武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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分析がガチなんだよ!お前呪術師だよな!?

 

 

 

 

 髙羽史彦は宿儺の言葉に揺らいでいた。

 

 自身は何故芸人になったのか。お笑いとは何なのか。そして何より、突然飛び出してきた「パンパン」とは一体何なのか。宿儺とのやり取りが始まってからというもの、理不尽な空間改変も、意味不明なギャグ空間も、自分の術式()さえも当然のように受け入れていたはずなのに、今は違った。宿儺が放った言葉だけが頭の中へ引っ掛かり、まるで喉に刺さった小骨のように取れないのである。

 

 (俺は……)

 

 髙羽は両の拳を握り締めて宿儺に向き直った。

 

 崩壊した京都の街に夜風が吹く。伏魔御廚子によって削り取られた大地は巨大な傷跡のように広がり、砕けたコンクリートや鉄骨が月明かりを受けて鈍く光っていた。遠方では崩れかけたビルが軋み、瓦礫同士が擦れ合う乾いた音が断続的に響いている。しかし、その中心に立つ髙羽史彦の耳には、そんな音すらほとんど届いていなかった。宿儺の言葉だけが頭の中で何度も反響し、舞台袖で出番を待つ芸人のように胸の奥をざわつかせ続けていた。

 

 「全員笑わせてみろや」

 

 その一言が離れない。

 

 芸人を志してから何年経っただろうか。舞台へ立ち、客席を見渡し、受けた日もあれば滑った日もあった。笑い声が起きる前にネタが終わったこともあるし、無反応の客席を前に冷や汗を流した夜もある。それでも次こそはとネタ帳を開き続けた。売れなかった時代もあった。笑われるより先に忘れられる方が辛いと知った夜もあった。それなのに辞めなかったのは何故か。有名になりたかったからか。金が欲しかったからか。テレビへ出たかったからか。どれも間違いではない。だが、それだけではなかった。

 

 もっと単純だった。

 

 誰かが笑う顔を見るのが好きだった。

 

 教室の隅で俯いていた友人が吹き出した時。職場で疲れ切った人間が少しだけ肩の力を抜いた時。家族がテレビを見ながら笑った時。芸人として舞台へ立った時に客席の誰かが腹を抱えていた時。その瞬間が好きだった。その空気が好きだった。だから芸人になった。だから笑わせたかった。その答えへ辿り着いた瞬間、髙羽の胸の奥で揺らいでいた何かがゆっくりと元の場所へ戻っていく。

 

 宿儺は腕を組んだまま立っている。四本の腕。四つの瞳。人を何千何万と殺してきた怪物。だが今の宿儺は斬撃を飛ばしてこない。ただ髙羽を見ていた。試すように。値踏みするように。そして本当に折れるかどうかを見極めるように。

 

 「どうした。もう終わりか?貴様のお笑いとやらはその程度か」

 

 嘲るような声だった。

 

 しかし髙羽は俯かなかった。

 

 「終わり?」

 

 そう呟いた後、口元が少しだけ緩む。

 

 「いやいやいや、芸人がスベったくらいで終わる訳ないだろ!」

 

 顔を上げる。

 

 その目には先程までの焦りが無かった。

 

 「そもそもさ、お前パンパンって何なんだよ!?」

 

 宿儺の眉が僅かに動く。

 

 「知らんのか?」

 

 「知らねぇよ!」

 

 即答だった。

 

 遠くで見ていた虎杖が思わず吹き出す。

 

 「確かに知らねぇ!」

 

 「だろ!?急にパンパンとか言われても意味分かんねぇんだよ!」

 

 髙羽が叫ぶ。宿儺は数秒沈黙したまま髙羽を見つめていたが、やがて心底面倒そうな顔で口を開いた。

 

 「……関西のお笑いでよく使うやつや」

 

 真顔だった。

 

 空気が止まる。

 

 虎杖も五条も固まった。髙羽も固まった。そして数秒後、最初に我へ返ったのは髙羽だった。

 

 「説明したーーー!!お前今ボケ説明したぞ!?」

 

 「だからどうした」

 

 「だからどうしたじゃねぇよ!」

 

 髙羽が全力でツッコみ、虎杖が腹を抱えて笑い出す。五条も肩を震わせながら口元を押さえていた。その笑い声が崩壊した街へ広がった瞬間、髙羽は不意に気付いた。目の前にいるのは両面宿儺、人類史に残る最悪の怪物であり、数え切れない命を踏みにじってきた呪いの王である。それなのに今、自分はその怪物と漫才のようなやり取りを続けている。そしてほんの少しだけ、本当に僅かだけだが、その怪物を笑わせてしまった気がしたのである。

 

 その事実が妙に可笑しかった。

 

 宿儺もまた同じ変化を見逃してはいなかった。先程まで揺らぎ、術式の根幹すら不安定になりかけていた髙羽の瞳に、再び確信と熱が戻り始めている。言葉による揺さぶりは確かに通用した。しかし完全に折れた訳ではない。むしろ自分なりの答えへ辿り着こうとしている。だからこそ宿儺は獣が牙を見せるように口元を歪め、その四つの瞳へ愉悦を宿した。

 

 「そうか……まだ折れんか」

 

 低い声が夜気を震わせる。

 

 その言葉と共に二人の間の空気は再び変わり始めていた。次に始まるのは殴り合いか、笑いか、それともその両方か。

 

 「どうやら覚悟ができたようだな。俺と戦う覚悟が——ここでお笑いとはなんたるか……貴様に一つ教えたる。お笑いとは逆行や」

 

 宿儺が髙羽を見据えながら言った。

 

 気付けば空間は再び書き換わっていた。崩壊した京都の街並みは跡形もなく消え失せ、代わりに現れたのは年季の入ったお笑い養成所である。白い蛍光灯が照らす教室には折り畳み机と古びた椅子が並び、壁には『笑いに逃げるな』『空気を読め、そして壊せ』など、妙にそれっぽい標語が貼られていた。黒板の前に立つ宿儺は、いつの間にか大御所師匠めいた黒い着物へ着替えており、腕を後ろで組みながら教壇に立っている。その姿は呪いの王というより、弟子を泣かせる事で有名な鬼教官そのものだった。

 

 (完膚なきまでに挫く)

 

 宿儺の思考は冷徹だった。

 

 髙羽の術式は理解した。自身が面白いと認識した事象を現実へ押し付ける異常な術式。しかし同時に、その根幹は髙羽自身の認識へ依存している。ならば術式そのものを否定する必要はない。芸人としての価値観を書き換えればいい。結界術の応用によって空間へ干渉し、髙羽の認識そのものへ別の「正解」を流し込む。宿儺は術式を破壊するのではなく、術式を成立させる土台を揺らそうとしていた。

 

 「逆行?」

 

 髙羽は机へ座りながら首を傾げる。

 

 その姿は先程まで呪いの王へ立ち向かっていた男とは思えない。完全に養成所へ入学した新人芸人だった。

 

 教室後方では五条と虎杖が並んで座っている。

 

 「ねぇ……なんか宿儺乗ってない?結構乗ってるよね?これ」

 

 五条が小声で囁く。

 

 「……そうっすね」

 

 虎杖も頷いた。

 

 怒られている同級生を物陰から眺める生徒のような空気である。

 

 宿儺は黒板へ歩み寄る。

 

 そしてチョークを握った。

 

 カツ。

 

 カツ。

 

 不気味なほど丁寧な音が響く。

 

 黒板へ大きく『逆行』と書かれた。

 

 「そうだ。お笑いは表裏一体。面白いの逆は面白くない。笑うやつがいれば笑わんやつもいる。感動の逆は白けや。期待の逆は裏切りや。そして笑いとは予想を裏切った時に生まれる」

 

 宿儺は振り返る。

 

 四つの瞳が真っ直ぐ髙羽を射抜いた。

 

 「世界で一番面白いやつは——」

 

 髙羽が無意識に続きを呟く。

 

 「世界で一番面白くない……」

 

 「せや」

 

 宿儺が嗤った。

 

 その笑みは獲物へ牙を立てる肉食獣のものだった。

 

 「皆が右へ行くと思ったら左へ飛べ。泣くと思ったら踊れ。強いと思ったら弱くあれ。せやから世界一面白い奴は、世界一面白くない奴と紙一重なんや」

 

 教室が静まり返る。

 

 髙羽は黙っている。

 

 五条も。

 

 虎杖も。

 

 そして宿儺だけが口元を歪めた。

 

 呪いの王による最悪の授業が始まった。

 

 「いいか?髙羽史彦。芸人には二種類のタイプがおんねん『自分を面白いと思ってる人間』と『ただ面白い人間』や」

 

 宿儺が教壇代わりの机へ腰掛けながら言う。その声音は教師のようでもあり、処刑人のようでもあった。人を導いているのか、叩き潰そうとしているのか、その境界線は本人ですら曖昧なのかもしれない。しかし一つだけ確かな事がある。この授業は優しくない。生徒を褒めて伸ばす類のものではなく、欠点を暴き、逃げ道を塞ぎ、最後に残った本質だけを引き摺り出そうとする苛烈な授業だった。

 

 その言葉を聞きながら、髙羽は遠い昔を思い出していた。売れない芸人として劇場を転々としていた頃、先輩芸人のケンから似たような言葉を聞いた事がある。当時の髙羽はその真意を理解しようとしなかった。理解したくなかったと言うべきだろう。傷付く事が怖かった。才能が無いと認める事が怖かった。だから都合よく解釈したのである。『自分はそういうタイプじゃない』『仕方ない』『向いていない』。そうやって理由を並べ、自分自身からお笑いと向き合う事をやめてしまった。

 

 だが本当は違った。

 

 劇場へ来てくれた百人全員に笑ってほしかった。自分を知ってほしかった。誰一人置いていきたくなかった。しかし笑わない人間を見るのが怖くて、自分から先に切り捨てたのである。『分からない奴はいい』と。『俺以外が悪い』と。そう思い込む事で心を守っていた。

 

 「成程……」

 

 後方では五条悟が妙に真面目な顔で頷いていた。

 

 その手元ではノートへ授業風景が描かれている。

 

 宿儺。

 

 教壇。

 

 鬼教官。

 

 何故かムチ装備。

 

 絵は絶妙に上手くない。

 

 「何描いてるんですか」

 

 虎杖が覗き込む。

 

 「宿儺先生」

 

 「似てないっすね」

 

 「失礼だな。結構似てるよ」

 

 「どっちかっていうとゴリラです」

 

 「確かに」

 

 「本人も認めるな」

 

 宿儺の額に青筋が浮かぶ。

 

 しかし授業は止まらない。

 

 そうして地獄の講義は続いていった。

 

 その内容は苛烈を極める。

 

 宿儺は禪院直哉の記憶から得た知識を片端から解析し、お笑いの構造を解体していた。フリとオチ。緩急。期待と裏切り。間。沈黙。視線誘導。感情操作。人間が何故笑うのか。その心理構造を呪術の術式解析と同じ精度で理解し、理論として髙羽へ叩き込んでいく。

 

 「そのネタは自己満足や」

 

 「ぐっ……!」

 

 「オチが見えとる」

 

 「うっ……!」

 

 「テンポが死んどる」

 

 「ぐはぁっ!」

 

 「心の中で勝手にウケて満足しとるやろ」

 

 「やめて!それ心に効く!」

 

 容赦が無かった。

 

 だが髙羽は逃げない。

 

 否定されても立ち上がる。やり直す。また否定される。そして考える。以前なら笑って誤魔化していた場所で立ち止まり、自分の弱さと向き合う。気付けば失笑ばかりだったネタは姿を変えていた。緩急が生まれ、勾配が生まれ、相手の感情を動かすための流れが生まれる。しかし不思議な事に髙羽らしさは消えていない。むしろ以前より濃くなっている。

 

 そして、その姿を見ながら宿儺は内心で舌打ちしていた。

 

 (この男……存外ついてくる)

 

 想定外だった。

 

 潰すつもりだった。

 

 術式の根幹ごと折るつもりだった。

 

 だが逆だった。鍛えれば鍛えるほど髙羽は強くなる。笑いを理解するほど術式も研ぎ澄まされる。そして何より厄介なのは——本人がまだ自分の術式の本質へ気付いていない事だった。

 

 (マズいな……もしこの男が自身の術式の真理へ辿り着き、俺が死んだら面白いと思えば一巻の終わり)

 

 宿儺の四つの瞳が細まる。

 

 ならば方法は一つ。

 

 潰すのではない。

 

 満足させる。

 

 笑わせる。

 

 そして芸人として勝ち逃げさせる。

 

 呪いの王は生涯初めて、自分以外の誰かを満足させる方法について真剣に考え始めていた。そうとは知らず、髙羽史彦は次の課題へ挑もうとしていたのである。

 

 

 そうして髙羽史彦は宿儺による地獄のお笑い授業を終えた。養成所めいた空間は静かに揺らぎ始めている。黒板は霞となって消え、机や椅子は粒子へ変わり、壁へ貼られていた標語も夜風へ溶けるように崩れていった。結界術と術式によって構築されていた異質な世界は、その役目を終えたのである。しかし、その中心へ立つ二人だけは微動だにしなかった。両面宿儺と髙羽史彦。呪いの王と売れない芸人。決して交わるはずのなかった二人が向かい合い、互いの表情を静かに見据えている。

 

 しばらく続いた沈黙を破ったのは髙羽だった。勢いよく一歩前へ飛び出したかと思うと、頭上の空間から青白い電流がチリチリと音を立てながら降下してくる。その光は途中で不自然な角度へ曲がり、まるで神秘的な力が降臨したかのような雰囲気だけを演出していた。そして髙羽は腰を落とし、片腕を天へ突き上げ、もう片方の腕を胸元へ引き寄せるという妙に完成度の高いポーズを決める。先程まで真剣に笑いの本質を語り合っていた空気を一切無視した、実に髙羽らしい登場だった。

 

 「来ました来ました!」

 

 堂々たる前振りだった。

 

 誰も止めない。

 

 嫌な予感しかしない。

 

 それでも髙羽は止まらない。

 

 「無〜〜料Wi-Fiいかがですか!?」

 

 渾身のネタだった。

 

 数秒の沈黙が流れる。普通なら滑ったと判断してもおかしくない空気である。しかし宿儺だけは違った。腕を組んだまま満足そうに頷き、その四つの瞳へ僅かな納得の色を浮かべる。以前の髙羽なら勢いだけで終わっていた。だが今は違う。意味不明な題材である事に変わりはないものの、間の取り方、視線誘導、期待させてから裏切る構成、その全てが以前より洗練されていたのである。

 

 「上出来だ」

 

 「いやどこが!?」

 

 虎杖のツッコミが即座に炸裂した。

 

 「無料Wi-Fiって言っただけだろ!?しかも前のお世Wi-Fiと大して変わんねぇじゃん!ただ光ってるだけじゃねぇか!」

 

 「浅いな小僧」

 

 宿儺が鼻で笑う。

 

 「何が浅いんだよ!」

 

 「まず前振りがある。意味不明な現象を見せる。期待を作る。そして更に意味不明な方向へ裏切る。基本は押さえている」

 

 「分析がガチなんだよ!お前呪術師だよな!?」

 

 「それに無料Wi-Fiという現代社会へ浸透した概念を用いながら、何一つ解決しない点も評価できる」

 

 「そこ評価する場所なの!?」

 

 虎杖が叫ぶ。

 

 その隣では五条が肩を震わせていた。

 

 「いや、かなりイイよ」

 

 腕を組みながら頷く。

 

 「さっきまでなら『無料Wi-Fiです!』で終わってたと思う。でも今はちゃんと期待させてるし、何なら悠仁がツッコむ所まで計算に入ってる感じがする」

 

 「え、マジ?」

 

 髙羽が目を輝かせる。

 

 「マジマジ」

 

 「やったぜ!」

 

 「内容は相変わらず意味不明だけどね」

 

 「そこは変わらないのかよ!」

 

 再び虎杖がツッコむ。

 

 髙羽は照れ臭そうに頭を掻いた。宿儺の授業は苛烈だった。しかし確実に身になっていたのである。以前の髙羽は自分が面白いと思った事をそのまま投げ付けていた。今は違う。相手へ届ける為の道筋を考えている。笑わせたい相手の顔を想像している。その変化は本人以上に周囲が感じ取っていた。

 

 やがて髙羽は一度深呼吸すると、満面の笑みを浮かべながら二人へ向き直る。その表情から迷いは完全に消えていた。

 

 「みんなありがとう!!行ってくる!!」

 

 力強い声だった。

 

 宿儺は腕を組んだまま視線だけを向ける。

 

 「そうだ行け、さっさと行け」

 

 ぶっきらぼうな言葉だった。

 

 しかし追い払うというより送り出している。

 

 そんな響きが僅かに混じっていた。

 

 次の瞬間、髙羽は地面を蹴る。轟音と共に足元の瓦礫が砕け散り、爆風が周囲へ吹き荒れる。芸人とは到底思えない脚力で夜の京都を駆け抜け、その背中はみるみる遠ざかっていった。迷いも不安も置き去りにしながら、自分の笑いを信じる男は一直線に走り続ける。

 

 その姿が完全に見えなくなった後も、虎杖はしばらく呆然と立ち尽くしていた。そして数秒後、ようやく現実へ戻ってきたように頭を抱えながら天を仰ぐ。

 

 「なんだったんだアイツーー!?!?」

 

 魂からの叫びだった。

 

 五条は堪え切れず笑い出し、宿儺は僅かに口元を歪める。そして夜風だけが吹き抜ける中、三人の前には再び本来の戦場が姿を現し始めていた。次に動き出す怪物は誰なのか。その答えを告げるように、遠く離れた京都の空で新たな呪力のうねりが静かに胎動を始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 走り去っていく髙羽さんの背中を見届けて、俺はしばらく言葉を失っていた。そりゃそうだろ。ついさっきまで京都は崩壊した戦場だったはずなのに、髙羽さんが来た瞬間にポケモンバトルみたいな謎空間になり、こたつと煎餅とお茶の間になり、バドミントンになり、最後には宿儺がお笑い養成所の師匠みたいな顔で髙羽さんに授業を始めたんだぞ。しかも髙羽さんはそれを真面目に受けて、妙な成長を遂げた上で「無料Wi-Fiいかがですか!?」とか言いながら瓦礫を蹴散らしてどこかへ走っていった。頭が追い付くわけがない。

 

 「なんだったんだアイツーー!?!?」

 

 俺の叫びが夜の京都へ響いた。崩れたビル群の間を反響し、遠くの瓦礫まで震わせる。いや、たぶん震わせてはいない。俺の中ではそれくらいの勢いだったってだけだ。でも本当に叫ばずにはいられなかった。呪術師として色々な意味不明を見てきたつもりだったけど、今の一連の出来事は別枠だ。恐怖でもなく、戦闘でもなく、ただただ理解不能だった。

 

 「呪術師だ」

 

 宿儺が腕を組みながら言った。髙羽さんが消えたことで術式の影響も薄れたのか、宿儺はまた全裸に戻っている。いや戻るなよ。こっちもいつの間にかボロボロのカーテンを腰に巻いただけのパンイチ状態へ戻っていた。さっきまでお笑い養成所で授業を受けていたはずなのに、次の瞬間には半壊した京都で全裸の宿儺と半裸の俺が向かい合っている。冷静に考えれば考えるほど最悪の絵面だった。

 

 「お前マジで言ってるそれ?」

 

 俺は思わず聞き返した。ふざけているのかと思ったのに、宿儺の顔は真面目だった。いや、コイツの真面目な顔も大体怖いんだけど、今のは珍しく嘲笑だけじゃない。何かを見定めた後の、妙に納得した顔だった。さっきまで髙羽さんに「上出来だ」とか言っていた時と同じ顔で、正直それが一番気味悪い。

 

 「小僧、お前はまだ呪いというものを知らない。呪術とは奴が扱うように肉体を用いず、想像と言葉で相手を殺すもの——“呪い合う”という言葉は奴こそが最も相応しいだろうな」

 

 その言葉を聞いた時、俺は一瞬黙ってしまった。宿儺が誰かをここまで評価するなんてあるのか?俺の中にいた時でさえ、コイツが口にするのは大体「戦え」だとか「指を追え」だとか「つまらん」だとか、そういう人を煽る言葉ばかりだった。誰かの在り方を真正面から認めるような言い方なんて、ほとんど聞いたことがない。しかも相手は髙羽さんだ。いや、髙羽さんが凄いのは分かる。分かるけど、宿儺にそう言わせるのは本当に何なんだよ、あの人。

 

 五条先生はその横で少し笑っていた。たぶん俺と同じくらい驚いているくせに、いつもの調子で余裕ぶっている。でも六眼は静かに宿儺を見ていて、さっきまでの笑いの余韻なんてもうほとんど残っていなかった。髙羽さんが去ったことで、空気が少しずつ本来の形へ戻っていく。粉塵の匂い、焦げたアスファルト、折れた鉄骨の軋む音、遠くで崩れる瓦礫の乾いた響き。その全部が、ここがまだ戦場だと俺達に思い出させていた。

 

 「さて……」

 

 宿儺が呟いた。

 

 その瞬間、空気の重さが変わった。ふざけた流れが完全に終わる。髙羽さんが無理やり塗り替えていた世界の色が剥がれ落ち、そこに残ったのは両面宿儺という怪物の圧だった。皮膚が粟立つ。血が熱くなる。背骨の奥がきしむ。俺の身体は恐怖より先に戦う準備を始めていた。

 

 「宿儺」

 

 自然と名前が口から出た。怒りもある。因縁もある。俺の身体を使って人を殺したことも、これまで散々笑ってきたことも、許せるわけがない。でもそれだけじゃない。今の俺は、目の前の怪物と戦いたいと思っている。自分の中にあった宿儺が外に出て、別の肉体を得て、さらに強くなっている。その事実が腹の底を熱くしていた。

 

 「はじめるかい?」

 

 五条先生が軽く言った。けれど、その声の奥には本気の熱がある。無下限の静かな圧と、如来神掌で掴んだ金色の“流れ”が先生の周囲へ薄く滲み、夜の空気を震わせていた。俺は拳を握り、宿儺は四本の腕をゆっくり下ろす。三人の位置が自然に広がり、誰か一人が動けば残る二人も同時に動くと分かる形になっていく。

 

 俺と宿儺、そして五条先生が三竦みのように見据え合う。距離はある。けれど遠くない。一歩、いや半歩で全てが爆発する距離だった。足元の瓦礫がカタカタと震え、空気が押し潰されるように重くなる。誰も先に仕掛けない。だが沈黙は休息じゃない。これは開始直前の呼吸だ。心臓が一度強く鳴り、俺は肺の奥まで冷たい夜気を吸い込んだ。

 

 「闘争を始めよう」

 

 宿儺が笑った。

 

 その宣言と同時に、俺は踏み込む準備を終えていた。次の瞬間には、拳か、掌か、斬撃か、無下限か、そのどれかが京都の夜を引き裂く。だから俺は瞬きすらせず、呪いの王の四つの瞳を真正面から睨み返した。




宿儺「正直かなり危なかったと云える。あんなのは初めてだ」
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