れる。落下しているはずなのに、重力とは別の力に引かれているような軌道で、一直線に降りてくる」
家入は何も言わず、その描写を受け止める。
「そしてな……」
直毘人の声がさらに低くなる。
「合掌していた」
静かに言い切る。
「落下しながら、両手を合わせていた。祈るような形だが、その実態は全く違う。力を一点に集約し、放つための“構え”だ。肩から肘、肘から手首へと連なる力の流れが完全に固定され、外部からの干渉を受け付けない状態に入っていた」
その姿は、単なる武術の構えではない。
「夫婦がそれを見て言った」
一拍。
「『天より降るという失われし掌法——如来神掌』とな」
室内の空気がわずかに重くなる。
「シンはな……そのまま落ちざまに、掌を構えた」
視線がわずかに揺れる。
「次の瞬間だ。火雲邪神に、目に見えない“掌”が叩き落とされた」
言葉に力が乗る。
「接触は見えない。だが結果は明確だった。地面が穿たれ、衝撃が一点から放射状に広がり、コンクリートが内側から抉り取られるように崩壊する。圧縮された力が解放されたことで、周囲の構造物が連鎖的に崩れ、地面には巨大な掌の跡が刻まれた」
その痕跡は、ただの破壊ではない。
「八十八橋のニュースを見たか」
視線を家入へと僅かに向ける。
「あれだよ。あの“跡”と同じだ」
家入は一瞬だけ黙り込む。過去に報じられた異常な破壊痕、その記憶と今の話が結びつく。
「なるほどな……」
小さく呟く。
直毘人は満足げに息を吐く。
「虎杖悠仁が、その如来神掌の使い手だと聞いてな。一度見てみたかったが……それも叶わん」
力の抜けた声。しかし後悔は滲んでいない。
「わしはもう死ぬ」
事実を述べるように淡々と口にする。
「……妙な日だ。死んだはずの男が現れ、失われたはずの技を使う者が現れる。過去と現在が、同じ場所に重なったような日だ」
天井を見つめたまま、ゆっくりと瞬きをする。
「死ぬ日としては、まぁ悪くない」
その言葉のあと、室内には短い静寂が落ちた。
そして現在——
禪院直哉は、崩壊した渋谷の只中に立っていた。
瓦礫が積み重なり、ひび割れた道路の隙間からは鉄骨が剥き出しになり、焦げた臭気と粉塵が混ざり合った空気が肺の奥にざらつく感触を残す。その中心にあっても、直哉の姿勢は崩れていない。背筋は伸び、顎はわずかに上がり、視線は常に“見下ろす側”の高さを保っている。周囲の惨状など、彼にとっては背景に過ぎない。
禪院直毘人の実子。
その事実だけで与えられてきた位置と価値を、疑うことなく受け入れ、そしてそれを当然のものとして扱ってきた男。生まれた瞬間から定められていたはずの道筋。次期当主という肩書きは、選ばれた結果ではなく、最初から与えられていた前提であり、直哉の中ではそれが“世界の正しさ”だった。
だが、その前提は既に崩れている。
“だった”——その一語が、現在の直哉の立場を端的に示している。
時は少し遡る。
禪院家本邸、奥の間。外界から切り離されたその空間には、整えられた静寂が満ちていた。畳の目は乱れなく、柱や梁には長年の手入れが行き届いている。それでもなお、そこに集う者たちの間に流れる空気は澱み、重く沈んでいた。
直哉はその中央に立っていた。
腕を組み、わずかに顎を上げ、視線だけで周囲を測る。自分がこの場の中心であるという認識は、揺らぎなく身体に刻まれている。その立ち姿そのものが、禪院家の頂点に立つ者のそれだった。
左右には禪院扇と禪院甚壱。
扇は目を細め、表情を動かさずに前を見据え、甚壱は腕を組んだまま沈黙を保っている。どちらも感情を露わにはしないが、その沈黙の奥にある思惑までは読み切れない。ただ、この場で何かが決定されるという事実だけが、確かにそこにあった。
前方に控える男——フルダテが一歩踏み出す。
手にした文書へと視線を落とし、淡々とした調子で口を開く。
「一つ、禪院家二十七代目当主を禪院直哉とす」
その言葉が空間に落ちた瞬間、わずかに空気が動いた。
直哉の口元が、ほんの僅かに歪む。
予想通りの結果。そこに驚きはない。確認に過ぎない。
「一つ、高専忌庫及び禪院家忌庫に保管されている呪具を含めた全財産を直哉が相続し、禪院扇、禪院甚壱のいずれかの承認を得た上で直哉が運用する事とする」
続けられる文言は、禪院家の核そのものだった。
呪具、資産、権限。それら全てが直哉へと集約される。だが同時に、扇か甚壱の承認が必要とされるという条件が付されている。
直哉は小さく舌打ちした。
「……まぁええわ」
低く吐き捨てる。視線だけを横に流し、二人を一瞥する。その程度の制約で自分の立場が揺らぐことはないという確信がある。頂点は自分であるという事実は変わらない。
——そう思っていた。
「ただし」
フルダテの声が続く。
その一語で、場の空気が変わる。
直哉の眉が僅かに動いた。
「なんらかの理由で五条悟が死亡、または意思能力を喪失した場合」
提示された条件。
その時点で、直哉の思考は一瞬だけ停止する。なぜここでその名が出るのか。その意図が即座には繋がらない。
だが、次の一文で全てが変わる。
「伏黒甚爾との誓約状を履行し、伏黒恵を禪院家に迎え、同人を禪院家当主とし全財産を譲るものとする」
音が消える。
理解が追いつくまでの、ほんの一瞬の空白。
その後、直哉の喉の奥から低い音が漏れた。
「あ゛?」
それは問いではない。拒絶でもない。
ただ、現実が許容量を超えて流れ込んできた瞬間に、身体が勝手に吐き出した反応だった。
伏黒甚爾。
禪院家の価値観そのものを踏み躙った男。その存在を直哉は知っている。そして、その血を引く者——伏黒恵。
自分ではない。
家の外で育ち、理から外れた存在。
それが当主になる。
全てを持っていく。
その構図が頭の中で形を持った瞬間、直哉の視界が僅かに歪む。呼吸が乱れ、胸の内側で何かが軋む。
それでも姿勢は崩れない。
崩せない。
自分が頂点であるという前提を、まだ手放していないからだ。
だが、その内側では確実に何かが軋み始めていた。
そして——
現在へと戻る。
直哉は渋谷の瓦礫の上から、下方を見下ろしていた。
視線の先には虎杖悠仁。
爆走しながら呪霊を屠り、周囲の空気を圧で押し潰すように進むその姿は、もはや人間の枠を逸脱している。それでも直哉の中での優先順位は変わらない。
目的は明確だった。
伏黒恵と虎杖悠仁——その両名の抹殺。
伏黒甚爾の血を引く者が自分の上に立つという未来を、直哉は受け入れることができない。ならば、その可能性を根本から断ち切るしかない。
そして虎杖悠仁。
宿儺の器として死刑宣告を受けた存在。その首を取れば、呪術総監部に対する明確な功績となる。権力の中枢へ近づくための駒として、これ以上分かりやすいものはない。
情報は揃っている。
伏黒恵は単独では動かない。虎杖悠仁と行動を共にしている。ならば、虎杖を追えば伏黒に辿り着く。
単純な因果。
だからこそ——
直哉は迷わない。
視線を細め、口元を歪める。
その瞬間、足元の瓦礫が砕けた。
投射呪法。
世界をフレームとして切り取り、その内側でのみ加速する術式が起動する。時間が引き延ばされ、空気の流れが鈍化し、周囲の全てが“遅く”なる。
その中で、直哉だけが自由に動く。
狙いは定まっている。
虎杖悠仁。
その一点へ向けて、直哉は踏み込んだ。
そして——次の瞬間、世界が切り替わる。
「脹相!今だ!」
俺はトンネルの中を全力で駆け抜けながら、肩越しに声を張った。背後から押し寄せてくる呪霊の群れは、数だけならかなりの規模だ。形も大きさも統一性がなく、四足で這い回る獣型、壁に貼り付く肉塊、異様に長い腕を振り回してくる個体まで混じっているが、こういう狭い通路なら話は単純になる。前に引きずり出して一直線に並ばせれば、後はまとめて貫けばいい。
足裏が濡れたコンクリートを叩くたびに水が跳ね、濁った飛沫が脛に当たって冷たい。背後では爪が壁を削る甲高い音と、湿った咆哮が重なり、耳の奥にこびりつく。腐肉と血と下水が混ざった臭気が鼻の奥を刺し、吐き気を誘うが、それを意識から切り離して速度だけを維持する。十分に引き付けたところで、俺は踵を返した。
「俺はお兄ちゃんだぞーっ!!!」
脹相の叫びがトンネルに反響する。
両腕を突き出したその前で、血が一気に圧縮される。空気が震え、圧が一点に集まる感覚が肌越しに分かる。次の瞬間、細く絞られた血の奔流が一直線に走った。
穿血。
空気を裂く音が遅れて届く。その速度は視認の限界を軽く超えていて、先頭の呪霊の頭部を貫いた時には、既に二体目、三体目まで到達していた。血の槍は止まらない。後方で詰まっていた個体までまとめて串刺しにし、そのまま内部から破壊する。貫通した穴から圧が抜け、膨張し、次の瞬間には肉と黒い液体を撒き散らしながら破裂した。
壁面に叩きつけられた臓物が滑り落ち、鉄のような生臭さが一気に広がる。
「うひょー!めっちゃ気持ちいいな!それ!」
思わず声が出る。あれは気持ちいいだろ。
「流石兄さんだっ!」
壊相が拳を握る。
「ヨッ長兄!」
血塗までノリノリだ。
実際すげぇ。ああいうのはシンプルに羨ましい。如来神掌って、掌圧とか衝撃波とか、面で押し潰す系が多いから、ああいう一直線に貫くタイプは持ってないんだよな。真っ直ぐ撃ち抜くっていうのは、単純だけど強いし、見た目もいい。
撃ちたい。普通に。
「『くだらん』」
頭の奥で宿儺が鼻で笑う。
いや、絶対ちょっとは分かるだろ。お前の斬撃だって似たようなもんだし、ロマンってやつだ。
そんなことを考えていた、その瞬間だった。
「悠仁!後ろだ!」
脹相の声。
同時に、背後の空気がほんの僅かに歪んだ。気配を消すタイプ。俺の意識が前に向いた瞬間を狙って、死角から喉元でも抉るつもりだったんだろう。
俺は振り向く。
軸足を半歩ずらし、腰を捻る。その回転をそのまま腕に乗せて、裏拳を打ち出す。
手応え。
骨だ。
拳の甲に伝わる硬い感触が、次の瞬間には砕ける感触へと変わる。呪霊の顔面が横に歪み、頬骨ごと潰れ、頭部が捻じ切られるように吹き飛んだ。残った胴体は一瞬だけその場に立ち尽くしたが、遅れて壁に叩きつけられ、内側から潰れて崩れる。コンクリートにひびが走り、黒い液体が広がった。
「悠仁、お前はどんどん強くなっていくな。まるで鬼神のようだ」
脹相が言う。
「そうか?兄ちゃん達も強くなってるよ」
そう返した瞬間、脹相の目が潤んだ。
「うっ」
「泣きすぎだぞ兄さん」
壊相が呆れた声を出す。
「ホントしょっちゅウだな」
血塗も笑ってる。
「うるさいぞお前達。そうだ悠仁……お前の父の額に縫い目はあっ——」
脹相が何か言いかけた、その途中だった。
「君が虎杖悠仁くん?なんやエラい弱そうやなぁ。恵君もおらんやん。俺が一番乗り?」
知らない声。
軽い調子なのに、妙に粘つく。耳に入った瞬間、嫌な感触が残るタイプの声だ。
俺たちは同時に上を見る。
トンネルの上、道路沿いの欄干。その狭い足場に、男が一人立っていた。
いつの間に。
視界にも気配にも引っかかっていなかった。会話していたとはいえ、この距離まで詰められて気づかなかったのは普通じゃない。
細身の体。整った顔立ち。
なのに、目つきと口元で全部台無しだ。笑っているような形なのに、そこに乗っている感情がひたすら気持ち悪い。魂の輪郭が歪んでる。立ってるだけで分かる。こいつ、性根が腐ってる。
「君らも何してん。目立ちすぎやで、逃げる気ないん?」
肩の力を抜いたまま、見下ろしてくる。
「は?何言ってんだ?いきなり現れて……そんなとこ立ってると危ねぇぞ」
口から出たのは普通の返しだった。欄干なんて足場ほとんどないし、普通に危ないだろっていうのもあるし、それ以上に、こいつの目的が読めない。
恵君って言ってた。伏黒の知り合いか?
それに——俺が弱そう?
「『小僧、暇だ、やるぞ』」
頭の奥で宿儺が言う。
(いや今かよ)
タイミングおかしいだろ。外で敵出てきてんだぞ。ここで内側入ってどうすんだよ。
無視する。今はこっちだ。
俺は視線を欄干の男に戻す。
「伏黒になんの用だよ」
そう言った瞬間——視界が揺れた。
いや違う。目の前にいた。
さっきまで欄干にいたはずの男と、至近距離で目が合っていた。
宿儺『投射呪法か、当たらなければどうということはない』