武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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宿儺……!お、お前そんなことできたんかよ!!!!!!

 

 

 

 両面宿儺は考えていた。

 

 虎杖悠仁の生得領域内に築かれた自身の領域、その骨の山の頂上にある玉座に腰掛け、頬杖をついたまま静かに思考を巡らせている。血と肉と骨で組み上げられた異形の山は、宿儺の思考に呼応するように低く脈動し、白骨の隙間から滴る血が黄金の水面へ落ちるたび、虎杖悠仁の領域に僅かな赤黒い波紋を広げていた。

 

 「小僧と闘う権利は、取り込んでいない指を含め十三」

 

 低く呟きながら、宿儺は虎杖悠仁の視界を通じて外界を覗いていた。そこには、坂田金時に幾度となく叩き潰されながら、それでも再生し立ち上がる禪院直哉の姿がある。顔面を吹き飛ばされ、胴体を抉られ、腕を捥がれてなお死なず、九陽神功による“流れ”で肉体を繋ぎ直していくその様は、未熟ながらも宿儺の興味を引くには十分だった。

 

 禪院直哉。

 

 如来神掌とは別の武術を開花させた男。

 

 死を起点として経絡を開き、不壊の肉体と、どんな負傷をも治癒する異常な再生力を得た器。

 

 宿儺の目には、直哉の強さそのものではなく、肉体の性質だけが映っていた。魂は脆い。技量も浅い。精神は積まれておらず、ただ死と再生による全能感に酔っているだけの未熟者である。だが肉体だけは違う。宿儺の呪力を流し込んでも、即座に壊れず、崩れても再生し、なお立ち上がる可能性がある。

 

 もし……あの肉体に移れたなら——

 

 宿儺の口角がゆっくりと吊り上がる。

 

 「小僧との闘争は、生と死を決める甘美で至高のものとなるだろう……だが」

 

 そこで宿儺の思考は一度止まった。

 

 十三。

 

 虎杖悠仁との肉体の主導権を賭けた戦いの回数。

 

 指一本ごとに訪れる、虎杖悠仁という器を巡る闘争。その一回一回が宿儺にとっては愉悦だった。単に肉体を奪うだけならば、いくらでもやりようはある。だが、虎杖悠仁は違う。虎杖悠仁は宿儺を抑え、宿儺の呪力を取り込み、なお自分のままで在り続ける。だからこそ奪う価値がある。だからこそ、ただの器ではなく、闘争の相手として見ている。

 

 もし禪院直哉に受肉すれば、それは自ずと失われることとなる。

 

 虎杖悠仁という極上の器を内側から喰らい尽くす機会。

 

 あの百折不撓の魂を真正面から叩き潰し、肉体の主導権を奪い合う十三の闘争。

 

 その全てを捨てることになる。

 

 「ふむ……」

 

 宿儺は玉座の肘掛けを指で軽く叩いた。骨が軋み、玉座の下に積まれた骸が乾いた音を立てる。呪いの王にとって、選択とは常に愉悦を最大化するためのものだった。自由が欲しいのではない。生き延びたいのでもない。ただ、己を満たす闘争を味わいたい。

 

 禪院直哉の肉体へ移れば、虎杖悠仁と外側で殺し合える。

 

 己の呪力を全開で振るい、肉が裂け、骨が砕け、血が噴き出し、互いの命を削り合う真の闘争ができる。内側で主導権を奪い合うのではなく、互いの肉体を持ち、互いの技を尽くし、どちらかが死ぬまで戦うことができる。それは間違いなく、宿儺にとって甘美な未来だった。

 

 だが同時に、虎杖悠仁の内側に残る十三の機会もまた捨てがたい。

 

 虎杖悠仁はまだ伸びる。

 

 如来神掌の“流れ”は完成へ近づき、宿儺の呪力を掴み、己の肉体へ混ぜ込む術を無意識に磨き続けている。今でさえ十六本分の指を取り込みながら正気を保っているというのに、この先さらに鍛え上げられたならば、どれほど愉しい抵抗を見せるのか。

 

 宿儺はそれを想像し、低く嗤った。

 

 血肉の山が揺れる。

 

 白骨の玉座が軋む。

 

 外界では、直哉がまた金時に叩き潰されていた。九陽神功の再生は鈍り始めている。それでも肉体は壊れない。魂は弱り、判断は濁り、強さへの執着だけが残っている。あの男ならば、力を差し出せば喰らい付くだろう。自分が利用されることにも気付かず、より上へ行けると信じ、宿儺の毒を飲み込むはずだ。

 

 「器としては上々。だが、小僧との十三を捨てる価値があるか」

 

 宿儺は呟く。

 

 その声に、答える者はいない。

 

 だが、答えなど初めから必要なかった。宿儺は選択を迷っているのではない。どちらがより面白いかを測っているだけである。

 

 虎杖悠仁を内側から喰らう十三の闘争か。

 

 禪院直哉の不壊の肉体へ移り、虎杖悠仁と外側で命を削り合う一度きりの至高か。

 

 「どちらも惜しい」

 

 宿儺は珍しく、心底愉しげに笑った。

 

 その瞬間、領域の奥で血の流れが強くなり、白骨の山が歓喜するように震えた。呪いの王の思考は既に、単なる受肉の可否ではなく、どうすれば最も濃い闘争を喰らえるかへ向かっている。

 

 そして、宿儺は外界の直哉を見据えた。

 

 壊れかけた魂。

 

 未完成の“流れ”。

 

 不壊の肉体。

 

 それらは全て、宿儺にとって都合が良い。

 

 「ふむ……」

 

 

 

 

 

 

 

 「呪霊よりも呪霊みたいだなアイツ」

 

 真希さんが腕を組みながらそう言った。

 

 視線の先では二人の化物が戦っている。変態みてぇな全裸ハゲ……じゃなくて禪院直哉さんと、合田勇次郎こと坂田金時さんだ。

 

 まぁ戦い自体は完全に一方的だった。

 

 直哉さんが投射呪法で高速移動する。動く度に空気が爆ぜ、ソニックブームで瓦礫が吹き飛ぶ。その速度自体は凄い。普通の術師じゃまず反応すらできないと思う。

 

 でも金時さんは違う。

 

 真正面から全部見えてる。

 

 直哉さんが死角へ回り込もうが、速度を更に上げようが、金時さんは当たり前みたいに追いつき、掴み、殴り、叩き潰していた。

 

 今もそうだ。

 

 「甘い」

 

 低い声。

 

 次の瞬間には直哉さんの顔面へ、金時さんの拳がめり込んでいた。

 

 轟音。

 

 直哉さんの頭が半分くらい吹き飛び、血と肉片を撒き散らしながら建物へ突っ込んでいく。そのまま壁を何枚もぶち抜いて、ようやく止まった。

 

 いや普通死ぬって。

 

 でも——死なない。

 

 瓦礫の中で肉が蠢く。

 

 吹き飛んだ顔面が内側から盛り上がるみたいに再生し、骨が繋がり、皮膚が張り直されていく。その度に、直哉さんの身体から金色の“流れ”が溢れていた。

 

 俺には見える。

 

 直哉さんの肉体から溢れる“流れ”が。

 

 経絡を通って循環するエネルギー。俺が如来神掌で感じているものとよく似てる。でも違う。なんていうか……雑だ。

 

 循環が荒い。

 

 無理矢理回してる感じがする。

 

 「ねぇ……虎杖くん」

 

 「なんすか?」

 

 耳元で声がして、俺は思わず肩を跳ねさせた。

 

 横を見る。

 

 頼光さんだ。

 

 相変わらずカーテンを身体へ巻き付けた状態で、妙に近い距離にいる。いやホント近い。近すぎる。なんでそんなピッタリくっ付いてんの?

 

 あと普通に良い匂いする。

 

 ヤバい。

 

 精神衛生上よろしくない。

 

 しかもカーテン越しだから、動く度に肌の感触が分かるんだよ。柔らかいし。いやダメだろこれ。青少年に有害なやつだろ。

 

 「どうしたの?」

 

 「い、いやなんでもないっす」

 

 俺は慌てて前を向いた。

 

 危ない危ない。

 

 戦闘中に何考えてんだ俺。

 

 そんな俺の様子に気付いてるのか気付いてないのか、頼光さんは平然とした顔で直哉さんを見ながら口を開く。

 

 「あの男から出る金色の光……虎杖くんも出してたわね?あれはナニ?」

 

 「あ〜……なんて言えばいいか」

 

 俺は頭を掻いた。

 

 説明が難しい。

 

 感覚的なもんだし、俺も完全に理解してるわけじゃない。でも、見えるし、使える。

 

 「“流れ”っすね。俺はそう呼んでる。経絡を通るエネルギーっていうか……身体の内側を巡る力みたいな?」

 

 頼光さんの目が細まる。

 

 「経絡……へぇ」

 

 興味深そうだった。

 

 というかこの人、戦闘狂なだけじゃなくて知らない技術とかにも普通に興味あるんだよな。さっきから直哉さんの再生もめちゃくちゃ観察してるし。

 

 「多分っすけど、直哉さんも俺と似たようなもんを使ってるんだと思います。ただ……」

 

 俺は戦う直哉さんを見る。

 

 再生してる。でも、なんかおかしい。

 

 肉体は戻ってるのに、“流れ”の循環がどんどん乱れてきてる。回復する度に負荷が増えてるみたいな感じだ。

 

 「なんか無茶してる感じするんすよね。流れが安定してないっていうか……」

 

 「未完成、ということかしら」

 

 「多分」

 

 その時だった。頭の中へ、聞き慣れた不快な声が響く。

 

 「『おい小僧、あまりその女に余計な事を教えるなよ』」

 

 (なんだよ急に)

 

 俺は内心で返す。

 

 「『ククッ……武を積んだ者は厄介だ。理解されればされるほど面倒になる、同時に暇潰しにはなるが』」

 

 (別に全部教えてるわけじゃねぇよ)

 

 「『それに、ソイツは筋が良い。平安の術師の中でも一握りに入る。ケヒッ』」

 

 宿儺が嗤う。

 

 嫌な笑い方だった。なんかロクでもないこと考えてる時の声だ。

 

 (お前また変な事考えてんだろ)

 

 「『さてな』」

 

 その返答と同時に、外で轟音が響いた。

 

 金時さんの蹴りが直哉さんの腹へ直撃し、直哉さんの身体がくの字に折れ曲がる。そのまま地面へ叩き付けられ、コンクリートが爆発したみたいに砕け散った。

 

 土煙が舞う。

 

 でも、その中からまた立ち上がってくる。

 

 血塗れで。

 

 フラフラで。

 

 それでも笑っていた。

 

 「……アイツ、なんかおかしくなってねぇか?」

 

 真希さんが眉を顰めながら呟く。

 

 俺も同感だった。

 

 最初はただイキってる嫌な奴って感じだった。でも今は違う。戦えば戦うほど、死ねば死ぬほど、直哉さんの目から“人間っぽさ”が抜け落ちていってる気がする。

 

 それはまるで——

 

 「呪霊より呪霊っぽいっての、案外間違ってねぇかもな……」

 

 俺も死んだ事があるから、なんとなく分かる気がする。

 

 死んで、生き返る。

 

 それを経験すると、人間ちょっとおかしくなるんだ。

 

 俺の場合、一回目は完全に悟りを開いた感じだった。いや、感じだったっていうか、実際かなり悟ってたと思う。如来神掌を会得した直後の俺は、今思い返してもかなり危なかった。感情の輪郭が薄くなり、善悪や好き嫌いの起伏が平坦になって、ただ目の前の事象を処理するための機構みたいに振る舞っていた。

 

 頭の中から余計な感情が抜け落ちてた。

 

 腹が減ったら食う。

 

 敵が来たら倒す。

 

 困ってる人がいたら助ける。

 

 それだけ。

 

 怒りとか悲しみとか、そういうのが無くなったわけじゃない。でも、それら全部を一段高い場所から見下ろしてる感じだった。まるで自分自身が、一つの“流れ”になったみたいに、身体も思考も勝手に巡っていた。自我は確かにあったはずなのに、手触りが希薄で、ただ正解を選び続ける装置に成り下がっていた気がする。

 

 作業をする機械。

 

 今思えば、本当にそんな感じだったと思う。

 

 でも色々あって、今はちゃんと戻ってきてる。

 

 ……多分。

 

 「どうしたの?難しい顔して」

 

 横から頼光さんが覗き込んできた。金色の瞳が至近距離で俺を捉える。相変わらず距離が近いし、カーテンを身体へ巻き付けただけの格好でそんなに寄られると、視線の置き場にも困るし、妙に良い匂いがするのも困るし、色々な意味で精神に悪い。

 

 近い。

 

 いやだから近いって。

 

 「いや、ちょっと前の事思い出してただけっす」

 

 「前?」

 

 「まぁ色々っす」

 

 誤魔化しながら視線を戦場へ戻す。そこでは相変わらず直哉さんがボコボコにされていた。金時さんの拳が振り抜かれるたび、空気が圧縮されて爆ぜる音が響き、直哉さんの肉体が無理やり折り曲げられる。顔面が歪み、頬骨が砕け、血と歯が飛び散る。そのまま地面へ叩き付けられ、舗装が陥没し、粉塵が噴き上がる。

 

 それでも立ち上がる。

 

 血塗れで。

 

 骨が露出したままで。

 

 それでも身体の中を巡る金色の“流れ”が傷口へ集まり、裂けた肉を押し戻し、潰れた頭蓋を内側から膨らませて形を取り戻していく。あの再生は理屈じゃない。“流れ”が経絡を通じて内力を循環させ、壊れた部分へ無理やり生命をねじ込んでいる。

 

 あの感じ。

 

 かなり危ない。

 

 俺は二回目の死を思い出していた。乙骨先輩に胸を貫かれ、心臓が止まったあの瞬間、視界が暗転する直前に湧き上がった感覚は、一回目とは真逆だった。静かな悟りではなく、爆発的な万能感。自分が世界の中心に立ち、何もかもを掌握できるという錯覚が、魂の奥底から噴き出した。

 

 全能感。

 

 なんでもできるような感覚。

 

 世界全部を手の中へ握り込んだみたいな万能感が、死んだ瞬間、身体の奥底から湧き上がってきたんだ。怖かったけど、それ以上に甘くて、危険で、笑い出したくなるほど心地よかった。

 

 「あぁ、これならなんでもできる」

 

 本気でそう思った。

 

 呪術では、死に触れると呪力の核心を知るらしい。黒閃も似た現象だと言われるけど、意味は全然違う。黒閃は世界との位相が一瞬だけ完全に噛み合う現象で、自分と外界の境界が消える感覚だ。対して死は、自分の内側へ落ちる。魂が奈落へ沈み、その底で何かを掴まされる。

 

 もっと深い。

 

 もっと危うい。

 

 直哉さんは今、その深淵を何度も往復している。金時さんの拳で頭を潰され、胴を抉られ、それでも“流れ”で肉体を繋ぎ止めては立ち上がる。死んで、生き返って、また死んで。その繰り返しが短時間で積み重なっている。

 

 しかも、あの人はそこまで魂を鍛えていない。

 

 如来神掌の修行は、肉体以上に精神を削る。滝に打たれ、呼吸を刻み、骨が軋んでも掌を突き出し続ける。限界を越えても止めず、ただ“流れ”を掴むために自分を削る。そういう積み重ねがあったから、俺は二度死んでもまだ“俺”でいられた。

 

 でも直哉さんは違う。

 

 力だけを先に掴んだ。

 

 だから死と再生に、精神が追いついてない。

 

 「……なんか、壊れてきてる気がする」

 

 俺が呟くと、真希さんが腕を組んだまま直哉さんを睨む。

 

 「最初から壊れてただろアイツは」

 

 「いやまぁ、そうなんすけど……なんていうか、もっと根本的にっす」

 

 言葉にしづらいけど、俺には見える。直哉さんの“流れ”が濁ってきている。最初は荒々しくても一本の芯があった。今は違う。死ぬたびに、恐怖や躊躇や理性みたいな部分が削れ落ちて、ただ“強くなりたい”って執着だけが肥大化している。

 

 人格が摩耗している。

 

 魂が擦り減っている。

 

 「『死に慣れ始めているのだ』」

 

 頭の奥で宿儺が嗤う。

 

 「『本来、生物は死を恐れる。故に魂はそこへ意味を見出す。だが、それを何度も繰り返せば、死は特別ではなくなる』」

 

 嫌な感じがする。

 

 さっきからずっとそうだ。

 

 宿儺は楽しんでいる。

 

 俺は眉を顰めながら戦場へ視線を戻す。瓦礫の中から直哉さんが立ち上がる。顔の半分が潰れたまま、内側から肉が盛り上がって元の形へ戻っていく。血塗れの口元が歪み、乾いた笑いが漏れる。

 

 「へはっ……」

 

 目の焦点が合っていない。

 

 なのに、口元だけが嬉しそうだ。

 

 そして次の瞬間、その視線が真っ直ぐ俺を射抜いた。

 

 嫌な予感が、背筋を走った。

 

 次の瞬間、ツルツルピカピカ全裸直哉さんがこっちに走ってきた。

 

 術式を使ってない。

 

 純粋な走りだった。

 

 それなのに速い。地面を蹴るたび、舗装が爆ぜるみたいに砕け、筋肉の収縮だけで身体を前へ弾き飛ばしている。投射呪法の軌道制御とは違う、生身の脚力と“流れ”が噛み合った加速だ。皮膚の下を走る金色の循環が、太腿から脛へ、足裏へと収束し、反動を一滴も逃さず推進力へ変換しているのが見える。

 

 「なんかこっち来てねぇか?」

 

 真希さんが眉を顰めた。

 

 確かに来てる。

 

 だってめちゃくちゃ俺と目が合ってるもん。

 

 しかも笑ってる。血塗れで、全裸で、眉毛すら無いツルツルの顔が、嬉しそうに歪む。ホラーとか呪霊とかと違って、これは人間の顔だ。だから余計に怖い。欲望が丸出しで、理性のフタが外れた目だ。

 

 「へはっ……虎杖君……!」

 

 息が荒い。胸郭は何度も潰された形跡が残って歪んでいるのに、内側から押し戻す“流れ”が軋みながら巡っている。骨格の芯がまだ定まっていないせいで、着地の衝撃がわずかにブレる。それでも——速い。

 

 俺は半歩前へ出る。背後には頼光さんと真希さんがいる。特に頼光さんは今ほぼカーテン一枚だから、色んな意味で巻き込みたくない。呼吸を落とし、経絡へ意識を沈める。鼻から吸って、丹田へ落とし、胸郭を広げず、背中を使う。内側の“流れ”を整え、外界の位相と合わせる。

 

 変だ。

 

 さっきまでの直哉さんは金時さんへ噛み付く獣だった。今は違う。視線が俺だけを貫いている。飢えとも羨望とも違う、何かを奪い取るための目だ。

 

 「『ククッ……』」

 

 頭の奥で宿儺が嗤う。嫌な笑い方だ。骨の玉座から身を乗り出す気配が、薄く、しかし確実に俺の“流れ”へ触れてくる。

 

 「『気付いたか、小僧』」

 

 (何にだよ)

 

 「『あの男、お前を喰いたがっている』」

 

 背筋に冷たいものが走る。直哉さんがさらに加速する。脚部へ集中した金色が血管のように膨れ、皮膚の下で脈打つ。足裏が地面を掴み、空気が圧縮され、距離が一歩ごとに消える。

 

 速い。

 

 でも見える。俺なら追える。

 

 「なんでそんな強いん?」

 

 叫びと同時に地面が爆ぜる。羨望、嫉妬、焦燥、執着が混ざった声だ。

 

 「なんでそんな完成しとるん?」

 

 顔が壊れる。笑いと涙が同居したみたいな歪み方。

 

 「俺と何が違うん?」

 

 問いが空気を震わせる。直哉さんが目前へ踏み込む。近い。速い。でも——乱れてる。肉体性能だけを無理やり引き上げたせいで循環が追いついていない。金色の“流れ”が暴れ、節々で微細な遅延が生じている。

 

 俺は呼吸をさらに落とす。肺へ空気を入れ、丹田へ沈め、掌へ通す。視界の周辺が静まり、直哉さんの動きがわずかに遅く見える。読める。

 

 そして気付く。

 

 狙いが妙だ。

 

 拳じゃない。

 

 蹴りでもない。

 

 視線が、ずっと俺の右手へ向いている。

 

 「……?」

 

 違和感が膨らむ。直哉さんが大口を開いた。歯列が血で赤く光る。噛み付く気だ。俺は反射的に掌を振るう。顔面をぶち抜く軌道で、一直線に右手を突き出す。経絡を通る“流れ”が収束し、掌底へ凝る。

 

 だが直哉さんは避けない。

 

 むしろ合わせに来る。

 

 「え?」

 

 ヤバい。

 

 そう思った時には遅かった。

 

 直哉さんの口が、俺の右手へ食らい付く。鋭い歯が小指へ突き刺さる。皮膚が裂け、温い血が弾ける。痛みが神経を駆け上がる。

 

 その瞬間、俺の内側で何かが動いた。

 

 「『小僧、面白いものを見せてやる』」

 

 宿儺の呪力が、支配ではなく、循環として流れに乗る。俺の意志に逆らうのではない。ただ一瞬だけ、俺の小指へ“意味”を乗せる。呪物化。刹那の干渉。俺が気付いた時には、もう遅い。

 

 小指の奥で、位相が変わる。

 

 直哉さんが噛み切る。

 

 肉が千切れ、骨が砕ける音が耳の奥で鳴る。血が飛ぶ。小指の先が、彼の口内へ消える。

 

 「ぐっ……!」

 

 痛みが遅れて爆ぜる。俺は反射で肘を打ち込み、顎を砕く。歯が飛び、血が噴き出す。だが、飲み込んだ。

 

 飲み込まれた。

 

 直哉さんの喉が、確かに動いた。

 

 「へは……っ」

 

 血塗れの口元が、さらに歪む。

 

 そして、金色の“流れ”の奥で、別の気配が目を開いた。

 

 

 

 両面宿儺は現実の闘争を選び、骨の玉座から立ち上がった。

 

 虎杖悠仁の生得領域、その黄金の水面を侵食する血肉と白骨の山の頂上で、呪いの王は静かに視線を外界へ向ける。蓮の光が揺らぎ、骨が軋み、肉壁がざわめく。これまで幾度も内側から主導権を奪おうと試みながらも、虎杖の魂に阻まれてきた。しかし今回は違う。支配ではない。強奪でもない。ただ一瞬、流れに意思を乗せるだけでいい。

 

 現在、禪院直哉が虎杖悠仁目掛け走ってきている。

 

 理由は分からない。だが宿儺にとってそれは僥倖だった。自ら喰らいに来る獣ほど扱いやすいものはない。直哉の魂は度重なる死と再生で擦り減り、九陽神功の内力だけが肥大化している。その循環は強いが、芯は脆い。そこへ異物を流し込む余地がある。

 

 「気づいたか、小僧」

 

 宿儺は虎杖に告げる。

 

 (何にだよ)

 

 空間に虎杖の声が響く。黄金の水面がわずかに波立つ。

 

 宿儺は虎杖の視界から禪院直哉を見据えながら更に続ける。

 

 「あの男、貴様を喰いたがっている」

 

 言葉と同時に、領域が震える。虎杖の魂が警戒を強めるのが分かる。だが、今は内側の主導権を争う場ではない。外界で肉体が動き、歯が食い込み、血が流れる刹那に合わせる必要がある。

 

 そして禪院直哉が虎杖の目の前へとやってきた時、宿儺は掌印を結んだ。

 

 閻魔天印。

 

 四本の腕が重なり、骨の山の頂で呪力が収束する。

 

 「小僧、面白いものを見せてやる。領域展開——」

 

 両面宿儺は虎杖悠仁の生得領域内で領域展開を発動した。

 

 宿儺の呪力が骨の山から広がる。黄金の水面を覆い、蓮の光を赤黒く染めながら、侵食ではなく重畳として虎杖の生得領域へ重なる。内側での完全支配はできない。だが、領域という器を通じて呪力の総量を一時的に増幅させることは可能だ。

 

 虎杖悠仁の生得領域内で領域展開が発動できる事は既に確認できている。ただしそれは内部闘争の折、虎杖が自ら領域へ降り立った場合のみだった。今は違う。虎杖の意識は外界にある。だが宿儺は躊躇しない。外界へ直接干渉するのではない。内側で膨らませた呪力を、虎杖自身の“流れ”へ紛れ込ませるだけだ。

 

 支配ではない。

 

 循環。

 

 乗っ取りではない。

 

 重ね合わせ。

 

 宿儺は千年前、羂索が自らに施した呪物化の術理を学び取り、己のものとしていた。魂を刻み、媒体へ宿す技法。今回は肉体を丸ごと変える必要はない。極小でいい。標的が噛み付く一点に、己の存在を凝縮させる。

 

 外界で、虎杖の右手が振るわれる。直哉の歯が迫る。

 

 その刹那。

 

 宿儺は呪力を虎杖の経絡へ流し込む。虎杖の如来神掌の“流れ”に沿って、逆らわず、ただ寄り添うように滑り込ませる。丹田から肩へ、上腕から前腕へ、そして末端へ。

 

 右手。

 

 小指。

 

 そこへ収束。

 

 虎杖悠仁の小指が、ドス黒く、だが薄っすらと金色に染まる。血と同化するように色が滲み、瞬間的に位相が変わる。呪力が凝固し、魂の断片が宿る。

 

 外界で歯が食い込む。

 

 肉が裂ける。

 

 骨が砕ける。

 

 直哉の口内へ、小指の先が呑み込まれる。

 

 「ぐっ……!」

 

 虎杖悠仁が肘打ちを禪院直哉に叩き込み、地面を削りながら距離を取った。衝撃は確かに通っている。顎は砕け、頸椎に歪みが走り、常人であれば即座に意識を失う打撃だ。それでも——倒れない。踏み止まる。九陽神功の“流れ”が壊れた骨格を無理やり繋ぎ、筋肉を締め上げ、立つという行為だけを強制している。

 

 「へは……っ」

 

 嗤い声が漏れる。

 

 だが、その音色はもう直哉のものではなかった。喉の奥で擦れるような低さと、嘲るような湿り気を帯びた笑いが、空気をじわりと歪ませる。周囲の粉塵が微かに揺れ、重力とは別の圧に押し下げられる。

 

 「直哉……?」

 

 真希が身構える。手にした武器をわずかに引き、重心を落とす。彼女の目は既に敵を見ているが、その内側で“別の何か”を警戒しているのが分かる。先程までの再生する男とは質が違う。気配が変質している。

 

 「ふふふふふふ……あなたから出てきてくれるなんてね」

 

 頼光が笑う。黒い雷が彼女の周囲を這い、空気が焦げるような匂いを放つ。愉悦と戦意が混ざり、瞳が獲物を捉えた獣のように細まる。千年前より数多の怪異を屠ってきたその感覚が、今ここに現れた“それ”を明確に捉えていた。

 

 「は?」

 

 虎杖だけが一瞬遅れる。千切れた小指を見て、直哉を見る。次いで、自身の内側を探る。いつもなら確かにそこにあるはずの重さ、あの圧、あの不快な存在感が——ない。

 

 空っぽ。

 

 違和感。

 

 そして理解。

 

 「……マジかよ」

 

 乾いた声が漏れる。状況を把握した瞬間、背筋に冷たいものが走る。自分の内側にいたはずの存在が、外へ出たという事実。それが何を意味するか、考えるまでもない。

 

 「小僧」

 

 顔が上がる。

 

 禪院直哉。

 

 いや——直哉だったもの。

 

 蒸気を上げながらその肉体が変わる。皮膚の下で何かが蠢き、次の瞬間、黒い禍々しい紋様が浮かび上がる。墨を流し込んだようなそれは筋繊維に沿って広がり、脈動する。九陽神功の金色の“流れ”と宿儺の呪力が混ざり合い、異質な輝きを放つ。

 

 脇腹が裂ける。

 

 内側から腕が生える。骨が伸び、肉が裂け、血を撒き散らしながら新たな腕が二本、強引に形を成す。筋肉が巻き付き、皮膚が閉じ、指が動く。その動作に痛みはあるはずだが、そこにあるのは歓喜だけだ。

 

 頭部にも変化が及ぶ。滑らかだった頭皮に、淡いピンクの髪が生え始める。根元から一気に伸び、逆立つ。そして新たな瞳が二つ、元からあった瞳の下に現れ、顔の右側は歪に変形した骨が皮膚上に剥き出しに現れた。眼窩の位置が僅かにずれ、四つの視線が同時に動くたび、周囲の空間が微かに軋む。

 

 腹が裂ける。

 

 肉が左右へ開き、その奥から牙を持つ口が現れる。唇が裂け、歯列が並び、舌が蠢く。人間の構造から逸脱した異形が、完全に顕現する。

 

 「やはりこの肉体、生の実感を得なければ闘争は愉しめないな」

 

 声が変わる。

 

 低く、重く、響く。

 

 それだけで空間が震える。圧が増し、呼吸がわずかに重くなる。周囲の空気が“従う”ように沈む。

 

 両面宿儺。

 

 呪いの王が、そこに立っていた。

 

 「宿儺……!お、お前そんなことできたんかよ!!!!!!」

 

 虎杖が叫ぶ。怒りと驚愕が混ざった声。拳が自然と握られる。だがその一方で、視線は逸らさない。目の前の存在が、今までとは比べ物にならない脅威であることを理解している。

 

 宿儺はゆっくりと首を回す。関節が鳴る。新しく得た肉体の感触を確かめるように、指を握り、開き、脚へ力を込める。九陽神功の“流れ”がその動きに応じて巡り、即座に最適化される。

 

 「小僧、お前の(肉体)も悪くはなかったが……」

 

 一歩踏み出す。

 

 地面が沈む。

 

 「やはり、壊れぬ肉体というのは良い」

 

 口角が吊り上がる。

 

 四つの腕がゆっくりと広がる。黒い紋様が脈打ち、金色の循環と混ざり合い、異様な調和を見せる。

 

 その瞬間。

 

 場の支配権が、完全に移った。




五条「そうかそうか、そういうことかー!!」

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