武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
「……やっぱ戻るか」
山を一個飛び越えたところで、俺は立ち止まって振り返った。さっきまで前へ進むつもりで身体を動かしてたのに、どうにも胸の奥が引っかかる。真希さんなら大丈夫だろって思ったし、実際あの人は強い。でも、さっき見えた細い繋がりが頭から離れなかった。
「『そんなにあの忌子が気になるか?小僧、お前がそんな些細なことを気にする奴だとはな』」
宿儺の声が頭の奥で嗤う。人の心配なんて理解する気もないって感じの、いつものムカつく声だ。
「言っとけ」
短く返して、俺は来た道を戻り始めた。踏み込んだ瞬間、地面が軽く沈む。身体が前に飛ぶ。山をもう一度飛び越えて、さっき離れたばかりの禪院家へ向かう。
戻るまで、ほとんど時間はかからなかった。
禪院家は相変わらず陰鬱だった。綺麗に整えられてるのに、空気が重い。庭も屋敷も立派なのに、どこか息苦しい。人の家なのに、住む場所っていうより、何かを閉じ込める箱みたいに見える。
「お邪魔しまーす」
俺は塀を飛び越えて、屋敷の中に入った。声は出したけど、誰にも聞こえないくらい小さく抑えてる。本気で気配を殺せば、多分誰も俺に気づかない。
乙骨先輩と九十九さんが言ってた。今の俺はそこにいるのに何も感じないらしい。呪力も圧もない。存在してるはずなのに、感覚に引っかからないんだと。
なんでそうなってるのかは分からない。元からそうだったのか、それとも死んで生き返ったせいなのか。正直、考えてもよく分からん。
ただ、弱そうに見られてるみたいで、あんまりいい気分じゃない。
人の気配が近づくたび、柱の影に身を寄せる。時には天井に張り付いて、時には素早く廊下を抜ける。通り過ぎる人間のすぐ真後ろを歩くこともあったけど、誰も振り返らなかった。視界の端に入ってるはずなのに、認識されてない。
ちょっと怖いな、これ。
でも便利だ。
俺は真希さんの気配を追った。正確には、真希さん本人の気配っていうより、さっき見えた魂の繋がりを辿ってる感じだ。細くて今にも切れそうな線。それが屋敷の奥へ伸びている。
しばらく進むと、地下へ続く通路に辿り着いた。空気が変わる。冷たいし、湿ってる。上の屋敷とは違って、ここはもっと嫌な感じがする。呪具とか呪物が近い時の空気に似てるけど、それだけじゃない。
真っ直ぐな通路を進んでいると、前から一人の女の人が歩いてきた。着物を着ていて、どこか真希さんと真依さんに顔の雰囲気が似ている。
術式の気配はない。
ただの女性だ。
多分、真希さんと真依さんの母親。
その顔は、なんか疲れてた。怒ってるようにも見えるし、泣きそうにも見えるし、諦めてるようにも見える。よく分からないけど、見ていて気持ちのいい顔じゃなかった。
俺は音もなく、風も起こさず、その横を高速で通り過ぎた。擦れ違ったのに、相手は何も気づかない。俺が通ったことで髪が揺れることも、袖が動くこともない。
そのまま奥へ進む。
やがて、真希さんが巨大な扉を開けるのが見えた。
俺は扉が開いたわずかな隙に、身体を滑り込ませるように中へ入った。床には降りない。そのまま天井へ張り付く。
「『ククッ、まるで阿久多牟之だな』」
宿儺が楽しそうに言う。
(あくたむし?何だよそれ)
「『ゴキブリだ』」
(うるせぇ!)
心の中で思いっきりツッコむ。誰がゴキブリだ。いや、今の動きだけ見たらちょっと否定しづらいけど、それでもゴキブリはねぇだろ。
天井に張り付きながら、俺は下を見た。
血の匂いがした。
真希さんの前にいる男。
そして、その奥に倒れている真依さん。
さっきの嫌な予感が、当たってしまった気がした。
「親父……!」
真希さんの声が低く響いた瞬間、空気が張り詰める。俺は天井に張り付いたまま、その場の全てを見下ろしていた。視界の中心にいるのは、目の前の男と真希さん、その奥で血を流して倒れている真依さん。家族って言葉で片付けるには、あまりにも歪んだ距離感がそこにあった。
あの男が父親か、と頭の中で整理する。見た目は普通だ。体格も特別大きいわけじゃないし、派手な気配を放ってるわけでもない。ただ、その立ち方と目の奥が違う。迷いがないというより、最初から切り捨てることを前提に生きてきたような、そんな冷たさが滲んでいる。
血の匂いが強い。視線を奥にやると、真依さんの身体から流れている血が床に広がっていた。量が多い。これは放置すれば確実に死ぬレベルだと、一目で分かる。
「ここに呪具はないぞ、真希。お前達の動向を見越して空にしておいた」
男は淡々とそう言った。声に怒りも焦りもない。ただ事実を告げているだけなのに、その内容は妙に重い。確かに、この部屋には呪具の気配がほとんどない。忌庫っていう場所のはずなのに、重要なものだけが抜き取られてる感じだ。
なんでそんなことをしたのかは分からない。でも、意図的にやってるのは間違いない。
「なんで来たのよ……馬鹿」
真依さんがかすれた声で言った。息が浅くて、言葉を出すのもやっとって感じだ。その状態でも真希さんを気にしてるあたり、状況が普通じゃないことだけははっきり伝わってくる。
このままじゃ死ぬ。
そう思った瞬間、身体が勝手に動きそうになった。
「『小僧、手を出すことを禁ずる』」
(はぁ?何言ってんだ)
宿儺の声が頭の奥で響く。強制されてるわけじゃないのに、妙に重く感じる声音だった。
ふざけんな、と思う。こんな状況で止める理由なんてないだろ、と反射的に考える。
「『人の闘争にそう易々干渉するべきではない』」
続けて放たれた言葉に、思わず奥歯を噛み締めた。闘争だのなんだの、コイツはいつもそればっかりだ。強い奴同士のぶつかり合いを尊重しろって話なんだろうけど、これはそんな単純な話じゃない。
親子だ。
しかも一方は瀕死だ。
それを見て何もしないなんて、普通はあり得ない。
それでも、踏み込む直前で身体が止まる。理屈じゃなく、直感的に“割って入ってはいけない何か”がそこにあると分かってしまったからだ。目の前の二人の間にあるものが、簡単に横から触れていいものじゃないと感じてしまう。
息を押し殺す。
視線を外さない。
その間に真希さんが動いた。
袋から呪具を取り出す。竜骨。さっき見た剣だ。あれを握った瞬間、空気が変わる。迷いが消えて、ただ戦うための存在に切り替わる。その変化がはっきり分かる。
踏み込む。
床が砕ける。一直線に距離を詰める動きは、無駄が一切ない。
対する男は動かない。腰を落として刀に手をかけ、居合の構えを取っている。身体の周りに薄く呪力を纏っているが、その使い方が妙に引っかかる。ただの強化じゃない。触れた瞬間に何かが起きるような、不自然な感覚がある。
次の瞬間、その違和感の正体がはっきりした。
竜骨が振るわれる。
当たる、と思ったその瞬間、男の身体が勝手に動いた。意識して避けたっていうより、触れたことで反応したような動きだった。最小限の動きで軌道を逸らし、同時に刀が抜かれる。
迎撃。
真希さんは即座に反応した。攻撃を無理やり引き戻し、逆の腕で拳を振るう。金属音が鳴り、刀が折れる。タイミングも威力も完璧だ。
それでも終わらない。
男はまだ止まらない。折れた刀の残った部分に呪力が集まり、炎みたいに伸びていく。その瞬間、嫌な予感が強くなる。
止めるべきだと思うのに、身体は動かない。
真希さんが踏み込む。
男が迎える。
そして次の瞬間、空気が弾けるように爆ぜた。衝撃と熱が一気に広がり、視界が歪む。その中心で、二人の動きが完全に噛み合ったのが分かった。
戦いが、もう引き返せないところまで進んでいる。
そうして何度かの打ち合いが続いた末、均衡は唐突に崩れた。ほんの一瞬のズレだった。踏み込みの深さか、間合いの測り違いか、あるいは相手の“迎撃”の癖を読み切れなかったその一瞬の隙を突かれ、真希さんの身体が斬り裂かれる。次の瞬間には衝撃と共に吹き飛ばされ、床を転がり、壁に叩きつけられてようやく止まった。
俺は天井に張り付いたまま、その一連をただ見ていた。指先に力を込めていないと落ちそうになるのに、視線だけは外せなかった。今の一撃で決定的に何かが崩れたのが分かる。
「だからお前達はダメなのだ」
吐き捨てるような声が響く。感情は薄い。怒りでも失望でもない。ただ、そういう存在だと断じているだけの冷たさがあった。父親が娘に向ける言葉としては、あまりにも乾ききっている。
「呪力も術式も持たぬ出来損ないが、力を得た気でいる。滑稽極まりない」
その言葉が、やけに耳に残る。軽く言っているわけじゃない。本気でそう思っている声だ。だからこそ余計に、聞いているこっちの奥がざわつく。
酷い、と思った。
真希さんはずっとやってきた。俺の修行にもついてきて、何度も身体を壊しながら、それでも立ち上がってきた。呪力がない分、全部を肉体で埋めるしかないのに、それでも食らいついてきた。その積み重ねを、今この一言で全部切り捨てている。
親父さんが真希さんと真依さんを持ち上げる。両腕でまとめて引き摺るようにして運び始めると、床に血の跡が伸びていく。その赤い線がやけに長く感じた。
俺は音を立てないように、気配を消したままそれを追った。距離を詰めすぎないように、でも見失わないように、柱や梁を使いながら移動する。俺に気づく様子はない。
やがて辿り着いたのは、空気が明らかに違う場所だった。呪霊の気配が濃い。壁の向こう側に、複数の“何か”が蠢いているのが分かる。鉄の匂いと腐った匂いが混ざり合って、鼻につく。
そこは大きな独房みたいな部屋だった。
階段の上から、親父さんが二人を投げ捨てる。無造作だった。物みたいに扱っている。そのまま何か言っていたが、内容までははっきり聞き取れない。ただ、声に躊躇は一切なかった。
やがて足音が遠ざかる。
完全に気配が消えたのを確認してから、俺は天井から静かに降りた。床に着地する音すら出さないように意識する。今この場で余計な刺激を与えるのはまずいと、身体が勝手に判断していた。
ゆっくりと階段を降りる。
視界の下に、二人の姿が見える。折り重なるように倒れている。血の匂いがさらに強くなる。空気が重い。
その中で——
真依さんが、わずかに動いた。
ゆっくりと身体を起こす。その動きは明らかに無理をしているものだった。それでも意識ははっきりしている。
「あれ、アナタ……宿儺の器、虎杖君?なんでここに?」
視線が俺を捉える。ちゃんと見えている。認識されている。それが少しだけ不思議に感じた。
「おっす……」
軽く手を上げて返す。声は出ているのに、場の空気の重さでやけに小さく聞こえる。軽い返事とは裏腹に、内側は全然軽くない。
状況は最悪だ。
どこをどう見ても二人とも瀕死だ。呼吸は浅いし、身体の力も抜けている。血の流れ方を見れば、このまま何もしなければ長くは持たないのは明らかだった。
それに——繋がり。
さっきから見えているそれが、さらに細くなっている。真希さんと真依さん、それぞれの奥から伸びている線が、互いを繋いでいる。その線が、今にも切れそうなほど細い。
見ているだけで不安になる。
「アナタは……手を出さないで」
「えぇ……?」
真依さんが、はっきりとそう言った。
その言葉と同時に、頭の奥で同じ意味の声が重なる。
「『小僧、お前は見ていろ』」
思わず息を詰める。
さっきから何度も止められている。それも、外からと内から両方から。状況だけ見れば助ける一択なのに、そこにブレーキがかかる。
理由が分からない。
納得できる説明もない。
なのに、無視していい感じがしない。
この部屋にいる呪霊の気配は弱い。数は多いけど、俺からすれば一瞬で片付けられるレベルだ。二人を抱えて外に出ることだってできる。それくらいの余裕はある。
それでも——動けない。
動こうとすると、どこかで引っかかる。踏み込んだ先に、取り返しのつかない何かがある気がしてしまう。
頭の中で考えが回る。
助けるべきだ。
爺ちゃんは人を助けろって言った。
でも止められている。
理由は分からない。
時間はない。
どれも正しいのに、答えが出ない。
「……どうしたらいいんだよ」
小さく漏れた言葉は、誰に向けたものでもなかった。自分の中で答えが出ていないことだけが、はっきりと分かっている。その事実だけが、やけに重く胸に残った。
真依は、重くなっていく身体をどうにか起こした。痛みはとうに限界を超えているはずなのに、逆に感覚が遠のいていくのが分かる。力が抜けていく。指先から、足先から、少しずつ、確実に。
目の前に立っているのは、虎杖悠仁だった。
いつ来たのか分からない。気配も、足音も、何一つ感じなかった。ただ、気付いた時にはそこにいた。まるで最初からそこに存在していたかのように、自然に、しかし異様に。
その背後から、淡い光が滲み出ているのが見えた。
眩しいわけではない。目を細める必要もない。それなのに、見ているだけで胸の奥の緊張がほどけていくような、不思議な感覚があった。痛みすら、ほんの少しだけ遠のく。
「あれ、アナタ……宿儺の器、虎杖君?なんでここに?」
声を出すのも億劫なはずなのに、言葉は意外なほどすんなりと出た。
「おっす……」
返ってきた声は軽い。それなのに、表情はまるで逆だった。無傷のはずの顔に影が差している。どうしてそんな顔をしているのか、真依には一瞬分からなかった。
虎杖が手を伸ばす。
その動きは迷いなく、真っ直ぐだった。助けようとしているのが、見ているだけで分かる。
だが——
「アナタは……手を出さないで」
真依ははっきりと言った。
言葉は弱いが、意思は揺らがない。
その一言で、虎杖の動きが止まる。伸ばしかけた手が空中で止まり、そのまま握り込まれる。表情が歪む。苦虫を噛み潰したような顔だった。
「……どうしたらいいんだよ」
漏れた声は、自分自身への問いのようだった。
だが真依はそれに応えない。視線はもう、虎杖ではなく別の場所へ向いていた。
真希。
膝の上に引き寄せる。身体は重い。けれど、離す気にはなれなかった。
まだ生きている。
胸が、微かに上下している。呼吸がある。それだけで十分だった。だが、それがどれだけ続くのかも分かっている。このままでは長くは持たない。
「全く……最悪ね……」
吐き出すように呟くと、真依は静かに手を伸ばした。指先で真希の頬に触れる。その温度は低い。それでも、そこに確かな存在がある。
そのまま、顔を包み込む。
そして、躊躇いなく口付けた。
触れた瞬間、空気が変わった。
音はない。衝撃もない。それなのに、何かが明確に“起きた”と分かる。空間の質そのものが変質したような、そんな感覚が場を満たす。
虎杖悠仁は、それを捉えた。
目で見ているわけではない。耳で聞いているわけでもない。それでも、確実に理解してしまう。二人の間で何が起きているのかを、感覚として直接流し込まれる。
境界が溶ける。
真依と真希、その二つに分かれていたものが、元の形へ戻ろうとするかのように混ざり合っていく。そこにあるのは単なる記憶の共有ではない。もっと根源的な、存在の在り方そのものが書き換わるような変化だった。
幼い日の光景が浮かぶ。狭い部屋、押し込められた日々、同じ場所にいながら違う扱いを受け続けた時間。言葉にできなかった不満や諦め、それでも完全には断ち切れなかった繋がり。
それらが一つずつ浮かび上がり、混ざり合い、溶けていく。
笑った記憶もある。泣いた記憶もある。
どれもが断片でありながら、どれもが重い。
そして、それら全てが一つに収束していく。
理解してしまう。
双子は二人ではない。
一つだ。
だからこそ、分かれて存在していること自体が歪みであり、均衡を取るにはどちらかが削られるしかない。
その理屈が、説明なしに流れ込んでくる。
逃げ場はない。
視線を逸らすこともできない。
二人だけの世界。
誰も踏み込めない領域。
虎杖はその外側に立たされている。干渉することも、遮ることもできず、ただ観測することだけを許された位置に。
光が強くなる。
そして次の瞬間、虎杖悠仁が立っていたのは見覚えのない海辺だった。現実のどこにも属していないような、曖昧で、それでいてやけに鮮明な場所である。背後には廃れた町並みが広がり、朽ちた建物が無言のまま並んでいる。空は曇天で、重たい雲が低く垂れ込めていた。その下を、数羽の鴨が規則正しいV字を描いて飛んでいく。風は冷たく、しかしどこか現実味を欠いている。
虎杖は言葉を発さず、ただ海の方を見ていた。波は穏やかで、音は小さい。それでも耳に届くのは、どこか遠い響きのようで、足元の砂の感触さえ希薄だった。
浜辺に、二つの人影があった。禪院真希と禪院真依である。二人は並んで砂の上に座り、同じ方向——海を見つめていた。距離は近い。だが、その間に流れる空気は、どこか噛み合っていない。
「私の術式もう大体分かってるでしょ。でも、大きい物とか複雑な物は作れないのよ。あの人に斬られた傷もあるし、これ作ったら私死ぬから」
真依が静かに言う。声は穏やかだが、そこに迷いはなかった。現実をそのまま受け入れた者の響きである。
真希はそれを聞きながらも、何も返さない。ただ視線を前に向けたまま、言葉の意味を噛み砕こうとしていた。
やがて真依は立ち上がった。ゆっくりと、砂を踏みしめながら海へと向かって歩き出す。その背中は軽い。まるで最初から決まっていた道をなぞっているかのようだった。
「じゃ、後は一人……で頑張んなさい」
その一言に、真希の身体が反応した。ほとんど反射だった。立ち上がり、足を踏み出す。
「あ!おい!待て!真依!!」
声は焦りに満ちている。普段の粗雑な言い回しとは違い、感情がそのまま露出していた。距離を詰めようとするが、足取りはわずかに重い。ここが現実ではないことを、身体のどこかが理解しているのかもしれない。
「なに言ってんだ。とにかく戻ってこい」
必死に言葉を重ねる。しかし真依は止まらない。波打ち際に足を踏み入れ、そのまま水の中へと進んでいく。
「私、随分前から分かってたのよ、何で呪術師にとって双子が凶兆か。何かを得るには何かを差し出さねばならない。これは縛りだけの話じゃないわ。痛い目みて強くなるのだって理屈は同じ……散々修行してたアナタになら分かるんじゃない?」
振り返らずに語る。その言葉は穏やかだが、逃げ道を与えない強さを持っていた。真希は一瞬言葉に詰まる。理解している部分があるからこそ、否定しきれない。
「何言って……」
それでも否定しようとする。だが続く言葉が出てこない。
真依はわずかに首を傾けた。
「あのね、そういう利害がいちいち一致しないのよ、双子の場合だとね。だって一卵性双生児は呪術では同一人物としてみなされるから……わかる?」
海水が足首を覆う。波が寄せては引く。その度に、真依の足元が少しずつ遠ざかっていく。
「アンタは私で私はアンタなの。アナタがどれだけ血反吐吐いて努力して強くなりたいって願っても意味ないのよ」
言葉は冷静だ。だがそこに込められたものは、長い時間をかけて積もった諦めと理解だった。
真依は薄く笑った。その笑みは優しさにも見え、同時に決別の意思にも見えた。
そして、ゆっくりと振り返る。
「私は強くなりたくなんてないから、アンタが術式持ってなくたって、私が持ってちゃ意味ないのよ……私がいる限り——真希、アンタは一生半端者なの」
その言葉は刃のように鋭い。しかし同時に、それは自分自身を切り裂く言葉でもあった。
真希は一歩踏み出す。砂を蹴り、水際まで迫る。
「分かった!分かったから戻れよ!真依も一緒に修行したらいい!虎杖式なら絶対強くなれる!私は強くなった!真依もやろう!」
必死の提案だった。現実にしがみつくような言葉だ。可能性を提示し、未来を繋ぎ止めようとする。
真依は小さく笑った。
「ふふ……虎杖君ね」
その一言だけで、全てを理解していることが伝わる。可能性も、努力も、救いも、その上でなお選ばないという意思。
一瞬だけ視線が逸れる。真希の背後、少し離れた場所に立つ虎杖悠仁へと向けられる。しかし何も言わない。その存在を、この場の流れに含めることはしなかった。
真依はそっと手を前に差し出す。
「これだけは置いてくわ。他は捨てなさい。呪力も何もかも私が持っていってあげるから」
真希がその手を掴もうとする。だが触れられない。すり抜ける。存在しているのに、もう触れられる場所にはいない。
それでも、真希の手の中には“何か”が残っていた。重みはない。しかし確かにある。
真依はさらに海の奥へと進む。水は膝を越え、腰に届き、やがて胸元へと迫る。
「……一つだけ約束して」
歩みを止めずに言う。声は静かだが、強い。
そして、もう一度だけ振り返った。
「全部壊して、全部だからね。お姉ちゃん」
その言葉を最後に、真依の姿は波の中へと溶けていった。
気づいた時には、海辺の光景は跡形もなく消えていた。さっきまで耳に残っていた波の音も、冷たい風も、曇天の圧も、全部が嘘みたいに剥がれ落ちて、代わりに戻ってきたのは血と鉄の匂いが充満した、あの薄暗い部屋だった。視界の奥で転がる呪霊の気配が一斉に蠢いているのに、それすらどこか遠く感じるほど、今の俺の意識は目の前の二人に引き寄せられていた。
真希さんと真依さんが、さっきと同じ場所に倒れている。だけど決定的に違うものがあった。空気が違う。さっきまで張り詰めていた何かが、音もなく断ち切られている。
真希さんの手の中に、大刀があった。
さっきまで無かったはずのものだ。柄も、刃も、装飾も、全部が異質で、だけど無駄が一切ない。まるでそこに存在するためだけに作られたような、完成された形。触れているわけでもないのに、そこから放たれる気配が皮膚の奥に直接触れてくるような感覚がある。構築されたばかりのもの特有の“生まれたての歪み”みたいなものが、はっきりと感じ取れた。
そして——真依さんは、もう動かなかった。
呼吸がない。血の流れも止まっている。さっきまで繋がっていたはずの“線”も、完全に途切れている。消えたというより、初めから無かったみたいに、綺麗に。
「『クククッ……いい、いいぞ面白い』」
頭の奥で、あの声が嗤う。
何がいいんだよ。
思わず奥歯を噛み締める。視界が少しだけ揺れた。助けられたはずだ。俺が動けば、さっきの時点でどうにかできた。この部屋の呪霊なんて問題じゃないし、あの男だって——正面からぶつかれば、どうとでもなった。
それなのに、止められた。
外からも、中からも。
理由は聞かされてない。でも分かる。あれは“そういう流れ”だったんだってことくらいは、嫌でも理解させられる。納得はできないけど、理解だけはできてしまうのが、余計に腹立たしい。
「真依……?」
かすれた声が響く。
真希さんが、ゆっくりと身体を起こした。重たいものを無理やり引き上げるみたいな動きじゃない。むしろ、やけに軽い。さっきまで瀕死だったはずの身体とは思えないほど、無駄がない。
そして俺に気づく。
「悠仁……」
呼ばれても、すぐには返せなかった。
目が離せなかった。
変わってる。
さっきまでの真希さんとは、明らかに違う。見た目がどうとかじゃない。もっと根っこの部分、生き物としての在り方が、丸ごと書き換わったみたいな感覚だ。筋肉の張り、立ち上がる時の軸の取り方、呼吸の深さ、その全部が噛み合ってる。余分なものが削ぎ落とされて、純粋な“強さ”だけが残ってるような、そんな状態。
それに——何もない。
呪力が、感じられない。
前から薄かったのは知ってる。でも今は違う。完全に“ゼロ”だ。そこにいるのに、何も流れていない。なのに存在感はむしろ増している。普通ならあり得ない。呪力がないなら弱くなるはずなのに、今の真希さんは逆だ。空っぽなのに、圧がある。意味が分からないけど、目の前の事実がそれを否定してくる。
呪霊が、一斉にざわついた。
弱い個体ばかりのはずなのに、その動きに明確な“恐れ”が混じっている。誰に向けてかなんて、見れば分かる。真希さんだ。
「『千年前、俺はあらゆる闘争に身を投じてきた。そしてその全てを喰らってきた。闘った人間、術師、呪霊の中でマシな奴は一握りだった』」
まただ。
勝手に語り始める。
でも今は無視できなかった。目の前の光景と、あの声の言葉が妙に噛み合ってる。
「『その一握りはな、共通していた。余計なものを持たん。持てば鈍る。削げば研ぎ澄まされる』」
余計なもの。
呪力も、術式も、繋がりも。
全部、削ぎ落とした結果がこれってことか。
胸の奥がざわつく。正しいのかどうかなんて分からない。でも“強い”っていう一点だけなら、今の真希さんは間違いなくそこにいる。
真希さんが、ゆっくりと立ち上がる。
手にした大刀を、軽く握り直す。その動き一つで空気が張り詰める。呪霊達が一歩後退った。逃げ場なんてないのに、本能で距離を取ろうとしてる。
俺は、その背中を見ていた。
助けられなかったっていう感情と、今目の前にいる存在への理解できない感覚と、色んなもんがごちゃ混ぜになってる。それでも一つだけはっきりしてることがあった。
もう——止めるもんじゃない。
これは、多分。
壊すために、進むやつだ。
天元「恐ろしい隠密力……私でなければ見逃してしまうね」