武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
「おい、小僧」
耳の奥を引っ掻くような声が響いた瞬間、沈みかけていた意識が強引に引き上げられる。全身が重い。鉛を流し込まれたみたいに四肢が言うことを聞かず、そのまま眠りの底へ落ちていこうとしたところで、今度は露骨な殺気が叩きつけられた。
「いい加減にしろよ。殺すぞ」
物騒すぎるだろ……。
ぼんやりとそう思いながらも、その圧に逆らえず、無理やり目を開ける。
「ぐうぇ!?……あれ、ここどこだ?」
勢いよく上体を起こした俺の視界に飛び込んできたのは、さっきまで戦っていたはずの場所とはまるで違う、見知らぬ家の中だった。床も壁も天井も、全部が普通の住宅なのに、妙に現実味が薄い。
「知らん、俺に聞くな」
横から返ってきた声に振り向くと、そこにはいつもの宿儺が立っている。俺と同じ顔で腕が四本あるあの姿、見慣れているはずなのに、何故か違和感がある。
服装が同じだ。
俺と同じ服を着ている。
なんだこれ。
いや、それよりも——
記憶が戻る。
乙骨先輩と戦っていた。領域展開をされて、雷を受けて、それでも耐えて……そのあと、背中から確実に心臓を貫かれた感触が、やけに生々しく蘇る。
あの一撃は、間違いようがない。
致命だった。
それなのに、こうして立っている。
現実と感覚が噛み合わないまま、視線だけが周囲をなぞる。ここは家だ。間違いなく生活の場だと分かる。だが見覚えはない。それでもどこか引っかかる。完全に初めて見る場所ではないような、妙に曖昧な既視感がある。
懐かしい。
そう思ってしまう自分に、逆に違和感を覚える。
俺はゆっくりと立ち上がる。足の感覚は確かにある。だが床を踏んでいるのに音がしない。空気に触れているのに温度が伝わらない。匂いも薄く、すべてが一段階ぼやけたような感触で満たされている。
現実のようで現実じゃない。
そんな場所だ。
このまま突っ立っていても何も分からないという直感だけが先に動き、自然と足が前に出る。
「とりあえず……奥、行くか?」
理由はない。ただ、進めば何かが分かる気がした。
「いこうぜ、宿儺」
そう言って歩き出すと、宿儺は何も言わずについてくる。拒否も肯定もない。ただ当然のように隣を歩くその様子が、この状況を妙に現実的なものにしていた。
廊下を進む。
やはり足音はしない。
壁に掛けられた物や棚に置かれた小物には生活の痕跡があるのに、どれも“今使われている”感じがしない。整いすぎているせいで、人の気配だけが削ぎ落とされているように見える。
リビングに出た瞬間、足が止まる。
そこに、人がいた。
「え……」
思わず声が漏れる。
男と、爺ちゃん。
だが、その爺ちゃんは知っている姿と違う。背筋が真っ直ぐで、顔の皺がほとんどない。時間を巻き戻したように若い。
隣にいる男は、赤ん坊を抱いている。
その顔を見た瞬間、胸の奥がざわつく。見覚えがある。直接じゃない、写真で見たことのある顔だ。
「『仁』」
爺ちゃんが呼ぶ。
その名前で、確信に変わる。
父ちゃんだ。虎杖仁。俺の親父だ。
だが、こちらには一切気付いていない。目の前に立っているのに視線が交わることはなく、完全に“存在していないもの”として扱われている。
俺はゆっくりと歩み寄る。
父ちゃんの腕の中にいる赤ん坊へと視線を落とす。
小さい。
当たり前だけど、信じられないくらい小さい。
その顔を見た瞬間、呼吸が止まる。
見慣れているはずの輪郭が、そこにある。
「……これ、俺か?」
ピンクっぽい髪の赤ん坊が、父ちゃんの腕の中で小さく身体を丸めて眠っている。口元が時々むにゃっと動いて、呼吸に合わせて胸がゆっくり上下していた。まだ首も据わっていないくらいで、せいぜい二ヶ月か三ヶ月くらいに見えるが、正確なところは分からない。ただ、その無防備な寝顔を見ていると、さっきまで命のやり取りをしていた現実との落差に、妙な居心地の悪さを覚える。
自分が、あんなだったのかと考えると、実感がまるで湧かない。
「『なんですか、父さん。彼女の話をするなら帰りますよ』」
父ちゃんが、赤ん坊の俺を抱いたまま、わずかに眉を寄せて言った。その声は落ち着いているようで、どこか距離を置こうとしているようにも聞こえる。爺ちゃんとの間にある空気は、穏やかなものではなかった。
「『仁、オマエがどう生きようとオマエの勝手だ。だがあの女はやめとけ、死ぬぞ』」
爺ちゃんの声音は低く、明確な拒絶を含んでいた。普段見せる柔らかさは一切なく、ただ真っ直ぐに父ちゃんを睨み据えている。その目には、ただの忠告ではない、もっと切迫した何かが宿っていた。
あの女、という言葉が引っかかる。
誰のことだ。
不倫でもしてるのか、と軽く考えた瞬間、その場の空気の重さと全く噛み合わないことに気付く。ただの男女の問題で済む話ではない、もっと根の深い何かがそこにある。
「クククッケヒッ」
背後で宿儺が笑った。
振り向くと、あいつは赤ん坊の俺の顔を覗き込むようにして、口元を歪めている。その視線は明らかに“面白がっている”それで、理由も分からず不気味さだけが先に立つ。
やめろって、その顔。怖えよ。
「『悠仁の前で変な話はやめてください。案外覚えているそうですよ。赤ん坊の記憶』」
父ちゃんがそう言う。
いや、大丈夫だ。マジで覚えてねぇから安心してくれ。
心の中で即座に否定するが、当たり前のようにその声は届かない。ただ、そのやり取りが妙に現実味を帯びていて、ここが完全な幻ではないような感覚がじわじわと広がっていく。
その時、宿儺がふっと動いた。
何をするのかと思った瞬間には、もう爺ちゃんの正面に立っている。距離も何も関係ないみたいに、当然のようにそこにいる。
「こやつ……そうかそうか……羂索め——」
低く呟いたその言葉に、耳が引っかかる。
羂索。
聞いたことがあるような、ないような、曖昧な響き。だが宿儺の声音は明らかに“知っている者”のそれだった。目の前の光景と結びつかない名前なのに、不思議と現実感だけが残る。
俺の爺ちゃんを見て言っているのか。
いや、違う。
その視線は、もっと奥を見ている。
「『あのなぁ仁!オマエが子供を欲しがっていたことも、香織との間にそれが叶わなかったことも知ってる。だが香織が死んだのは——』」
爺ちゃんの声が強くなる。言葉の端に焦りが滲み、これ以上黙っていられないという意思が露わになっていた。
だが、その続きを言い切る前に——
リビングの入口が、静かに開いた。
「『あれ、お義父さん。なんの話ですか?』」
声が、柔らかく響く。
そちらへ視線を向けた瞬間、背筋が粟立った。
綺麗な女の人だった。
立ち姿は自然で、表情も穏やかで、どこからどう見ても普通の女性だ。だが、その“普通”が妙に作り物めいていて、輪郭の内側に別の何かが潜んでいるような違和感が消えない。
空気が、変わる。
さっきまで重かった空間が、今度は別の意味で張り詰める。見えない何かが、そこに入り込んできたみたいに、場の温度が一段階落ちた気がした。
その顔を見た瞬間、言葉が勝手に口をついて出る。
「母ちゃん……?」
爺ちゃんは昔の話をあまりしなかった。写真もほとんど見せてくれなかったし、家族のことになると妙に話題を逸らす癖があったから、母親の顔なんて正直ほとんど覚えていない。ただ、黒髪で、どこか凛としている人だったような、そんな曖昧な印象だけが残っている。
だからこそ、目の前に立っているその女を見た瞬間、言いようのない違和感が先に来た。
整っている。綺麗だ。立ち居振る舞いも自然で、声も柔らかい。だがその全てが、どこか“作られている”ように見える。表情の奥にあるものが、うまく掴めない。
そして——額。
そこに走る縫い目が、はっきりと視界に映る。
皮膚の上を横切るように刻まれたそれは、明らかに普通じゃない。傷跡にしては整いすぎているし、何より“塞がった”というより“繋ぎ止められている”ような不気味さがある。
視線が離せない。
見てはいけないものを見ているような感覚が、遅れて全身を這い上がってくる。
「小僧、その女、いやその人間が羂索だ」
背後から宿儺の声が落ちてくる。
その一言で、さっき耳にした名前と目の前の存在が結びつく。
「羂索って誰だよ……これやっぱ俺の母ちゃんじゃねぇのか?」
自分でも分かるくらい、声に迷いが混じる。そうであってほしいという感情と、違うと理解している感覚がぶつかって、どっちにも振り切れない。
宿儺はそれを鼻で笑う。
「まぁ気にするな。お前はただ俺との闘争を楽しめばよい。そこらの有象無象なぞ気にするな」
ふざけんな。
この状況で気にするなって方が無理だろうが。目の前に“母親かもしれない何か”が立っていて、その正体が別物だと言われて、それで流せるわけがない。
「いや気にするだろコレは」
思わず吐き捨てるように言うが、宿儺は興味なさそうに視線を逸らすだけだった。
その間にも、現実のやり取りは進んでいる。
「『お義父さん、私が何か粗相をしましたか?』」
女は穏やかな声で問いかける。その声音には不自然な揺らぎが一切なく、ただ丁寧で、礼儀正しい嫁そのものに見える。
だが、それが逆に薄気味悪い。
「『……いや、いい。今日は帰れ』」
爺ちゃんの声は低く、短い。先ほどまでの強い感情を押し殺しているようで、その奥にある焦りが隠しきれていない。
「『あら……来たばっかりですよ?』」
首を傾げる仕草も自然だ。だが、その自然さがどこかずれている。相手の感情を汲み取っているようでいて、まるで理解していない。
「『そうだよ父さん、呼び出しておいてそれは酷いじゃないか』」
父ちゃんが口を挟む。その声には苛立ちが混じっているが、状況の異常さには気付いていないように見える。
いや、気付いていないんじゃない。
気付けないのかもしれない。
「『もう………話す事はない。さっさと帰れ』」
爺ちゃんが吐き出すように言う。
その顔は、さっきまでとは違っていた。怒りだけじゃない。悔しさと、どうしようもない諦めが混ざっている。そして、その奥にあるのは——明らかに“知っている者”の顔だ。
全部分かっているのに、どうにもできない。
そんな顔だった。
その瞬間、空間が揺れた。
視界の端から歪みが広がる。壁も床も、そこにあったはずのものが輪郭を失って、滲むように崩れていく。音もなく、ただ存在そのものがほどけていくような感覚。
現実が、剥がれる。
リビングの光景がひび割れるみたいに歪み、父ちゃんも、爺ちゃんも、あの女も、全部が薄く引き延ばされていく。
「小僧」
その中で、宿儺だけがはっきりと立っていた。
崩れゆく景色の中で、唯一輪郭を保ったまま、俺の前に立つ。その視線はまっすぐで、さっきまでの興味のなさとは違う、明確な意思を持っていた。
「なんだよ」
問い返す。
崩壊していく空間の中で、ここだけが妙に静かだった。音も、光も、全部が遠のいていく中で、宿儺の存在だけがやけに鮮明に浮かび上がる。
嫌な予感がする。
さっきまで見ていたものが、ただの“記憶”じゃないことを、身体の奥が理解している。
これは、何かの入口だ。
虎杖悠仁の背中から差し込まれた刀は、肋骨の隙間を正確に抜け、心臓を貫いていた。刃は確実に核を捉え、その鼓動を停止させるに足る角度と深度で突き立てられている。力の込め方にも迷いはなく、殺すという一点においては寸分の狂いもない、完璧な一撃だった。
その瞬間、乙骨が呪術総監部上層部と結んでいた縛りは達成され、静かに消失する。不可視の鎖が断ち切られるような感覚が、乙骨自身の内側に確かにあった。課された義務は果たされた。形式上、虎杖悠仁は死んだ。
だが、乙骨はそこで終わるつもりはなかった。
刀を突き立てたまま、即座に呪力の性質を反転させる。負のエネルギーを正へと転じ、破壊された組織へと流し込む反転術式。その流れを刃先から心臓へと通し、停止した鼓動を再び動かす。
本来であれば、それで終わるはずだった。
心臓は修復され、血流は再開し、虎杖悠仁は“死んだ”という事実だけを残して蘇る。その結果として死刑という枷を外し、以降は協力関係へと移行する。それが乙骨の描いていた筋書きだった。
だが……
「なんだこれ……」
違和感が走る。
流しているはずの呪力が、どこにも届いていない。
「反転術式が効いてない?え?そんなことある?」
呪力の流れは確かに成立している。反転も成功している。術式としては何一つ問題がない。にもかかわらず、その結果だけが現実に反映されない。まるで心臓という対象そのものが、術式の適用外に置かれているかのように、修復が一切進まない。
乙骨の背筋を冷たいものが走る。
嫌な予感が、確信に変わりかける。
「マ、マズい……」
額から汗が滲む。
呪力の出力を上げる。より強く、より深く流し込む。だが状況は変わらない。心臓は沈黙したまま、何の反応も返してこない。
あり得ない。
自分の反転術式が通らない対象など、これまで想定したこともない。
その事実が、じわじわと恐怖に変わっていく。
一度、刀を引き抜く。
刃が抜けると同時に、溜まっていた血が溢れ出る。虎杖悠仁の身体はその場に立ったまま、力なく前へと傾きかけるが、完全に崩れ落ちることはない。支えがないはずなのに、ただ重力に従うこともなく、そこに“在り続けている”。
呼吸はない。
鼓動もない。
完全な静止。
それは間違いなく“死”だった。
「やっちゃった……」
呟きが漏れる。
自分の選択が、最悪の結果を引き寄せた可能性が頭をよぎる。計画は成立しているはずだった。理屈も通っていた。だが現実は、その全てを無視して崩れている。
その時。
「悠仁ーーー!!!!」
叫び声が響く。
振り向くと、脹相が駆け込んできていた。その後ろには壊相と血塗の姿もある。三者とも状況を理解するより早く、視界に入った光景だけで結論に辿り着いていた。
「嘘だろぉ!?」
壊相の声が震える。
「マジか」
血塗が呟く。その短い言葉の中に、状況の異常さと理解の追いつかなさがそのまま滲んでいた。
乙骨は咄嗟に口を開く。
「あ、あの……これはですね事情がありまして」
説明しなければならない。
ただ殺したわけではないことを。これは計画の一部であり、本来であれば蘇生まで含めて完結するはずだったことを。死刑という枷を外すための手段であったことを。
言葉を選ぶ余裕もないまま、必死に組み立てようとする。
だが、その最中でも視線はどうしても虎杖悠仁へと向いてしまう。
動かない。
まるで時間ごと止まっているかのように、完全に静止している。
反転術式が効かない理由。
その答えはまだ見えていない。
だが一つだけ、確実に言えることがある。
このままでは——取り返しがつかない。
「貴様ぁ!!だからと言ってこんな!!これはないだろう!?」
脹相の怒声が、結界の残滓が消えきらない空間に鋭く響き渡る。普段は抑え込まれている感情が一気に噴き出したように、その声には剥き出しの焦燥と怒りが混ざっていた。彼はその場に立ち尽くしたまま動かない虎杖悠仁の周囲を、落ち着きなく何度も往復するように歩き回る。視線は常に虎杖に向けられ、ほんの僅かな変化も見逃すまいと食い入るように見つめているが、その眼差しには確信ではなく疑念が宿っていた。
乙骨の説明は、理屈としては理解できるものだった。縛りを達成するための“死”を一度成立させ、その直後に蘇生することで枷を外す。確かに筋は通っている。だがそれは、目の前の現実が“その通りに進んでいる”場合に限る話だった。
今の虎杖悠仁は、動かない。
呼吸も、脈も、生命の反応が何一つ確認できないまま、ただその場に立っている。
その異様な静止が、脹相の理性を掻き乱していた。
「兄者!おおおおおおお落ち着け!」
壊相が慌てて脹相の肩に手を伸ばし、強引に動きを止めようとする。だが脹相の身体は張り詰めており、少し触れただけでも弾かれそうなほどに緊張していた。その力の入り方は、明らかに冷静さを欠いている。
「二人とも落ちつけ、ナ?」
血塗が横から口を挟む。胡座をかいていた姿勢から軽く身を乗り出し、二人を交互に見やるその様子は、妙に落ち着いていた。感情の起伏が少ない分、現状をそのまま受け入れているようにも見える。
だが、その視線もまた虎杖から離れてはいない。
誰もが、同じものを見ている。
動かない弟。
その現実が、場の空気を重く沈めていた。
「いや、ホントごめんなさい!」
乙骨が深く頭を下げる。背筋を折り、後頭部が見えるほどに頭を垂れるその姿には、言い訳ではなく純粋な謝罪の意思が込められていた。声も震えている。自分の選択が最悪の結果を招いた可能性を、彼自身が誰よりも理解しているからこその反応だった。
誠意はある。
それは誰の目にも明らかだった。
だが、それで納得できる状況ではない。
脹相の呼吸が荒くなる。何かを言い返そうと口を開きかけたその瞬間、彼の動きがふっと止まった。
虎杖を見ていた視線が、わずかに変わる。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……悠仁は生きてる、皆」
その声音は先程までとは違い、強くはないが、はっきりとした確信を含んでいた。
「俺たち兄弟は血で強く結ばれてる。だから
言葉は静かだが、その中にある信頼は揺らがない。感情に任せていた先程までの様子とは打って変わり、脹相は真っ直ぐに虎杖を見据えている。その目には迷いがなかった。
壊相が息を呑む。
「……本当か?」
問いかける声は小さいが、その中には希望が滲んでいた。
血塗もまた、無言のまま虎杖を見つめる。変化はない。呼吸も感じられない。それでも、脹相の言葉を否定するだけの材料も見当たらない。
乙骨も顔を上げる。
その言葉に縋るように、虎杖の身体を見つめ直す。反転術式は通らない。だが、それが即ち“完全な死”を意味するとは限らないのではないか、そんな可能性がわずかに浮かび上がる。
静寂が落ちる。
誰も動かない。
ただ、虎杖悠仁だけが、そこに立っている。
まるで時間から切り離されたかのように、完全に停止したまま、それでも確かに“そこに在る”という存在感だけが消えずに残っていた。
そして——その異様な静止の中で、何かが変わろうとしていた。
虎杖悠仁は、確かに死んでいた。
乙骨の放った刃は正確に心臓を貫き、その拍動を完全に停止させている。呼吸はなく、血流も止まり、肉体としての機能は一切の活動を失っていた。外から観測できる限り、それは完全な死の状態であり、どれだけ見直しても覆る余地のない事実だった。
だが、それでもなお終わっていなかった。
乙骨の反転術式は確かに流し込まれていた。負の呪力を反転させ、生命活動を再起動させるための術式は成立している。それにもかかわらず、心臓は沈黙を保ったまま動き出さない。通常であればあり得ない現象が、目の前で起きている。
その理由は単純ではない。
肉体は止まっている。
だが、経絡は止まっていなかった。
如来神掌——それは単なる武術ではない。肉体の内側を巡る“流れ”を認識し、それを操ることで成立する体系であり、その根幹にあるのは経絡という概念だった。全身に張り巡らされた見えない路、それを開き、通し、巡らせることで初めて真価を発揮する。
だが、その経絡は誰にでも最初から開いているわけではない。
開くには条件がある。
肉体を限界まで追い込み、死と同等の領域へと踏み込むこと。
生と死の境界線に触れた時、初めて肉体に点在する“門”が開かれ、閉ざされていた経絡が通る。通常であればその過程で命は尽きる。だが、極稀にその境界を越えて戻ってくる者がいる。
虎杖悠仁は、それを一度経験している。
両面宿儺の指を初めて取り込んだあの日、肉体に流れ込んだ膨大な呪力は制御を逸脱し、内側から破裂しかけた。同時に、精神は生得領域へと引きずり込まれ、宿儺の侵食した領域において魂そのものを斬り刻まれた。
肉体と魂、その両方が同時に“死”へと踏み込んだ瞬間だった。
そして、そこで終わらなかった。
経絡が開いた。
肉体の奥深くに眠っていた路が繋がり、巡り始める。元来持っていた異常な回復体質と、そこを流れる力が噛み合い、破壊されたはずの身体を内側から再構築した。
それが、如来神掌の覚醒だった。
一度目の死を越えて、虎杖悠仁は生還した。
そして今、二度目の死に直面している。
今回の一撃は予想外だった。雷を受け続け、肉体は既に甚大な損傷を負っていた。それでもなお致命には至らなかったのは、肉体そのものの異常性と、第六式によって極限まで活性化された“流れ”が全身を支えていたからに他ならない。
通常であれば死に至る状況を、強引に生へと引き戻していた。
だが、その均衡が崩れた。
雷が止み、構えを解いた瞬間——完全に力を抜いた一瞬の隙を、乙骨の刃が正確に突いた。
認識を逸らす術式を帯びた刃は、抵抗を許さず心臓へと到達し、鼓動を止める。同時に、その性質は“流れ”による即時回復を阻害した。巡っていた力が断たれ、再生の起点が一瞬だけ失われる。
その結果として、虎杖悠仁は二度目の死へと至った。
だが、それでも終わらない。
乙骨の反転術式が効かなかった理由。
それは単純な不具合ではない。
外部からの修復と、内部からの再生。
二つの力が、同時に同じ箇所へ作用していた。
止まった心臓へと流し込まれる反転術式と、経絡を通じて再起動しようとする“流れ”。その両者が互いに干渉し合い、結果としてどちらも決定打にならないまま拮抗状態に陥っていた。
外からも、内からも、同時に動かそうとしている。
だが、その力は完全には一致しない。
ほんの僅かなズレが、復活の引き金を引かせないまま停滞させていた。
静止。
だが完全な停止ではない。
見えない領域で、確かに“何か”が続いている。
そして——刀が抜かれたその瞬間、外からの干渉が途切れ拮抗が崩れる。内部で蓄積されていた“流れ”が、一気に解放される。
止まっていた心臓が、わずかに震えた。
一拍。
微かだが、確かに動いた。それは偶然ではない。再起動の合図だった。
血が動く。
止まっていたはずの循環が、ゆっくりと、だが確実に再開する。
沈黙していた肉体の奥で、再び命が灯る。
虎杖悠仁は二度目の死を越えて、蘇る。
直哉「おいへひかないでー」