武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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客に甘えるな。理解してくれる奴だけ探して満足しとる時点で三流や

 

 

 

 

 両面宿儺が掌印を解いた。

 

 伏魔御廚子を構成していた巨大な御廚子の幻影が音もなく崩れ去り、京都コロニーの一角を支配していた悍ましい呪力の奔流と金色の“流れ”が、まるで役目を終えた潮が引いていくように静かに薄れていく。しかし消えたのは領域だけだった。そこに刻まれた破壊の痕跡は一切消えず、半径百メートル一帯は建造物という建造物が削り取られ、道路は抉れ、鉄骨は切断され、瓦礫ですら細かな砂塵へ変えられている。人間の戦いによって生じたとは到底思えない光景であり、その中心に立つ宿儺だけが、まるで何事もなかったかのように平然としていた。

 

 宿儺の視線の先では、先程まで鹿紫雲一が存在していた場所に最後の名残だけが残されていた。青白い雷光が空気の中で小さく弾け、チリッという微かな音を残した後、夜の闇へ溶けるように消えていく。四百年前を生き、現代に蘇り、己の全てを賭して最強へ挑んだ術師の痕跡はそれだけだった。宿儺はしばらくその場所を眺めていたが、やがて僅かに口元を吊り上げる。

 

 「名は知らぬが、いい余興になった」

 

 そこに哀悼はない。だが侮蔑もなかった。強者として挑み、全力で喰らわれた者に対する、宿儺なりの評価だけが残されている。

 

 そうして腕を組みながら振り返った宿儺の四つの瞳が捉えたのは、崩壊した街路の向こうに立つ二人の男だった。一人は白髪と六眼を持つ現代最強の術師・五条悟。もう一人はかつて己の器であり、今なお宿儺を追い続ける少年・虎杖悠仁。その二人を前にしても宿儺の表情に緊張はなく、むしろこれから始まる闘争を歓迎するような愉悦だけが浮かんでいる。

 

 「小僧、準備はできたか」

 

 低く響いた声に込められていたのは殺意ではなく期待だった。ようやく辿り着いた舞台。ようやく揃い始めた強者達。宿儺にとって今この瞬間は、千年待ち続けた祭りの始まりにも等しい。

 

 しかし、その問いに対して返ってきた言葉は宿儺の予想を大きく裏切るものだった。

 

 「宿儺……とりあえず服着ないか?俺もパンイチだし、お前も全裸だしさ……」

 

 虎杖は極めて真面目な顔で言った。

 

 数秒の沈黙が流れる。

 

 宿儺の四つの瞳が僅かに細められた。

 

 「……興を削ぐなよ小僧。闘争に服などいらんだろう」

 

 「いや宿儺、服はいる」

 

 虎杖は即答した。その声には宿儺と戦う時以上の確信が込められており、あまりにも迷いがないため、一瞬だけ宿儺の方が言葉を失う。

 

 「何故だ」

 

 「何故って……」

 

 虎杖は呆れたように周囲を見渡した。遠方には頼光と裏梅と万がいる。さらに別方向には大道鋼と刃を交える真希の姿も見える。加えて目の前には五条悟が立っている。戦場とはいえ人目は十分過ぎるほど存在していた。

 

 「人がいるだろ」

 

 「だから何だ」

 

 「だから何だじゃねぇんだよ」

 

 虎杖が頭を抱える。宿儺は本気で理解できていなかった。強者を殺す理屈は理解する。闘争の意味も理解する。しかし服を着る必要性だけは心の底から理解できないのである。

 

 そんな二人のやり取りを聞いていた五条悟は肩を震わせ、やがて堪え切れなくなったように吹き出した。

 

 「ハハッ……いや確かにそれは着た方がいいでしょ。せっかく人類最強決定戦みたいな空気になってるのに、片方全裸で片方パンイチって絵面が酷すぎるよ」

 

 五条の言葉に虎杖は何度も頷く。一方の宿儺は理解不能なものを見る目で二人を見つめていたが、その周囲では既に再び呪力が脈打ち始めていた。鹿紫雲との戦いは終わった。しかし宿儺も五条も虎杖も、誰一人として戦いが終わったなどと思ってはいない。むしろ本当の意味での人外魔境超常決戦はこれから始まろうとしており、崩壊した京都の夜は再び張り詰めた緊張を取り戻し始めていた。

 

 だが、その場に張り詰めていた緊張は、次の瞬間に聞こえてきた能天気な大声によって粉々に砕かれることになる。

 

 「ごめんごめーーん待った?遥々来たぜーい!奈良ぁー!」

 

 崩壊した街路の向こうから現れた男は、まるで観光地へ到着した旅行客のような調子で両腕を振りながら走ってきた。周囲には宿儺が削り飛ばした瓦礫が積み重なり、先程まで鹿紫雲が命を燃やしていた死闘の余韻が色濃く残っているというのに、その男だけは終始変わらない調子である。背中には派手な蝶の羽が生えており、センターマンの格好は相変わらず意味不明で、どう考えてもこの戦場へ現れるべき人間ではなかった。

 

 「京都ね」

 

 五条悟が即座に訂正する。

 

 その声は妙に冷静だった。

 

 「えっ?奈良じゃないの!?」

 

 「奈良だったら大仏見えてるでしょ」

 

 「なるほど!」

 

 何一つなるほどではなかった。

 

 虎杖悠仁は思わず額を押さえる。つい先程まで宿儺と五条悟という二人の怪物を前にしていたはずなのに、目の前へ現れた芸人によって戦場の空気が根本からおかしくなっていた。

 

 「え?おじさん誰?」

 

 虎杖が率直な感想を口にする。

 

 すると髙羽史彦は胸を張り、どこから取り出したのか分からないスポットライトを自分へ当てながら得意げに顎を上げた。

 

 「変なおじさんじゃない。君の仲間さ!見ろ!格好も似てるだろう!」

 

 「いや似てねぇ……うわぁ!?なんで俺もおじさんと同じ格好に!?」

 

 虎杖の服装が何の予兆もなく変化していた。

 

 ボロボロのカーテンは消失し、いつの間にかセンターマン衣装へ変わっている。しかもサイズは完璧に調整されており、背中には色鮮やかな蝶の羽まで追加されていた。

 

 (いや待て待て!なんだ今の!?術式!?全然気づかなかったぞ!“流れ”もなにも!)

 

 虎杖は慌てて袖を引っ張り、羽を毟ろうと試みる。しかし取れない。呪力反応も感じない。違和感だけがある。

 

 その様子を見て五条は腹を抱えて笑っていた。

 

 「アハハハハッ!似合うじゃん悠仁!」

 

 「似合わねぇよ!先生まで乗るなって!」

 

 漫才じみたやり取りが続く中、宿儺だけは黙って髙羽を見ていた。

 

 四つの瞳が細くなる。

 

 つい先程まで鹿紫雲と死闘を演じていた王は、虎杖の服装が変化した瞬間を確かに見ていた。しかし術式発動の兆候はない。呪力の揺らぎもない。“流れ”の変化すら存在しなかった。

 

 結果だけが成立している。

 

 過程が見当たらない。

 

 それは宿儺にとって極めて珍しい現象だった。

 

 (小僧の格好が無拍子で変わっている……奴の術式か?)

 

 宿儺が興味深そうに髙羽を観察する。

 

 一方の髙羽は、そんな呪いの王から放たれる圧力など微塵も気にしていなかった。むしろ目を輝かせながら宿儺を指差し、何度も頷いている。

 

 「なるほどなるほど……」

 

 神妙な声だった。

 

 宿儺が眉を動かす。

 

 「……何だ」

 

 「君だ」

 

 髙羽は満面の笑みを浮かべた。

 

 「カイリキー!!!!」

 

 沈黙。

 

 風が吹く。

 

 瓦礫が転がる。

 

 そして五条悟が吹き出した。

 

 「なんでポケモン扱いなんだよ!」

 

 「腕四本あるから!」

 

 「そこだけで判断したの!?」

 

 虎杖が叫ぶ。

 

 しかし髙羽は真剣だった。

 

 宿儺を見据えたまま、ゆっくりとファイティングポーズを取る。

 

 「さあ来いカイリキー!俺はエスパータイプだから有利だ!」

 

 「貴様は芸人だろうが」

 

 宿儺が初めて呆れたような声を出した。

 

 その瞬間、虎杖も五条も思わず固まる。

 

 呪いの王がツッコミを入れたのである。

 

 そして誰よりも満足そうな顔をしていたのは髙羽史彦本人だった。次の瞬間には更なる何かを思いついたらしく、目を輝かせながら宿儺へ向かって一歩踏み出していた。

 

 (俺が奴にツッコミを入れただと?いや待て、ツッコミだと?何故そんな知識が——)

 

 受肉体であるが故に、宿儺には虎杖悠仁の内側に座していた時に眺めた現代の記憶と、現在の器である禪院直哉の脳へ刻まれていた現代知識がある。テレビ、芸人、ゲーム、漫画、流行語、そういった雑多な情報そのものは既に把握していたし、必要ならば引き出すこともできる。だが、それは今し方、髙羽史彦という理解不能な男へ反射的にツッコミを入れたこととは何の関係もなかった。そもそも両面宿儺という存在の中に、他者の戯言へ律儀に反応してやるという発想など存在しない。殺すか、喰うか、退屈ならば見逃すか、その程度で十分なはずだった。にも拘らず、宿儺の口は勝手に動き、あの男の言葉を訂正していた。

 

 (まぁいい、さっさと殺して小僧と五条悟と戦う)

 

 宿儺は胸の奥に生じた微細な違和感を、思考の端で握り潰すように捨てた。四本腕の内の一本が僅かに動き、指先が空気を撫でる。その動作はあまりにも小さく、構えと呼ぶにも値しない。しかし、そこから放たれた斬撃は紛れもなく呪いの王の術式だった。不可視の刃が空間を滑り、瓦礫の破片と粉塵を音もなく両断しながら髙羽へ向かう。斬線が通過した後には空気だけが遅れて裂け、乾いた破裂音と共に細かな石片が左右へ弾け飛んだ。

 

 『解』

 

 「ぐわああ!!」

 

 斬撃は髙羽の胴体へ命中した。瞬間、モザイクのかかった異様な血飛沫が噴き上がり、センターマンの衣装がモザイクに染まり、男の身体は大袈裟すぎるほど派手に回転しながら地面へ転がった。普通なら即死である。皮膚も筋肉も内臓も骨も、宿儺の解によって一線で切り開かれ、身体は戦闘継続どころか生命活動の維持すら不可能になるはずだった。だが、倒れた髙羽は数秒も経たない内にむくりと起き上がり、血塗れ?だったはずの身体を雑に払いながら、何故か元気そうに腰へ手を当てた。

 

 「効果は今ひとつのようだー!エスパータイプだからな!」

 

 その背後には、ゲーム画面めいた謎の文字が浮かび上がっていた。黒い縁取りのある白文字が空中に固定され、戦場の粉塵にも宿儺の呪力にも揺らがず、ただ当然のようにそこへ存在している。

 

 『こうかはいまひとつのようだ!』

 

 「なに?」

 

 宿儺の瞳が細まる。今の斬撃は外れていない。防がれてもいない。無下限のように到達を拒まれたわけでも、虎杖悠仁のように“流れ”で干渉されたわけでもない。確かに斬った。確かに血は出た。確かに倒れた。だが結果だけが捻じ曲がっている。攻撃が効いていないのではない。効いていないことになった。その不可解さは、千年を超える呪術の記憶の中でも初めて味わう種類の不快感だった。

 

 (なんだ今のは……初めての感覚だ。攻撃が効いていないのではなく、効いていないことになった)

 

 宿儺が考察へ入るより早く、髙羽はびしりと宿儺へ指を突き付けた。顔は真剣そのものだが、纏う空気だけが徹底的に場違いであり、背中の蝶の羽がやたら誇らしげに揺れている。周囲では宿儺の領域の残滓がまだ地面を黒く染め、鹿紫雲一が消えた場所には青白い雷の匂いが微かに残っているというのに、髙羽だけは休日の公園へ遊びに来た男のような調子だった。

 

 「いくぞ!よし!君に決めた!」

 

 髙羽は後ろをちらりと振り返り、そこに立つ虎杖悠仁と五条悟を確認してから、あまりにも自然な動作で叫んだ。虎杖は既にセンターマン姿に変えられており、本人は複雑な顔で自分の服装を見下ろしている。五条だけは面白そうに笑っていたが、その六眼は髙羽の術式を解析しようとしており、しかし解析しようとした端から“そういうもの”として処理されてしまう奇妙な抵抗を感じていた。

 

 「いけ!ミュウツー!」

 

 「よっしゃー!え!?」

 

 五条悟の姿が白い煙に包まれた。漫画じみた効果音すら鳴りそうな濃い煙がもくもくと広がり、次の瞬間、五条は髙羽の前へ立たされていた。移動ではない。蒼による空間圧縮でもない。不義遊戯のような位置交換ですらない。五条悟が“選ばれたキャラクター”として髙羽の前へ出るのが面白い、という現実が成立しただけだった。

 

 「……ねぇ悠仁、僕いま呼び出された?」

 

 「呼び出されましたね。しかもミュウツー扱いっす」

 

 「いやぁ、分かってるじゃん芸人さん。僕、結構伝説級だし」

 

 「先生、そこ乗るんすか?」

 

 虎杖のツッコミが入った瞬間、宿儺の目元が僅かに引き攣った。おかしい。この場の空気がおかしい。五条悟と虎杖悠仁を相手に、これから至高の闘争が始まるはずだった。鹿紫雲一という余興は終わり、京都の空気は更なる死闘へ向けて張り詰めていたはずだった。だが髙羽史彦が現れた瞬間、その張力が妙な方向へ捻じ曲げられ、殺気の中へツッコミとボケが混ざり始めている。

 

 「貴様……」

 

 宿儺が低く唸る。

 

 「ん?カイリキー、怒ってる?じゃあこっちはミュウツーのサイコキネシスでいくぜ!」

 

 「誰がカイリキーだ」

 

 宿儺はまたツッコんだ。

 

 言った後で、自分の口が動いた事実に再び苛立つ。四つの瞳が髙羽を睨み、殺気が膨れ上がる。だが、その殺気すら髙羽の周囲では何故かバラエティ番組の効果音のように軽くなる。五条はそれを見て、初めて少しだけ真顔になった。

 

 「悠仁、これ多分かなりヤバいよ」

 

 「ですよね。今までの全部と違う感じします」

 

 虎杖は頷きながらも、センターマン姿の自分を見下ろして顔を顰める。宿儺の斬撃、五条の無下限、如来神掌の“流れ”、それらは全て力として理解できるものだった。しかし髙羽の術式は違う。力ではなく、状況そのものを笑いへ寄せている。しかも本人に悪意がない。だから余計に読めない。

 

 そして髙羽は、五条の肩をぽんと叩きながら満面の笑みを浮かべた。

 

 「さぁミュウツー!まずは様子見だ!ゆけ、ねこだまし!」

 

 「僕、猫じゃないんだけどなぁ」

 

 五条はそう言いながら、本当に宿儺の目の前へ一瞬で踏み込んでいた。本人の意志か、髙羽の術式か、その境界は曖昧だった。ただ一つ確かなのは、五条悟の掌が軽く宿儺の額を弾いた瞬間、ぱちん、というあまりにも軽快な音が戦場へ響いたことだった。宿儺の身体は一切揺らがない。傷もない。だがその額には、何故か小さな赤い手形だけが残っていた。

 

 沈黙。

 

 虎杖は肩を震わせた。

 

 五条は口元を押さえた。

 

 髙羽は勝ち誇った顔で拳を握る。

 

 宿儺の殺気が、京都の夜を再び黒く染め始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は唾を飲み込みながら戦いの行方を見ていた。いや、戦いというか……髙羽?さんの独壇場というか……さっきまで宿儺と五条先生とで空気が張り詰めていたはずなのに、気付けばポケモンバトルが始まり、いつの間にか終わり、今度は何故か自己紹介の流れになっている。意味が分からない。分からないけど、目の前で起きている以上は現実なんだろう。

 

 「改めて自己紹介といこう!まずお前の名は!?」

 

 髙羽さんが堂々と宿儺を指差した。

 

 え?今から自己紹介?

 

 いやいやいや、普通この流れは自分から名乗るでしょ!

 

 そう思った瞬間——。

 

 「……人に名を聞く前に貴様から名乗ったらどうだ?」

 

 宿儺が冷静に返した。

 

 おいおいおい……宿儺!

 

 お前も普通にツッコむなよ!

 

 さっきから何なんだよこの空気!

 

 宿儺本人も若干イラついてるっぽいけど、確実にペースを乱されている。あの宿儺がだ。さっき誰かとの死闘を終えた直後で、領域展開まで使ったばかりの怪物が、今は芸人相手に会話している。

 

 意味が分からない。

 

 「ふはは!よく聞いてくれた!ナベナベ所属、髙羽史彦だ。自慢じゃないが去年のP1グランプリは一回戦まで進出している!」

 

 胸を張る髙羽さん。

 

 「知らんな」

 

 宿儺が即答する。

 

 宿儺が知ってたらビビるよ俺は。

 

 というか、平安時代の呪いの王がP1グランプリ知ってたら逆に怖い。

 

 「知らない!?お前情報収集能力低くないか!?」

 

 「何故知っている前提なのだ」

 

 「売れっ子だからだよ!」

 

 「売れているのか?」

 

 「……未来への先行投資期間中だ」

 

 「無職か」

 

 「言い方ァ!」

 

 宿儺の言葉が容赦なく突き刺さる。

 

 俺は思わず吹き出しそうになったが、隣を見ると五条先生が既に肩を震わせていた。

 

 「ダメだ……アハハハハッ!」

 

 「先生笑い過ぎでしょ!」

 

 「だって宿儺が真面目に会話してるんだよ?面白過ぎるでしょ」

 

 確かにそうだった。

 

 宿儺は本来こんな相手じゃない。話しているだけで周囲の空気が凍り付くような存在だ。それが今は律儀に受け答えしている。

 

 本人は気付いていないのかもしれないけど、完全に髙羽さんの土俵へ引きずり込まれていた。

 

 その時だった。

 

 宿儺の額に青筋が浮かぶ。

 

 四本の腕から黒い呪力が滲み出し、周囲の瓦礫が音を立てて軋み始めたのである。さっきまでの妙な空気が一瞬で吹き飛ぶほど濃密な殺気だった。

 

 「……もう十分だ」

 

 低い声が響き地面が震える。空気が重く沈んで、俺の背筋を冷たいものが走った。

 

 宿儺が本気で鬱陶しくなり始めている。

 

 だけど——

 

 「おっ、怒った?」

 

 髙羽さんは全く気付いていなかった。

 

 いや、気付いているのかもしれない。それでも変わらないのかもしれない。満面の笑みを浮かべたまま腰へ手を当て、堂々と宿儺を見上げている。

 

 そして次の瞬間、髙羽さんは何かを思い付いた子供みたいな顔になった。

 

 嫌な予感しかしなかった。

 

 ものすごく嫌な予感しかしなかった。

 

 「腕が四本あるのに怒るなんて……」

 

 怒るのに腕関係あるか?いや、そこじゃないだろ。目の前にいるのは両面宿儺だぞ。さっきまで領域を展開して京都の一角を削り飛ばしていた呪いの王が、たった一発のギャグで露骨に不機嫌になっている。この状況の異常さに、背中を冷たい汗がつうっと伝っていくのが分かったし、心臓の鼓動がやけにうるさく耳の奥で鳴っている。

 

 おかしい。

 

 でも目が離せない。

 

 「いいだろう!そんな貴様にこの一発ギャグを披露しよう。著作権フリーだ。何度でも擦るがいい」

 

 髙羽さんが胸を張り、舞台に立つ芸人みたいに腰を落とした瞬間、コォォ……という擬音が本当に空中へ浮かび上がった。黒々とした文字がゆっくり回転しながら髙羽さんの周囲を取り囲み、空気そのものが「これから何か起きます」と勝手に宣言しているのに、呪力のうねりも“流れ”の歪みも一切感じ取れない。俺の感覚が鈍っているわけじゃない。確かに何もないのに、結果だけが準備されていく。

 

 術式の予兆がない。

 

 なのに世界が傾く。

 

 「余計なお世Wi-Fi!(おせワイファーイ)

 

 バァーン!

 

 爆ぜたのは音だけだった。衝撃波も破壊もない。瓦礫はそのまま、風も吹かない。だが空気の意味だけがひっくり返る。場の重力が一瞬ずれたみたいに感覚が狂い、俺は反射的に宿儺を見た。

 

 「……」

 

 宿儺の顔が苦虫を噛み潰したみたいになっている。四つの目が細まり、こめかみに青筋が浮かび、口元がわずかに引き攣る。怒りというより、不快だ。理解できないものを無理やり飲み込まされた時の顔だ。あんな表情、そう何度も見たことはない。渋谷で俺が気絶している間に指を大量に食わされ、目覚めた後にあの惨状を見せられた時以来じゃないか。

 

 あの時と同じだ。

 

 理不尽を押し付けられた側の顔。

 

 「ほらほら怒らないの!はいポタポタ焼!」

 

 その言葉と同時に、視界がぐるりと反転した。瓦礫も血の匂いも消え、代わりに鼻をくすぐったのは畳とお茶の香りだった。ちゃぶ台の上にはみかんと煎餅、こたつ布団の柔らかい感触が膝に触れ、じんわりとした熱が脚へ染み込んでくる。さっきまで死闘の余韻が残っていた京都コロニーが、昭和の茶の間へ丸ごと置き換わっていた。

 

 は?

 

 なんで?

 

 俺はこたつに座っていた。向かいに宿儺、隣に五条先生、そして割烹着姿の髙羽さんが湯呑みを差し出している。湯気が立ち上り、畳の目のざらつきも、みかんの皮の匂いも、全部が現実そのものだ。さっきまでの戦場が嘘みたいに、日常が当たり前の顔で割り込んでくる。

 

 意味が分からない。

 

 「すっくん!テストで百点だったんだって?すごいじゃないのぉ!はいシゲキックス!」

 

 「すっくんと呼ぶな……!」

 

 宿儺の低い声が居間に落ちる。怒りはある。でもそれ以上に、どう対処すればいいのか分からない戸惑いが滲んでいるのが分かる。斬れば終わる相手じゃない。呪力を叩き込めば壊れる現象でもない。“面白い”という理屈だけで現実が塗り替えられていく。

 

 それが一番、怖い。

 

 俺はこたつの縁をぎゅっと掴み、指先に畳の感触を確かめながら、次に宿儺がどう動くのか、息を詰めて見つめ続けるしかなかった。そして、その沈黙の先で何が起きるのかを待つしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 宿儺はポケモンバトル、こたつや、目まぐるしく変わる空間に付き合わされながらも、その内面では髙羽の術式を解析していた。景色は数秒ごとに変化し、先程まで茶の間だった場所が体育館へ変わり、体育館だった場所が遊園地へ変わり、遊園地だった場所がいつの間にかバドミントンコートへ変貌する。その全てが理不尽で、その全てが強制でありながら、宿儺は一度たりとも動揺を表へ出さない。むしろ四つの瞳は冷徹に周囲を観察し続けていた。

 

 (概念系の術式、恐らく自身が面白いと思う事を相手に強制させる術式だろう。無から有を生み出し、命さえも創造する常軌を逸した術式だ。小僧や五条悟、俺でさえも術式効果から逃れる事はできない。呪力を叩き付けても無かった事にされ、死ですらも補正される)

 

 宿儺は虎杖悠仁とチームを組みバドミントンをしながら考えていた。全員ユニフォームに強制的に着替えさせられている。胸元には意味不明なスポンサー名が並び、背番号まで振られていた。虎杖が「1」、宿儺が「2」、五条が「∞」、髙羽に至っては「優勝」と書かれている。

 

 意味不明だった。

 

 だが成立している。

 

 「おい!宿儺!そっち行った!」

 

 前衛にいた虎杖が頭上を飛び越えた羽を指差しながら叫ぶ。その声と同時にシャトルが高々と舞い上がり、照明の光を反射しながら宿儺の後方へ落下していく。

 

 宿儺は思考を中断することなく床を蹴る。瞬間、身体は残像を残してコートの端へ到達し、四本腕の一本でラケットを振り抜いた。甲高い破裂音と共に打ち返されたシャトルは砲弾のように飛翔し、空気を裂きながら髙羽へ襲い掛かる。

 

 しかし髙羽は避けない。

 

 避けるどころか跳んだ。

 

 「必殺!スーパー芸人サマーソルトアターック!!」

 

 意味不明な叫びと共に後方宙返りを敢行し、足裏でシャトルを蹴り飛ばす。

 

 普通なら反則である。

 

 だが、この空間では違った。

 

 審判席にいつの間にか現れていたパンダが旗を振る。

 

 「合法ー!」

 

 「合法じゃねぇだろ!」

 

 虎杖が叫んだ次の瞬間だった。

 

 「ブホォッ!!俺かよぉ!!」

 

 なぜか虎杖の脳天へ直撃した。

 

 頭頂部へ突き刺さったシャトルがぷるぷる震え、虎杖はその場で前のめりに倒れる。

 

 「ハハッ!髙羽!それ反則でしょ!」

 

 五条が腹を抱えて笑っていた。

 

 体育館中に笑い声が響く。

 

 だが宿儺だけは笑っていなかった。

 

 (奴が面白いと思った事が現実を改変し、適応される。つまり——奴を挫けば……)

 

 術式の中心は呪力ではない。

 

 髙羽史彦本人だ。

 

 面白いと信じる精神。

 

 笑わせるという確信。

 

 それこそが術式を成立させている核。

 

 「ククッ」

 

 宿儺が虎杖へ手を伸ばし、倒れた身体を引き上げる。そして片腕を腰へ当てながら、芸人を値踏みする審査員のような顔で髙羽を見据えた。

 

 「おい貴様、ダメだ。全然面白くない。舐めているのか?貴様——俺の事知らんと思うけどな……弟子やったらパンパンやな」

 

 「な……に?パンパン?」

 

 髙羽の顔から笑顔が消えた。

 

 宿儺は禪院直哉の肉体に受肉している。だからこそ現代の知識も、関西圏の言語感覚も持っていた。そして何より、相手を傷付ける言葉を選ぶ才能に関しては、生まれながらの怪物だった。

 

 「間が悪い。声量も中途半端。オチも読める。何より覚悟が足らん」

 

 宿儺は鼻で笑う。

 

 「貴様、自分を面白いと思っとるだけやろ」

 

 体育館の空気が僅かに揺れた。

 

 髙羽の瞳が見開かれる。

 

 そして宿儺は、その反応を見逃さなかった。術式ではない。呪力でもない。

 

 芸人としての心が、ほんの僅かに揺らいだのである。

 

 そして、その瞬間から空間の色彩が微かに薄れ始めていた。

 

 「お!お前に笑いの何が分かるー!」

 

 髙羽の叫びが崩壊した京都へ響き渡る。つい先程まで体育館だった空間は消え失せ、視界へ広がるのは粉砕されたビル群と捲れ上がったアスファルト、宿儺の領域によって削り取られた大地だけだった。瓦礫の隙間から立ち上る粉塵が夜風に流され、遠方では崩落しかけた鉄骨が軋む音を鳴らしている。だが、その中心で向かい合う二人だけは周囲など見ていなかった。

 

 「分かる分からんやない、単純に貴様はつまらんのや、ほなお疲れさん!」

 

 宿儺が消える。

 

 否。

 

 視認できない速度で踏み込んだ。

 

 禪院直哉の肉体と九陽神功、そして呪いの王としての技量が重なった一歩は音よりも速く間合いを奪い、次の瞬間には肘が髙羽の鳩尾へ深々とめり込んでいた。筋肉が潰れ、肺から空気が押し出され、衝撃が背骨を貫通する。

 

 「ぐぼぉ!」

 

 肘打ちを受けた髙羽の身体は砲弾のように吹き飛び、十数メートル先の瓦礫の山へ激突した。砕けたコンクリート片が四方へ飛び散り、崩れた壁面が派手な音を立てながら崩落する。

 

 「ぐべ〜」

 

 地面へ転がった髙羽の口から情けない悲鳴が漏れた。

 

 宿儺は腕を組む。

 

 四つの瞳は冷静だった。

 

 (やはりな……今の一撃は手応えがあった。間違いない。奴の自信と確信を挫き、こちらの流れに持っていく)

 

 術式の核は精神。

 

 面白いという絶対的な確信。

 

 ならば壊すべきは肉体ではなく心である。

 

 宿儺はそう結論付けていた。

 

 「チクショー!!好き勝手言いやがって!」

 

 瓦礫が弾け飛ぶ。

 

 髙羽が飛び出した。

 

 額から血を流しながらも、その目にはまだ火が残っている。

 

 「お前にウケなくたって、お前以外にウケたら関係ねーんだよ!!」

 

 叫びと同時に腕を振る。

 

 すると何も無かった空間から無数の拍手が鳴り響いた。観客席など存在しないはずなのに歓声が湧き、スポットライトが空から降り注ぎ、どこからともなく「ワハハハハ!」という大爆笑が響き渡る。

 

 髙羽の術式が再び現実へ干渉したのである。

 

 しかし宿儺は嗤った。

 

 「だからつまらんのや。芸人ならなぁ……全員笑わしてみろやカス」

 

 その言葉が落ちた瞬間だった。

 

 鳴り響いていた笑い声が一瞬だけ揺らぐ。

 

 髙羽の顔色が変わる。

 

 宿儺は見逃さない。

 

 「客に甘えるな。理解してくれる奴だけ探して満足しとる時点で三流や」

 

 一歩。

 

 宿儺が近付く。

 

 「嫌いな奴も笑わせる」

 

 また一歩。

 

 砕けたアスファルトが足元で軋む。

 

 「笑う気の無い奴も笑わせる」

 

 さらに一歩。

 

 殺気ではない。

 

 言葉の刃だった。

 

 「それが芸人ちゃうんか?」

 

 髙羽の瞳が揺れる。

 

 宿儺は確信した。

 

 今まで一切揺らがなかった術式の根幹が、ほんの僅かだが軋み始めている。

 

 そして離れた場所では、虎杖悠仁と五条悟が固唾を飲んでその光景を見守っていた。

 

 怪物同士の戦いではない。

 

 笑いと心を巡る、誰も予想しなかった異様な闘争が始まっていたのである。

 

 そして——髙羽史彦は、宿儺の言葉へ返す答えを探すように拳を握り締めた。




日下部「もう終わりだよこの国」
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