武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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真希さん、俺がいつでも相手する。だから恨みなんか忘れよう。全部俺にぶつければいい。俺が受け止める

 

 

 

 「降参や」

 

 その声が耳に届いた瞬間、俺の身体はもう動いていた。考えるよりも先に踏み込み、足裏が地面を噛み砕くように沈み込む。衝撃で砂利が弾け、空気が押し出される。視界の中でただ一点、真希さんの拳の軌道だけを捉え、その流れに合わせて腕を差し込む。

 

 掴む。骨と筋の芯を外さず捉える。振り抜かれる直前の力の頂点、その一瞬を逃さず止める。圧が腕を通って身体の奥まで響くが、引かない。流れを外し、軌道を殺す。

 

 「真希さん……」

 

 自然と出た言葉に返ってきた声は、知っているはずなのにどこか遠かった。

 

 「悠仁、止めるんじゃねぇ」

 

 低く、重い。感情が消えたわけじゃない。ただ、削ぎ落とされて“目的”だけが残っている声だった。

 

 横で男が笑う。

 

 「虎杖君、やっぱ生きてたんか」

 

 あぁ、この人だ。前に一回ぶっ飛ばした。名前は……へんいんなほやさん……いや違う気もするが、どうでもいい。

 

 今はそれどころじゃない。

 

 止める。

 

 「この人は降参って言った。殺しちゃダメだ」

 

 声が硬い。自分でも分かる。理屈じゃない。ほとんど意地だ。

 

 無益な殺しはダメだ。そんなもの、許せるわけがない。俺は知っている。自分の意思じゃなくても、人が死んだ結果がどれだけ重く残るか。渋谷で気絶している間、宿儺が好き勝手やって、その余波で人が死んだ。俺はそれを“知らなかった”で済ませたくなかった。

 

 だから死刑を受け入れた。乙骨先輩の刀を受けた。結果はどうあれ、あれは俺の選択だ。

 

 だから、ここで見逃すわけにはいかない。

 

 真希さんの反対の腕が動く。躊躇がない。なら俺も迷わない。もう片方の手を差し込み、同じように軌道を潰す。両腕を押さえ込む形になるが、圧は拮抗していない。じわじわと押し返される力が骨を軋ませる。

 

 「悠仁、止めるならお前も殺すぞ」

 

 真正面からぶつけられるその言葉に嘘はない。本気だ。

 

 その目を見る。

 

 胸の奥がざらつく。

 

 あぁダメだ。あんな目、見たくない。

 

 思わず目を閉じる。逃げじゃない。踏ん張るために、整理する。

 

 頭の中に声が重なる。

 

 ——全部壊して。

 

 ——人を助けろ。

 

 ——闘争を楽しめ。

 

 ぐちゃぐちゃだ。全部正しい気もするし、全部違う気もする。でも一つだけはっきりしている。

 

 俺は止める。

 

 真依さんは助けられなかった。あの人が拒んだ。だから手を出さなかった。でも今は違う。目の前に、止められるものがある。

 

 なら、やるしかない。

 

 「へんいんなほやさん、逃げてくれ」

 

 歯を食いしばりながら絞り出す。余裕はない。両腕にかかる圧が重い。踏ん張りを崩せば、そのまま押し潰される。

 

 「禪院直哉な、おおきに!」

 

 あ、やっぱ違ったか。そんなことを考えている自分に、ほんの一瞬だけ呆れる。

 

 次の瞬間、気配が跳ねる。空間が歪む。逃げていくのが見えた。

 

 一人は守れた。

 

 「悠仁ぃ……」

 

 声が変わる。低く、重く、明確な怒り。

 

 俺は腕を離した。押し合いを続けても意味はない。後ろへ跳び、距離を取る。着地と同時に足裏で地面を掴み、重心を落とす。

 

 構える。

 

 施無畏印、与願印。自然と形が整う。身体の中を巡る“流れ”が、はっきりと掴める。

 

 「『そうだ、戦え』」

 

 頭の奥で宿儺が笑う。無視する。あいつのために動く気はない。

 

 真希さんが一歩踏み出す。

 

 その一歩で距離の意味が消える。

 

 来る。

 

 俺も動く。余計な力は入れない。ただ流れに合わせる。

 

 衝突——腕と腕が正面からぶつかる。骨と筋がぶつかり合い、空気が押し潰されて爆ぜる。衝撃波が周囲を薙ぎ、地面が沈む。

 

 だが、見えている。

 

 全部。

 

 真希さんの動き、筋肉の収縮、次に繋がる重心の移動。そのすべてが流れとして繋がっている。

 

 速い。異常に速い。だが——見える。

 

 衝突の余波が広がる中、俺は次の動きを読み切り、掌を前へと滑り込ませた。

 

 それと同時に、俺の掌に真希さんの拳が叩き込まれる。接触の瞬間に圧縮された空気が耐えきれずに弾け、破裂音が遅れて響き、衝撃波が周囲の瓦礫と粉塵をまとめて押し飛ばした。骨の芯まで震える重さだが、流れを外さない限り崩れはしないと分かっている以上、俺はそのまま踏み留まり、掌の角度をわずかに変えて衝撃を逃がす。

 

 「フッ!!!」

 

 「ハッ!!!」

 

 そのまま間合いを詰めたまま、俺は掌の連打を、真希さんは拳の連打を叩き込む。打撃が交差するたびに空気が裂け、互いの軌道がぶつかり合って火花みたいな衝撃が散る。真希さんの拳を弾きながら反対の掌を差し込むが、その瞬間にはもうこちらの流れも読まれている。掌は外され、代わりに拳が滑り込んでくる。寸前で受ける。遅れれば顔面を持っていかれていた。

 

 「悠仁……!!」

 

 「真希さんーーっ!!」

 

 呼び合う声と同時に、俺は足を落とす。狙いは爪先。重心を崩すための一撃で、以前も使った虚を突く動きだ。だが真希さんはそれを完全に読んでいた。足裏が滑るように軌道から外れ、俺の蹴りは空を切る。

 

 「もう引っかかんねぇぞ……!」

 

 次の瞬間には連打が止まり、代わりに蹴りが飛んでくる。重い。速い。だが流れは見えている。俺は瞬時に両掌を添えて衝撃を分散し、その反動を利用して後方へと飛ぶ。着地と同時に足裏で地面を掴み、呼吸を一つ落とす。

 

 「ふぅ」

 

 構え直す。施無畏印、与願印。意識を流れに合わせると、身体の内側を巡る感覚がよりはっきりと浮かび上がる。

 

 「その構え……この身体になってよく分かるぜ。お前は異常だ。何で後光みたいなんが差すんだよ」

 

 後光か。自分じゃ見えないから分からないが、言われてみればさっきから妙に視線を引く感じはある。だがそんなことより、目の前の存在の方がよっぽど異常だ。

 

 頭の奥で宿儺が笑う。

 

 「『呪術という体系にありながら、呪力から脱却し呪縛によって常軌を逸した膂力と感覚を得た——小僧、俺が代わりにやってもいいんだぞ?』」

 

 あの声はやけに鮮明で、余計に苛立つ。

 

 やらせるかよ。

 

 内側で吐き捨てる。こんな戦いをあいつに渡す気はない。これは俺の戦いだ。止めるって決めたのも、ここに立ってるのも、全部俺だ。

 

 それでも、別の感覚が消えない。

 

 胸の奥でじわじわと熱が広がる。恐怖でも緊張でもない。純粋な反応だ。身体がこの状況に順応し、むしろ求めている。

 

 闘争をだ。

 

 完成した天与呪縛のフィジカルギフテッド。

 

 それがどれだけのものか、目の前で理解できる。速さ、重さ、反応、どれも極端に研ぎ澄まされている。さっきまでの真希さんとは完全に別物だ。

 

 そして俺は踏み込んだ。

 

 ぶつかる。

 

 視えている。拳が来る前に、どこから来るか分かる。踏み込む前に、どこへ移動するか分かる。筋肉が動く前に、その“流れ”が身体に触れてくる。

 

 力には全部『流れ』がある。

 

 俺はそこに、ただ掌を添えるだけでいい。

 

 真希さんの両拳を受け、そのまま掴む。骨格と筋の軸を捉え、逃げ場を潰す。どれだけの出力でも、流れを外せば意味がない。

 

 そのまま距離が詰まる。顔が近づく。

 

 目が合う。

 

 「お前、禪院家がどんな家か知って、私たちがどんな扱いをされたのか、女というだけで何をされんのか、分かって止めてんのか?」

 

 低く押し込まれた声だった。怒鳴ってはいないが、内側に積もったものがそのまま圧としてぶつかってくる。

 

 知らない。

 

 でも分かる。

 

 ここに来た時からずっと感じていた。

 

 ここは魔物の巣窟だ。

 

 人の汚れ、穢れ、欲、嫉妬、辛酸、怨み、その全部が混ざり合って澱になっている。呼吸するだけでそれを吸い込んでいるみたいな、不快で重い空気だった。

 

 地下で見た、あの人の顔。真希さんと真依さんの母親の顔が、それを全部語ってた。

 

 生まれただけで決められる。

 

 女であること、術式がないこと、それだけで価値を決められる。人として扱われない。

 

 「悠仁、てめぇは偽善者だ」

 

 その言葉が、真正面から叩きつけられた。

 

 そうだな——言われなくても分かってる。胸の奥に溜まってるものを、わざわざ言葉にされるまでもない。助けられたはずのものを助けられなかった事実も、目の前で起きていたことに手を出さなかった、いや出せなかった自分も、全部まとめてここに残ってる。

 

 もっと早く来ていれば、真希さんと一緒に中に入っていれば、あの瞬間に割って入っていれば、そういう“もし”はいくらでも浮かぶのに、そのどれもがもう手遅れだってことも分かってる。真依さんを助けられたかもしれない可能性は、今となってはただの想像でしかなくて、その想像が余計に胸の奥を引っ掻いてくる。

 

 今さら手を出して、()()()()()()()()みたいな顔をしてるのは確かに偽善だ。順番を間違えた正義なんて、ただの自己満足だって言われても否定できないし、そういう自分がいるのも事実だ。

 

 「……あぁそうだな」

 

 笑うつもりなんてなかったのに、変に肩の力が抜けて、声だけが妙に素直に出た。

 

 「俺は偽善者だよ、真希さん」

 

 言い切った瞬間、空気が一段重くなる。真希さんの顔が歪む。その歪みは怒りだけじゃない。もっと奥の、どうしようもないものが滲んでいる気がした。

 

 「正義ヅラこきやがって、てめぇは何も分かってねぇ!!!!」

 

 吐き捨てるような叫びと同時に、掴んでいたはずの拳が微妙にずれる。いや、力でこじ開けられた。流れを押し切るような膂力で無理やり軌道をねじ込んでくる。そのまま前蹴りが放たれる。迷いがない。躊躇もない。純粋な破壊の意志だけが乗っている。

 

 俺は掴んでいた拳を離し、さっきと同じように両掌を着弾点に添える。衝突の瞬間、衝撃が腕から肩、背中へと一気に抜ける。骨が軋む感覚があるが、流れを合わせれば崩れはしない。衝撃を分散させ、その反動をそのまま後方への跳躍に変える。

 

 着地と同時に、踏み込む。

 

 距離が消える。空間が縮むみたいに一瞬で詰まる。視界の中で真希さんの動きが伸びる。筋肉の収縮、重心の移動、次の攻撃の起点、その全部が“流れ”として手前に流れ込んでくる。

 

 「第二式——」

 

 内側に沈めていたものを引き上げる。宿儺の呪力、あの忌々しいほど濃い塊を掴み上げ、それを自分の流れに乗せて無理やり整える。肉体を巡る流れと絡め、圧縮し、拳へと収束させる。金色の光が皮膚の下から滲み出て、拳の周囲で波打つ。

 

 「ッ!!!」

 

 視界の端で真希さんの足が動く。次の瞬間、振り下ろされた足が地面に叩きつけられる。衝撃で地面が盛り上がり、土と石が一気に隆起する。即席の盾。咄嗟に作り出した壁だが、その密度は高い。普通なら止まる。

 

 でも——関係ない。

 

 俺は止まらない。そのまま踏み込みを殺さず、拳を振り抜く。

 

 「『金頂仏灯』」

 

 拳が岩に触れた瞬間、流れが弾ける。圧縮されていた力が一気に解放され、内部から破裂するみたいに隆起した地面が粉砕される。石が弾け飛び、破片が四方に散る。衝撃は止まらず、そのまま奥へと突き抜ける。

 

 砕けた破片の向こうに、真希さんの姿が見える。もう次の動作に入っている。崩れた盾なんて最初から存在しなかったみたいに、身体が流れている。

 

 速い。けど——全部見えてる。

 

 拳の軌道が来る前に分かる。踏み込みの起点が動く前に分かる。流れが先に来るから、それに合わせればいい。

 

 俺は拳を引き戻さず、そのまま掌に変える。流れを殺さず、次へ繋げる。

 

 ぶつかる。

 

 掌と拳が再び衝突し、空気が圧縮されて爆ぜる。衝撃波が地面を削り、周囲の瓦礫を巻き上げる。耳鳴りがする。だが視界はクリアだ。

 

 真希さんの目が、真正面にある。

 

 怒りも、憎しみも、その奥にある何かも、全部そのままぶつかってくる。

 

 それでも俺は、掌を引かない。

 

 止めるって決めたからだ。

 

 

 

 

 

 禪院真希の踏み込みは音を置き去りにする速度で行われた。地面を蹴り砕いた瞬間に生じた衝撃は遅れて轟き、遅延した破裂音だけが場に響く。拳は直線で放たれながらも途中で微細に軌道を変え、相手の回避に合わせて最短距離へと収束する——完成した天与呪縛の肉体が為せる、思考を挟まない暴力の最適化である。

 

 対する虎杖悠仁は、その全てを“先に”捉えていた。掌が半歩先に置かれる。衝突の瞬間、力を真正面から受け止めず、僅かに外し、流し、逸らす。触れている時間は刹那に満たない。それでも軌道は殺され、威力は霧散し、返しの一撃へと変換される。拳と掌の応酬は、見た目には単純な打ち合いに見えて、実際には流れの奪い合いであり、力の行き場を巡る高度な制御戦だった。

 

 虎杖の拳が放たれる。金色の波動が拳の周囲で脈打ち、空気を震わせる。その一撃は当たれば終わる性質のものだが、真希はそれを理解しているが故に、当たる前提で動くのではなく、当たらない前提で身体を組み替える。足裏で地面を削り、軸をずらし、拳を弾くと同時に反撃の起点を作る。反応は既に反射の域を超え、条件反射すら介在しない“現象”に近い。

 

 だが、その均衡は表層だけのものだった。真希の内側にあるものは単純で、ただ“壊す”という一点に集約されている。妹が遺した言葉、積み重ねられてきた全ての歪み、その総量が原動力となり、終わるまで止まらない連鎖を生んでいる。一方で虎杖の動きは違う。拳は必殺でありながら、その芯にあるのは抑制であり、止めるための力である。流れを読み切り、最適解を叩き込めるにも関わらず、あえて踏み込まない領域がある。

 

 その差が、僅かな綻びを生む。

 

 連打の最中、真希の左肩の入りがほんの一瞬だけ遅れる。筋肉の収縮と重心の移動、その連結が千分の一秒だけ狂う。その“流れの歪み”を、虎杖は見逃さない。掌を滑らせ、拳へと変え、最短距離で叩き込む。

 

 金色の拳が防御を突き抜け、胴体へと着弾した。

 

 鈍い衝撃音が空気を震わせる。真希は反射的に筋肉を収縮させ、内側から衝撃を殺そうとするが、それでも完全には消しきれない。身体が弾かれ、後方へと吹き飛ぶ。瓦礫を巻き込みながら壁へと叩きつけられ、粉塵が一気に舞い上がる。

 

 だが、虎杖は追わない。

 

 静かに構えを保ち、その先を見据えている。視界に映るのは崩れた瓦礫ではない。その奥で、まだ終わっていない“流れ”だ。動きは止まっていない。止まる理由もない。

 

 次の瞬間、土埃が内側から弾ける。

 

 視界が割れるように開き、その中心から鋒が現れる。大刀——釈魂刀。振り抜かれる軌道は既に音を越えている。だが虎杖は半身を僅かに横へとずらし、その軌道から身体を外す。同時に伸ばした指先が、刀の腹へと触れる。

 

 打つ、というより“触れる”に近い動作だった。それでも十分だった。流れを崩された刃は軌道を逸らし、その反動が持ち主へと返る。真希の身体が横へと弾かれ、数歩分後退する。

 

 足裏が地面を抉り、制動がかかる。止まった瞬間には、もう次の構えに入っている。

 

 「やるなぁ……悠仁。やっぱり強ぇ」

 

 息は乱れていない。表情にも大きな変化はないが、その声には確かな昂りが混じっていた。釈魂刀を構え直す。その姿は、先程までとは明らかに違う“完成形”のそれだった。

 

 虎杖もまた構えを解かない。施無畏印、与願印——自然と形作られた掌の構えのまま、静かに言葉を投げる。

 

 「真希さん、全部壊したいのは知ってる。その言葉が真依さんの遺したものだってことも知ってる」

 

 風が止まる。粉塵がゆっくりと落ちていく中で、二人の間に僅かな間が生まれる。

 

 「だけどダメだ。あの直哉ってやつを殺して、この家の人を全部殺して、この場所を壊して、それで終わるのか?」

 

 問いは短い。だが、その中に含まれているものは軽くない。過去でも現在でもなく、その先を見据えた問いだった。

 

 沈黙が落ちる。

 

 しかし真希の圧は消えない。むしろ内側から滲み出るように強まっていく。血流が加速し、筋繊維が微かに震える。その全てが次の破壊へと繋がっている。

 

 「そしたら真希さんはどうなる?」

 

 返答は即座だった。

 

 「そりゃスッキリするだろうが」

 

 迷いのない答え。だが、その言葉に対して虎杖は首を振る。

 

 「違う」

 

 断言だった。声は強くない。だが揺らぎがない。見据える目は冷えきっていて、そこに映っているのは今この場ではなく、その先の帰結だった。

 

 「殺した奴等と同じになる」

 

 言葉が落ちる。

 

 その一瞬、空気が確かに軋んだ。

 

 「あぁ?じゃあどうしろってんだよ。やられたこと我慢して泣き寝入りしろってのか?何も失ってねぇやつが適当言うんじゃねぇよ」

 

 吐き捨てるような言葉と同時に、禪院真希の足元で地面が軋む。踏み込みの前段階、重心が深く沈み込み、筋肉が膨張する。関節が僅かに軋み、腱が引き絞られ、次の瞬間に爆発するための“溜め”が完成する。言葉はただの感情の吐露に過ぎない。すでに肉体は次の破壊へと移行している。

 

 対する虎杖悠仁は、その圧を正面から受けながらも動かなかった。構えたまま、ゆっくりと目を閉じる。外界の情報を断つように視界を落とし、内側に巡る“流れ”へと意識を沈める。周囲に満ちる殺気も、圧も、全てを一度遮断し、自身の中にあるものだけを拾い上げる。

 

 「……」

 

 短い沈黙の中で、呼吸が一つ落ちる。その瞬間、虎杖の内側で何かが噛み合う。宿儺の呪力と、自身の“流れ”が、対立するのではなく重なり合う形で収束していく。暴力的な力と、滑らかな流れが融合し、歪でありながら一つの形を成す。

 

 そして——合掌。

 

 「第六式——仏光普照」

 

 左右に分かれていた力が中央に集まり、掌の中で閉じられる。祈りの形でありながら、それは同時に“束ねる”動作でもあった。散らばっていたものが一つに纏まり、内側に圧縮される。

 

 そして静かに、呟く。

 

 「第八式——」

 

 次の瞬間、虎杖の足元が砕けた。踏み込みではない。地面そのものが耐えきれず崩壊したのだ。衝撃が下方へと抜け、反動として身体が弾けるように上空へと跳ね上がる。空気を引き裂きながら、一直線に天へと昇っていく。

 

 速度は常軌を逸している。高度が上がるにつれ空気は薄くなり、温度は急激に低下する。それでも減速する気配はない。雲を突き抜け、青を越え、やがて色を失った領域へと到達する。

 

 熱圏。

 

 地上から遥か上、空ですらない領域に、虎杖は至る。

 

 その身体は、なお合掌のまま止まらない。外界の圧力も、温度差も意味を持たず、ただ一点——下方へと意識が向けられている。

 

 そして、反転。

 

 落下が始まる。

 

 最初は静かだ。だが重力に引かれ、加速が乗り、空気との摩擦が増すにつれて、異変が生じる。両掌から、熱が溢れ出す。淡い光ではない。燃焼とも違う、純粋な“熱量”が掌を中心に発生し、次第に腕へ、肩へ、全身へと広がっていく。

 

 落下と同時に、熱が増幅する。

 

 空気が焼ける。圧縮された空気が白熱し、虎杖の周囲を包み込む。やがてそれは光を帯び、落下する一個の流星のように形を変える。尾を引く熱の軌跡が空に刻まれ、地上へと一直線に降り注ぐ。

 

 禪院真希は、その全てを見上げていた。

 

 動かない。

 

 逃げるという選択肢が存在しないかのように、ただその落下を真正面から受け止める姿勢を取る。視線は逸らさず、迫り来るものを見据える。風圧が地面を叩き、瓦礫が巻き上がり、髪が逆巻く。それでも足は動かない。

 

 「な、何を……」

 

 その言葉は、自分でも理解できていないものに対する本能的な問いだった。だが次の瞬間、記憶の奥底に沈んでいたものが浮かび上がる。

 

 昔、酒の席で禪院直毘人が語っていた話。酔いに任せた与太話だと思っていたそれ。

 

 ——天より降る伝説の掌法がある。

 

 その時は笑い飛ばした。そんなものがあるはずがないと、現実の外にある戯言だと、そう思っていた。

 

 だが、今。

 

 空から落ちてくる“それ”は、その言葉と一致する。

 

 「あれが……如来神掌……」

 

 呟きが零れる。

 

 上空、灼けた空気の中で、虎杖はただ真希を見据えていた。距離など意味を持たない。数千メートル上空からであっても、その視線はまっすぐに地上へと届いている。

 

 合掌したままの姿勢。

 

 そして、片方の掌がゆっくりと前へと開かれる。

 

 落下速度はさらに増す。

 

 熱は限界を超え、光へと変わる。

 

 空が裂ける。

 

 掌が——翳された。

 

 

 「『万仏朝宗』」

 

 

 呟きは静かだった。だが、その一言が放たれた瞬間、空間の質が変わる。音が遅れる。風が止まる。時間そのものが掌の軌道に引き寄せられるように歪み、上空から降り注ぐ“それ”は、もはや目に見える現象ではなく、確定した結果として地上へ到達した。

 

 不可視の掌波。

 

 それは光でも衝撃でもない。概念としての“圧”が形を持たずに降りてくる。落下する虎杖の速度と完全に同調し、加速と質量を無限に近い形で積み重ねながら、逃げ場のない直撃として現れる。

 

 回避は成立しない。視認も、迎撃も、間に合わない。上から来るという単純な構造でありながら、そこに至るまでの過程が全て削ぎ落とされているため、気付いた時には既に“当たっている”。

 

 「グッッ!!!!!」

 

 禪院真希の肉体が軋む。骨が鳴る。筋繊維が悲鳴を上げ、内側から裂ける寸前まで引き延ばされる。だが崩れない。崩さない。踏み締めた足裏が地面を砕き、圧を逃がすどころか逆に受け止める支点となる。

 

 瞬間——地面が潰れる。

 

 衝撃は点ではなく面で降りる。掌の形をした見えない圧が広範囲を押し潰し、周囲一帯の地面が一気に沈み込む。土も瓦礫も関係ない。全てが均等に押し潰され、巨大な掌痕が大地に刻まれる。

 

 その中心に、真希だけが立っていた。

 

 膝は沈んでいる。足首から下は完全に地面に埋まり、支点として固定されている。それでも上体は折れない。背筋は伸び、両腕は交差するようにして前へ構えられ、全身で圧を受け止めている。

 

 呼吸が乱れる。肺が押し潰され、空気が押し出される。だがそれでも息を吐き、吸い、維持する。止まれば終わると理解しているからだ。

 

 上空——

 

 虎杖悠仁はなお落下している。

 

 掌は開かれたまま、視線は一切逸らさない。真希の姿、その一点だけを見据えている。そこに余計な感情はない。あるのは、流れを読み切った上での“次”の動作だけ。

 

 再び、掌が翳される。

 

 同じではない。先程よりも深く、より内側へと沈み込むような動き。流れをもう一段階圧縮し、密度を上げる。落下速度と同期していた掌波が、さらにその先へと踏み込む。

 

 地上で、真希の足元が軋む。

 

 圧は既に限界に近い。だが、それでも膝は折れない。筋肉が膨張し、血管が浮き出る。皮膚の下で脈打つ血流が加速し、熱を帯びる。身体そのものが一つの武器として、圧に抗う形へと最適化されていく。

 

 だが——

 

 次の掌が、降りる。

 

 見えない。避けられない。防ぎきれない。

 

 圧が重なる。

 

 「ッ——!!」

 

 声にならない呻きが喉を震わせる。先程の掌痕がさらに沈む。地面がもう一段階押し潰され、周囲の瓦礫が粉砕されて沈み込む。中心にいる真希の身体も、確かに下へと押し込まれる。

 

 肩が沈む。腰が落ちる。膝が軋む。

 

 それでも——折れない。

 

 歯を食いしばり、眼を見開いたまま、真希はただ前を見据えている。逃げるという選択肢を最初から捨てた者の姿だった。

 

 上空で、虎杖の掌がさらに動く。

 

 まだ終わらせない。

 

 止めるために、壊しきらないために、ギリギリの線を維持したまま、圧だけを積み重ねる。その精密さは狂気に近い。少しでもズレれば殺す。それでも制御しきっている。

 

 掌が、三度目を描く。

 

 そして、放たれる。

 

 上空から重ねられた三度目の掌圧は、先の二撃とは質が違っていた。単純な加算ではない。流れそのものが一段深く潜り、密度を増し、逃げ場という概念を消し去るように圧が降りる。不可視でありながら確定した“結果”が、地上にいる禪院真希の肉体へと直結する。

 

 真希の身体が、さらに沈む。

 

 耐えきっていた脚が限界を迎える。大腿の筋繊維が悲鳴を上げ、膝関節が軋み、ついに両膝が地面へと落ちる。衝撃で地面が抉れ、周囲にひび割れが走る。鼻腔から血が溢れ、顎を伝って地面へと滴る。視界が揺れる。上空を見据えていた視線は維持できない。頭が下がる。それでも、意識は落ちない。

 

 だが——まだ終わらない。

 

 更に、もう一発。

 

 間を置かない。猶予もない。四度目の掌が、間断なく重ねられる。既に潰されきった地面がさらに沈降し、掌の形をした巨大な窪地が形成されていく。その中心で、真希の身体は完全に押し込まれた。

 

 骨が軋む音が内側で響く。呼吸が途切れる。肺が押し潰され、空気が吐き出されるだけで吸えない。支えを失った身体が、ついに崩れる。

 

 真希は、うつ伏せに倒れた。

 

 全身が地面に叩きつけられたまま、動かない。筋肉はなお緊張を保とうとするが、圧に対抗するための連続動作が断ち切られ、力が分散しきれない。だが完全に沈黙したわけではない。意識の火はまだ消えていない。

 

 上空。

 

 虎杖悠仁はその様子を落下しながら視認する。視線はぶれない。最後の一瞬まで、相手の状態を見極める。その動きに焦りはない。過不足なく、やるべきことを終えた者の落ち方だ。

 

 そして、接地。

 

 音はほとんどない。先ほどまで空を裂き、地を砕いていた存在とは思えないほど、軽やかに、静かに、木の葉が舞い降りるように地面へと降り立つ。膝も折らず、衝撃も逃がさず、ただ“そこに置かれる”ような着地だった。

 

 合掌したまま。

 

 姿勢は崩れない。呼吸も乱れていない。だが周囲の空気だけが、わずかに熱を帯びて揺らいでいる。落下時に纏っていた熱量の残滓が、空間に残っている証だ。

 

 ただ一つ——衣服だけが弾け飛んでいた。

 

 過剰な熱と摩擦に耐えきれず、布は焼け、裂け、吹き飛び、結果として虎杖の格好はほぼパンツ一枚という、緊張感に対してあまりにも場違いな状態になっている。それでも本人は一切気にしていない。顔は真面目そのものだ。

 

 そのまま、視線を落とす。

 

 見据える先は、倒れた禪院真希。

 

 「真希さん、俺がいつでも相手する。だから恨みなんか忘れよう、全部俺にぶつければいい。俺が受け止める」

 

 言葉は静かだ。強く押し付けるものではない。だが逃げもない。自分が受けると決めた者の声音だ。パンツ一枚だが。

 

 地面に伏したままの真希の指が、わずかに動く。意識は繋がっている。身体は限界でも、完全には終わっていない。

 

 「何言ってんだ……死にそうだわ……クソッタレ」

 

 掠れた声が返る。

 

 だが、その中には確かに生の色が残っていた。




宿儺「俺とも戦え!!!!」
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