武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
「それ以上近づくな」
坂田金時は低く告げた。
声量は大きくない。だが、その声音には明確な威圧が宿っている。避難区域の入口に立つ二メートルを超える巨躯は、まるで門そのもののようにそこへ存在しており、侵入を許さぬという意思を空気ごと押し広げていた。
対する禪院直哉は、歩みを止めない。
裸足で地面を踏みしめながら、ゆっくりと、粘つくような足取りで距離を詰めてくる。その顔にはうすら笑いが浮かび、目は細められ、まるで今この瞬間を心底楽しんでいるかのようだった。
異様な男。
それが金時の第一印象だった。
毛という毛が存在しない。頭髪すらなく、肌は磨き上げられた彫像のように滑らかで、月光を受けて妙な艶を帯びている。衣服も纏わず、羞恥も警戒も感じさせないまま逸物を曝け出し、それでいて堂々としている姿は、常人の感覚から大きく逸脱していた。
だが、本当に異様なのはそこではない。
金時が警戒しているのは、その内側だった。
感じる気配が強烈すぎる。
呪力はある。だが、術師として洗練された流れではない。もっと濃密で、もっと粘りつくような何かが肉体の奥を巡っている。そして何より——生命力。
それが異常だった。
まるで巨大な炉心でも抱えているかのように、肉体の内側から絶えず熱と巡りが溢れ続けている。
(怪異ではなさそうだが)
金時は静かに観察する。
これまで頼光四天王として、源頼光と共に数え切れぬ戦いを潜り抜けてきた。魑魅魍魎、呪霊、術師、人ならざる怪異。常人であれば名を聞くだけで震え上がるような存在と幾度も拳を交えている。
山を覆うほどに巨大な蜘蛛。
千を超える死体を喰らい続けた鬼。
そして酒呑童子。
人が呪霊へと堕ち、それでもなお理性と力を保った怪異中の怪異。
それらに比べれば、目の前の男は見た目だけなら滑稽ですらある。全裸でへらへら笑いながら近づいてくる姿には、威厳も風格もない。
だが——本能が警鐘を鳴らしていた。
「なぁ……ちょっと遊ばへん?」
直哉が両腕を大きく広げながら言った。
その動作は歓迎するようでもあり、抱擁を求めるようでもある。だが実際には違う。金時には分かった。その腕は、獲物を捕まえるために開いている。
「まずは衣服を着ろ」
金時は即座に返した。
直哉が一瞬だけ目を丸くする。
「……そこ?」
「当然であろう。何故全裸で歩き回っておる」
至極真っ当な指摘だった。だがその真っ当さが、逆にこの場の異様さを際立たせる。
直哉は肩を揺らして笑い始めた。
「ふふっ……いやぁ、なんや知らんけど全部弾け飛んでもうてなぁ」
笑いながら自分の身体を見下ろす。その仕草には羞恥がまるで存在しない。むしろ今の肉体を気に入っているような感覚すらある。
「それに今、めっちゃ気持ちええねん。服とか着るの勿体ないやん?」
その言葉と同時に、直哉の肉体が微かに脈動する。
ドクン。
心臓の鼓動にも似た音。
だが、それは胸だけから鳴っているわけではなかった。筋肉、骨、皮膚、全身の内部で何かが巡り、共鳴している。
金時の目が細まる。
「……その巡り」
低く呟く。
術式とは違う。
だが、単なる肉体強化でもない。
血肉そのものが別種の理によって再構築され、絶えず循環し続けている。しかもその流れは異様なほど自然で、無理矢理繋ぎ止められている感覚がない。
金時は一歩だけ前へ出た。
地面が沈む。
その瞬間、空気が変わった。
巨躯から放たれる圧が一気に増し、避難区域の内部にいた術師達が息を呑む。歴戦の強者だけが持つ、“立つだけで周囲を制圧する気配”が広がっていく。
「貴様……何を得た」
問いだった。
戦士としての問い。
直哉は笑ったまま首を傾げる。
「知らん」
返答は軽い。
だが、その声には誤魔化しがなかった。本当に理解していないのだろう。何故蘇ったのか、自分が何になったのか、その全てを把握できていない。
それでも一つだけ確かなものがある。
今の自分は、かつてないほど満ちている。
「せやけどなぁ……今の俺、最高にイケてる気ぃするわ」
直哉は笑う。
その笑みを見た瞬間、金時は確信した。
目の前の男は、既に人の理から踏み外し始めている。
金時は構えを取った。二メートルを超える巨躯がわずかに沈み、地面を踏み締める足裏から圧が広がる。無駄な力みはない。肩は落ち、背筋は通り、拳は自然に腰の位置へ収まっているにも関わらず、その姿勢だけで周囲の空気が張り詰め、避難所の奥にいた者達が息を呑むほどの威圧が滲んでいた。
「……止まる気がないのであれば、打ち倒すのみ」
平安の武人らしい硬い声音でそう告げると、金時は一息で踏み込んだ。
呪力を膂力へと変換した爆発的な駆動が脚から地面へ叩き込まれ、足元のアスファルトは蜘蛛の巣状に砕け散り、衝撃を置き去りにして金時の姿が掻き消える。巨体でありながら、その加速は鈍重さとは無縁で、空気を裂いたというより、空間ごと押し潰して前へ出たような移動だった。
次の瞬間には、金時は禪院直哉の目前に現れていた。振り上げられた拳は岩塊のように大きく、だが軌道は粗くない。肩、肘、手首、腰、膝、足裏までの力が一本に繋がり、叩き下ろされれば人間の肉体など原形を残さず砕けることが一目で分かる一撃だった。
だが直哉は、にやついた顔のまま冷静に術式を発動する。投射呪法、次の一秒間の動きを二十四分割し、その動作を自らへ投射することで自動的にトレースする禪院家相伝の術式。脳内で瞬時に構築された二十四のコマが、直哉の身体を拳の軌道から外す未来へ導こうとしていた。
構築、投射。
動きは成立するはずだった。金時の拳は既に振り上げられており、その巨体は踏み込みの勢いを乗せている。普通ならば、そこから軌道を変えることなど不可能に近い。
しかし金時の眼は、それを捉えていた。
身体は前へ出たまま、眼だけが直哉の変化を追っている。投射呪法による高速移動を、ただの速度としてではなく、動きの規則性として読んでいるのだ。呪術全盛の平安を生き抜いた術師にとって、速いだけの動きは決定打にならない。酒呑童子を始めとした怪異達の暴威を前に、金時は人智を超えた速度と膂力を幾度も見てきた。大切なのは速さそのものではなく、その速さがどこへ向かうかを見抜くことだった。
金時は振り上げた拳を途中で戻した。無理に止めたのではない。全身の連動を途切れさせず、踏み込みの力をそのまま肩から腕へ逃がし、打撃の軌道を掴みに変える。直哉が二十四分割された未来をなぞって横へ抜けようとしたその位置へ、金時の大きな手が先回りするように伸びた。
「へ?」
直哉の口から、間の抜けた声が漏れた。
驚愕は一瞬で全身へ広がる。最初は虎杖悠仁に追われた。次に源頼光に追われた。そして今、坂田金時にも投射呪法の動きを捉えられている。禪院家の術式を自負し、それを速度の証明としていた直哉にとって、三度目の否定は屈辱というより本能的な恐怖に近かった。
(アカンッ)
その思考が走った時には、既に遅かった。
金時の手が直哉の頭を鷲掴みにする。指が頭髪のない滑らかな皮膚へ食い込み、頭蓋を軋ませる。直哉は咄嗟に身体を捻ろうとしたが、掴まれた瞬間に首から背骨へかけての自由が奪われ、術式で描いた次の動きが意味を失った。
そのまま、叩き付けられる。
地面が陥没した。直哉の頭部はアスファルトへめり込み、骨が砕け、肉が潰れ、衝撃が円形に広がって路面を割る。避難所の入口に張られていた簡易バリケードが震え、建物の奥から悲鳴が漏れた。生身の人間ならば即死どころか、死体としての原形すら怪しくなる破壊である。
「ふむ……」
金時は手に付いた血を払うように指を振り、地面へ沈んだ直哉を見据えた。その顔に勝利の高揚はない。打ち倒した相手が動かぬことを確認するだけの、冷静な観察だった。
だが、すぐに金時の眉が僅かに動く。
違和感があった。
(反転術式……いや、違う。頭を潰した。脳も砕いた。あれでなお巡るなど、道理に合わぬ)
直哉の肉体から、未だ強大な生命力が感じられた。それは呪力によって傷を癒す反転術式の気配ではない。もっと別の、肉体そのものが死を拒否し、内部の循環だけで欠損を埋めようとするような異様な巡りだった。
金時が警戒を強めた直後、潰れた頭部が粘つく音を立てながら内側から盛り上がり、砕けた骨と肉が巻き戻されるように再構築されていく。
金時は即座に飛び退いた。巨体に似合わぬ軽さで距離を取り、再び重心を落として構える。目の前では、頭部を潰されたはずの直哉がゆっくりと上体を起こしていた。顔には傷一つ残っていない。皮膚は変わらず滑らかで、頭髪も体毛もなく、その口元には先ほどより濃い薄笑いが浮かんでいる。
「これがあっち側なんか?全然強くなった気ぃせんけど……まぁええか、次いくで!」
直哉は首を軽く回し、指を開閉しながらそう言った。死を超えたという実感より、壊れても戻るという肉体の快楽が勝っている。己が何を得たのかも、何を失ったのかも、まだ理解していない。ただ全身を巡る『流れ』の熱だけが心地よく、直哉の笑みを深くしていた。
禪院直哉が投射呪法を発動する。
脳内で二十四分割された未来が構築され、肉体へ投射される。
直哉の身体が掻き消えた。
地面を踏み抜く衝撃と同時に空気が裂け、遅れて轟音が響く。加速に伴って発生した衝撃波が周囲の瓦礫を吹き飛ばし、避難区域入口に積み上げられていたバリケードを軋ませた。
次からは違う。
直哉はそう確信していた。
死を経た。
肉体は一度砕け散り、その上で蘇った。呪力の核心に触れ、九陽神功という失われた武術まで目醒めた今、自分は既に以前の禪院直哉ではない。
(俺は無敵や!)
内側から熱が湧き上がる。
心臓だけではない。血管、筋肉、骨髄、その全てが燃えているようだった。九陽神功による循環は止まらず、直哉の肉体を常に活性化し続けている。疲労の感覚は薄れ、破壊への恐怖もない。
(最高速度でぶち抜いたる!)
投射呪法を繰り返す。
一秒を二十四へ切り分け、その軌道をさらに次の一秒へ接続していく。直哉の身体はフィルムのコマ送りのように滑りながら加速し、通常ならば肉体が耐えられぬ領域へ踏み込んでいった。
物理的に不可能な動き。
人体構造では成立しない急制動と急加速。
それら全てを、今の直哉は無理矢理成立させている。
音速。
直哉が移動するたびにソニックブームが発生し、周囲の窓ガラスが砕け、路面がめくれ上がる。避難区域内部にいた非術師達は耳を塞ぎ、建物の陰へ縮こまった。彼らにとっては既に災害そのものだった。
直哉が金時の背後へ回り込む。
拳を振るう。
だが、その瞬間には金時の腕が動いていた。
「遅い」
低い声音と共に振るわれた裏拳が、直哉の側頭部へ直撃する。頭蓋が軋み、肉が歪み、直哉の身体は回転しながら吹き飛んだ。
「ぐぺ!」
アスファルトを何度も跳ね、直哉が転がる。
しかし次の瞬間には起き上がっていた。潰れかけた顔面が粘土のように蠢き、巻き戻るように修復されていく。
「まだまだぁ!」
再び加速。
今度は真正面から突っ込む。投射呪法を連続発動し、速度を重ね、拳を雨のように叩き込もうとする。その動きは常人の視界では捉えきれず、残像だけが周囲に幾重にも残った。
だが金時は、その全てを見ていた。
平安最強格。
頼光四天王。
その名は伊達ではない。
金時の動体視力は、速度を“現象”として認識するのではなく、“流れ”として読む。どれほど速かろうと、肉体が次にどこへ重心を移すか、その起点を見抜けば対応は可能だった。
金時が半歩だけ動く。
それだけで直哉の軌道が噛み合わなくなる。
空振った直哉の腕を掴み、その勢いを利用するように身体を持ち上げると、金時はそのまま地面へ叩き付けた。
轟音。
直哉の背骨が地面へめり込み、クレーター状に路面が陥没する。
「へぶ!」
だが直哉は止まらない。
笑いながら立ち上がる。
骨が鳴る。
肉が蠢く。
九陽神功による生命循環が破壊を即座に修復し、直哉の身体を再び動かしていく。
「なんやねんアンタ!おかしいやろ!」
叫びながら再加速。
ソニックブームが連続し、周囲の空気が爆ぜる。直哉自身、自分がどれほどの速度へ達しているのか把握できていない。ただ加速し続ければ勝てると信じ、そのまま突っ込んでいた。
だが——
「甘い」
金時の拳が直哉の腹へ突き刺さる。
衝撃が背中まで貫通し、内臓が揺れる。直哉の身体は海老のように折れ曲がり、そのまま上空へ吹き飛んだ。
「ひでぶ!」
回転しながら落下。
しかし地面へ激突する直前、直哉は再び術式を発動し、空中で姿勢を制御する。普通ならば不可能な挙動だった。だが九陽神功によって肉体の限界が曖昧になった今、その無茶が成立してしまう。
「やったる……やったるでぇ……!」
口から血を垂らしながら笑う直哉。
だが金時は、その姿を見て静かに目を細めた。
理解していた。
直哉は勘違いしている。
確かに死を越え、異様な再生能力と生命力を得た。だが、それは“強さ”そのものではない。投射呪法の精度も、戦闘技術も、膂力も、根本的な実力は以前のままだ。
ただ壊れなくなった。
それだけだ。
そして、坂田金時という男は——壊れぬ相手を叩き潰し続けることに慣れていた。
そうして——坂田金時と禪院直哉が激突している場所へ近づく者達がいた。
京都コロニー内部の道路を進んでいた虎杖悠仁、禪院真希、源頼光の三人である。遠方からでも異変は分かりやすかった。断続的に響く轟音、崩れる建物、空気を引き裂く衝撃波。そして何より、空間そのものを震わせるような異様な気配。
直哉が投射呪法による加速を行うたび、音速域へ達した肉体がソニックブームを発生させ、その余波だけで周囲の窓ガラスが砕け散っている。更に金時の一撃が叩き込まれる度に地面が陥没し、コンクリート片が砲弾のように飛び散るため、避難区域の周囲は半ば戦場跡のような有様になっていた。
「……派手だなぁ」
虎杖が思わず呟く。
だが、その視線は単純な戦闘光景へ向けられているわけではない。もっと別のものを見ていた。
「あれ……あの人」
最初に異変へ気づいたのは虎杖だった。
遠目には、ただの異常者にしか見えない。毛という毛が存在せず、服も着ておらず、しかも金時に殴り飛ばされながら笑っている。普通ならば、禪院直哉と即座に結びつけることなど不可能に近かった。
だが虎杖には分かった。
魂だ。
見えている魂の輪郭が、以前見た直哉のものと同じだった。肉体は変質している。気配も歪んでいる。だが魂だけは変わっていない。
そして、虎杖は同時に別のものにも気づく。
直哉の肉体内部を巡るもの。
(流れだ。俺と同じ)
虎杖の目が細まる。
直哉の身体には呪力とは別の循環が存在していた。血流とも違う、呼吸とも違う。肉体そのものを内側から巡り続け、絶えず活性化させている“流れ”。
それは虎杖自身が如来神掌によって得たものと酷似していた。
もちろん完全に同一ではない。
虎杖の流れは、経絡を通じて肉体と精神を一体化させる静かな循環であり、破壊と調和を同時に成立させるものだ。
対して直哉のそれは、もっと暴力的だった。
生命力を無理矢理燃焼させ、肉体を壊れぬ方向へ捻じ曲げている。循環そのものが熱を帯び、常に沸騰寸前のような危うさを孕んでいた。
「直哉?めちゃくちゃ禿げてんじゃねぇか……全裸だし、ついにおかしくなったのか?」
真希が呆れたように言う。
しかし、その目は笑っていなかった。
真希には“流れ”は見えない。だが、禪院直哉という男を知っているからこそ分かる。目の前にいるそれは、確かに直哉でありながら、既に別の何かへ踏み込み始めている。
しかも厄介なのは——死なない。
金時の拳が直哉の顔面を捉える。頭蓋が砕け、肉が弾け、直哉の身体が地面へ叩き付けられる。普通の術師なら即死どころか、死体として成立するかすら怪しい破壊だった。
だが、直哉は立ち上がる。
潰れた頭部が粘土のように蠢き、砕けた骨が押し戻され、肉と皮膚が巻き戻るように再生していく。その様子には反転術式特有の呪力反転がない。もっと生物的で、もっと根源的な生命活動による修復だった。
「いや待て待て、なんでアイツ死なねぇんだ?」
真希が眉を寄せる。
「あら……随分見違えた」
頼光が静かに呟く。
数刻前、自身が叩き潰した男。
それが今こうして蘇り、坂田金時と拳を交えている。
だが頼光の感想は、驚愕ではない。
(あまりにも弱い)
それだった。
確かに直哉は変質している。生命力も異様だ。だが、根本的な戦闘能力そのものは大して変わっていない。動きは速くなった。壊れなくもなった。
しかし、それだけだ。
頼光ほどの領域にいる術師からすれば、速さも膂力も技量も、依然として未熟だった。
むしろ問題は別にある。
壊れないこと。
それが戦闘を長引かせ、異常な粘りを発生させている。
そして——
虎杖悠仁の内側。
生得領域の闇の中で、両面宿儺が玉座に腰掛けながらその光景を見下ろしていた。
虎杖の視界を通じて、直哉を見る。
九陽神功による循環。
壊れても再生する肉体。
そして死を起点として完成した異形の生命力。
宿儺の口元が、ゆっくりと歪む。
(ククッ……)
笑みだった。
久方ぶりに興味を引かれた獣のような笑み。
(あの流れ、不壊の肉体——そうか)
宿儺は理解する。
直哉が何に触れたのかを。
そして、その先に何があるのかを。
(奴であれば……)
宿儺「ふむ………」