武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
呪霊に近づいた俺は、そっと掌をその肉へ添えた。
叩きつけるわけでもなく、押し込むわけでもない。ただ触れるだけの距離で、指先から掌までを静かに密着させる。さっきまでの俺なら、ここで力任せに殴っていたはずだし、速度と重さでねじ伏せるのが一番手っ取り早いと考えていたはずだが、今は違う。触れるという行為そのものに意味があると、身体が理解している。
掌越しに伝わってくる感触は、ひどく不快だった。
生き物の肉とも違う。
硬さも柔らかさも一定じゃなく、ぬめりとざらつきが混ざり合ったような異様な感触で、触れているだけで拒絶したくなる。それでも、俺の意識は一切揺れない。外側の感触よりも、内側を流れるものの方がはっきりと感じられていたからだ。
呼吸を整える。
吸う。
吐く。
その一連の動きに合わせて、身体の奥を巡る流れが自然と加速する。背骨の内側から胸へ、肩へ、腕へと、途切れることなく繋がった道を何かが滑るように走っていく。その流れは滞らない。途中で詰まることも、揺らぐこともない。経絡が開いたことで、全身が一つの回路として機能しているのがはっきりと分かる。
「
静かに呟く。
技名を口にした瞬間、流れが一段深くなる。
「『仏光初現』」
掌から、何かが放たれた。
それは衝撃ではない。
圧力でもない。
目に見える形を持たないまま、確かにそこから流れ出ていく。
呪力だ。
だが、ただの呪力ではない。
俺の中には二つの要素がある。一つは両面宿儺の指を取り込んだことで得た、濃密で粘つくような負の呪力。そしてもう一つは、経絡が開いたことで巡り始めた俺自身の『流れ』だ。その二つが今、掌の中で混ざり合い、呪力が反転する。
負が反転する。
黒が裏返る。
内側で渦を巻いていた重いものが、一気に軽く、澄んだ性質へと変わる。
正の呪力。
それが、掌から呪霊の内部へと流れ込んでいく。
呪霊が反応する。
びくりと震え、表面が波打つ。まるで異物を流し込まれたかのように、内部で何かが軋む音がする。だが俺は手を離さない。そのまま流し続ける。押し込むのではなく、あくまで通す。水路に水を流すみたいに、自然な形で送り込む。
呪霊の内部構造が、はっきりと分かる。
どこに呪力が溜まっているのか。
どこが核になっているのか。
どこへ流せば崩れるのか。
すべてが見える。
経絡を開いたことで、俺の中で覚えていたすべての型と理屈が、一つに繋がった。今までは形だけ真似していたものが、意味を持って動き始める。呼吸、姿勢、踏み込み、掌の角度、そのすべてが無駄なく一致し、最短距離で結果へと至る。
俺はただ、それをなぞるだけでいい。
呪霊の身体が内側から膨らむ。
逃げ場のない場所へ、正の呪力が満ちていく。
外へ発散することも、受け流すこともできないまま、内部に溜まり続ける。
そして。
限界を迎えた。
破裂。
音は遅れてやってきた。
ボン、と鈍い衝撃が掌越しに伝わり、その直後、呪霊の身体が内側から弾け飛ぶ。肉片が四方へ飛び散り、黒い液体が霧状に広がる。だがそれらはすぐに力を失い、空中で崩れるように消えていった。
俺はゆっくりと手を下ろす。
掌に残る感触は、もう何もない。
ただ、静かな余韻だけが残っていた。
経絡を開いたことで、俺の中にあったすべての技はようやく意味を持った。今までは形をなぞっていただけだったものが、今は確かな理として機能している。
理解した。
これは武術であり、同時にそれ以上の何かだ。
俺は息を吐く。
身体の中を巡る流れは、まだ止まらない。
「何をしたんだ?」
伏黒が警戒を解かないまま、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。その足取りは慎重で、いつでも距離を取れるように重心が低く保たれていた。視線は俺から外れない。さっきまでと同じ相手だと理解していながら、それでも同一視できない何かを感じている、そんな顔だった。
「正の呪力を直接流し込んだんだ。呪霊の弱点だろ?」
俺は軽く肩をすくめて答える。説明としてはそれで十分だったし、今の俺にはそれ以上でもそれ以下でもない単純な事実だった。
「なに……?」
伏黒の眉が寄る。
「た、確かにそうだが——」
言葉が続かない。理解と現実が噛み合っていない顔だ。
(なんなんだこの雰囲気は……それに正の呪力だって?今さっき呪力に触れた男がなぜそれを?)
声には出さないが、考えていることは手に取るように分かる。
無理もない。
ついさっきまで、俺は呪力なんてものを知らなかった。存在を認識してすらいなかった人間が、いきなりその性質を理解して扱っているように見えるんだから、普通なら意味が分からないはずだ。
俺はそのまま、通路の窓から外へ視線を向けた。
夜の空気が冷たい。
壊れた校舎の隙間から風が入り込み、血と埃の匂いを運んでくる。その流れの中に、別の気配が混ざっているのを感じた。さっきまでの呪霊とは比べ物にならない、もっと濃くて、もっと重くて、しかし妙に澄んだ気配。
強い。
単純にそう思う。
「……呪術規定に基づきお前を呪いとして祓わないといけない」
伏黒が何か言っている。
だが、頭に入ってこない。
耳には届いているのに、意味として処理する前に流れていく。今はそれどころじゃない。来る。確実にこちらへ向かってくる気配がある。それも、さっきの呪霊とは質がまるで違う。
人だ。
それも、ただの人間じゃない。
俺はその気配に集中する。
どこから来る。
速い。
気配の移動が滑らかすぎて、まるで最初からそこにいたみたいに錯覚する。
そして。
「や!これどういう状況?」
軽い声が、上から降ってきた。
風を切る音すらほとんど立てずに、壊れた壁の隙間から一人の男が舞い降りる。白い髪。目元を覆う黒い布。だがその佇まいから発せられる圧は、隠しようもなく強烈だった。軽薄な口調とは裏腹に、存在そのものが場を支配している。
強いな。
直感でそう分かる。
「な!五条先生!」
伏黒の声が一段上がる。
知り合いらしい。
「来る気なかったんだけどさ、流石に特級呪物が行方不明となると上が五月蝿くてね」
男は肩をすくめながら、周囲を見渡す。その動きは余裕そのもので、まるで危機感がない。だがそれは油断じゃない。余裕で対処できるという確信があるからこその振る舞いだ。
「観光がてら馳せ参じたってわけ」
軽く笑う。
「いやぁ——ボロボロだね、二年のみんなに見せよーっと」
そう言いながらも視線は鋭く、状況を一瞬で把握しているのが分かる。
そして。
「で、見つかった?」
その問いに、俺はあっさり答えた。
「俺が食べた」
間があった。ほんの一瞬。
「マジ?」
男が言う。軽い。けど、興味はしっかり向いている。
「マジです」
伏黒が頷いた。
その瞬間、空気がほんのわずかだけ変わった。
「んー?」
五条と呼ばれた男が、目隠し越しに俺をじっと見ている。視線は遮られているはずなのに、不思議と真正面から見抜かれているような感覚があった。軽く首を傾げる仕草も、口元の笑みも崩れていないのに、その奥で何かを精密に測っているような、そんな鋭さがある。
「ははっ、本当に混じってるよ(これは——)」
男は楽しそうに言った。
「身体に異常は?」
軽い調子の問いだったが、その実、かなり核心を突いている質問だった。俺の中にあるもの、その状態、その安定性を一瞬で見抜いた上で確認している。
「特にないです」
俺はそのまま答える。
違和感はない。
さっきまでの戦闘の名残で身体は血まみれだが、内側はむしろ整っている。流れは途切れていないし、呼吸も安定している。異物が混じっている感覚もない。ただ一つ、確かに何かがいるという認識だけが、はっきりと存在している。
「宿儺に替われる?」
その言葉に、俺は一瞬だけ思考を巡らせた。
宿儺。
あの指に宿っていた存在であり、俺の中で目を覚ました男。圧倒的で、傲慢で、そしてどこか底知れない力を持っている奴。あの領域の中で対峙した時の感覚は、まだはっきりと残っている。
恩人、という言葉が頭をよぎる。
皮肉な話だが、あいつがいなければ俺はあそこまで追い込まれることもなく、経絡が開くこともなかった。結果だけ見れば、あの状況があったからこそ今の俺がある。
だが。
だからといって、肉体を渡す理由にはならない。
「無理だ」
俺は主導権を手放すつもりはない。
ほんの少しだけ意識を内側へ向ける。
黄金の水面。
蓮の葉が揺れる。
その上に立つ影。
「『小僧ーーーーっ!!!!!』」
案の定、めちゃくちゃキレていた。
さっきまでの余裕はどこへやら、完全に怒鳴り散らしている。骨の山も玉座も関係なく、蓮の上で地団駄を踏みそうな勢いで叫んでいるその姿は、ある意味安心できる光景だった。
元気そうだな。
俺はそう判断して、意識を戻す。
「宿儺はしっかり閉じ込めてる」
五条に向き直って言う。
「何があっても出ることはない」
言葉に迷いはない。
実際にどうなるかなんて分からない部分もあるが、少なくとも今の状態で主導権を渡す気は一切ないし、渡さないだけの手応えもある。あの領域の中で感じた支配の感覚が、まだしっかりと残っている。
「へぇ……すごいね」
五条は感心したように笑う。
だが、その声の奥にはわずかな興味と警戒が混ざっているのが分かる。完全に信用しているわけではない。むしろ、信用するための材料を集めている段階だ。
「でもやっぱり安心はできないよね」
軽く言う。
それが現実だ。
特級呪物を取り込んだ人間なんて、さっきも伏黒が言っていたが、普通なら即処分対象だろうし、こうして話していること自体が異常なんだと思う。
「ついてきてもらっていいかな?」
問いというより確認だった。
拒否権がないわけじゃないが、ここで断る理由もない。
俺は一瞬だけ考える。
今の俺なら、逃げることもできるかもしれない。目の前のこの男がどれだけ強いかは分からないが、少なくともただの相手じゃないのは確実だ。それでも、今の俺の状態ならどうにかなる可能性はある。
ただ。
逃げる意味がない。
呪術だの呪霊だの、まだ分からないことだらけだし、この世界のルールも知らない。だったら、知っている側についていった方が早い。
それに。
この男。
強い。
単純に興味がある。
俺は軽く頷いた。
「あぁ」
短く答えると、五条は満足そうに笑った。
そうして虎杖悠仁は、五条悟と伏黒恵に連れられ、呪術という世界へと足を踏み入れた。
それは表の社会とは完全に切り離された、常人には知覚することすらできない領域であり、同時に人知れず人命が失われ続けている現実そのものでもあった。呪霊、呪物、呪術師という概念は、日常の裏側で静かに存在し続けており、関わらなければ一生触れることのない世界である。だが虎杖悠仁は、すでにその中心へと踏み込んでしまっていた。
両面宿儺の器。
その事実だけで、彼の扱いは決定される。
秘匿死刑。
すなわち、表には一切記録されず、呪術界の内部のみで処理される死刑が既に決まっていた。理由は単純で、両面宿儺という存在があまりにも危険であり、放置することが許されないからだ。だが同時に、宿儺の指という呪物は回収しなければならない。それゆえ虎杖悠仁は、すべての指を取り込ませた後に処刑されるという、極めて特殊な扱いを受けることとなる。
その現実を知った上で、虎杖悠仁は静かに座っていた。
場所は、夜の公園。
人影はなく、街灯の白い光だけがベンチを照らしている。風がわずかに木々を揺らし、葉擦れの音が遠くに響く。その中で、五条悟と虎杖悠仁は並んで座っていた。
「亡くなったのは?」
五条が問いかける。
軽い調子に聞こえるが、内容は真っ直ぐだ。
「
虎杖は答える。
「俺の親みたいな存在だった」
短い言葉だったが、そこには確かな重みがあった。育ての親であり、唯一の家族だった存在。その死を受け止めきれていないわけではないが、完全に消化できているわけでもない。
「そうか」
五条は一瞬だけ言葉を止めた。
「すまないね、そんな時に」
その後に続く言葉も、やはり軽い。
だが、必要以上に踏み込まない配慮がそこにはあった。
「で、どうするか決まった?」
話は本題へと移る。
虎杖は少しだけ視線を落とし、考えるように間を置いた。
「呪いの被害は結構あるのか?」
問い返す。
五条は空を見上げながら答えた。
「あるよ」
淡々とした口調だった。
「怪死者、行方不明者は年10,000人。そのどれもが大体呪霊による被害と言われてる」
現実離れした数字。
だが、それが現実だ。
「今回はかなり特殊なケースだけど、被害の規模で言ったらザラにあるかな」
夜空を見上げたまま、五条は続ける。
「呪いに遭遇して普通に死ねたら御の字、ぐちゃぐちゃにされても死体が見つかればマシってもんだ」
救いのない言葉だった。
事実だけを並べた、飾り気のない現実。
虎杖はそれを聞いて、静かに頷く。
「ふむ」
短く返すが、その内側では様々なものが巡っていた。
祖父の死。
オカルト研究会の先輩たちの姿。
そして、自分の中にいる存在。
あの領域で感じた圧倒的な悪意と力。
「宿儺の指を捜索するとなれば凄惨な現場を見ることもあるだろうし、君がそうなってしまう可能性もあるかもしれない」
五条はあっさりと言う。
「ま、好きな地獄を選んでよ」
選択を委ねる言葉。
だが、実際には選べるものは限られている。
虎杖はゆっくりと息を吐いた。
そして、思い出す。
『お前は強いから人を助けろ』
祖父の最後の言葉。
その声は、今でもはっきりと残っている。
迷いはなかった。
「指……持ってるか?」
虎杖が言う。
「ん?持ってるよ」
五条はポケットから一本の指を取り出した。
「とりあえず一本」
それは先ほどと同じ、禍々しい気配を放つ呪物だった。
虎杖はそれを受け取る。
躊躇はない。
そのまま、口に入れる。
飲み込む。
「躊躇ないね」
五条が軽く笑う。
「もう
虎杖は淡々と答えた。
冗談でも虚勢でもなく、ただの事実として。
「へぇ……」
五条は興味深そうに言う。
「宿儺はどうだい?」
虎杖は一瞬だけ目を閉じ、意識を内側へ向ける。
黄金の水面。
蓮の上。
そこにいる存在。
「再戦したがってるよ」
そう答えると、五条は小さく笑った。
こうして虎杖悠仁は、呪術高専の一年生として編入することになる。
その先に待つのは、数えきれない死と呪い。
そして、それに抗い続ける戦いの日々だ。
達観した性格に大変化。
如来虎杖の肉体を巡る呪力とは違うエネルギー。純粋な生命から生み出される正真正銘の“正”の力なんですが、祝力とか聖力とかで良いとは思うんですが、この話では『流れ』と表現してます。特に深い意味はないです。『気』でもよかったんですが、なんかイマイチだったんで……