武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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ありがとう

 

 

 

 

 アイツが「領域展開」と呟いた瞬間、俺の身体は無数の斬撃に呑み込まれた。

 

 どこから来ているのかも分からない。目で追うこともできない。ただ空間そのものが牙を剥いたみたいに、あらゆる方向から同時に斬り裂いてくる。皮膚が裂ける感触が一拍遅れて脳に届き、その直後には筋肉が断たれ、骨の表面を削るような衝撃が重なっていく。斬られるというより削ぎ落とされる感覚に近く、肉が薄く剥がされるたびに熱と冷たさが同時に走り、どこまでが自分の身体なのか分からなくなるほど輪郭が崩れていく。

 

 以前にも似たようなことはあった。

 

 車に轢かれた時、全身が一瞬で潰れたような衝撃を受けて地面に叩きつけられたが、気が付けば立ち上がっていた。オオスズメバチの大群に刺された時は、毒が全身を巡って呼吸が乱れ、視界が歪んだが、それでも意識を手放さなかった。とにかくデカい熊に襲われた時は牙と爪が肉を裂き、骨まで届く圧力を感じたが、最後の一歩で踏み止まった。イノシシの突進を真正面から受けて腹を貫かれた時も、倒れながら呼吸を整えてなんとか持ち直した。

 

 その全部を、俺は()()()耐えてきた。

 

 痛みには慣れている。

 

 というより、慣れるしかなかった。

 

 日々の鍛錬で限界まで身体を追い込み、呼吸を整えて意識を繋ぎ、壊れかけた身体を無理やり動かし続けるうちに、痛みは恐怖の対象からただの情報に変わっていった。元々おかしかった回復力も、その鍛錬の中でさらに強くなっていて、普通なら立てなくなるような状態でも時間をかければ戻ることができた。

 

 それでも。

 

 今回だけは明らかに違う。

 

 これは流石に耐えられそうにないと、本能がはっきり理解していた。

 

 身体が粉々になりそうだという感覚は比喩じゃない。実際に削られている。指先の感覚が途切れ、腕の重さが消え、皮膚の境界が曖昧になっていく。自分の身体がどこまで残っているのか分からなくなるほど、斬撃が連続して叩き込まれていた。

 

 「グボォッ」

 

 血を吐いた。

 

 吐き出した血は空中で細かく裂かれ、霧のように散る。赤い粒が一瞬浮かび上がったかと思うと、すぐに細断されて消えていく。その光景をどこか他人事みたいに眺めながら、俺は自分の呼吸が浅くなっているのを感じていた。

 

 肺に空気が入る前に斬られる。

 

 吸っても意味がない。

 

 それでも吸うしかない。

 

 その繰り返しの中で、普通なら意識が遠のいていくはずだった。

 

 なのに。

 

 妙だった。

 

 身体は確実に壊れている。

 

 感覚もどんどん薄れている。

 

 それなのに、意識だけが妙にはっきりしてきている。

 

 痛みとは別の何かが、身体の奥で動いているのが分かる。

 

 最初は違和感だった。

 

 胸の奥、腹の奥、背骨の内側、どこか一点じゃなくて全体に広がるような圧迫感がじわじわと強くなっていく。今まで感じたことのない種類の感覚で、呼吸とも筋肉とも違う、もっと内側にある何かが押し広げられているような感覚だった。

 

 やがてそれが変わる。

 

 圧が抜ける。

 

 詰まっていたものがほどける。

 

 そして。

 

 流れ始める。

 

 血が巡るのとは違う。

 

 もっと速い。

 

 もっと鋭い。

 

 全身の隅々まで一瞬で走り抜けるような何かが、体の中を駆け巡る。

 

 斬撃が肉を削る。

 

 同時に内側から何かが満ちる。

 

 壊されるたびに、その流れは強くなる。

 

 削られるたびに、通り道が広がっていく。

 

 俺はその感覚を理解した。

 

 十年間、ずっと分からなかった最後の一行。

 

 経絡を開く。

 

 その意味が、ようやく腑に落ちた。

 

 これは力じゃない。

 

 根性でもない。

 

 身体の中に元々あった「流れ」を、限界まで追い詰めることで強引に開通させることだった。

 

 斬撃がさらに重なる。

 

 それでも、さっきまでとは違う。

 

 痛みの奥に、確かな手応えがある。

 

 俺は血を吐きながら、歯を食いしばったまま笑った。

 

 「……なるほどな」

 

 斬り裂かれ続ける中で、俺は足を踏み直した。

 

 崩れかけていた重心を引き戻し、揺れる身体を無理やり一本の軸に乗せる。肉は裂け、血は流れ、骨のきしむ感覚がはっきり分かる状態なのに、不思議と動きに迷いはなかった。むしろ今までよりもはっきりと、自分の身体がどう動けばいいのか理解できている感覚がある。斬撃が飛び交うこの空間の中で、どこに立てばいいのか、どの角度で構えればいいのか、そのすべてが自然に見えていた。

 

 俺は構えを取る。

 

 右手は施無畏印。

 

 左手は与願印。

 

 右を上に、左を下に据える。

 

 両腕の位置が定まった瞬間、身体の中の流れが一気に整う。さっきまで暴れ回っていた何かが、形を持った川みたいに筋道を描いて全身へ広がっていく感覚があった。背骨の奥から首筋へ、肩から腕へ、腹の奥から脚へと、細かい道が無数に繋がり、そのすべてに同時に何かが通っていく。

 

 目を開く。

 

 視界が変わっていた。

 

 さっきまで見えなかったものが見える。斬撃は不可視のはずなのに、その軌跡が分かる。空間に走る歪み、空気の裂け目、そこを通過する力の流れ、そのすべてが輪郭を持って認識できるようになっていた。さらにその奥にある、もっと大きな流れも感じ取れる。俺の中を巡るものと、この空間を満たしているものが、互いに干渉し合っているのが分かる。

 

 全身に力が溢れていた。

 

 筋肉の力とは違う。

 

 呼吸とも違う。

 

 もっと深いところから湧き上がるものが、絶え間なく流れ続けている。今まで塞がれていた経絡が完全に開かれ、身体の中に脈のようなものが張り巡らされ、それが一瞬の停滞もなく循環している。流れは止まらない。止める必要もない。ただ巡る。それだけでいい。

 

 斬撃が来る。

 

 だが遅い。

 

 いや、遅く感じる。

 

 身体をほんのわずかに傾けるだけで、その刃は外れていく。腕を少し動かすだけで、流れを逸らすことができる。受け止める必要すらない。力の通り道が見えているから、その道を外せばいいだけだ。

 

 「終いか」

 

 低い声が聞こえた。

 

 骨の山の上から見下ろしていたあの男の声だ。

 

 俺はゆっくりと顔を上げる。

 

 全身は血まみれのままなのに、不思議と軽い。さっきまでの痛みは消えていないはずなのに、気にならない。それどころか、余計なものが削ぎ落とされて、必要な部分だけが残ったみたいな感覚がある。

 

 今までの俺は終わりだ、と自然に思えた。

 

 弱かったわけじゃない。

 

 むしろ十分すぎるくらい強かったはずだ。

 

 それでも、どこかで止まっていた。

 

 最後の一行が分からなかったせいで、途中で引っかかっていた。

 

 それが今、全部繋がった。

 

 頭の中が妙に静かだ。

 

 迷いがない。

 

 余計な考えが浮かばない。

 

 ただ、目の前の相手と、この流れだけがはっきりと存在している。

 

 心が晴れやかだった。

 

 苦しいはずなのに、どこか心地いい。

 

 身体の奥からじわじわと広がる感覚が、静かに全身を満たしている。

 

 そうか。

 

 これが——

 

 

 

 

 「『悟り』」

 

 

 

 

 斬撃が止んだ。

 

 さっきまで空間そのものが裂け続けていたのが嘘みたいに、音が消える。耳に残っていた金属を擦り合わせるような不快な響きも、肉が削がれる湿った感触も、すべてが一度に引いていき、代わりに残ったのは重く沈んだ静寂だった。血霧がゆっくりと晴れていく。細かく刻まれて宙に浮かんでいた赤い粒子が、重力に引かれるみたいに落ちていき、視界が少しずつ開けていく。

 

 だが、その前から俺は見ていた。

 

 新たにできていた骨の山の上にいる男の姿を。

 

 黒く染まった空気の中で、変わらずそこにいる存在を。

 

 「……どういうことだ」

 

 低い声が落ちる。

 

 さっきまで余裕だった声色に、わずかな違和感が混ざっているのが分かった。完全に崩れたわけじゃないが、確実に何かを見誤った時の声だ。

 

 俺はゆっくりと息を吐いた。肺の奥まで空気が入る。

 

 今度は途中で裂かれない。

 

 呼吸が通る。

 

 それだけで、さっきまでとはまるで違う。

 

 「ありがとう」

 

 自然とその言葉が出た。

 

 自分でも少し意外だったが、嘘じゃない。本当にそう思ったからだ。

 

 俺は手を合わせる。

 

 右手と左手を胸の前で静かに重ねると、さっきまで身体の中を巡っていた流れが、今度は外へ広がるような感覚があった。内側で完結していたものが、外側の空間と繋がる。そんな妙な感覚だ。

 

 「お陰で『開けた』」

 

 俺はそのまま言った。

 

 男の眉がわずかに動く。

 

 「すまないが、今はお預けにさせてもらう」

 

 「何を……」

 

 言い終わる前に、俺は手を打ち鳴らした。

 

 「まさか」

 

 乾いた音が、空間に響く。

 

 パン、と。

 

 その一音を境に、世界が崩れた。

 

 黒く染まっていた空がひび割れるように砕け、血の海が引いていく。肉と骨で構成されていた空間が砂のように崩れ、黄金の光がその隙間から差し込んでくる。蓮の葉が再び色を取り戻し、水面が静かな輝きを取り戻す。宿儺の領域が、内側から押し返されるようにして剥がれていく。

 

 それは衝突ではなかった。

 

 押し潰すでもない。

 

 ただ、在るべき場所に戻るだけのような自然な流れで、世界が切り替わっていく。

 

 そして。

 

 すべてが消えた。

 

 視界が切り替わる。

 

 俺の目の前にいたのは、巨大な呪霊だった。

 

 黒く歪んだ肉の塊みたいな身体がうごめき、複数の目がこちらを見ている。背中から生えた毛が逆立ち、口からは粘ついた涎が垂れている。さっきまでいた心象世界とはまるで違う、生々しい現実の気配が肌に触れる。

 

 戻ってきた。

 

 そう理解する。

 

 時間の感覚がズレていたが、どうやら外ではほとんど経っていないらしい。

 

 「おい!大丈夫か!?」

 

 声が飛んできた。

 

 伏黒だ。

 

 横を見ると、あいつが構えたままこっちを見ている。白と黒の犬も唸りながら呪霊に向き直っているが、その視線の一部は俺に向いていた。

 

 俺は軽く肩を回す。

 

 血は出ている。

 

 服もボロボロだ。

 

 だが、身体は驚くほど軽い。

 

 「あぁ——問題ない」

 

 そう答えながら、俺は一歩踏み出した。

 

 足が地面を捉える感覚が、今までとはまるで違う。地面から返ってくる反発、空気の抵抗、身体の中を巡る流れ、それらすべてが一つに繋がっている。

 

 呪霊が動く。

 

 腕のようなものを振り上げる。

 

 その軌道が、はっきり見えた。

 

 俺は腰を落とす。

 

 呼吸が自然に整う。

 

 構えが決まる。

 

 「行くぞ」

 

 誰に言ったわけでもないが、言葉が口から出た。

 

 次の瞬間、俺の身体はもう動いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 伏黒恵は、目の前で理解の外にある現象を目撃していた。

 

 それは戦闘ではなく、もはや自殺行為としか思えない行動だった。出会って間もない、同じ年齢のはずの少年が、まるで菓子でも口にするかのような軽さで特級呪物を飲み込んだのである。呪術師として最低限の知識を持つ者ならば、その行為がどれほど危険で、どれほど愚かで、どれほど致命的であるかは理解しているはずだった。にもかかわらず、虎杖悠仁は一切の躊躇もなくそれを実行した。

 

 「な!?」

 

 伏黒の喉から思わず声が漏れる。

 

 次の瞬間、虎杖悠仁の身体が内側から膨れ上がった。筋肉が不自然に隆起し、血管が浮き上がり、皮膚の下で何かが蠢く。圧力に耐えきれなくなった血が噴き出し、制服が裂け、布が音を立てて弾け飛んだ。破れた衣服の隙間から露出した皮膚には、見たことのない黒い紋様がじわりと浮かび上がっていく。

 

 「ヒッハハハハッー!!!」

 

 甲高い笑い声が、虎杖の口から響いた。

 

 その声は明らかに別人のものだった。軽薄でありながら、底の見えない残酷さを含んだ笑い。人間の喉から出ているはずなのに、人間のものとは思えない異質な響きが、校舎の空間を震わせる。

 

 呪霊は怯んでいる。

 

 伏黒の背筋に冷たいものが走る。

 

 (マズい……!)

 

 思考が一気に加速する。

 

 (最悪のパターンだ……両面宿儺が受肉した)

 

 呪物を取り込むという行為は、基本的に死に直結する。肉体が耐えきれずに崩壊するか、あるいは呪物に宿った存在に乗っ取られるか、そのどちらかだ。運良く耐えられる例などほとんど存在しない。そして今、目の前で起きているのは明らかに後者だった。

 

 四方に広がる呪力が、先ほどまでとは質を変えている。

 

 重い。

 

 禍々しい。

 

 圧倒的な悪意を孕んだ気配が、空気そのものを歪ませていた。

 

 「グッ」

 

 だが。

 

 その時だった。

 

 虎杖の喉から、今度は苦しそうな声が漏れる。

 

 異様に膨れ上がっていた身体がわずかに震え、その直後、全身から蒸気が噴き出した。血と熱が一気に放出されるように、白い蒸気が虎杖の身体を包み込む。視界が一瞬で遮られ、輪郭がぼやける。

 

 伏黒は思わず身構えた。

 

 何が起きる。

 

 どちらが出てくる。

 

 その緊張の中で、数秒にも満たない時間がやけに長く感じられる。

 

 やがて。

 

 蒸気が晴れる。

 

 そこに立っていたのは——

 

 虎杖悠仁だった。

 

 先ほどと同じ顔。

 

 同じ体格。

 

 だが、纏う空気がまるで違う。

 

 「おい!大丈夫か!?」

 

 伏黒は反射的に声を張り上げた。

 

 しかし虎杖は振り向かない。

 

 視線は目の前の呪霊へ向けられたままだ。

 

 そのまま、静かに言った。

 

 「問題ない」

 

 短い言葉だったが、そこには確かな確信があった。虚勢でも強がりでもない。事実としてそう言っているだけの声音だった。

 

 伏黒は目を細める。

 

 (なんだ……?)

 

 さっきまでとは明らかに違う。

 

 暴力的な膂力や反応速度だけではない、何か別の領域に踏み込んだような気配を感じる。呪力が特別あるわけではない。それでも、呪力とは別種の何かが、虎杖の全身を巡っているように見えた。

 

 そして。

 

 虎杖悠仁が動いた。

 

 (見えない!?)

 

 伏黒の視界から、その姿が消える。

 

 瞬きの間にも満たない時間で、虎杖は呪霊の懐へ入り込んでいた。距離も、踏み込みも、加速も、すべてが認識の外にある。速いというより、存在がそこに移動したような違和感だった。

 

 虎杖は力任せに殴らない。

 

 蹴りもしない。

 

 ただ、掌をそっと差し出す。

 

 呪霊の肉へ。

 

 触れるだけの動き。

 

 その瞬間。

 

 内部から弾けた。

 

 呪霊の身体が、内側から破裂するように爆散した。外から叩き壊されたのではなく、内部に何かを流し込まれ、その圧に耐えきれず崩壊したかのような破壊だった。肉片が四方へ飛び散り、黒い液体が床へと降り注ぐ。

 

 伏黒は息を呑む。

 

 理解が追いつかない。

 

 だが一つだけ、はっきりしていることがあった。

 

 (コイツ……さっきより遥かに強い)




皆様申し訳ございません。宿儺との戦いはここでは一旦お預けです。何話か後に書いてますので、お待ちくださいませ。

それと日間ランキング1位になってました。皆様、本当にありがとうございます。沢山の評価や感想ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
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