武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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他人の生得領域でできるか分からぬが……

 

 

 

 

 「では、やるか」

 

 その言葉が耳に入った瞬間、空気が変わった。

 

 さっきまで静かだった黄金の蓮の世界が、ほんのわずかに軋んだ気がした。目の前にいる《俺と同じ顔の男》は、骨の山の上からゆっくりと身体を起こし、四本の腕を軽く動かしている。その仕草はどこか退屈そうで、まるで長い昼寝から起きて肩をほぐしているだけのようにも見えるのだが、肌に触れる気配はまるで違っていた。目の奥に宿っているものは明らかに人間のそれではなく、長い年月を経て凝り固まった何か、もっと単純に言えば「殺すこと」に慣れきった存在の視線だった。

 

 「ッ!!」

 

 その瞬間だった。

 

 何かが飛んできた。

 

 目では見えない。

 

 音もほとんどない。

 

 それなのに、本能が叫んだ。

 

 当たればヤバい。

 

 そういう気配だけが、皮膚の上を這うみたいに伝わってくる。

 

 俺は反射で身体を動かした。腰をわずかに捻り、半身をズラすように位置をずらす。訓練で何万回もやってきた回避の動きが、考えるより早く体を動かした。次の瞬間、俺がさっきまで立っていた場所の空気が、まるで見えない刃物に切り裂かれたみたいに歪む。

 

 何かが飛んできた。

 

 ……なんだ?

 

 斬撃……?

 

 俺が眉をひそめていると、骨の山の上から声が落ちてくる。

 

 「ほぉ!」

 

 男がわずかに笑った。

 

 「避けるか」

 

 声は落ち着いている。

 

 むしろ少し楽しそうだった。

 

 俺は肩を回しながら言う。

 

 「なんか飛ばしてきたのか?」

 

 「ククッ」

 

 低い笑い声が響く。

 

 俺と同じ顔のくせに、声は妙に厳かで、まるで寺の奥にいる坊さんが説法してるみたいな響きがある。そのせいで余計に違和感がすごい。

 

 男はゆっくりと腕を上げた。

 

 指を組む。

 

 刀印。

 

 それを俺へ向ける。

 

 「なら」

 

 口元が歪む。

 

 「これはどうだ?」

 

 また来る。直感がそう言った。

 

 次の瞬間、空気が切れる感覚が走る。見えない何かが真っ直ぐこっちへ飛んでくる。今度はさっきよりはっきり分かった。俺はすぐに身体を横へ流すように動かし、同じように半身をズラしてそれを避けた。

 

 シュッ、と軽い音。

 

 俺の背後で何かが裂けた。

 

 振り返る。

 

 黄金の水面に浮かんでいた巨大な蓮が、真っ二つに切れていた。花弁がゆっくりと水面へ落ち、切断された葉の断面が滑らかに光っている。

 

 やっぱり斬撃みたいなの飛ばしてる。

 

 しかも見えない。

 

 いや待て、見えない斬撃ってなんだよ。

 

 魔法使いですか!?

 

 俺は頭を掻いた。そして目の前の男を見る。

 

 「あのなぁ……」

 

 ちょっとため息が出た。

 

 「ちょっとやめてくんない?」

 

 男は笑ったままだ。

 

 俺は肩を軽く回す。

 

 「怒るよ?」

 

 次の瞬間、踏み込んだ。

 

 蓮の葉の上の水面が揺れる。足が沈むことはない。水の上を踏んでいるのに、地面と同じように踏み込める感覚がある。この世界が現実じゃないことは分かるが、身体は普通に動く。

 

 一歩で加速。

 

 距離が一瞬で縮む。

 

 骨の山の上にいた男の姿が、目の前に迫った。

 

 俺はその勢いのまま腕を伸ばす。狙いは首でも腹でもない。

 

 腕だ。

 

 四本ある腕のうち、手前の一本を掴む。

 

 逃がさない。

 

 ガシッ。

 

 骨の山の上で、俺の手が男の腕を掴んだ。

 

 「その反応と踏み込み……かなり鍛えているようだな」

 

 骨の山の上で、俺が掴んでいる腕を見下ろしながら、そいつは妙に感心したような声でそう言った。掴まれている側のくせにまったく焦った様子がない。むしろ品定めでもしているみたいな余裕すらある。普通なら腕を取られた時点で抵抗するか、体勢を崩して慌てるはずなのに、コイツはまるでそんなことを気にしていない。俺の踏み込みや体の使い方を観察している感じだ。

 

 「お?」

 

 俺は思わず笑った。

 

 「わかるか?」

 

 十年だぞ。

 

 山を走り、滝に掌を叩き込み、岩を殴り、腕立て伏せをして、型を何万回も繰り返した。そうやって体に叩き込んできた動きだ。それを一目で見抜くなら、コイツなかなか目がいい。

 

 ……なんて思った瞬間だった。

 

 視界の端で何かが動く。

 

 拳。

 

 しかもかなり速い。

 

 俺の顔面へ真っ直ぐ飛んできている。

 

 そうだ。

 

 コイツ腕を四本持っている。

 

 今俺が掴んでいる腕とは別の腕が、普通に殴りかかってきていた。

 

 「おっと!」

 

 俺は身体をわずかに引き、反対の手を差し出してその拳へ触れる。真正面から受け止めるんじゃない。掌を当てて、ほんの少しだけ軌道をずらす。相手の勢いをそのまま横へ逃がすように力を流す。そうすると拳は俺の顔の横をかすめて通り過ぎ、攻撃の勢いだけが空を切る形になる。

 

 拳が逸れた瞬間、俺は体勢を崩さないまま腰を回した。

 

 足の踏み込み。

 

 腰の回転。

 

 背中から肩へ流れる力。

 

 そして腕。

 

 掌。

 

 その流れのまま、胴体へ掌底を叩き込む。

 

 ドン、と鈍い音が響いた。

 

 「グッ!?」

 

 低い声が漏れる。

 

 ……ん?

 

 俺は少しだけ首を傾げた。

 

 今のはただの掌底だ。型でも何でもない、体勢を崩すための一撃だった。それなのに、目の前の男はわずかに顔を歪めている。

 

 そんな痛かったか?

 

 見えない斬撃を飛ばしてくるような奴が、ただの掌底で苦しむとは思えない。

 

 俺が不思議そうに見ていると、男がゆっくり口を開いた。

 

 「貴様その技……」

 

 声が途中で止まる。

 

 俺は肩をすくめた。

 

 「何か?」

 

 男は一瞬だけ黙り込んだが、すぐに小さく笑った。

 

 「……まぁいい」

 

 興味を引っ込めたみたいに言う。

 

 「()()()()()()

 

 そのまま俺を見下ろしながら続けた。

 

 「さっさと肉体を明け渡せ」

 

 俺は短く返す。

 

 「ん」

 

 次の瞬間、掴んでいた腕が弾かれた。力任せというより、技術的な払い方だった。腕をひねりながら俺の手を外し、そのまま身体を後ろへ引く。男は骨の山の上から軽く飛び退き、黄金の水面へ降り立った。

 

 水面に着地しても沈まない。

 

 さっき俺が踏み込んだ時と同じだ。

 

 男は静かに立ち、四本の腕のうち二本を胸の前で組み始める。

 

 何だ?何をするつもりだ?

 

 俺は目を凝らす。

 

 手の形。

 

 指の組み方。

 

 どこかで見たような形だった。

 

 ……閻魔天印。

 

 座禅の本か何かで見た記憶がある。仏像の手の形だ。

 

 男はその印を結んだまま、ゆっくりと呟いた。

 

 「他人の生得領域でできるか分からぬが……」

 

 その声は妙に落ち着いていた。

 

 まるで実験でも始めるみたいな口調だ。

 

 「それも一興」

 

 次の瞬間。

 

 空気が変わった。

 

 男の周囲から、何かが膨れ上がる。

 

 気配。

 

 圧力。

 

 さっきまでとは比べ物にならない重さが空間に満ちていく。黄金の蓮の世界そのものが軋み始め、静かだった水面に細かい波紋が無数に広がっていった。

 

 俺は思わず目を細める。

 

 男は笑っていた。

 

 「いい経験になるだろう。本物の呪術、その極致を見せてやる」

 

 その瞬間、低い声が世界へ落ちた。

 

 「領域展開」

 

 水面が震える。

 

 骨の山が軋む。

 

 そして。

 

 「【伏魔御廚子】」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 両面宿儺は、虎杖悠仁の生得領域の内部で領域展開を発動した。

 

 本来、領域展開とは現実世界において呪力を膨張させ、術者の生得領域を外界へ押し広げる結界術である。術者の魂が持つ世界観をそのまま具現化する技であり、領域の内部では術式の必中が成立する。だが今この瞬間に起きている現象は、それとは少し違っていた。ここは現世ではなく、虎杖悠仁の心象世界、すなわち魂の内側に存在する生得領域の内部である。そこに宿儺が自らの領域を展開するという行為は、単なる術式発動ではない。魂と魂が直接ぶつかり合い、どちらの世界が上書きされるかを決める、純粋な支配力の衝突だった。

 

 宿儺が印を結んだ瞬間、その変化は即座に起きた。

 

 黄金に満ちていた蓮の世界が、音もなく侵食されていく。

 

 宿儺の身体から溢れ出したのは、ドス黒い血だった。血は地面へ滴るのではなく、まるで霧のように空間へ広がり、その中から肉の塊が生まれる。さらに骨が突き出し、ねじれた柱のように空間を支配していく。黄金の水面は瞬く間に赤黒い血の海へと変わり、静かに浮かんでいた蓮の葉は枯れ、黒ずみ、最後には腐り落ちるように崩れていった。空の色も変わる。柔らかな金色だった空は、墨を流し込んだような黒へ染まり、光は完全に消え去った。

 

 そこに残ったのは、血と肉と骨が支配する世界だった。

 

 それが両面宿儺の領域である。

 

 「領域展開」

 

 低く響く声が、歪んだ空間へ落ちる。

 

 「伏魔御廚子」

 

 その瞬間、世界そのものが牙を剥いた。

 

 宿儺の術式が動く。

 

 空間のあらゆる場所から、斬撃が発生する。目には見えない刃が幾重にも重なり、暴風のような勢いで一点へ収束していく。標的は当然、ただ一人。

 

 虎杖悠仁だった。

 

 斬撃の嵐。

 

 それはもはや数えられるものではない。無数の刃が一斉に襲いかかり、肉を裂き、骨を断ち、血を吹き上げる。黄金世界の中心に立っていた悠仁の身体は、あっという間に斬撃の渦へ飲み込まれていった。血が霧のように舞い上がり、水面に赤い波紋が広がる。肉片が飛び散り、骨が軋む音が混ざり合い、その場所は完全に斬撃の塊となっていた。

 

 やがて。

 

 嵐は静まる。

 

 宿儺はゆっくりと印を解いた。

 

 血の海の上に残るのは、斬撃が作り出した巨大な飛沫だけだった。水面は赤く波打ち、視界は血煙のような霧に覆われている。

 

 宿儺はその向こうを見た。

 

 「終いか」

 

 退屈そうな声だった。

 

 水飛沫がゆっくりと落ちていく。

 

 霧が晴れる。

 

 そして。

 

 そこに立つ影が現れた。

 

 宿儺の眉がわずかに動く。

 

 「……どういうことだ」

 

 そこには、虎杖悠仁が立っていた。

 

 全身から夥しい量の血を流している。肩も腕も胸も斬り裂かれ、普通の人間ならとっくに立っていられない状態だった。それでも悠仁は膝をついていない。むしろ背筋を伸ばし、真っ直ぐ宿儺を見上げている。その身体からは大量の蒸気が噴き出していた。血に濡れた皮膚の裂け目から白い蒸気が吹き上がり、まるで身体の内側で巨大な炉が燃えているかのようだった。

 

 宿儺は目を細める。

 

 (反転術式か?)

 

 最初に浮かんだのはその可能性だった。呪力を反転させ、負のエネルギーを正へ変えることで肉体を再生させる高等術式。だが次の瞬間、宿儺はそれを否定する。

 

 違う。

 

 呪力の流れではない。

 

 これはもっと原始的な、もっと根本的な現象だ。

 

 宿儺の視線の先で、虎杖悠仁の身体が変化していく。裂けていた筋肉が蠢き、血が蒸発し、肉がゆっくりと閉じていく。その動きは術式というより、肉体そのものが覚醒しているようだった。

 

 (これは……)

 

 宿儺は理解する。

 

 十年間の鍛錬。

 

 呼吸。

 

 座禅。

 

 精神集中。

 

 そして、あの最後の課題。

 

 経絡を開く。

 

 虎杖悠仁の身体の奥深くで、何かが弾けた。

 

 最終段階。

 

 閉じていた経絡が、今この瞬間、宿儺の手によって完全に開かれたのだった。

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