武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

52 / 70
おい坊主、良い素質を持っているな。強くなりたいか?

 

 

 

 11月11日深夜。

 

 街灯の薄明かりに照らされた路地。人通りはなく、音は少ない。だが空気は張り詰めている。そこに立つのは、かつて東京呪術高専の頂点に立っていた男と、今なお京都校を率いる老術師。

 

 夜蛾正道と楽巌寺嘉伸。

 

 両者の距離が一瞬で詰まる。大柄な夜蛾が踏み込むたび、足元のアスファルトがひび割れ、鈍い音を立てる。その巨体から放たれる圧は生半可な術師では受け止めきれない質量を持っていたが、楽巌寺は一歩も退かない。

 

 構えられたのはギター。

 

 弦が鳴る。

 

 ただそれだけの動作が、空間を歪ませる。

 

 音が形を持つ。旋律が呪力と結びつき、不可視の衝撃として放たれる。直線ではない。波のようにうねり、空気そのものを震わせながら夜蛾へと叩きつけられる。

 

 「グハッ!!」

 

 直撃。

 

 音が肉体に刻まれる。骨格を伝い、内側から破壊する衝撃が夜蛾の身体を持ち上げ、そのまま吹き飛ばす。背後の壁へと叩きつけられ、鈍い衝突音と共に粉塵が舞い上がる。

 

 崩れ落ちる。

 

 巨体が地面に沈み、しばし動かない。

 

 「グフッ……強いですね。楽巌寺学長……」

 

 吐き出された言葉は、皮肉でも虚勢でもない。純粋な事実の認識だった。

 

 「伊達に長く生きてはおらん」

 

 楽巌寺は静かに答える。その声音に揺らぎはない。長年の経験と、幾多の戦場を潜り抜けてきた確信がそこにある。

 

 だが——その背後。

 

 気配が一つ、近づいていた。

 

 音を殺し、殺気も抑え込み、ただ“そこにいる”だけの存在。上層部から送り込まれた刺客。その顔も名も意味を持たない。ただ命令を遂行するためだけに存在する影。

 

 「学長殿」

 

 低く、短い呼びかけ。

 

 楽巌寺は振り返らない。視線は夜蛾から外さず、ただ一言を返そうとする。

 

 「下がれ、あとは儂に——」

 

 その言葉が最後まで紡がれることはなかった。

 

 カツ、カツ、と。

 

 硬質な音が響く。

 

 ヒールの音。

 

 静寂を切り裂くように、一定のリズムで近づいてくる。その音は隠されていない。むしろ、あえて聞かせているかのように、堂々とした足取りだった。

 

 楽巌寺と刺客、二人の意識が同時にそちらへ向く。

 

 現れたのは、一人の女。

 

 白衣を羽織り、気だるげな目をしたその姿は場違いにも見えるが、その存在感だけが場を支配する。

 

 家入硝子。

 

 「そこまでだ。夜蛾さんは殺させないよ」

 

 声音は穏やかだが、拒絶は明確だった。選択の余地を与えない、断定の言葉。

 

 次の瞬間、刺客が動く。

 

 迷いはない。指示通り、目の前の障害を排除するだけの動作。地面を蹴り、距離を詰め、得物を振り上げる。軌道は鋭く、急所を正確に狙っている。

 

 だが止まる。

 

 刃は、家入の目前で静止していた。

 

 指先。

 

 それだけだった。

 

 振り下ろされた得物の刃を、家入は二本の指で摘んでいる。力んだ様子はない。関節も動いていない。ただ“そこに置いた”だけで、刃はそれ以上進まない。

 

 刺客の目が僅かに揺れる。

 

 理解が追いつかない。だが、その一瞬の遅れは致命的だった。

 

 家入の拳が、静かに動く。

 

 大振りでもない。踏み込みも最小限。だが芯を捉えた一撃が、そのまま胴体へと打ち込まれる。

 

 鈍い音が響く。

 

 衝撃は内部へと浸透し、外へ逃げない。身体が折れる。呼吸が止まる。刺客の身体がその場で浮き、遅れて吹き飛ぶ。

 

 壁に叩きつけられ、動かなくなる。

 

 静寂が戻る。

 

 家入はそのまま視線を楽巌寺へと向ける。

 

 変わらぬ表情。だが、その奥にあるものは軽くない。

 

 「……随分と手荒だね、楽巌寺学長」

 

 夜の空気が、わずかに軋んだ。

 

 「……家入硝子」

 

 楽巌寺が低く名を呼ぶ。その声音は静かだが、弦に触れる指先にはわずかな緊張が走っている。構えられたエレキギターは既に呪力を帯び、いつでも音を放てる状態にあった。夜の路地に、見えない圧がじわりと広がる。

 

 対する家入は、まるでその緊張を意に介さない様子で懐からタバコを取り出した。指先で器用に弾き、口元へと運ぶ一連の動作に淀みはない。火を点け、ゆっくりと煙を吸い込み、細く吐き出す。白い煙が街灯の光を受けて揺らぎ、場違いなほど穏やかな時間がそこに差し込まれる。

 

 「ふぅ……だから外出るなって言ったのに、夜蛾さん」

 

 淡々とした声だった。叱責でも怒号でもない。ただ事実を確認するような、医者が患者に向けるそれに近い温度。

 

 瓦礫にもたれかかるようにしていた夜蛾が、苦笑混じりに応じる。口元には血が滲み、呼吸も浅いが、その目はまだ死んでいない。

 

 「そういうな……ちょっと外の空気を吸いたかったんだ」

 

 軽口のように聞こえるが、その裏にある意味を家入は理解している。閉じ込められ、処分を待つだけの立場に置かれた人間が口にするには、あまりにも重い言葉だ。

 

 「死罪の人間は普通外に出ないから」

 

 家入は煙を吐きながら言う。あくまで平坦に、だがその言葉は確実に現実を突きつける。

 

 夜蛾は肩をすくめるように小さく息を吐いた。背後の壁に預けていた体重を少しだけずらし、立ち上がろうとするが、すぐに踏みとどまる。無理をすれば立てる。だが、それをすれば次の一撃で終わることも分かっている。

 

 その様子を見ながら、楽巌寺はわずかに目を細めた。

 

 「軽口を叩く余裕があるようじゃな」

 

 弦に触れる指先が微かに動く。音はまだ鳴らないが、その予兆だけで空気が震える。先ほどの一撃で夜蛾を沈めた旋律と同じ性質の呪力が、今この瞬間も蓄積されている。

 

 家入は煙草を指で挟んだまま、視線だけを楽巌寺へと向ける。その目は半ば眠たげで、緊張感を削ぐような色をしているが、内側に潜むものはまるで別だ。相手の動き、呪力の流れ、弦に乗る前の“音”の気配まで、全てを見逃していない。

 

 「そっちこそ、随分やる気だね。こんな時間にこんな場所で、仲良い夜蛾さんを処分する気満々じゃん」

 

 言葉は軽い。だが、その裏にある意志は明確だった。

 

 楽巌寺は答えない。代わりに、静かに弦を弾いた。

 

 音が鳴る。

 

 それは旋律として成立する前の、断片的な一音。しかしその一音だけで、空気が切り裂かれる。見えない刃が複数、家入へと走る。

 

 家入は動かない。

 

 その場に立ったまま、わずかに身体を傾けるだけで、衝撃の軌道を外す。頬をかすめる風圧が煙を散らし、白い線が空中に引かれる。

 

 「……やっぱり本気か」

 

 呟きと共に、煙草を軽く振る。灰が落ち、地面に小さな黒い点を作る。

 

 次の瞬間、家入の足が前に出る。

 

 踏み込みは静かだが、速い。音もなく距離を詰め、ギターの有効距離へと入り込む。その動きは術師というよりも、純粋な体術の極致に近い。

 

 楽巌寺の指が弦を掻き鳴らす。

 

 今度は旋律として完成された音。複数の波が重なり、空間を圧し潰すように迫る。だが家入はそれを真正面から受けない。半身をずらし、最小限の動きで抜け、さらに一歩踏み込む。

 

 間合いが消える。

 

 至近距離。

 

 家入の手が伸びる。指先がギターのネックを掴む。そのまま軽く捻るようにして軌道を逸らし、次の音を封じる。

 

 楽巌寺の眉がわずかに動く。

 

 その一瞬。

 

 家入の拳が動いた。

 

 無駄のない軌道で、真っ直ぐに胴へと打ち込まれる。重さよりも、正確さと通し方に重きを置いた一撃。内部へ浸透する衝撃が、楽巌寺の呼吸を乱す。

 

 「っ……!」

 

 わずかに体勢が崩れる。だが倒れない。長年の鍛錬で培われた体幹が、ギリギリのところで踏みとどまる。

 

 距離が開く。

 

 再び対峙。

 

 夜蛾はその様子を、壁にもたれたまま見ていた。視線は二人の間を行き来し、その奥にあるものを測るように細められている。

 

 家入は煙草を口から外し、ゆっくりと吐き出した。

 

 「……ねぇ楽巌寺学長」

 

 その声に、再び空気が張り詰める。

 

 「まだやるの?」

 

 「やるもなにも……やらなければならん」

 

 楽巌寺嘉伸はそう低く言い放ち、羽織っていた服の前を大きく開いて腰へと落とした。年齢を感じさせる細身の体躯だが、そこに宿る気配は決して衰えていない。重心をわずかに落とし、足裏で地面を掴むように踏みしめる。その動き一つ一つが長年の鍛錬によって研ぎ澄まされていることを物語っていた。

 

 「そう……お爺さんでも容赦しないよ」

 

 家入硝子は静かに構える。両手を腹から胸郭の前へと押し出すように配置し、ゆっくりと息を吸い込む。肺が膨らみ、胸郭が広がるにつれて、その内部で呪力が流れを持ち始める。呼吸と連動するように、体内の巡りが整えられていく。

 

 「ッ!!何をするつもりだ!!」

 

 楽巌寺が叫び、同時にギターをかき鳴らす。弦を叩いた瞬間、呪力が一点に収束し、波として放たれる。音を媒介とした衝撃が空気を震わせ、一直線に家入へと迫る。

 

 だが——遅い。

 

 家入の動きの方が一瞬早かった。

 

 「キャアッーーーーーー!!!!!」

 

 空気を震わせる咆哮。

 

 それはただの声ではない。肺から絞り出された音が、呪力と結びつき、質量を持った“波”へと変質する。

 

 獅子咆哮功。

 

 放たれた音の塊は地面を削りながら前進する。コンクリートがめくれ上がり、粉塵が巻き上がる。楽巌寺の放った呪力の波動と衝突した瞬間、それをまるで紙のように掻き消し、そのまま一直線に肉体へと到達する。

 

 衝突。

 

 空気が弾ける。

 

 楽巌寺の身体がその場に縫い付けられるように揺れた。最初の一瞬、踏みしめた足で耐えようとする。膝が震え、筋肉が軋む。それでもなお、長年積み上げてきた意地で踏み留まろうとする。

 

 だが、次の瞬間。

 

 バキン、と乾いた音が響いた。

 

 ギターが砕ける。

 

 呪力を伝導していた媒体が耐えきれず粉々に弾け飛び、その破片が周囲に散る。支えを失った波動は、そのまま直撃する。

 

 ビリビリと空気が震え、楽巌寺の衣服が限界を迎える。布地が耐えきれず、裂け、弾ける。上着が吹き飛び、続いて下の衣服までもが圧に押し負け、破片となって宙に舞う。

 

 残ったのは、パンツ一枚。

 

 「ぐぉっ……!!」

 

 その状態でなお、楽巌寺は踏ん張ろうとする。だが次の瞬間、完全に押し切られた。

 

 身体が浮く。

 

 そのまま後方へと吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。摩擦で火花が散り、コンクリートの上を滑るように転がり、やがて勢いを失って止まった。

 

 煙が上がる。

 

 破壊された路面の破片が周囲に散らばり、静寂が戻る。

 

 「……」

 

 しばしの沈黙。

 

 その中心で、楽巌寺がぴくりと動く。

 

 ゆっくりと、震える腕で身体を起こそうとする。だが力が入らない。踏ん張ろうとした足が空回りし、再び地面に崩れ落ちる。

 

 それでも諦めない。

 

 歯を食いしばり、再び起き上がろうとする。

 

 「まだ……やらねば……ならん……」

 

 その姿は、ある意味で壮絶だった。

 

 パンツ一丁で。

 

 ボロボロの身体で。

 

 それでも戦おうとする老人の執念。

 

 だが——

 

 「お前やりすぎだ!!」

 

 倒れていた夜蛾正道のツッコミが、場の空気をぶち壊した。

 

 そして煙を吐くように息を吐いた家入は肩をすくめる。

 

 「いや、だって普通ここまで弾けないでしょ……服」

 

 「弾けてる!!現に弾けてる!!」

 

 夜蛾が即座に返す。思わず声に力が入る。

 

 楽巌寺は座り込んだままだった。そして立てない。どうやっても立てない。それでも表情だけは真剣だ。

 

 「……まだ……やれる……!」

 

 気迫だけは十分だった。

 

 しかし状況がそれを完全に裏切っている。

 

 家入は額を軽く押さえ、ため息をついた。

 

 「……やめときなよ、楽巌寺学長。これ以上やると、ほんとに色々ダメになる」

 

 「既に色々ダメになってるわ!!」

 

 夜蛾のツッコミが再び響いた。

 

 夜の路地に、奇妙な静寂が戻る。半壊した壁、砕けた路面、漂う粉塵。その中心で、ほぼ全裸の老人が座り込み、それでも戦おうとしている。

 

 家入はその光景を見下ろし、小さく呟いた。

 

 「……これどうしよっか」

 

 と言いながらも、家入硝子は躊躇なく動いた。場の空気を軽く流したまま、次の瞬間には既に楽巌寺嘉伸の懐へと踏み込んでいる。距離を詰める速度は速いが、それを誇示するような無駄はない。極めて自然な動きの中で、ただ必要な位置へと身体を運んだだけだった。

 

 楽巌寺は気配に反応しようとした。

 

 だが遅い。

 

 既に限界に近い身体は、思考の速度に動作が追いつかない。わずかに腕が動く前に、家入の手刀が的確に意識を断ち切る位置へと打ち込まれる。衝撃は最小限だが、狙いは正確だった。首元に入った一撃により、楽巌寺の身体から力が抜け、そのまま前のめりに崩れ落ちる。

 

 完全に気絶していた。

 

 家入はその身体を軽く受け止め、無造作に地面へと横たえる。扱いは雑だが、決して乱暴ではない。これ以上傷を増やさない最低限の配慮は残されている。

 

 「……はいはい、お休み」

 

 小さく呟き、視線をすぐに夜蛾へと向けた。

 

 次の瞬間にはもう夜蛾の前に立っている。

 

 瓦礫にもたれたままの夜蛾は、家入の接近に気づいてわずかに顔を上げた。血が乾ききっていない傷口がいくつもあり、呼吸も浅い。それでも意識ははっきりしている。

 

 家入は何も言わず、夜蛾の胸元へと手を当てた。

 

 そのまま、反転術式を回す。

 

 呪力の流れが切り替わる。外へ放出する破壊のためのものではなく、内へと巡らせ、欠損を補い、崩れた均衡を修復するための流れへと変質する。家入の掌から送り込まれた呪力が、夜蛾の体内へと静かに浸透していく。

 

 裂傷が閉じる。

 

 内部で乱れていた流れが整えられる。

 

 損傷した組織が、時間を巻き戻すように再構築されていく。

 

 夜蛾は目を閉じた。

 

 身体の奥で何かが戻っていく感覚を、ただ黙って受け入れる。痛みが薄れ、呼吸が深くなり、力が少しずつ戻ってくる。

 

 「家入、すまなかったな」

 

 静かに言った。

 

 その声には、先ほどまでの張り詰めたものとは違う、どこか柔らかな響きが混じっている。

 

 家入は肩の力を抜いたまま、いつもと変わらない調子で返す。

 

 「いいんですよ。先生」

 

 呼び方は昔のままだった。

 

 夜蛾は小さく笑う。

 

 「フッ……あの二人と違ってお前は——」

 

 言いかけた言葉を、家入が即座に切る。

 

 「あんなクズ二人と一緒にしないでください。私は医者ですから」

 

 迷いのない言い切りだった。

 

 その言葉に、夜蛾はわずかに目を細める。

 

 「……そうか」

 

 それ以上は何も言わない。

 

 言う必要もない。

 

 家入の手は離れない。反転術式の流れを維持したまま、完全に回復する一歩手前で止める。過剰に回復させれば、逆に負担がかかることも理解しているからだ。

 

 「立てる?」

 

 短く問う。

 

 夜蛾はゆっくりと身体を起こした。先ほどまでとは違い、力が入る。完全ではないが、戦える状態ではある。

 

 「問題ない」

 

 そう答えながら、立ち上がる。

 

 視線を横へ向けると、気絶した楽巌寺が地面に転がっている。服はほぼ機能を失い、状況だけを見れば完全に敗者のそれだった。

 

 夜蛾は息を吐く。

 

 その光景を見て、何かを言うことはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 禪院直哉は源頼光によって完膚なきまでに叩き潰され、確かな死を迎えた。

 

 頭蓋は砕けるというより弾け、肉と骨と脳の境界を失った残骸は慣性に従って壁へと激突し、そのまま肉体ごと押し潰された。そこに残ったものは、かつて禪院直哉であったという事実を辛うじて示すだけの肉塊であり、術式を発動するための脳も、意識を繋ぐ神経も、己を己として保つ輪郭も、完全に失われていた。

 

 完全なる死。

 

 それは何人たりとも覆しようのない絶対であり、当然ながら禪院直哉にも適用されるはずだった。

 

 しかし——禪院直哉には、とある秘密があった。

 

 それは幼少期、かつて禪院甚爾と呼ばれた男を初めて見た時まで遡る。直哉はその日、縁側の向こうを歩く甚爾を垣間見て、本当の強さというものを知った。呪力でも術式でもない、生物としての純粋な強さ。ただそこにいるだけで空気を変え、周囲の術師たちが無意識に息を呑むような、理解の外にある力だった。

 

 その衝撃で、直哉は三日寝込んだ。

 

 次期当主として持て囃され、術式を持つことを当然の価値として育てられてきた直哉にとって、呪力も術式も持たない甚爾の存在は忌まわしく、同時に否定しきれない憧れでもあった。認めたくない。だが見てしまった。あれこそが本物だと、幼い直哉の本能が理解してしまったのだ。

 

 直哉は『あっち側』に辿り着きたかった。

 

 そんなある日——直哉の自室に、音もなく、風もなく、気配すらなく、一人の老人が現れた。

 

 「おい坊主、良い素質を持っているな。強くなりたいか?」

 

 小汚い老人だった。襤褸を纏い、何日も風呂に入っていないような臭いを漂わせ、髪も髭も好き放題に伸びている。禪院家の厳重な警戒をすり抜けているにも関わらず、その姿はあまりにも場違いで、直哉は一瞬だけ何を見ているのか分からなかった。

 

 「は?あんた誰や、なに勝手に入っとんの?」

 

 反射的にそう言い返したのは、恐怖よりも先に苛立ちが立ったからだ。だが老人は気にも留めず、黄ばんだ歯を見せて笑うと、懐へと手を入れた。

 

 「ホホホ、まぁそう焦るな。ここに武術の本がある。どれも一冊千円、極めれば……きっと坊主の願う強さに届くだろうよ」

 

 老人が取り出したのは、いずれも古び、端が擦り切れ、表紙に染みの浮いた怪しげな本だった。まともな書物とは到底思えない。古書というより、路地裏の露店で騙し売りされる類の紙束である。

 

 羅漢仁王拳。

 蛤蟆功。

 九陽神功。

 乾坤大挪移。

 北斗神拳。

 

 

 「なんやそれ」

 

 直哉は露骨に顔を歪めた。名前からして胡散臭い。禪院家の蔵書にも術式指南にも載っていない。そもそも千円という値段設定が安すぎて逆に不気味だった。

 

 老人は笑みを深める。

 

 「どれも一つの道じゃ。選ぶのは坊主自身。術式を磨くもよし、術式を捨てるもよし、肉を極めるもよし、流れを掴むもよし。ただしな、一度選べば戻れんぞ」

 

 直哉は老人を睨みながらも、視線は本から離せなかった。馬鹿馬鹿しいと思う。だが、心の奥がざわつく。甚爾を見た時に覚えたあの感覚に似たものが、埃臭い本の隙間から微かに漏れているような気がした。

 

 「あっち側、行けるんか?」

 

 それは幼い直哉が、初めて他人に漏らした本音だった。

 

 老人は、にたりと笑った。

 

 「行けるかどうかは知らん。だが、届こうとする道具にはなる」

 

 直哉は迷った末に、一冊を取った。

 

 九陽神功。

 

 理由は分からない。ただ、その名だけが妙に引っかかった。

 

 老人は金を受け取ると満足げに頷き、そのまま現れた時と同じように消えた。音もなく、気配もなく、存在ごと掻き消えるように。

 

 その日から直哉は密かに修練を始めた。

 

 経絡、内気、循環。呪力とは異なる理で肉体を制御する思想は、最初こそ理解しがたかったが、読み進めるほどに奇妙な説得力を帯びていく。術式のような明確な発動ではなく、肉体の内部に流れるものを積み重ねるという概念は、直哉にとって未知の領域だった。

 

 だが、結果は芳しくなかった。

 

 術式のような即効性もなければ、目に見える変化もない。直哉の性格には合わず、やがてその本は押し入れの奥へと放り込まれた。

 

 それでも一つだけ、記憶に残ったものがあった。

 

 “陽は滅びず、陰に沈みてなお巡る”。

 

 死に至ったとしても、巡り続けるものがあるという一節だった。

 

 そして現在。

 

 潰れた肉塊の奥で、あり得ない微かな動きが生まれる。

 

 心臓はない。

 

 脳もない。

 

 だが、残滓のような流れが、断絶したはずの内部でわずかに巡る。

 

 死を起点として、何かが再び動き出す。

 

 それは生ではない。

 

 だが、完全な死でもなかった。

 

 禪院直哉という存在が、別の形へと移行しようとしていた。

 

 

 そしてそれを異様な気配として捉えた者が一人……

 

 「ん?」

 

 虎杖悠仁は箸を止めた。湯気の立つカツ丼の上で、卵がまだふるりと揺れている。その香りや温かさは確かにそこにあるのに、意識の一部がまるで別の場所へ引きずられるような感覚があった。

 

 場所は人気のない京都の一角に残っていた定食屋。死滅回游の影響で人の気配は薄く、店内も閑散としている。だが暖簾は下がり、火は入っていた。こういう場所は逆に落ち着く。戦いの合間に、腹を満たすという当たり前の行為ができること自体が、どこか現実感を繋ぎ止めてくれる。

 

 ちなみに西宮桃は別行動を取っている。真依を弔うため、彼女なりのやり方で区切りを付けに行ったのだ。ここにいる三人とは違い、戦いの中に戻る前にやるべきことを優先した形だった。

 

 「どうした?悠仁」

 

 向かいに座る禪院真希が、うどんを啜りながら顔を上げる。丼の横には天丼が置かれており、衣をまとった大ぶりの海老天が二つ、堂々と鎮座している。戦闘直後とは思えない食欲だが、それが彼女の平常でもあった。

 

 「いや、なんか変な気配が」

 

 虎杖はカツ丼を口に運びながら答える。噛んでいる間も、意識の奥で何かを探るような感覚が消えない。味はちゃんと分かる。腹も減っている。それでも、どこか集中しきれない。

 

 「気配?何も感じねぇけどな」

 

 真希は眉をわずかに寄せる。天与呪縛によって研ぎ澄まされた五感で周囲を探るが、引っかかるものはない。外の風も、店内の空気も、異常は感じられなかった。

 

 「私にも感じない、それよりもこれを食べたら続きをヤリましょう」

 

 源頼光が静かに言った。目の前のカレーをスプーンで掬いながら、その声音には抑えきれない高揚が滲んでいる。先ほどの戦闘の余韻が、まだ完全には抜けていないのだろう。

 

 虎杖は苦笑する。

 

 「いや、食ってる最中にそれ言うのやめてくださいよ……」

 

 軽口のように返しながらも、視線は一瞬だけ外へ向いた。木製の引き戸の向こう、静まり返った通りの奥へ。

 

 何も見えない。

 

 何も聞こえない。

 

 それでも、引っかかる。

 

 言葉にできない違和感だった。呪力の気配ではない。殺気でもない。もっと曖昧で、輪郭のぼやけた“何か”。だが確実にそこにあると、感覚が訴えてくる。

 

 「『……感じるか、小僧』」

 

 頭の中に低い声が響く。

 

 宿儺だった。

 

 虎杖は内心で応じる。

 

 (あぁ……なんか、変なんだよな。気のせいかもしれないけど)

 

 「『気のせいではない。あれは“流れ”だ』」

 

 断言だった。

 

 だが続く言葉は、僅かに興味を含んでいる。

 

 「『小僧、お前と()()()』」

 

 その言葉に、虎杖の喉の奥がわずかに詰まる。

 

 箸が止まる。

 

 だがすぐに動かす。

 

 食うべき時に食う。それを怠ると後で確実に響くことを、これまでの経験で理解していた。

 

 「……まぁ、食い終わってからだな」

 

 小さく呟く。

 

 真希がそれを聞いて鼻で笑う。

 

 「そうしろ。腹減ったままじゃロクに動けねぇ」

 

 頼光もまた頷く。

 

 「ええ、その通り。全力で殺し合うには万全でなければ」

 

 言っている内容は物騒だが、その表情は楽しげだった。

 

 虎杖はため息を一つ吐き、再びカツ丼を口に運ぶ。温かい飯が胃に落ちる感覚が、少しだけ現実へ引き戻してくれる。

 

 だが、違和感は消えない。

 

 意識の奥で、ずっと引っかかっている。

 

 そしてその頃——

 

 誰もいない街路。

 

 潰れた肉塊の奥で、わずかな流れが確かに強くなっていた。

 

 断絶したはずの内部で、何かが巡る。




直哉「北やな」
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。