武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
鹿紫雲一。
現代から四百年前、江戸時代において最強と謳われた術師である。
仙台コロニーに滞留していた伊達藩の歴史上最大の呪力出力を持って生まれた術師、“大砲”石流龍とは同じ時代を生きたが、鹿紫雲が既に老齢であったこと、そして互いの距離があまりにも離れていたことによって、二人が実際に刃を交えることはなかった。
だが、それは鹿紫雲にとって長い生涯の中で燻り続ける小さな悔恨でもあった。強者と戦えなかった。満たされなかった。ただ勝つだけの戦いを積み重ね、誰にも届かれないまま老いていく時間は、誇りであると同時に腐った蜜のような退屈でもあった。
生得術式は『幻獣琥珀』。
電気と同じ特性を持つ己の呪力から変換可能なあらゆる現象を実現するために、肉体そのものを作り変える術式である。
脳内の電気信号を活性化させることで敏捷性を飛躍的に向上させ、物質の固有振動数へ最適化し同調する音波を発し、照射された対象を蒸発させる電磁波を放ち、さらにX線によって対象の肉体構造を解析することさえ可能とする。
その力はあまりにも強大であり、人間の肉体という器を逸脱しているが故に、術式終了後には使用者の身体が崩壊する。つまり鹿紫雲一にとって『幻獣琥珀』とは、勝つための術式ではなく、己の生涯を終わらせるに値する相手へ捧げる最後の闘争だった。
だからこそ、鹿紫雲は宿儺を前にして笑っていた。
「術式解放」
青白い雷光が全身を駆け巡り、皮膚の表面を這う電流が空気を焼く。髪が逆立ち、瞳孔が細く収縮し、神経伝達そのものが人間の反応速度を遥かに超えた領域へ引き上げられていく。筋肉は電気信号によって暴力的に励起され、骨格の隙間には熱が溜まり、肺へ吸い込む空気すら金属の味を帯びていた。だが鹿紫雲は、その肉体の悲鳴すら心地良いと感じている。死ぬかもしれない。壊れるかもしれない。だからこそ、ようやく生きている実感があった。
鹿紫雲の電気を纏った棍が振るわれる。
対して宿儺は、ただ無造作に腕を前へ配置した。構えというには雑で、迎撃というには余裕があり過ぎる動作だったが、その腕には呪力と九陽神功によって鍛え抜かれた肉体の密度が宿っていた。禪院直哉の肉体を奪い完全受肉した宿儺の四本腕、その一本が軽く前へ出されただけで、周囲の空気が押し潰される。筋肉の奥では金色の“流れ”が脈動し、黒い呪力の紋様と絡み合いながら異様な圧を放っていた。
激突。
雷光と衝撃が弾け、周囲を照らした。
棍と腕が触れた瞬間、青白い電流が宿儺の肉体へ殺到し、皮膚表面を焼きながら内部へ侵入しようとする。通常の術師なら神経を焼かれ、筋肉の制御を奪われ、心臓を痙攣させられて終わる一撃だった。しかし宿儺は僅かに眉を動かしただけで、前へ出した腕の筋肉を膨張させた。九陽神功の“流れ”が経絡を駆け巡り、侵入してきた電撃を肉体内部で受け止め、逃がし、散らす。直後、宿儺の足元から同心円状に衝撃が走り、砕けた道路が一段沈み込んだ。
「いいな」
宿儺が笑う。
その声音には確かな愉悦があった。棍を受け止めた腕の皮膚は焼け、黒く焦げ、細かな煙を上げている。だが傷は次の瞬間には内側から再生し、焦げた皮膚片が剥がれ落ちる前に新しい肉が盛り上がっていた。その再生速度、肉体強度、呪力制御、その全てを鹿紫雲は一瞬で読み取る。X線じみた感覚が宿儺の骨格、筋肉密度、臓器配置、呪力循環、そして“流れ”の軌道を解析し、脳へ情報を叩き込んだ。
怪物だった。
鹿紫雲の笑みが深まる。
「そうこなくちゃな、宿儺!!」
鹿紫雲は棍を押し込むのではなく、即座に引いた。反発する電磁力を利用して自分の身体を後方へ滑らせ、次の瞬間には斜め上から再び降下している。棍の先端が振動し、宿儺の肉体固有振動数へ同調する音波が放たれた。目には見えない波が空気を震わせ、周囲の瓦礫が粉々に砕ける。人体であれば内臓から破裂する攻撃だったが、宿儺は今度も避けず、四本の腕の内二本を交差させて真正面から受け止めた。
重い衝撃音が鳴る。
宿儺の上半身が僅かに沈み、足元のアスファルトが蜘蛛の巣状に割れる。だがその顔は笑っていた。鹿紫雲の音波が肉体内部へ侵入しようとする寸前、宿儺は呪力を肋骨周辺へ集中させ、さらに“流れ”を逆方向へ走らせることで内部振動を強引に相殺していた。理屈ではなく、肉体と感覚による暴力的な対応である。
「小賢しいが悪くない」
「まだまだだ!」
鹿紫雲が踏み込む。青白い雷が脚部へ集中し、筋肉が限界を超えて跳ね上がった。速度が変わる。視界から消えるのではない。認識の隙間へ滑り込むような、神経伝達そのものを置き去りにする加速だった。宿儺の左側面へ回り込んだ鹿紫雲は、棍を短く持ち替え、肋骨の隙間へ突き込む軌道を描く。
だが宿儺の四つの瞳は、既にそこを見ていた。
「見えているぞ、亡霊」
宿儺の肘が落ちる。鹿紫雲の棍と肘が衝突し、雷光が爆ぜ、金属が軋むような音が鳴った。棍は弾かれる。だが鹿紫雲は弾かれた力をそのまま利用し、身体を回転させ、踵へ電流を纏わせて宿儺の側頭部へ蹴りを放つ。宿儺は笑いながら首を傾け、蹴りを紙一重で避けると、空いた腕で鹿紫雲の腹へ拳を打ち込んだ。
鹿紫雲の身体が吹き飛ぶ。
瓦礫を幾つも貫通し、崩れかけたビルの壁面へ叩き付けられた。肺から空気が押し出され、背骨が軋み、口内へ血の味が広がる。だが鹿紫雲はすぐに笑った。痛みがある。損傷がある。死へ近付いている。それなのに、胸の奥は燃えるように熱い。
満たされている。
その感覚を噛み締める間もなく、宿儺がゆっくりと歩いてくる。四本の腕を解き、獣のような笑みを浮かべ、鹿紫雲の次の手を待っている。王が挑戦者を迎え入れるように、あるいは獲物がようやく爪を立てたことを喜ぶように。
鹿紫雲は血を吐き、棍を握り直した。
「最高だ、宿儺」
「ならばもっと見せろ」
宿儺が言った。
その瞬間、鹿紫雲の全身から雷が更に激しく迸る。肉体の崩壊は既に始まっている。筋繊維が焼け、皮膚の下で血管が弾け、骨の奥が軋んでいた。それでも鹿紫雲一は止まらない。四百年求めた答えが、今この闘争の中にあると知ってしまったからである。
鹿紫雲が踏み込むと同時に大地が砕け散った。足裏から解き放たれた電流が蜘蛛の巣状に地面を走り、砕石を弾き飛ばしながら周囲へ広がっていく。幻獣琥珀によって極限まで活性化された神経伝達は既に人間の領域を超えており、筋肉は電気信号を受ける度に爆発的な出力を生み出していた。その結果として生じる加速はもはや移動ではない。視界から消えるほどの速度で前進した鹿紫雲の姿は雷鳴と共に宿儺の眼前へ出現し、握られた棍が大気を引き裂きながら振るわれる。
「フッ!!」
振り下ろされた一撃には膂力だけではなく、振動、電流、呪力、その全てが凝縮されていた。空気が裂け、周囲の瓦礫が衝撃だけで粉砕される。しかし宿儺は慌てない。四本ある腕の一本を伸ばし、まるで飛んできた枝でも摘まむかのような自然さで棍を掴み取った。電流が一気に宿儺の腕へ流れ込み、青白い火花が夜空を照らし出すが、その表情に焦りは微塵もない。
宿儺は掴んだまま反対側の指を軽く振る。
その動作はあまりにも小さい。
だが結果は凄絶だった。
不可視の斬撃が空間を走る。鹿紫雲の棍は中央から真っ二つに断ち切られ、そのまま延長線上に存在していた鹿紫雲の胸部まで到達した。皮膚が裂け、筋肉が断たれ、鮮血が噴水のように噴き出す。肋骨の一部が露出し、飛び散った血が電流に焼かれて赤い蒸気へ変わった。
それでも鹿紫雲は止まらない。
痛みに顔を歪めることなく、そのまま前蹴りを放つ。宿儺の腹部へ叩き込まれた蹴撃は鈍い衝撃音を響かせ、反動によって鹿紫雲の身体は後方へ跳ねた。着地した瞬間、砕けた道路へ深い亀裂が刻まれる。胸の傷口から血が流れ続けているにもかかわらず、鹿紫雲の口元には笑みが浮かんでいた。
そして変形した口を宿儺へ向ける。
人間の構造を逸脱した器官が形成され、その内部では莫大な電流が収束していた。筋肉が脈打ち、骨格が軋み、幻獣琥珀によって作り変えられた肉体が破壊的なエネルギーを吐き出そうとしている。
「ガッ!!!」
咆哮と共に電磁波が放たれた。
目には見えない破壊が一直線に宿儺へ殺到する。進路上に存在した瓦礫は瞬時に蒸発し、鉄骨は赤熱化しながら崩壊した。空気そのものが焼け付き、景色が歪む。通常の術師なら防御を試みることすら許されず消滅するだろう。
だが宿儺は動かない。
避けもしない。
防ぎもしない。
ただ真正面から浴びた。
「ケヒッ」
電磁波が直撃した瞬間、宿儺の胸部から肩口にかけての肉体が蒸発する。皮膚が消え、筋肉が焼失し、白い骨格が露出した。焼けた血液が蒸気となって立ち昇り、周囲へ焦げ臭い匂いが広がる。しかし次の瞬間、その損傷部位から金色の光が溢れ出した。体内を巡る“流れ”が経絡を駆け抜け、同時に発動した反転術式が失われた組織を再構築していく。蒸発したはずの肉が盛り上がり、筋繊維が編み直され、皮膚が再生するまでに要した時間は一瞬だった。
鹿紫雲は目を細める。
幻獣琥珀によって強化された感覚器官が、その異常な再生現象を余すことなく観測していた。呪力だけではない。金色の“流れ”が反転術式を補助し、再生効率を飛躍的に引き上げている。
怪物だ。
本物の。
宿儺は再生を終えた胸部を軽く見下ろし、再び鹿紫雲へ視線を向けた。
「お前の術式、命を代償に絶大な力を得るものだな」
鹿紫雲は血を吐く。
胸部の裂傷は深く、幻獣琥珀による肉体変質も確実に身体を蝕んでいた。それでも瞳の輝きは失われない。
「グフッ……あぁそうだよ。使ったのはお前が初めてさ」
その返答を聞いた宿儺の口元が吊り上がる。
愉悦だった。
死を覚悟しながらなお前へ進む者。己を燃料に変えてまで闘争を求める者。その在り方は宿儺にとって理解不能でありながらも、確かに興味を惹くものだった。
夜空を雷光が照らす。
二人の怪物は再び構えた。
二人の姿が一瞬で掻き消え、腕同士が真正面から激突する。鹿紫雲の肉体を駆け巡る青白い電流と、宿儺の禍々しい呪力がぶつかった瞬間、圧縮された衝撃が球状に膨れ上がり、周囲数百メートルの大地をまとめて抉り飛ばした。砕けた道路は紙細工みたいに捲れ上がり、遠方に残っていたビルの残骸は余波だけで両断される。雷鳴と斬撃音が重なり合う轟音の中心で、二人は互いの腕を押し合ったまま一歩も退かなかった。
「だが惜しいな、これほどまでの力を手にしながら一回だけとは」
宿儺が鹿紫雲へ顔を近付けながら笑う。四つの瞳には侮蔑ではなく純粋な愉悦が宿っていた。己を楽しませる可能性を持つ者へ向ける視線であり、それ故に宿儺は惜しむように言ったのである。
そして次の瞬間、世界が静止した。
轟音が消える。
風が止む。
崩壊した京都も、飛び散る瓦礫も、互いを焼く呪力も消失する。
それは呪力同士が極限まで干渉した際に極稀に発生する現象だった。呪力とは感情から生まれる力であり、人の魂そのものに近い。故に強烈な意志と感情を持つ者同士が深くぶつかった時、その内面が一瞬だけ交錯することがある。
鹿紫雲が気付けば、そこは江戸だった。
乾いた風が吹いている。
広大な田畑が黄金色に揺れ、夕陽が空を赤く染め上げていた。遠くには小さな農村が見え、煙突から立ち上る煙が穏やかに流れている。
鹿紫雲は年老いていた。
皺だらけの手。
衰えた肉体。
戦いに明け暮れた年月を刻み込んだ身体。
しかし、その瞳だけは変わらない。強者を求め続けた獣の光が宿っていた。
背後には宿儺が立っている。
平安の怪物は腕を組みながら夕焼けを眺めていた。その姿は王であり、鬼神であり、あるいは全てを見下ろす観測者にも見える。
「多くの猛者達が貴様に挑んだはずだ。全身全霊でな」
宿儺が静かに言う。
鹿紫雲は否定しない。
その言葉と共に記憶が蘇る。若き天才、名を馳せた剣豪、己の流派を極めた術師、国一番と謳われた豪傑。誰もが誇りを持ち、己の全てを賭けて鹿紫雲へ挑んできた。
強かった。
だが届かなかった。
勝利を重ねる度に周囲との差は広がり、気付けば隣に立つ者は誰もいなくなっていた。
「貴様は俺にどう他者と関わり慈しむかを問うたが、これが慈愛でなく何だというのだ」
宿儺が前に立ち、振り返る。
夕陽を背負ったその姿は、皮肉にも説法を行う菩薩のようだった。
「俺達は“強い”というだけで愛され、愛に応えている」
鹿紫雲は眉を僅かに動かした。
宿儺は続ける。
「弱者は強者へ憧れる。挑みたいと思う。越えたいと願う。その想いを受け止めることこそ慈愛だ。俺は挑む者を拒まん。喰らい、壊し、殺し、全力で応える」
その言葉に嘘はない。
宿儺は一度たりとも手加減しない。
だからこそ挑戦者へ最大限の敬意を払っているとも言えた。
鹿紫雲は静かに問い返す。
「宿儺、アンタはなぜ魂を切り分け呪物となってまで時を渡った?」
「さっきも言っただろう」
宿儺が笑う。
その笑みは酷く単純だった。
「己が強者であると信じているならば、やる事は一つしかない」
四本の腕を広げる。
まるで世界そのものを抱き締めるように。
「俺は闘争を好む。一切合切を喰らい尽くしたい程にな」
鹿紫雲はしばらく黙っていた。
夕陽が沈みかける。
長い人生を振り返るように空を見上げた後、ようやく口元を緩める。
「……飽きるだろ」
その問いに宿儺は一瞬だけ目を細めた。
そして次の瞬間、腹の底から笑い声を響かせる。
「クックックッハッハッハッハッハ……飽きる?」
宿儺は愉快そうに肩を揺らした。
「空腹に飽きるか?呼吸に飽きるか?生きることに飽きるか?」
怪物の答えは、あまりにも単純だった。
「俺は
その言葉と共に夕焼けの世界が崩れ始める。
そして二人の意識は再び現実の戦場へ引き戻されていった。
宿儺の拳が鹿紫雲の頬目掛け飛ぶ。振り抜かれる軌道上の空気そのものが圧縮され、接触する前から周囲へ衝撃波が広がったが、鹿紫雲は一歩も退かなかった。幻獣琥珀によって極限まで活性化された神経が宿儺の動きを捉え、その掌が流れるように前へ伸びる。真正面から受け止めるのではなく、包み込むように拳へ触れ、流れを逸らしながら横へ払うと同時に腰を深く捻り、全身の筋肉を連鎖させて雷光を纏った拳を宿儺の腹部に存在するもう一つの口へ叩き込んだ。
『黒閃』
青白い雷光の中へ黒い稲妻が混じり込む。打撃と呪力が完全に重なった瞬間、空間そのものが悲鳴を上げるように歪み、圧縮された衝撃が宿儺の腹部を貫通して背後へ炸裂した。黒い閃光は一直線に夜空へ走り、その延長線上に存在していた瓦礫の山をまとめて吹き飛ばす。地面は数十メートル単位で陥没し、崩れた道路が津波のように捲れ上がった。
「グフッ……いいぞ。いい一撃だ」
口元から血を流しながらも、宿儺は笑っていた。愉悦に満ちた四つの瞳が鹿紫雲を見据えている。腹部の肉は大きく抉れていたが、その傷口から金色の光が溢れ出し、蠢くように筋肉と内臓が再生を始めていた。反転術式だけではない。禪院直哉の肉体に宿る流れが循環し、破壊された組織を瞬く間に修復しているのである。
鹿紫雲は追撃へ移ろうとした。
だが、その瞬間だった。
宿儺の腹筋が収縮する。
抉れた肉体が巨大な顎のように閉じ、黒閃を叩き込んだ鹿紫雲の腕を固定した。筋肉が鋼鉄の檻となって絡み付き、引き抜こうとしても微動だにしない。鹿紫雲の表情が僅かに変わる。即座に電流を流し込み、筋繊維を焼き切ろうと試みるが、宿儺は意に介さない。
「捕まえたぞ」
低く告げながら、宿儺は腕を掴んだ。
万力にも等しい握力だった。
骨が軋む。
筋肉が悲鳴を上げる。
しかし鹿紫雲もまた歴戦の術師である。残る腕で肘を放ち、膝を打ち込み、頭突きすら織り交ぜながら離脱を試みる。だが宿儺は全てを受け止める。骨が砕けようと肉が裂けようと、その損傷は次の瞬間には再生していた。
そして空いた二本の腕がゆっくりと持ち上がる。
掌印。
その動作を見た瞬間、鹿紫雲の本能が警鐘を鳴らした。
危険。
そんな生易しい言葉では足りない。
今まで見たどの術式とも比較にならない何かが始まろうとしていた。
宿儺の全身から呪力が溢れ出す。漆黒の奔流は夜空を覆い尽くしながら天へ昇り、同時に金色の流れが大地の底から噴き上がった。二つの力は螺旋を描きながら収束し、宿儺という一点へ凝縮されていく。その密度は異常だった。空気は重く沈み、地面は耐え切れず罅割れ、遠方の戦場にいた者達までもが異変を察知する。
頼光が顔を上げる。
万が笑みを消す。
裏梅は恍惚と目を細めた。
五条悟と虎杖悠仁ですら、戦いの最中に一瞬だけ視線を向ける。
世界が震えていた。
怪物が本気で牙を剥こうとしている。
「見せてやろう」
宿儺が嗤う。
その声は静かだった。しかし天地全てへ響いているように感じられる。
「これが呪術の極致だ」
鹿紫雲は腕を引き抜こうと全力を込める。幻獣琥珀によって変貌した肉体が雷鳴を轟かせ、神経と筋肉が限界を超えて駆動する。しかし間に合わない。
宿儺の呪力と流れが臨界へ達した。
次の瞬間、二つの力が爆発する。
現実そのものが捲れ上がった。
大地は腐敗した肉のように脈動し、砕けた道路や瓦礫は呪力へ引き寄せられるように沈み込み、その下から無数の骸骨と髑髏が姿を現す。積み重なった死体の山は果てなく続き、視界の先には巨大な御廚子が出現した。神聖さと冒涜を同時に内包した異形の祭壇は、まるで人類が積み重ねてきた死そのものを具現化したような威容を放っている。
宿儺の口元が吊り上がった。
「領域展開——」
王が玉座へ座るように。
絶対者が己の世界を宣言するように。
「『伏魔御廚子』」
その瞬間、呪いの王国が現実へ降臨した。
鹿紫雲は反射的に飛び退いた。腕を捕らえていた宿儺の握力から逃れるために、幻獣琥珀で変質した筋肉へ更に電流を流し込み、骨が軋むほどの出力で肉体を後方へ弾き飛ばしたのである。腕の皮膚は剥がれ、筋繊維の一部は千切れ、血液は雷光に焼かれて赤黒い蒸気へ変わっていたが、鹿紫雲の判断は一瞬たりとも遅れなかった。目の前に広がるのは伏魔御廚子。結界を閉じず現実へそのまま領域を展開する、呪術の常識から外れた魔の神殿だった。
宿儺の領域に満ちる呪力は、空気の重さそのものを変えていた。
大地には骸骨と髑髏が積み重なり、巨大な御廚子が血塗れの祭壇のように聳え、見えない刃が世界の隅々まで浸透していく。鹿紫雲はその中心で掌印を結ぶ。老いた生涯の中で幾度も鍛え上げ、現代に受肉してなお身体へ刻み付けられていた呪術対抗の技術。必中へ対する古の防御手段である。
彌虚葛籠。
鹿紫雲を中心に簡易の結界が立ち上がり、宿儺の領域へ付与された必中効果を中和する。透明な膜のような呪力が全身を包み、周囲を駆け巡る斬撃の理を逸らし、肉体を即座に解体される事だけは防いでいた。だが鹿紫雲の感覚は既に理解していた。これは致命を遅らせているに過ぎない。必中を防ぐことと、宿儺を防ぐことは全く別の話である。
宿儺が歩き出す。
ただ近づいてくるだけだった。斬撃を乱射するわけでもなく、御廚子の権能で鹿紫雲を削り潰そうとするわけでもない。だが、その一歩ごとに空間が沈む。呪力と金色の“流れ”が宿儺の肉体内部で噛み合い、禪院直哉の肉体を奪った呪いの王が、完全に自分のものとしてその器を鳴動させていた。鹿紫雲の皮膚が粟立つ。死が近づいているのではない。強さそのものが歩いてくる感覚だった。
「第九式——」
宿儺が静かに構えを取った。
その掌印を見た瞬間、鹿紫雲の瞳が僅かに揺れる。見覚えがあるわけではない。だが分かる。あれは虎杖悠仁の中にいた宿儺が見続け、観察し、嘲笑しながらも学習していた武術の理。謎の古びた教本から始まり、少年が十年を掛けて身に付け、獄門疆の中であの五条悟ですらやっと会得した異常武術——如来神掌である。
「『仏法無辺』」
言葉が落ちた瞬間、伏魔御廚子の内部へ光が満ちた。それは慈悲の光ではない。救済を掲げながら逃げ道を奪い、あらゆる方向から存在を圧し潰す巨大な法そのものだった。宿儺の掌から放たれた力は、ただ前方へ進む衝撃ではなく、鹿紫雲の周囲すべてに同時に現れる。上下左右、前後、内と外、肉体と魂、その境界すら曖昧にしながら、仏の名を冠した暴力が無辺に広がっていく。
鹿紫雲は彌虚葛籠を保ったまま棍の残骸を握り締めた。幻獣琥珀は限界を迎えつつあり、神経は焼け、筋肉は裂け、皮膚の下では血管が破裂している。だが、その瞳には恐怖がなかった。四百年求め続けたものが、今、目の前にあったからである。自分を殺せる力。自分を満たす闘争。届かないと分かってなお、全身全霊で挑む価値のある怪物。鹿紫雲一が望んだ終着点は、あまりにも鮮烈な光の中にあった。
宿儺の姿が膨れ上がるように見えた。呪いの王でありながら、その背後には圧倒的な光に包まれた仏の影が立っている。もちろんそれは幻視であり、鹿紫雲の脳が死の寸前に生み出した像に過ぎない。だが、その光景は妙に腑に落ちた。強者とは孤独なのか、罰なのか、愛なのか。その問いへの答えを、宿儺は理屈ではなく闘争で示したのである。
鹿紫雲は笑った。
「満足だ」
その声は電磁波と雷鳴に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。だが鹿紫雲一にとって、それで十分だった。仏法無辺が全身を包み込み、彌虚葛籠が砕け、肉体が光の中で削られていく。骨が砕け、筋肉が千切れ、幻獣琥珀によって変貌した器官が崩壊しても、鹿紫雲の表情から笑みは消えなかった。
最後に見えたのは、宿儺の笑みだった。挑戦者を喰らい尽くし、全力へ全力で応えた怪物の笑み。その瞬間、鹿紫雲一という江戸最強の術師は、自らの生涯がようやく終わったことを知り、伏魔御廚子の光の中へ静かに消えていった。