武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
東京呪術高専の地下深く、薨星宮へと至る中間領域——忌庫。
その静まり返った空間へ、複数の足音が連なっていた。先頭を行く九十九由基の背を追い、虎杖悠仁、伏黒恵、釘崎野薔薇、乙骨憂太、禪院真希、そして脹相・壊相・血塗の三兄弟が続く。術師と呪胎九相図、特級術師という本来交わるはずのない面子が一列に並ぶ様は、異様でありながらも妙な均衡を保っていた。互いの立場や過去に関係なく、ただ一つの目的に収束しているがゆえの整列だった。
忌庫の内部は、音を吸い込むように静かだった。棚に並べられた呪具や呪物は、封印の布越しであっても濃密な気配を漏らし、長年積み重なった呪的残滓が空気を重く濁らせている。そこにあるだけで災厄を孕むものが整然と保管されているという事実そのものが、この場所の異常性を物語っていた。
一行がその奥へと進む途中、脹相達の歩みがわずかに鈍る。
呪胎九相図の保管庫——彼らの“弟達”が物として扱われていた場所。
脹相は足を止めない。壊相も血塗も同様だ。だが、視線だけは確かにそこへ向いていた。声にはならない感情が、瞬間だけ空間に滲む。怒りとも、哀しみとも断じ切れない熱が、そして必ず取り戻すという静かな決意が、その場に確かに存在した。
しかし、それを掘り下げる時間はない。
全員が無言のまま歩みを再開し、やがて昇降機へと乗り込む。金属の箱がゆっくりと沈み始め、地上から切り離されていく感覚がじわじわと身体にまとわりつく。振動は最小限、だが深度だけは確実に増していく。耳に届くのは機械音のみで、誰一人として言葉を発しない沈黙が続いた。
やがて扉が開く。
その先に伸びる通路は、妙に長く、閉鎖的だった。壁に囲まれた構造でありながら、人工物というよりも巨大な生物の内側を進んでいるかのような錯覚を与える。足音が反響し、距離感が狂う。進んでいるはずなのに、同じ場所を歩いているような違和感が付きまとう。
その途中で、視界に異物が入る。
血痕。
床に広がる暗い染みは既に乾き、色は沈んでいる。それでも形は生々しく、ただの汚れではないことを明確に示していた。飛び散り方、滲みの広がり、その全てが“何かが起きた”証拠だった。
虎杖悠仁がしゃがみ込む。
触れはしない。ただ目を細め、じっと見つめる。
「これ血か?なんかあったのかな」
問いは宙に浮いたまま、誰も即答しない。
九十九がその横を通り過ぎる。歩みは止めず、視線だけを一瞬落とし、そのまま前を向いたまま口を開いた。
「12年も前の話さ。今思えば、全ての歪みはあの時始まったのかもしれない。さぁ皆、本殿はこの先だよ」
過去を断ち切るような言い方だった。詳細は語られない。だが“12年前”という単語だけで、この場所に連なる因果の重さは十分に伝わる。
一行は再び進み、やがて通路の終点へと至る。
そこで、世界が変わった。
視界一面に広がるのは、白。
壁も、床も、天井も、境界すら曖昧な白一色の空間。塗り潰されたのではない。最初からこの色しか存在していないかのような、完全な均質性。遠近感は壊れ、距離は意味を失い、視線を向けるほどに認識が揺らぐ。
「クソッ」
九十九が舌打ち混じりに吐き捨てる。そこには明確な苛立ちがあった。予測していた拒絶、その現実を突きつけられた不快感。
「すげぇな」
虎杖が呟く。
だがその目は周囲の白ではなく、その“奥”を見ていた。誰にも見えていない何かを、既に捉えている視線だった。
「なんかの撮影スタジオ?」
釘崎が軽口を叩く。現実味のなさを誤魔化すような言葉。
九十九は首を振る。
「いや、私達を拒絶しているのさ。天元はうつつに干渉しない。六眼が封印された今なら接触が可能だと踏んだんだが……見通しが甘かったか」
空間そのものが拒絶の形。
進むことを許さない壁。
だが——
「いや、九十九さん。そこにいるっすよ」
虎杖の一言が、その認識を覆した。
前方を指差す。
その先へ、全員の視線が集まる。
最初は何もない。
だが、意識を集中させた瞬間、白と白の境界がわずかに歪む。揺らぎの奥に、確かに“形”がある。
人影。
やがてそれは輪郭を持ち、明確な姿を結ぶ。
四つの目を持つ異形の人型。
「『初めまして。禪院の子、道真の血、芻霊の巫女、呪胎九相図、そして——』」
声が響く。
空間全体に直接刻み込まれるように、逃げ場なく届く声。
腕を組み、揺るぎなく一行を見渡すその存在。
天元。
千年を生きる不死の術師。
その視線が、最後に止まる。
虎杖悠仁へと。
「『宿儺の器にして如来神掌会得者……西中の虎』」
「えっ」
場の緊張とは無関係に、虎杖だけが間の抜けた声を漏らした。
「『宿儺の器にして如来神掌会得者……西中の虎』」
「えっ」
間の抜けた声が勝手に出た瞬間、口の中に変な感覚が残る。やべ、なんか唾まで出てた気がする。よりによってこんな場面で何してんだ俺。
いやそれよりだ。
なんで天元様が俺の中学時代の黒歴史を知ってるんだよ。どこで拾ってきた情報だそれ。結界ってそんなとこまで網羅してんのか?いやマジで勘弁してくれ。
横からスッと顔が寄ってくる。
「アンタだけ異名多くない?てか西中の虎ってなに?」
釘崎がニヤニヤしながら耳打ちしてきた。完全に面白がってる顔だ。やめろ、その話題に触れるな。今はそういう空気じゃねぇだろ。
「……身に覚えがねぇです」
とりあえず誤魔化す。いやマジで、自分で名乗ったわけじゃねぇし。勝手につけられたんだよあれは!
「『西中の虎というのはね。虎杖君が中学生の頃に付けられたものだよ』」
おい。
なんで補足すんだよ。
余計なこと言うなって。
頭の奥で思い出した瞬間、顔がじわっと熱くなる。あれマジで誰が言い出したのか分かんねぇんだよな。今さらここでバラされるとか、最悪にも程がある。
……いやほんとやめてくれ。
そんな俺の内心なんか関係なしに、九十九さんが前に出る。
「私に挨拶はなしかい?天元」
軽い口調だけど、目は全然笑ってない。しっかり相手を見据えてる。確かに言われてみれば、この人だけスルーされてたな。他のやつには一通り触れてたのに。
ナイスだ。
話題逸れた。
心の中でガッツポーズ決める。
「君は初めてじゃないだろう、九十九由基」
天元様が静かに返す。感情はほとんど乗ってないけど、どこか含みがある言い方だ。初めてじゃないってことは、前にも会ってるってことか。
こういう“人じゃない何か”とも普通に顔合わせるもんなんだな、この世界。
改めて考えるとやべぇな。
「……何故薨星宮を閉じた」
九十九さんが腕を組んで問いを投げる。さっきまでの軽さは消えて、完全に本題だ。空気がピリッと引き締まるのが分かる。
「羂索に君が同調しているのを警戒した。私に人の心までは分からないからね」
さらっと言うけど、内容は重い。
羂索。
その名前が出た瞬間、胸の奥がザワッとする。あの女の顔が浮かぶ。母ちゃんだったやつ。あれと繋がってるって思うと、なんか落ち着かねぇ。
「羂索、夏油傑の肉体に乗り移ってる術師だな」
九十九さんが確認するように言う。
「そうだ。嘗ては加茂憲倫の肉体に宿り暗躍していた」
加茂憲倫。
その名前に、誰かがすぐ反応する。
「加茂憲倫だと?あの最悪の呪術師として有名な奴が?」
横でそんな声が上がる。
俺は思わず首を傾げた。
加茂って聞くと、京都校にいたあいつが浮かぶ。真面目で、なんか礼儀正しくて、でもちょっと頑固そうなやつ。でも今の話の流れ的に、そいつとは別人っぽい。
同じ名前なだけか、それともなんか家系的な話か。
正直、そこはよく分かんねぇ。
でも一つだけははっきりしてる。
話がどんどんヤバい方向に転がってるってことだ。
天元様の言葉は淡々としてるのに、内容だけがどんどん重くなる。しかもこの空間、なんかおかしい。音も距離も、全部が少しズレてる感じがする。さっきからずっと、足場があるのに無いみたいな感覚が抜けねぇ。
その中心にいるのが天元様だ。
こいつ自身が、この空間そのものみたいなもんなんだろうなって、なんとなく分かる。
目の前にいる“それ”は、人って言い切るには違和感が強すぎるし、かといって呪霊とも違う。もっとこう、別の何かだとしか言いようがない存在だった。真っ白な空間の中で、俺は正面に立つ天元様をじっと見ていた。輪郭は確かに人の形をしているのに奥行きがなく、影もないし、空気を押しのけて存在している感じもない。そこに“ある”ことだけは確かに分かるのに、触れようとしたらそのまま手がすり抜けそうな、そんな妙な違和感がずっと付きまとってくる。
これ、本体じゃない。
それはすぐに分かった。俺の中を巡っている“流れ”が、はっきりとそれを拾っている。これは外に出てる殻みたいなもので、本体はもっと深いところに沈んでる。今ここに立ってるのは意識だけを切り出して投影してるような状態で、魂そのものは眠ってるのか、それとも広がってるのか……うまく言えないけど、とにかく全部はここに来てない。
気付いたら、口が勝手に動いていた。
「あの!天元様ってなんでそんな姿なんすか?」
言ったあとで、あ、これ完全に仕返しだなって思った。さっき俺の黒歴史みたいな異名をバラされたんだから、これくらい聞いてもバチは当たらねぇだろっていう、半分意地だ。でも正直、普通に気にもなってた。どう見ても人間の見た目じゃないし、あれをスルーする方が無理だ。
「お前よくこのタイミングでそれ聞けるな……」
伏黒の呆れた声が横から飛んでくるけど、知るかって感じだ。今聞かなかったら絶対タイミング逃すし、俺の中では優先度高いんだよこういう“よく分かんねぇこと”の方が。
天元様は一瞬だけ沈黙してから、わずかに口元を緩めたように見えた。笑ったのかどうかは分からない。でも少なくとも怒ってる様子じゃない。
「ふふ、私は不死であって不老ではない。君も500年生きればこうなる……いやならないか?」
さらっととんでもないこと言いやがった。
「マジか、てかどっち?」
思わずそのまま返す。いやだって分かんねぇだろそれ。なるのかならないのか、はっきりしてくれって話だ。500年生きたら目が増えてああなるのかと思うと普通に怖いし、ならないならその違いが何なのかも気になる。
頭の中で想像してしまって、ちょっとだけゾッとする。500年後の自分とか全然想像つかねぇけど、ああなるのは勘弁してほしい。てか500年も生きるつもりねぇけど。
「12年前、星漿体との同化に失敗してから私の老化は加速し、私の個としての自我は消え、天地そのものが私の自我となったんだ」
天元様は淡々と説明する。声の調子は変わらないのに、言ってる内容は重すぎる。星漿体……どっかで聞いたことある気がするけど詳しくは思い出せない。ただ、その失敗が今のこの状態に繋がってるってことだけは理解できた。
自我が消えて、天地そのものになる。
言葉としては分かる。でも実感が追いつかない。人間の枠で考えられる話じゃない。だからこそ、目の前の存在が“人じゃない”っていう違和感に、逆に納得がいく。
「道理で、声が増えないわけだ」
九十九さんがぽつりと呟く。意味はよく分からないけど、この人はある程度理解してるっぽい。同じ特級ってやつは、やっぱり見えてる世界が違うんだろうなって思う。
その横で釘崎がまだニヤニヤしてるのが見える。
絶対忘れてねぇな、西中の虎。
ああもう確定だ、あとで絶対弄られる。なんであんな異名ついたんだよマジで。普通に修行してただけなのに、気付いたら変な呼び名が広まってて、地元じゃ当たり前みたいに呼ばれてたんだよな。そういえばあの頃、同級生にちょっと距離置かれてた気もする……いややめろ、今それ思い出すな。
今さら効いてくるのやめてくれ。
そんなこと考えてたら、前にいた乙骨先輩が一歩踏み出した。
「あの!すみません。僕達はその羂索の目的と獄門疆の解き方を聞きにきました。知っていることを話してもらえませんか?」
それだ。
俺も聞きたかったやつ。五条先生のことも、羂索のことも、全部繋がってる。ここで情報もらえなかったら本当に詰む。
思わず乙骨先輩の方を見る。やっぱこの人、こういうとこちゃんとしてる。俺だったらもうちょい遠回りしてた気がする。
天元はすぐには答えなかった。
少しだけ間が空く。白い空間の中で、その沈黙がやけに長く感じる。俺達一人一人を見てるような、そんな気配がある。値踏みってほど露骨じゃないけど、何かを確認してる感じだ。
やがて、口を開く。
「勿論と言いたいところだが、一つ条件を出させてもらう」
その一言で、空気が変わる。
説明の場から、交渉の場へ。
軽い話じゃ済まないっていうのが、一発で分かる。
名前が順に呼ばれる。
「乙骨憂太、九十九由基、
自分の名前が出た瞬間、背筋が勝手に伸びる。理由は分からないけど、ここから先は完全に“当事者”なんだって感覚がはっきりする。
そして告げられる条件。
「
……は?
思考が一瞬止まる。
いやいやいや、ちょっと待て。話聞きに来ただけだぞ俺ら。なんでいきなり居残り確定みたいな流れになってんだよ。
頭の中でツッコミが止まらないまま、俺は思わず天元様を見返した。
五条「あ、ポケットの中に……」