武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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よぉ!オレはコガネ!いやぁやっと出れたぜ!オカシイダロ!結界に近づいてやっとだ!

 

 

 

 俺は小学一年の頃から、ずっと如来神掌っていう武術を修行してきた。山の中で一人、ひたすら身体を動かして、呼吸を整えて、同じ型を何百回も何千回も繰り返してきたけど、その過程は綺麗なものじゃなくて、転げ回って泥だらけになって、骨が軋んで、何度も心が折れそうになりながら、それでもやめなかったっていうだけの積み重ねだったと思う。

 

 経絡を開くっていう言葉の意味も最初は全然分からなかったし、“流れ”なんていう曖昧なものを掴めって言われても正直無理だろって思ってた。でも、殴られて、立って、また殴られて、それでも呼吸を整えてもう一回動くっていうのを繰り返していくうちに、少しずつ身体の中で何かが繋がっていく感覚があった。そしてあの日俺は宿儺に殺されて、あの冊子に書いてあったことを一通りなぞれるようになっていた。

 

 だから今こうして戦えてるわけなんだけど、その流れとは全然関係ないところで、別の意味でヤバい状況に直面している。

 

 「ゴクリ……」

 

 思わず喉が鳴ったのが、自分でも分かるくらいはっきり聞こえた。

 

 いや待て、落ち着け俺。今は戦闘中だろ。相手はどう考えてもヤバいレベルの強者で、気を抜いたら普通に死ぬ状況だって理解してる。それなのに、頭の中に浮かんでくるのはまったく別の方向の考えで、理性と本能が変な感じに噛み合ってない。

 

 めちゃくちゃ見てぇんだ……女の裸……!!

 

 いやほんとに何言ってんだ俺、って自分でも思うけど、こればっかりはどうしようもない。修行してる間はそんなこと考える余裕なかったし、煩悩とか全部捨ててきたつもりでいたんだけど、いざこうして現実として目の前に突きつけられると、普通に気になるし、むしろ余計に意識してしまう。女の裸なんて山で拾ったエロ本でしか見たことねぇんだ!

 

 「虎杖悠仁君、すごくいいわ、すごくね」

 

 前からヨリミツさんの声が聞こえてくる。声は落ち着いているのに、その周囲でバチバチと雷が弾ける音が重なっていて、状況としては完全に戦闘の最中のはずなのに、妙に空気がズレている感じがして余計に集中しづらい。

 

 「『チッ……くだらん。早く前を向け小僧』」

 

 宿儺が苛立ったみたいに言ってくるのが聞こえたけど、お前さっきから妙に機嫌悪いなって思う。あ、お前も見たいのか?って一瞬思ったけど、たぶんそういう問題じゃない気もするし、いやでも絶対ちょっとは気にしてるだろ。

 

 そんなことを頭の片隅で考えながら、俺は意を決して前を向いた。

 

 ちゃんと戦うために視線を戻す。

 

 そう自分に言い聞かせながら顔を上げた先で、ヨリミツさんはさっきと同じ位置に立っていた。姿勢も変わっていないし、圧もそのままなんだけど、やっぱりその状態はさっきまでと決定的に違っている。

 

 全裸だ。

 

 いや、そりゃそうなんだけど。

 

 俺がやらかした結果なんだけど。

 

 でも——見えない。

 

 思わず目を凝らしてしまった。

 

 輪郭は分かる。立っている位置も、身体のラインも、全部ちゃんと視界に入っている。それなのに、肝心な細部が完全に潰されているみたいに見えない。

 

 黒い雷が、ものすごい密度で身体の周囲を覆っている。

 

 バチバチと弾けながらまとわりついていて、ただの装飾じゃなくて、明らかに視界を遮るために存在しているみたいな動きをしている。光っているのに輪郭を隠すっていう、ちょっと意味の分からない状態になっていて、見ようと意識すると逆に濃くなる気すらする。

 

 「ねぇ……あなた……どう?見えないでしょう?」

 

 ヨリミツさんが、少し楽しそうに言った。

 

 その声の感じで分かる。完全に分かってやってる。

 

 「……いや、はい」

 

 なんか変に素直に答えてしまった。

 

 「ふふ、残念ね」

 

 全然残念そうじゃない。

 

 むしろちょっと満足してるみたいな響きがある。

 

 なんなんだこの人、本当に。

 

 頭の中で状況を整理しようとしていると、雷の音が変わったのに気付いた。さっきまで散発的に弾けていたそれが、一つにまとまるように収束していく。腕の方に集まっていて、圧も明らかに上がっている。

 

 遊びは終わり、って感じだ。

 

 「じゃあ、続けましょうか」

 

 軽く言ったその一言で、空気が一気に引き締まる。

 

 さっきまでの妙な空気が嘘みたいに消えて、戦闘の緊張感だけが残る。肌がピリッとする感覚が戻ってきて、視界が一気にクリアになる。

 

 俺はゆっくり息を吸った。

 

 呼吸を整える。

 

 身体の中の流れを意識する。

 

 余計な思考を全部脇に置いて、目の前だけを見る。

 

 ……完全には無理だけど。

 

 でも、それでもやるしかない。

 

 構える。

 

 もう一度、ちゃんと戦うためにだ。

 

 俺が踏み込もうとして重心を前に送った、そのほんの刹那のタイミングで、空気が裂けるみたいな音と一緒に視界の中央へ黒い影が割り込んできた。次の瞬間には俺とヨリミツさんの間に人影が着地していて、地面が踏み抜かれるように沈み込む。

 

 真希さんだった。

 

 その着地の衝撃はただ速いだけじゃなくて重かった。足裏から地面へ叩き込まれた力がそのまま周囲へと伝わって、細かい砂利が跳ね、空気が一瞬だけ押し出される。戦闘の流れを完全に断ち切るような入り方で、俺もヨリミツさんも一瞬だけ動きを止められた。

 

 「悠仁と変態女、そこまでだ」

 

 「へ?」

 

 思わず間の抜けた声が出た。いやちょっと待ってくれ、タイミング的には助かったのかもしれないけど、言い方。

 

 「闘いの邪魔をしないでくれるかしら」

 

 ヨリミツさんが不機嫌そうに言う。さっきまであんなに楽しそうだったのに、明らかにトーンが変わってるし、腕にまとわりついていた黒い雷も、少しだけ荒れた動きをしている。

 

 真希さんは振り返らない。

 

 俺の方も、ヨリミツさんの方も見てるはずなのに、どっちにも視線を向けずに、ただそこに立っているだけで、なんか妙に圧がある。

 

 「このまま全裸で闘うつもりか?てめぇが誰か知らねぇけど、未成年に有害だからやめてくれ」

 

 ……いやまあ、言ってることは正しい。

 

 正しいんだけど、状況的にちょっと待ってほしいというか、俺もどうしていいか分からなくなってる最中で、それを正面から指摘されると普通にダメージが入る。

 

 「あと悠仁、お前もお前だ。早く服着ろバカ」

 

 「いや俺は着てる方だから!一応!」

 

 反射的に言い返したけど、冷静に考えるとパンツ一枚なのは確かで、説得力はゼロだった。というかなんで俺だけ微妙に巻き込まれてるんだ。

 

 「一応じゃねぇよ、見苦しいから何とかしろ」

 

 バッサリ切られる。

 

 ぐうの音も出ない。

 

 でも今はそれどころじゃない。目の前には明らかにヤバい相手がいるし、その相手と今から本格的にやり合おうとしてたところに割り込まれてるわけで、状況としては全然落ち着いてない。

 

 ヨリミツさんの方を見る。

 

 さっきまでまとわりついていた黒い雷が、さらに濃くなってる。身体の輪郭を隠すどころか、もうほとんど外殻みたいにまとわりついていて、近づくだけで弾かれそうな圧を感じる。

 

 怒ってる。

 

 いや、怒ってるっていうより——

 

 邪魔されたことに対して、明確に苛立ってる。

 

 「……随分と野暮ね」

 

 低い声で、ヨリミツさんが言った。

 

 さっきまでの楽しそうな感じは消えていて、代わりに純粋な戦闘欲がそのまま剥き出しになっている感じがする。あのまま続けてたらどうなってたか分からないけど、今は完全に別のモードに入ってる。

 

 真希さんは一歩も動かない。

 

 ただそこに立ってるだけなのに、間に入られただけで距離が完全に遮断されてる感覚がある。無理に踏み込もうとしたら、まず真希さんとぶつかることになる。

 

 「邪魔をするつもりはねぇ。ただ、状況を整えろって言ってんだよ」

 

 淡々とした声だった。

 

 でもその中に、妙に現実的な重さがある。戦うこと自体を否定してるわけじゃない。ただ、このまま続けるのはダメだっていう判断をそのまま口にしてるだけ。

 

 ……確かに、その通りだ。

 

 このままの状態で続けるのは、色んな意味でまずい。

 

 俺は一度息を吐いた。

 

 流れを切る。

 

 戦闘のテンションを一段階落として、頭を冷やす。

 

 ヨリミツさんから視線は外さないまま、でも一歩踏み出すのをやめて、その場で構えを少しだけ緩める。

 

 「……ちょっとだけ、待ってくれ」

 

 自分でも驚くくらい、普通の声が出た。

 

 さっきまでの張り詰めた空気とは違う、ちゃんと人と会話する時の声。

 

 ヨリミツさんの雷が、一瞬だけ揺れる。

 

 完全に止まったわけじゃないけど、さっきまでのような即応の状態からは、ほんの少しだけ外れた気がした。

 

 その隙を逃さず、真希さんが俺を見る。

 

 「さっさと何とかしろ」

 

 短い。

 

 でも十分だった。

 

 ……ほんとに、どうするこれ。

 

 考えろ、考えろ俺。

 

 このままじゃダメだ。戦いの流れは完全に途切れてるし、何よりこの状態で集中できるわけがない。相手は間違いなく全力で来るタイプだし、こっちが少しでも気を抜いたら普通に終わる。それなのに視界の情報が邪魔すぎる。いや邪魔って言い方もおかしいけど、とにかく今は戦闘に適した状態じゃないのは間違いない。

 

 服がないと戦えない。

 

 俺もそうだし、多分ヨリミツさんもそうだ。

 

 いや待て……そこまで考えた瞬間、頭の中で繋がった。難しく考える必要なんてなかった。そもそも戦う前の準備が整ってないだけなんだから、それを整えればいいだけだ。

 

 「分かったよ真希さん」

 

 俺は構えを解いて、まずは状況を一段落させるためにそう言った。無理に戦闘を再開するんじゃなくて、一旦区切る。今はそれが正しい。

 

 それから、視線を逸らすというか、ちゃんと見ないように手で軽く目元を覆いながら、ヨリミツさんの方へ声をかける。

 

 「ヨリミツさん、ヨリミツさんがナイスバディすぎて戦いに集中できない。一旦お互い服を着てさ、やり直そう」

 

 自分で言っててちょっと何言ってるんだって思ったけど、嘘は言ってない。というか、これ以上ストレートな理由もない気がする。変に取り繕うよりは、そのまま言った方が早い。

 

 「多分、いや絶対違うけどまぁいいか……」

 

 真希さんが何か呟いた気がするけど、今は聞こえなかったことにする。そこに突っ込まれると色々と困る。

 

 少しだけ間があった。

 

 雷の音が一瞬だけ弱まる。

 

 ヨリミツさんがどう出るか、正直分からなかった。戦闘狂っぽいし、そのまま続行って言われてもおかしくない。でも——

 

 「……確かにそうね。なんだかお腹も減ったし、京に戻り、整えてからヤリましょう」

 

 予想外にあっさりと、そう返ってきた。

 

 ちょっとだけ拍子抜けした。

 

 いやでも助かった。正直、このまま続ける流れになったらどうするか決めきれてなかったし、今の状態だとどこかで絶対判断を誤る気がしてた。

 

 「よし!」

 

 思わず声が出た。

 

 力が抜ける。

 

 さっきまで張り詰めてた空気が、一気に緩む。

 

 でも完全に気を抜くわけにはいかない。目の前の人がヤバいのは変わってないし、今はただ“戦闘を一時停止した”だけで、終わったわけじゃない。

 

 それでも、一旦リセットできるのはデカい。

 

 呼吸を整える。

 

 身体の中の流れをもう一度確認する。

 

 さっきまでの感覚を忘れないように、でも無理に維持しようともしない。リラックスしつつ、必要なところだけ残す。

 

 「……次はちゃんとやろうぜ」

 

 小さく呟いた。

 

 誰に向けたわけでもない。

 

 でも、ちゃんと届いてる気がした。

 

 ヨリミツさんの雷が、わずかに揺れたからだ。

 

 

 

 

 

 そうして、妙な一団が京都へと向かって歩き出した。

 

 パンツ一枚のままの男、虎杖悠仁。その横には無言で歩く禪院真希がいて、腕の中には力を失ったままの真依の身体が抱えられている。そしてもう一人、全身に黒い雷を纏いながら平然と歩く源頼光は、先程の戦闘の余韻すら残したまま、どこか満足げな気配を漂わせていた。

 

 さすがにこのままでは色々とマズいという判断に至ったのは、虎杖と真希のどちらとも言えない直感的なものだった。

 

 京都へと向かう途中、三人は人の気配の消えた民家へと足を踏み入れる。死滅回游の影響で周辺住民は既に避難しており、家屋は生活の痕跡だけを残して無人のまま放置されている。その静けさの中で、虎杖は窓際に掛かっていたカーテンを迷いなく引き剥がし、それをそのまま身体に巻き付けた。

 

 布は本来の用途を完全に無視され、即席の外套として扱われるが、少なくともパンツ一枚よりは遥かにマシである。本人もそれを理解しているのか、多少ぎこちないながらも満足げに布を整えている。

 

 そして頼光もまた、ほぼ同時に同じ行動を取った。

 

 別の部屋へと入り、躊躇なくカーテンを引き剥がすと、それを身体に纏う。だが彼女の場合、その動きはあまりにも自然で、まるで最初からそういう装束であったかのような違和感のなさがあった。布越しにでも伝わる肉体の緊張と、内側から滲み出る圧が、単なる応急処置の衣服であることを忘れさせる。

 

 虎杖のパンツ一枚は、まだギリギリ見逃されるかもしれない。だが頼光の全裸はさすがに問題がある。結果として辿り着いたのがこの形だった。

 

 外へ出ると、周囲にはほとんど人の気配がない。

 

 「というか、頼光さんって游者ってやつなんだよな?え?コロニーって出れるの?」

 

 虎杖が歩きながら口を開いた。疑問はもっともであり、これまで得ていた情報と目の前の現実が噛み合っていない。

 

 「確かにそうだな。私たちが知ってる情報だと、死滅回游の結界は一度入ったら出れないはずだ」

 

 真希が淡々と応じる。

 

 死滅回游——日本各地に展開された結界の中で、術師同士が殺し合いを強いられる異常なゲーム。術式を持たない一般人は開始時に一度だけ外へ出ることが許されているが、それ以外の者は基本的に結界内へと閉じ込められる。羂索によって強制的に術師へと変えられた者たちは例外なくその枠に組み込まれていた。

 

 その常識が、今この場で覆されている。

 

 その時だった。

 

 虎杖のすぐ側に、何かが“現れた”。

 

 気配が生じたかと思った次の瞬間には、既にそこに存在している。人型とも虫ともつかない奇妙な形状をしたそれは、妙に軽快な声で喋り出した。

 

 「よぉ!オレはコガネ!いやぁやっと出れたぜ!オカシイダロ!結界に近づいてやっとだ!」

 

 「えっ何コイツ」

 

 反射的に距離を取ろうとする虎杖に対し、頼光はまるで既に知っていたかのように静かに口を開く。

 

 「それはコガネよ、死滅回游と游者を繋ぐ窓口」

 

 その言葉の通り、コガネは虎杖のすぐ側にぴったりと張り付くように浮かんでいる。

 

 「で?」

 

 虎杖が短く促すと、コガネは得意げに胸を張るような仕草を見せた。

 

 「総則追加だ!総則『9』得点を消費する事でコロニー間の移動ができる!消費得点は100点!もう一個!総則『10』游者は他游者の情報、“名前”“得点”“ルール追加回数”“滞留結界”を参照できる!」

 

 その一言で、状況の意味が繋がる。

 

 「私が最初のそれを追加した」

 

 頼光が何でもないことのように言った。

 

 「げっ……ってことは二百点取ってたってことか?」

 

 虎杖が思わず顔を引き攣らせる。百点で総則を一つ追加できる。その条件を満たすためには、相応の数の術師を倒している必要がある。

 

 「そう」

 

 短い肯定。

 

 だがその一言の重さは軽くない。

 

 「じゃあ俺たち京都に入ったらマズくね?頼光さんが二百点取ってたって事は、中は既に術師がほとんどいねぇと思うから点を稼げないって事だろ?」

 

 虎杖の指摘は的確だった。点数を稼ぐには戦う相手が必要だが、既に大半が狩り尽くされているのであれば、その機会自体が失われている可能性が高い。

 

 真希は一瞬だけ考え込む。

 

 結界の向こうを見据えながら、状況を整理する。

 

 「……どうすんだ?」

 

 その問いは、誰に向けたものでもなかった。

 

 だが確かに、三人の間に落ちた問題だった。

 

 そして、重く沈んだ空気を裂くように、場違いなほど明るい声が空から降ってきた。

 

 「真依ちゃーん!もうやっと見つけた!禪院家が無くなっててもしかしたらって……」

 

 声の方へ三人が視線を向けると、京都の曇った空を滑るように一人の少女が降下してくるのが見えた。箒に乗った西宮桃である。小柄な身体を前傾させ、風を切りながら降りてくるその姿はいつも通りのようでいて、近づくにつれて表情の焦りがはっきりと見え始める。禪院家の消失、それに伴う異常事態、そして真依と連絡が取れないこと。その全部を抱えたまま、彼女はここまで来たのだろう。

 

 箒が地面すれすれで速度を落とし、乾いた音を立てて着地する。西宮はすぐに箒から降り、真希の前へと駆け寄ろうとしたが、その途中で足が止まった。視線の先にいる真希、その腕に抱かれているものが何か、理解したくないのに理解してしまったからだ。

 

 「あんた……京都校の」

 

 真希が低く言った。声は淡々としている。怒りも悲しみも表に出していない。ただ、事実だけを受け止めた後の声だった。

 

 「え……真希さん?それって……」

 

 西宮の声が震える。目は真希の顔ではなく、その腕の中にある真依へと釘付けになっていた。血の気を失った顔、動かない身体、眠っているようにすら見えないほど静まり返ったその姿が、答えを突きつけている。

 

 「真依なら死んだ」

 

 真希は真依を抱いたまま、短く告げた。感情を押し殺した声だったが、だからこそ余計に重い。泣き叫ぶでもなく、崩れ落ちるでもなく、ただ“死んだ”という事実だけを置くように言ったその言葉は、西宮の胸を深く抉った。

 

 「そ、そんな、だ、だから行くなって言ったのに……」

 

 西宮は掠れた声で呟き、震える手を伸ばした。真希は何も言わず、ゆっくりと真依を渡す。西宮はそれを受け取った瞬間、膝から崩れ落ちるように地面へ座り込み、真依の身体を抱き締めた。軽い。あまりにも軽い。その重さが、もう戻らないことを残酷なほどはっきり伝えてくる。

 

 「真依ちゃん……ねぇ、嘘でしょ……」

 

 西宮の声は小さく、けれど震えの奥に必死な否定が混ざっていた。返事はない。真依は動かない。風が吹き、カーテンを纏った虎杖の外套が揺れ、頼光の雷が微かに弾ける音だけが場に残る。

 

 虎杖は何も言えなかった。自分が何か言える立場じゃないと分かっていたし、下手な慰めが余計に傷を深くすることも分かっていた。真依を助けられなかった。その事実は、まだ胸の奥に重く残っている。

 

 そんな沈黙の中で、頼光がすっと虎杖の側に近づいた。というかほぼくっついている。

 

 「虎杖くん、ねぇ……早くヤリましょう?」

 

 耳元で囁くような声だった。静かで、熱を含んでいて、完全に空気を読んでいない。

 

 虎杖はゆっくりと頼光を見る。目の前では西宮が真依を抱いて崩れそうになっている。真希は黙ったままそれを見ている。この状況で戦闘再開を要求してくる相手に、虎杖は数秒だけ言葉を失った。

 

 「あのさ……今どう見てもそういう状況じゃないでしょ。後でな、後で」

 

 虎杖はできるだけ声を抑えて言った。怒鳴る気にはなれなかったが、さすがに流せる言葉でもない。頼光は不満そうに少しだけ目を細めたが、西宮と真依の方を見て、ほんの僅かに首を傾げる。

 

 「死者を悼む時間、というものね?」

 

 「そういうこと」

 

 虎杖が短く返すと、頼光はしばらく西宮を見つめ、それから小さく息を吐いた。

 

 「そう……なら、待つわ」

 

 その答えは意外なくらい素直だった。戦闘狂で、さっきまで虎杖を殺して宿儺を引き摺り出すと言っていた女が、今はただ静かに一歩引いている。

 

 真希はその様子を横目で見たが、何も言わなかった。今この場で最も重要なのは、戦いではない。

 

 西宮は真依を抱き締めたまま、声を殺して泣いていた。京都コロニーの結界を前に、奇妙な一行はしばらく動けず、ただその小さな泣き声だけが、乾いた空気の中に滲んでいた。




直哉「フライト時間はどんなもんなん?」
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