武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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呪力も術式も持たぬ出来損ないが、力を得た気でいる。滑稽極まりない

 

 

 

 「おう、悠仁」

 

 忌庫から地上へと繋がる扉を潜った瞬間、ひんやりとした地下の空気が途切れ、外気が一気に肌へと触れてくる。その境目に立つようにして、真希さんが腕を組んで待っていた。どう見ても偶然そこにいた感じじゃない。完全にこっちを待ってた顔だ。

 

 「どしたんすか?真希さん」

 

 声をかけると、真希さんは軽く顎を上げて俺を見た。全身に刻まれた火傷の跡が照明の下でくっきりと浮かび上がっているが、その立ち姿は以前と何も変わらないどころか、むしろ余計なものが削ぎ落とされて鋭くなった印象すらある。

 

 「オマエは西側だろ?禪院家は京都だからな。一緒に行こうぜ」

 

 その言葉は簡単だったけど、意味はちゃんと分かる。俺が向かう西側のコロニー、その入口の一つが京都で、真希さんの目的地も同じ方向ってことだ。

 

 「お!いいっすよ!じゃあ……」

 

 返事をしながら、俺は自然とその場でしゃがみ込んでいた。何も考えずに身体が動いた感じだ。背中を軽く叩いて、分かりやすく合図を送る。

 

 「何してんだ?」

 

 真希さんが眉を寄せる。

 

 「え?おんぶだけど」

 

 当然だろって顔で答えると、露骨に呆れたような視線が返ってきた。

 

 「はぁ?京都だぞ?電車で行くだろ」

 

 言ってることは正しい。普通に考えればその通りだ。でも、普通に考えた場合の話だ。

 

 「いや電車より速いって」

 

 軽く言うと、真希さんは一瞬だけ黙ってから、半目でこっちを見た。その視線には疑いと、ちょっとした興味が混ざってる。

 

 「嘘こけ……まぁいいや、じゃあ頼むわ。とりあえず組屋鞣造のアトリエまで」

 

 完全に信用されたわけじゃないけど、乗ることは決めたらしい。躊躇なく俺の背中に体重を預けてくる。動きに無駄がなくて、乗り方も慣れてる感じがするのがちょっと面白い。

 

 「軽っ」

 

 思わず口に出る。いや実際軽い。筋肉の塊みたいな人なのに、無駄な重さが全然ない。

 

 「失礼だなオイ」

 

 背中越しに軽く叩かれるが、痛くはない。むしろその一撃で、バランスの取り方が分かる。

 

 「じゃ、行きますよ」

 

 膝に力を込めて立ち上がる。そのまま重心を前に流して、一歩踏み出す。

 

 地面を蹴った瞬間、空気が一気に後ろへ流れる。

 

 「おい、速っ……!」

 

 真希さんの声が耳元で少しだけ揺れる。その反応で、自分の出してる速度を改めて自覚する。前よりも明らかに軽い。身体の動きに引っかかりがない。

 

 “流れ”が、はっきり見える。

 

 脚の踏み込みから腰、背中、肩、そして腕へと繋がる連動が、一本の線みたいに通っている。その線を意識するだけで、余計な力が抜けて、推進力がそのまま前に抜ける。

 

 跳ぶ。

 

 建物の屋上に一気に飛び上がり、そのまま次のビルへと踏み切る。足裏に伝わる衝撃も、ほとんどその場で消えていく。力を逃がす感覚が、勝手に身体に染み付いている。

 

 「ははっ、すげぇなこれ」

 

 思わず笑いが漏れる。楽しいとかそういう単純な感情じゃなくて、自分の身体がちゃんと繋がってるっていう実感がそのまま面白さに変わってる感じだ。

 

 「お前、なんか変わったな」

 

 背中から真希さんの声が落ちてくる。さっきより少し低くて、観察してるような響きだ。

 

 「そうっすか?」

 

 返しながら、次のビルへと着地する。視界が流れていく中でも、足場の位置も距離もはっきり捉えられる。

 

 「前より無駄がねぇ。力の通し方が綺麗になってる」

 

 その言葉に、少しだけ納得する。確かに自分でも分かる。前は力で押し切ってた部分が、今はちゃんと繋がってる。

 

 「まぁ一回死んだんで」

 

 軽く言うと、背中で一瞬だけ沈黙があった。

 

 「軽く言うなよ」

 

 呆れた声が返ってくる。でも、そこにあるのは怒りじゃなくて、ただの事実の確認みたいなものだ。

 

 「でもまぁ、悪くないっすよ。気持ちが良い」

 

 正直な感想だ。あの瞬間を思い出しても、嫌な感じは残ってない。それよりも、今こうして動けてる感覚の方が強い。

 

 風を切りながら、俺はさらに速度を上げる。

 

 目的地は京都。その先にはコロニーがあって、平安の術師がいて、宿儺を狙うやつがいる。

 

 そして羂索も……全部まとめて相手にする。

 

 「飛ばしますよ」

 

 「落とすなよ」

 

 軽く言葉を交わしながら、俺は次の一歩を強く踏み込んだ。

 

 さっきよりも一段深く踏み込む。足裏に伝わる感触が薄れ、代わりに全身を貫く一本の“流れ”だけが鮮明になる。音が遅れる。いや、消えてるんじゃない、俺の方が先に進んでるだけだ。景色が引き伸ばされて線になる。風圧が肌に叩きつけられる前に、身体がそれを受け流していく。空気が裂ける感触だけが、後から追いついてくる。

 

 「ちょ、おま、ヤベぇ!」

 

 背中で真希さんの声が跳ねる。驚き半分、面白がってるのが半分くらい混じってる。

 

 「ふぉー!」

 

 意味もなく声が出る。楽しいというより、力が余ってる感じだ。踏み込みをさらに深くして、そのまま地面を蹴り砕くように跳ぶ。足元でアスファルトが弾け、衝撃が遅れて耳に届くころには、もう空の上だ。

 

 身体が山なりに弧を描く。その頂点で一瞬だけ静止したみたいな感覚があって、次の瞬間にはまた加速に入る。視界の下を流れていく街並みが、もはや形として認識できない。ただの色の塊になって後方へ消えていく。

 

 数分も経たないうちに、目的地は見えた。

 

 森の奥、陽の入り方がおかしい一角に、不自然に沈んだような小屋がある。周囲の木々がそこだけ避けるみたいに歪んでいて、空気が濁っているのが遠目にも分かる。

 

 着地と同時に、鼻をつく匂いが変わる。

 

 血の匂い。

 

 それも新しいものじゃない。積み重なって、腐って、染み付いた匂いだ。そこに混ざる呪力の気配も最悪で、触れるだけで皮膚がざらつくような嫌な質をしている。

 

 「……陰気だな」

 

 真希さんが小さく呟く。その声に同意するまでもなく、身体が勝手に警戒に入る。耳を澄ませると、かすかに声が混じっている。

 

 『助けて……』

 

 『殺して……』

 

 どっちだよって言いたくなるような、混ざりきった声だ。もう生きてるのか死んでるのか分からないレベルで壊れてる。

 

 「いくぞ」

 

 「うっす」

 

 躊躇はない。扉を正面から蹴り飛ばす。木材が悲鳴みたいな音を立てて弾け飛び、そのまま中へ踏み込む。

 

 むわっとした熱気と匂いが一気に身体にまとわりつく。空気が淀んでるってこういうことかって分かるくらい、重たい。

 

 室内は雑然としていた。壁一面に呪具が並べられている。刀、槍、鎖、見たこともない形のものまで、種類はバラバラだが、どれも同じように血と呪いを吸ってきた気配がある。

 

 「嫌な場所だな〜」

 

 思わず本音が漏れる。強いとか弱いとか以前に、ここに長く居たくないっていう感覚が先に来る。

 

 「目的は呪具の回収だ」

 

 真希さんはぶれない。視線は既に壁の奥に向いている。

 

 「へぇ……」

 

 俺もその視線を追う。確かに、他とは少し違う扱いをされているものがあった。ガラスケースに入れられて、明らかに“特別扱い”されている。

 

 真希さんが迷いなく近づき、そのままガラスを叩き割る。乾いた音が室内に響く。

 

 中から取り出したそれは、剣だった。ただの剣じゃない。見た目からしてどこか機械的で、峰の部分に妙な構造が組み込まれている。射出口みたいなものがついていて、内部に何かを溜めて吐き出すような作りだ。

 

 触れなくても分かる。術式が宿ってる。しかもかなり質がいい。

 

 「竜骨って書いてあるな」

 

 真希さんが柄を見ながら言う。確かに刻まれている文字が見える。

 

 「強そう」

 

 軽く言うと、真希さんは満足げに鼻を鳴らした。

 

 「じゃ、いきますか」

 

 「あぁ」

 

 長居する理由はない。さっさと出るのが正解だ。

 

 外に出た瞬間、さっきまでまとわりついていた空気が一気に剥がれる。森の匂いすら清々しく感じるレベルだ。

 

 そこで、俺は一度足を止めた。

 

 「あ、ちょっと待って」

 

 背後の小屋に視線を向ける。あのまま残しておくのは、なんか嫌だ。理由はうまく言えないけど、この場所自体がもうダメな気がする。

 

 静かに掌を向ける。

 

 意識を一点に集める。さっきまで走っていた“流れ”を、そのまま腕から掌へと繋げる。力む必要はない。ただ通すだけでいい。

 

 「フッ」

 

 息と同時に放つ。

 

 音は遅れて来る。透明な圧が一気に前方へ叩き出され、小屋ごと空間を押し潰す。木材も壁も、中にあったものも全部まとめて砕け散り、跡形もなく吹き飛んだ。

 

 静寂が戻る。

 

 「よし、行きましょ」

 

 何事もなかったみたいに振り返って、その場でしゃがむ。背中を軽く叩いて合図する。

 

 「お、おう」

 

 さっきより少しだけ慎重に、でも迷わず真希さんが乗ってくる。その体重を受け止めながら、俺は次の目的地へ意識を向けた。

 

 京都。

 

 ……ちょっと楽しみだな。

 

 そう思いながら、俺は再び地面を蹴った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 禪院家。

 

 “才能と力を尊ぶ統制された戦闘一族”と称されるその家は、京都の山間に広大な敷地を構え、外界とは隔絶された独自の規律と価値観を維持し続けてきた。石畳の道は磨き上げられ、庭園は寸分の乱れもなく整えられているが、その均整の裏側には血と淘汰で積み上げられた歴史が沈殿しており、訪れる者の皮膚を刺すような緊張が絶えず漂っていた。

 

 門前に立つ二人の姿は、その空気に対してあまりにも異質だった。袋に入れた剣を肩に担ぐ禪院真希と、薄桃色の髪を揺らす虎杖悠仁。片や呪力を持たぬ異端、片や宿儺の器。どちらもこの家が本来排除してきた側の存在でありながら、今は正面から堂々と立っている。

 

 「あっという間に着いたな」

 

 真希が軽く肩を回しながら言う。長距離移動の直後とは思えない余裕だが、その声音の奥にはわずかな警戒が混じっていた。

 

 「でしょ?」

 

 虎杖は悪びれもなく笑う。東京から組屋鞣造のアトリエを経由し、ここ京都の山間までを一時間もかけずに踏破した事実は常識から逸脱しているが、本人にとってはそれすらも当然の延長線にある行為でしかない。

 

 「じゃ、ここまででいいぞ悠仁。オマエはこのまま京都のコロニーに行け」

 

 真希はそう言って、門の内側へ視線を向けた。その目はすでに“禪院家の内部”へと意識を切り替えている。

 

 「えっ大丈夫か?」

 

 虎杖が問い返す。軽い調子のままではあるが、先程から彼の視界に映り続けている“何か”が、その言葉の奥に引っ掛かっていた。

 

 「大丈夫だろ。当主様のお墨付きを得てんだ」

 

 「伏黒が禪院家の当主になったんだっけ」

 

 「ああ、そうだ」

 

 真希はポケットから鍵を取り出し、指先で軽く回す。それは禪院家の忌庫へ通じる鍵。禪院直毘人と伏黒甚爾の密約により、伏黒恵が二十七代目当主となった事実が、この場に立つ彼女の行動を正当化している。

 

 「じゃあな」

 

 「うす」

 

 短いやり取りを最後に、真希は門を潜る。背中を向けたまま一度も振り返らず、敷地の奥へと消えていくその姿は迷いがない。だが——

 

 虎杖はその背中を、ただ見送ることができなかった。

 

 彼の視界には、肉眼では捉えられない“繋がり”がはっきりと映っている。真希の魂から伸びる細い線。それは屋敷の奥深くへとまっすぐに伸び、別の存在と結びついていた。

 

 禪院真依。

 

 双子の妹。

 

 同一とみなされる魂の片割れ。

 

 「……」

 

 その線はあまりにも細い。糸のように頼りなく、わずかな衝撃で途切れてしまいそうなほどに脆い。だが完全には切れていない。だからこそ分かる——それは今まさに、限界に近づいている。

 

 「なんかヤバそうだけど」

 

 虎杖は小さく呟く。だがその声には、焦りよりも判断の揺らぎが含まれていた。助けに入るべきか、それとも任せるべきか。その二択が、彼の中でせめぎ合っている。

 

 視線はなおも真希の消えた方向を追う。

 

 繋がりは確かにそこへ伸びている。

 

 異様なほど真っ直ぐに。

 

 まるで“そこに行けば必ず何かが起きる”と告げるかのように。

 

 「……まぁいいか」

 

 やがて虎杖は息を吐く。

 

 軽く肩をすくめるようにして、思考を一度切り替えた。

 

 「真希さんなら多分大丈夫だろ。多分な」

 

 自分に言い聞かせるような言葉だった。確信ではない。だが信頼はある。あの人なら、自分で決着をつける。そういう種類の人間だと、短い付き合いの中でも理解している。

 

 それでも、完全に視線を切ることはできなかった。

 

 ほんの一瞬だけ、躊躇が残る。

 

 だが次の瞬間、虎杖の身体は地面を強く踏み締めていた。筋肉が収縮し、骨が軋み、空気が押し潰される。踏み込みと同時に大地がわずかに沈み、次の瞬間にはその場から姿が消えていた。

 

 爆ぜるような音を残し、虎杖は一気に加速する。

 

 進路は西。

 

 京都コロニー。

 

 しかしその背後、禪院家の敷地の奥へと伸びる細い線は、完全には意識から消えてはいなかった。まるでいつでも振り返れるように、記憶の奥底に引っ掛かったまま残り続けている。

 

 そして——その線の先では、確実に何かが起ころうとしていた。

 

 

 そうして真希は屋敷の中へと足を踏み入れた。外界と切り離されたその空間は、踏み込んだ瞬間から温度が変わる。空気は重く、湿っており、見えない何かが皮膚の上を這うような感覚がまとわりつく。石畳の冷たさを靴越しに感じながら、真希は一切の迷いなく廊下を進んでいく。その背筋は伸び、視線は揺れず、ここが自分を拒む場所であることなど最初から織り込み済みであるかのようだった。

 

 長く狭い廊下を抜けた先、とある部屋の前で足を止める。扉は半開きになっており、中の気配が隙間から滲み出ている。

 

 「あれぇ……誰かと思たわ……酷い面やなぁそれ、もう治らんやろ。どうすんの真希ちゃん」

 

 軽薄な声が室内から流れてくる。だが真希はそれに対して即座に反応を返さない。

 

 そこにいたのは禪院直哉。窓際の椅子に腰掛け、身体を傾けながらこちらを見ている。顔は完全には戻っていない。顎の歪み、わずかに崩れた輪郭、それでもなおその目に宿るのは歪んだ優越だった。

 

 真希は部屋の中へ視線すら向けず、ただ前を見据えたまま静かに言葉を吐いた。

 

 「女を顔で判別できたんだな。というかオマエ、顔歪んでねぇか?」

 

 真希の返しは一切の躊躇がない。直哉の言葉を正面から受けることも、流すこともせず、ただ同じ土俵に叩きつける。

 

 直哉の頬がわずかに引き攣る。だがすぐに笑みに戻る。

 

 「……どうすんのか聞いてんねんけど、答えろやカス。呪術も使えん、呪霊も見えん。取り柄のお顔も身体もグズグズ。もう誰も眼中にないで」

 

 言葉は刃のように並べられる。相手を削るために選び抜かれた単語の連続。だがその全てが、今の真希には届かない。

 

 「うるせぇ、その歪んだ顔と考えを反転術式でも学んで治したらどうだ?クソ野郎」

 

 直哉を見ながら吐き捨てるような言葉を吐き同時に、真希は視線を外す。直哉に対してこれ以上の価値を見出していない。その態度が、何よりも直哉の神経を逆撫でした。

 

 「あかんで真希ちゃん、女がそないなこと言うたら——」

 

 最後まで聞くことなく、真希は背を向けて歩き出す。言葉の応酬はそこで終わった。勝敗など最初から存在しない。真希にとって、それはただの通過点でしかない。

 

 背後から続く言葉も、最後まで聞くことなく切り捨てた。

 

 興味がないのではない。価値がないと判断しているだけだ。

 

 そのまま進み、地下へと降りる通路へ足を向ける。照明は少なく、湿った空気が肺にまとわりつく。下へ行くほどに呪的な濃度は増し、かつて封じられ、捨てられ、蓄積されてきたものの残滓が層となって空間を満たしていた。

 

 その途中、前方に人影が現れる。

 

 「真希、戻りなさい。忘れたの?忌庫への立ち入りは私達に許されていないの」

 

 母親だった。立ちはだかるでもなく、ただそこに立っている。だがその声には強い抑止の意志が含まれていた。

 

 「当主様が良いって言ってんだよ」

 

 真希は足を止めず、ポケットから取り出した鍵を指で弾くように回す。その動作は軽いが、拒絶の意志は明確だ。

 

 母親の横を通り過ぎる。

 

 「戻りなさい!!」

 

 背後から叫びが飛ぶ。その声には怒りよりも焦りが強く混ざっていた。だが真希は振り返らない。

 

 「……どうして?どうしてアナタはいつもそうなの?一度くらい産んで良かったと思わせてよ……真希」

 

 言葉が背中に突き刺さる。だがそれでも足は止まらない。反応も返さない。その言葉を受け取ること自体を拒否するように、ただ前へ進む。

 

 やがて最奥、忌庫の大扉の前に辿り着く。

 

 重厚な扉。鍵穴に鍵を差し込み、捻る。内部から重たい音が響き、封が解かれていく。

 

 扉が開く。

 

 血の匂いが溢れ出した。

 

 濃く、重く、肺の奥にこびりつくような臭気。

 

 真希は一歩踏み込む。その背後に虎杖も影のように滑り込む。

 

 そして真希の視界の先——

 

 「親父……!!」

 

 真希の声が鋭く響く。

 

 そこに立っていたのは禪院扇。そしてその背後には、血を流し倒れている真依の姿があった。

 

 「ここに呪具はないぞ、真希。お前達の動向を見越して空にしておいた」

 

 淡々と告げる。感情は薄い。だが殺意は確かにそこにあった。

 

 「なんで来たのよ……馬鹿」

 

 真依が掠れた声で言う。

 

 「真依!!」

 

 真希の視線が鋭く変わる。その瞬間、空気が張り詰めた。

 

 扇が構える。身体の表面に薄く呪力が纏われる。

 

 秘伝——『落花の情』。

 

 触れたものを迎撃する呪力制御を、居合として転用した技。

 

 対する真希は袋から呪具を取り出す。

 

 組屋の傑作、竜骨。

 

 衝撃と呪力を蓄積し、解放する武器。

 

 間合いが詰まる。

 

 真希が踏み込む。床が軋み、空気が裂ける。

 

 扇が迎え撃つ。

 

 竜骨が振るわれる。刃が扇の纏う呪力に触れた瞬間、迎撃が発動し、扇の身体が回転する。鞘から刀が抜かれ、竜骨を弾き、流れる動作で真希の頸を狙う。

 

 だが真希はそれを見切る。

 

 反対の腕を振り抜き、拳で刀身を叩き折る。金属が砕け、刃が飛び散る。

 

 その勢いのまま、竜骨を引き戻す。蓄積された衝撃と呪力が内部で唸りを上げ、放出の瞬間を待つ。

 

 斬る——その意思が定まる。

 

 だが次の瞬間。

 

 真希の身体は、すでに斬られていた。

 

 視認できない軌跡。折れたはずの刃、その断面から炎のように伸びた刃が、わずかな遅延で肉体を切り裂く。時間差の斬撃。迎撃と同時に仕込まれていた、返しの一手。

 

 血が遅れて噴き出す。

 

 真希の身体が揺れる。

 

 だが、倒れない。

 

 倒れかけた身体を、真希は強引に踏み止めた。斬り裂かれた脇腹から血が溢れ、衣服を濡らしながら滴り落ちていく。それでも膝は折れない。足裏に込めた力が床へと沈み込み、亀裂が放射状に走る。痛みはある。だが、その痛みを認識する余裕すら削ぎ落とすように、意識はただ一点へと収束していた。

 

 殺す。

 

 それだけだ。

 

 次の瞬間、真希は竜骨を振り上げていた。刃の内側に蓄えられた衝撃と呪力が軋み、唸る。使い手の意志に応じて解放されるそれは、ただの斬撃ではなく、叩き潰すための暴力として形を成す。

 

 扇が迎え撃つ。

 

 折れた刀、その僅かに残る刃を滑り込ませるように当て、竜骨の軌道を逸らす。迎撃の理は崩れない。触れた瞬間に殺す、それが『落花の情』の本質だ。弾かれた衝撃を殺し、同時に距離を取る。

 

 後方へ滑る。

 

 足運びは乱れず、構えも崩れない。

 

 「何故……死なん!」

 

 扇の声が低く響く。確実に断ち切ったはずの一撃。それでも目の前の娘は立っている。その事実が、理に反するものとして認識されていた。

 

 「ゴフッ……鍛え方が違うんだよ……!!」

 

 真希は血反吐を吐きながら笑う。歯の隙間から溢れた血が顎を伝い落ちる。それでも目は逸れない。むしろ、先程よりも鋭く、研ぎ澄まされていた。

 

 踏み込む。

 

 迷いはない。痛みも出血も、全てを置き去りにするように、一歩を踏み出す。床が砕ける。遅れて衝撃が広がる。

 

 竜骨が振るわれる。

 

 直線ではない。途中で軌道を捻り、迎撃のタイミングを狂わせる。単純な力任せでは届かないと理解した上での動きだった。

 

 扇の目が細まる。

 

 呪力の流れを読む。触れた瞬間に弾く。それが成立すれば、相手は斬れる。理屈は変わらない。

 

 接触。

 

 だが、その瞬間——

 

 衝撃が噴き出した。

 

 竜骨に蓄積されていた力が、触れた点から逆流するように解放される。迎撃に用いた呪力へ叩き返すような圧。通常の受け流しでは処理しきれない質の違う暴力だった。

 

 「……ッ!」

 

 扇の身体が僅かにぶれる。足の踏み込みが一瞬遅れる。

 

 その隙を、真希は見逃さない。

 

 距離を詰める。

 

 竜骨を引き戻しながら、さらに一歩踏み込む。その動きに淀みはなく、攻撃の流れは途切れない。

 

 扇が刀を振るう。

 

 折れた刃の断面から、炎のような呪力が伸びる。見えない刃が距離を欺き、真希の身体を捉える。

 

 斬れる。

 

 その軌道。

 

 だが真希は止まらない。

 

 踏み込む。

 

 斬撃が身体を掠める。肉が裂け、血が散る。それでも足は止まらない。むしろ、その一歩は先程よりも深く、強く踏み込まれる。

 

 拳が振るわれた。

 

 竜骨ではない。素手。

 

 だがその一撃は、武器に劣らない。叩き込まれた衝撃が扇の構えを崩す。体勢がわずかに浮く。

 

 その瞬間——竜骨が振り下ろされる。

 

 蓄積された全てが解放される。衝撃と呪力が一つにまとまり、空間を歪めながら叩きつけられる。

 

 爆ぜる。

 

 音が遅れて響く。

 

 扇の身体が吹き飛ぶ。床を滑り、壁際まで押しやられる。完全に崩れたわけではない。だが、確実に一度均衡は崩された。

 

 真希の呼吸が荒い。血は止まらない。それでも足は前に出る。

 

 止まらない。

 

 ここで止まる理由がない。

 

 視線の先には、まだ立っている敵がいる。

 

 そして、その後ろには——倒れている妹がいる。

 

 真希はもう一度踏み込んだ。

 

 次で終わらせるために。

 

 そして禪院扇は折れた刀を構えたまま、全身の呪力を一気に解き放った。纏ったそれはただの気配ではなく、形を持った熱として周囲を歪める。空気が震え、視界が揺らぎ、床に刻まれた血の跡すら蒸発するように掻き消えていく。

 

 「消し炭にしてくれる!!」

 

 叫びと同時に、折れた刀身から青白い炎のような呪力が噴き出した。それは刀の延長ではない。空間そのものを侵食し、刃の形を保ったまま膨張していく異質な力だった。周囲の壁が爆ぜ、床が抉れ、視界の端で石材が焼け崩れていく。

 

 「術式解放——焦眉之赳」

 

 呪力が収束する。

 

 次の瞬間、爆発的に広がった。

 

 真希はそれを正面から見据え、躊躇なく踏み込んだ。後退という選択肢は最初から存在しない。踏み込む以外に、届く術がないと理解しているからだ。

 

 竜骨を振るう。

 

 蓄積された衝撃が唸りを上げ、刃と炎が真正面から激突する。瞬間、空間が軋む。力と力が噛み合い、互いを押し潰そうとせめぎ合う。

 

 だが、その均衡は長くは続かない。

 

 真希は咄嗟に竜骨を手放した。

 

 判断は一瞬だった。握り続ければ、刃ごと焼き潰される。そう確信したからこそ、躊躇なく手を離した。武器に固執しない、その選択が次の動きへと繋がる。

 

 間合いを詰める。

 

 身体一つで踏み込む。炎の熱が皮膚を焼く。だが、止まらない。

 

 拳を振るう。

 

 狙いは胴体。打ち抜くための一撃。だが——触れた瞬間、扇の身体が動いた。

 

 『落花の情』はまだ発動している。

 

 纏った呪力が、接触した対象を迎撃する。意思とは無関係に、最適な動きで反応する防御の極致。

 

 半身がずれる。

 

 紙一重で外される拳。その軌道が空を切った瞬間、扇の反撃が始まる。

 

 下から。真希の死角から、炎の刃が振り上げられた。

 

 避けられない。間に合わない。

 

 「ガハッ!!」

 

 斬撃が直撃した。

 

 肉が裂け、骨に届く衝撃が身体を貫く。真希の身体が浮き、空中で血を撒き散らしながら後方へと吹き飛ばされる。床に叩きつけられ、転がり、壁へとぶつかってようやく止まった。

 

 肺から空気が強制的に吐き出される。呼吸が乱れる。視界が白く滲む。それでも意識は途切れない。

 

 扇がゆっくりと歩み寄る。

 

 炎の刃は未だ消えず、空間を焦がしながら揺らめいている。

 

 「だからお前達はダメなのだ」

 

 吐き捨てるような声だった。感情は薄い。ただ事実を述べているだけの冷たさがある。

 

 「呪力も術式も持たぬ出来損ないが、力を得た気でいる。滑稽極まりない」

 

 足音が近づく。

 

 一歩、また一歩と距離が詰まる。

 

 真希はもう動けなかった。




直哉「歪んでるか?」
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