武術の王『虎杖悠仁』 作:やめろ小僧、その技は俺に効く
虎杖悠仁が呪術高専に入学し、“呪術師”という肩書きを与えられてから、およそ一ヶ月という短い時間が経過していた。その期間は常識的に見れば経験の蓄積と呼ぶにはあまりにも不足しているはずだったが、彼に関してだけはその尺度が当てはまらない。元より規格外であった肉体に、両面宿儺の指を取り込んだことで得た呪力が加わり、さらに如来神掌の最終段階である『経絡』が開かれたことで確立された『流れ』が全身を巡り、三者が干渉することなく完全に噛み合った結果、虎杖悠仁という個体は既に一つの完成形へと近づきつつあった。
それは単純な強さの話ではない。筋力、反射、呪力の出力といった個別の要素ではなく、それら全てが統合された状態、すなわち“無駄の存在しない運用”が成立しているという点において異質だった。力を振るうのではなく、流す。放つのではなく、通す。その在り方は武術とも呪術とも言い切れない中間にありながら、確実に双方の利点を引き出していた。
その結果として、任務における戦闘は極端な形で単純化されていた。呪霊を見つける、接近する、触れる、それだけで終わる。戦闘の駆け引きや術式の応酬といった過程は存在せず、まるで現象のように一方的な祓除が繰り返されている。
その日もまた、都内某所にある廃ビル内部で任務が行われていた。崩れかけたコンクリートの壁は鉄筋を露出させ、割れたガラス片が床一面に散らばり、湿った空気には長く放置された腐臭が染み付いている。人の営みが途絶えて久しいその場所には、行き場を失った負の感情が澱のように溜まり、それを餌に複数の呪霊が巣食っていた。
通常であれば、索敵を行い、危険度を測り、連携を取りながら一体ずつ対処するべき状況である。だがその前提は、ここでは意味を持たない。
虎杖悠仁がいるからだ。
彼は音もなく歩く。床を踏む足取りは軽く、ガラス片すらほとんど鳴らさない。視線は常に先へ向けられ、周囲に満ちる気配を流れとして捉えながら、最短距離で呪霊へと接近する。
そして。
触れる。
それだけで終わる。
掌が呪霊に触れた瞬間、内部から破裂するように崩壊が起き、黒い肉片は霧のように散って消えていく。その動きには力みが一切なく、打撃とも放出とも違う、内側へと流し込むような感覚が伴っている。攻撃というよりも、“存在の構造そのものを崩す”現象に近い。
「恵、いやぁ悠仁はすごいね」
少し離れた場所からその光景を眺めながら、五条悟が軽い調子で言った。その声音はいつも通りの軽さを保っているが、六眼は一瞬たりとも虎杖の動きを見逃していない。
「はい……いやでも……」
伏黒恵は短く返しながら、言葉を濁す。その視線もまた、虎杖の背中へと向けられていた。
「ん?どうしたの?」
五条が興味を向ける。
伏黒は一瞬だけ思考を巡らせ、言葉を選ぶように口を開いた。
「俺が最初にアイツと話した時は……あんな雰囲気じゃなかった」
その言葉には明確な違和感が込められている。視線の先で、虎杖はまた一体の呪霊へと近づき、掌を軽く触れさせるだけで祓っていた。
「宿儺の指を呑んでから……何かが変わった」
それは単なる強化ではない。もっと根本的な部分、存在の在り方そのものが変質している。立ち方、視線の置き方、呼吸の深さ、間合いの取り方、その全てが以前とは別物になっていた。
以前の虎杖悠仁は、明るく、勢い任せで、多少の無茶も構わず前に出る人間だった。だが今の彼にはそれがない。無駄を削ぎ落とし、必要な動きだけを選び、迷いなく実行する。その姿は長年修行を積んだ者のそれに近い。
「でも宿儺が完全受肉したわけじゃないでしょ。それは見たら分かる」
五条が軽く言う。
「それは分かってます。でも……違和感しかない」
伏黒の返答は短いが、その内側には説明しきれない感覚が沈んでいる。敵とも味方とも違う、分類不能な何かに対する本能的な警戒。
「えっアイツ、あれが本性じゃないってこと?」
背後から釘崎野薔薇の声が割り込む。トンカチを肩に担ぎながら現れた彼女は、状況を一瞥し、あっさりとした口調で続けた。
「まぁでも、強いからいいんじゃない?」
細部より結果を重視する彼女らしい判断だった。
その間にも虎杖悠仁は動き続けている。呼吸は乱れず、視線は揺れず、動きには一切の迷いがない。近づき、触れ、祓う。その繰り返しは滑らかに連なり、もはや一連の“流れ”として成立していた。
派手さはない。
だが確実に終わる。
それだけで十分だった。
虎杖悠仁は変わった。明るく無邪気で、どこか粗さを残していた少年は、今や静かに世界を見据える存在へと変質している。表情には余計な感情が浮かばず、怒りも焦りもなく、ただ必要なことを理解し、選び、実行する。
まるで。
悟りに至ったかのように。
ある日のこと、虎杖悠仁、伏黒恵、釘崎野薔薇の一年生三人に対し、新たな任務が言い渡された。その内容は一見すると単純なものでありながら、内包する危険性は明らかに常軌を逸している。西東京市に位置する英集少年院にて発生した呪胎の駆除、そして施設内部に取り残された受刑者の避難、この二点が今回の目的として提示されていたが、「呪胎」という単語が含まれている時点で、それが通常任務の範疇に収まらないことは、経験の浅い彼らであっても理解できていた。
夜の帳が完全に降り切った郊外、少年院の外周には既に規制線が張られ、一般人の立ち入りは厳重に遮断されている。街灯の光すら届きにくいその場所には重く沈んだ空気が滞留しており、建物全体からじわじわと滲み出るような呪力が、外に立つ者の皮膚を不快に撫でる。目に見えないはずのそれは、しかし確かに“存在している”と分かる質量を伴い、空間そのものを歪ませているかのようだった。
その正面に立つのは補助監督である伊地知潔高である。彼は手元の資料へと視線を落としながら、落ち着いた声で状況説明を続けていたが、その語り口の端々には隠しきれない緊張が滲んでいた。
「我々の“窓”が呪胎を確認したのは3時間程前——そこから避難誘導を開始し、9割の時点で施設を閉鎖しました」
淡々とした報告ではあるが、その実態は時間との戦いであったことを示している。避難が完了しきる前に封鎖せざるを得なかったという事実は、それだけ事態の進行が早かったという証左でもあった。
「『受刑在院者第二宿舎』、そこに5名の在院者が現在も呪胎と共に残されています」
その言葉が落ちた瞬間、わずかに空気が張り詰める。通常であれば全員の退避を最優先とし、その後に呪霊への対処を行うのが原則である。しかし今回は違う。人間が取り残されたまま、呪胎と同一空間に存在している。その状況自体が、この任務の危険性を何よりも雄弁に物語っていた。
伊地知は続ける。
「呪胎が変態を遂げるタイプの場合、特級に相当する呪霊へ成長する可能性が高いと予測されます」
その一言が持つ意味は重い。特級という言葉は単なる強敵を指すものではなく、対処を誤れば即座に死へと直結する領域の存在を示している。経験、技量、判断、その全てが高水準で要求される相手であり、本来であれば一年生が単独で対処するようなものでは決してない。
「特級……」
伏黒恵が小さく呟く。その視線は建物へと固定されているが、内側では状況の整理と最悪のケースを想定した思考が高速で巡っていた。
「本来は一級相当の術師が任務に当たるんじゃないのか」
静かに言葉を重ねる。
「今日の場合だと五条先生とか」
至極当然の指摘である。特級相当の危険性がある以上、本来は一級術師、あるいはそれ以上の戦力が投入されるべき任務であり、彼らのような初年次の術師が主戦力として投入される状況は異常でしかない。
伊地知は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置き、そしてわずかに視線を逸らした。
「……本件は緊急性が高く、現時点で確認されているのはあくまで呪胎の段階です」
表現は柔らかいが、その実態は明白だった。戦力不足、あるいは配置の都合により、ここにいる三人が対応せざるを得ないという現実。
その時、空気を切り裂くように軽い声が入る。
「ま、なんとかなるでしょ」
釘崎野薔薇だった。肩にトンカチを担ぎ、特段の緊張も見せずに少年院を見上げている。その表情には恐怖よりも、むしろ苛立ちに近い感情が浮かんでいた。
「こっちには虎杖がいるし、中に人がいるならさっさと助けて終わらせればいいじゃない」
単純明快な言葉だが、そこには状況を受け入れた上での覚悟がある。逃げるという選択肢を最初から持たない者の言葉。
伏黒は小さく息を吐いた。
「……まぁ、そうだな」
理屈では危険だと理解していても、やるべきことは変わらない。任務が与えられた以上、遂行するしかない。
そのやり取りの間も、虎杖悠仁は一言も発していなかった。ただ静かに建物を見ている。その視線は揺れず、感情の起伏も見えない。かつてのような高揚も焦りもなく、ただ“そこにあるもの”をそのまま受け止めているような静けさがあった。
彼は感じていた。建物の奥から滲み出る呪力の流れ、内部で蠢く異質な気配、歪みとして存在する“何か”。それらすべてを言葉にすることなく把握し、整理し、受け入れている。
そして。
静かに、一歩を踏み出す。
任務が始まった。
「伏黒、釘崎。行こう」
俺がそう言って歩き出すと、背後から伏黒と釘崎の返事が続き、自然と隊列が決まる形で俺が先頭に立ったまま英集少年院へと向かって進んでいく。だが、目の前にある建物はただのコンクリートの塊には見えなかった。外壁の奥から滲み出るように漂ってくる気配があり、それが空気に混ざり、流れとなってこちらへと届いている。
その質は明確に呪霊のものだが、それだけではない。血と肉の匂い、そして腐敗と死の気配が混ざり合い、鼻を刺すほど強烈ではないにも関わらず、確実に“終わっている”と理解できる密度を持っていた。
この段階で結論は出ている。中に残っている受刑者は、既に生きていない。そう判断するだけの情報が揃っていたし、流れを通して感じ取れる気配も、生者のものではない。呼吸のような揺らぎがなく、温度もなく、ただ澱んで沈んでいる。希望的観測を差し挟む余地はないし、無理にそうしようとすれば判断を誤るだけだと分かっている。それでも、胸の奥に引っかかるものが消えるわけではない。
ここへ来る前、規制線の外で出会ったあの母親の姿が脳裏に浮かぶ。泣き崩れそうになりながら、それでも必死に立ち続け、俺たちに縋るような目で問いかけてきた。
「正は、息子は大丈夫なんですか!?」
あの声に含まれていた感情は、言葉以上に強く、重く、直接胸に入り込んできた。呪霊の存在は一般人には明かせないため、伊知地さんが毒物事故という形で説明していたが、それが嘘であることは当然分かっている。だが、必要な嘘でもある。ああいう役目を引き受けてくれている人がいるからこそ、俺たちは迷わず中に入ることができる。
それでも、あの母親の感情そのものは消えない。処理されることなく、そのまま俺の中に残っている。任務の度に思うことがある。間に合えばいいと、せめて助けられればいいと。だが今回は違う。既に間に合っていないという現実を、はっきりと突きつけられている。それでもやることがなくなるわけではない。これ以上被害を増やさない、それだけは確実にやる必要がある。
その時、施設全体を覆うように帳が下りた。結界が展開される感覚が皮膚を通して伝わり、外界との繋がりが断たれる。空気の質が一変し、外に比べて濃度の高い呪力が満ち始める。視界は暗く沈み、光が遮断されたことで、内部に満ちているものだけが際立って感じ取れるようになる。
中の気配が、より明確になる。
数が多い。
それだけならまだいい。問題は中心にある存在だ。複数の気配が渦を巻くように集まり、その中心で膨れ上がっている何かがある。質が違う。密度も違う。ただ強いというだけではなく、周囲の呪霊を引き寄せ、餌にし、成長しているような歪な核のような存在。
呪胎。
間違いない。
しかも、変態の直前か、あるいは既に片足を踏み入れている段階にある。流れが不安定に膨張し、周囲を巻き込みながら形を変えようとしているのが分かる。このまま放置すれば、完全に“別物”になる。
俺は足を止めずに、そのまま前へ進む。
躊躇はない。
間に合わなかったものは戻らない。
だが、これから先は違う。
ここで終わらせる。
そうして進み、扉を開けて中へ入った。
踏み込んだ瞬間、景色が一気に切り替わった。
異質な空間だった。二階建ての施設に入ったはずなのに、天井の高さも奥行きも現実の建築とは一致しておらず、視界の先には端材を無理やり組み上げたような建物が乱立し、錆びた鉄板や歪んだパイプが無秩序に突き出している。通路は直線を保たず、ねじれ、分岐し、行き止まりかと思えば別の空間へと繋がり、全体として一つの構造を成しているはずなのに、どこにも統一性がない。まるで誰かの歪んだ意識がそのまま形になったスラム街のような空間だった。
「呪力による生得領域の展開……こんな大きなものは初めて見た」
伏黒の声が後ろから聞こえる。その言葉の続きにある考察も、雰囲気で分かる。俺たちがまだ
「扉は……」
伏黒と釘崎が同時に振り返る。俺も同じように後ろへ視線を向けると、さっき通ってきたはずの入口は完全に消えていた。正確には、存在自体が消えたわけではなく、形が書き換えられている。扉だった場所は今や無数のパイプが絡み合った構造物へと変質していて、出入口としての機能は完全に失われている。戻るという選択肢を最初から排除するように、空間そのものが閉じていた。
「これを造り出した元凶を祓うしかないな」
そう言いながら前へ進む。構造を理解する必要はない。出口を探す意味もない。この手の空間は核を断てば崩れる。ならばやることは一つだ。
歩くたびに足裏の感触が変わる。コンクリートだったものが砂利へ、砂利だったものが鉄板へと移り変わる不安定な足場だが、問題にはならない。流れを通して空間の歪みと気配の集まりが分かる。どこに何があるかではなく、どこに“集中しているか”だけを追えばいい。
そうしてしばらく進むと、視界が開けた。
広場のような空間。
だが、その入口で足が止まる。
目に入ったものが、あまりにもはっきりしすぎていたからだ。
それも一つや二つじゃない。無造作に転がされ、積み重なり、原形を留めているものの方が少ない。四肢は引き裂かれ、胴体は歪み、内側のものが露出している。何かに喰われたのか、それとも内部から壊されたのか、区別がつかないほどに破壊されていた。
空気が重くなる。
さっきまで感じていた匂いの正体が、ここで形になる。
血と肉と死。
全部ここにある。
「間に合わなかったか——」
「『ククッまた間に合わなかったな』」
(うるせぇ)
宿儺の声が聞こえる。コイツはこういう時いつも俺を煽ってくる。だがコイツの言葉は気にしない。気にすればコイツの思うツボだからだ。
もう分かっていたことだ。外で感じた時点で結論は出ていた。それでもどこかで可能性を捨てきれていなかった自分もいたが、現実は変わらない。遅かった。それだけだ。
だが……胸の奥に鈍い重さが落ちる。強くなっても、速くなっても、間に合わなければ意味がないという事実が、そのまま形になって突き刺さる。
俺は一歩踏み出し、比較的形を保っている遺体へ近づく。上半身だけが残っているそれの胸元には名札がついていた。指でそれを持ち上げる。
『岡崎正』。
あの母親の子だ。
頭の中に、さっきの声が蘇る。必死に問いかけてきたあの姿と一緒に。俺はしばらくそれを見つめ、何も言わずに元の位置へ戻した。
顔を上げる。
広場の奥。
強い気配。
これをやった存在。
息を吐く。流れが巡る。感情は消えないが、飲まれもしない。やることは決まっている。
その時、頭の奥に低い声が響いた。
「『いるぞ』」
また宿儺の声だ。内側に閉じ込めてはいるが、完全に遮断しているわけじゃない。視界や気配を通して外の情報を拾えるようにはしてある。利害が一致している間はその方が都合がいい。
そして今、奴は自身の指の気配を感じている。
俺も分かる。
薄いが確実にある。
近い。
「伏黒、釘崎。くるぞ」
後ろに声をかけると、伏黒と釘崎の気配がすぐに変わる。余計な確認はいらない。ここまでの流れで全員理解している。
空間が歪む。
ぬるりと。
何もなかった場所に、後から存在だけが押し込まれるように現れる。
呪霊。
そこらの奴等とは格が違う。
呪胎から孵った直後、まだ形は安定していないのに、放っている気配は濃く重い。周囲の空間を侵食しながら存在している。特級に近い。
人型に近いが、人ではない。縦に裂けたような黒い模様に目が複数並び、手足は歪み、関節の位置も狂っている。動くたびに軋む音が鳴り、口から垂れる液体が床を焼く。
関係ない。
俺は構える。
右手を上、左手を下。
施無畏印と与願印。
形を取った瞬間、流れが整う。全身が一つに繋がり、視界が澄む。相手の構造も、弱点も、自然と浮かび上がる。
「浄土へと向かわせてやる」
呟いた自分の声は、思っていた以上に静かだった。怒りも焦りもなく、ただやるべきことを確認するための言葉として自然に口から出ていた感覚がある。目の前の光景、転がる死体、名札に刻まれていた名前、それらが何も感じていないわけではないのに、感情は暴れず、流れの中で均されている。
その直後、呪霊が動いた。
歪んだ四肢のうち一本が鞭のようにしなり、地面を抉る勢いで踏み込みながらこちらへ迫ってくる。その動きは単純な速度だけでなく、周囲の空間ごと引き寄せるような圧を伴っていて、まともに受ければただでは済まないことは一目で分かる。だが、その軌道も力の流れも、既に視界の中で分解されている。
「虎杖!」
伏黒の声が背後から響いた。
反射的に振り向く。
視界の端で、別の呪霊が伏黒と釘崎に向かって襲いかかっているのが見えた。だが、気配の密度が違う。あれは低級、数はあっても脅威にはならない。伏黒の式神と釘崎の術式なら十分に対処できる範囲だと即座に判断できる。
問題はこっちだ。
俺は視線を戻す。
迫る特級呪霊。
距離はもうない。
鞭のように振るわれた腕が目前に迫る。その先端には圧縮された呪力が乗っていて、触れればそのまま肉ごと引き裂かれる。普通なら避けるか、弾くか、間合いを外すべき攻撃だ。
だが俺は、躊躇なくそれを掴んだ。
手のひらに伝わる感触は、骨でも筋肉でもない、ぐにゃりとした軟体質のものだった。まだ組織が安定していないのか、内部の密度にばらつきがあり、力の通り道も不完全で、掴んだ瞬間にその全体像が把握できる。
生まれたばかり。
未完成。
だからこそ、今ここで終わらせる。
「生まれる場所を間違えたな」
言いながら、掴んだ腕を固定する。引き戻そうとする力が伝わってくるが、それも流れで受け止める。押し返すのではなく、通して、逃がさず、拘束する。
そして反対の手を前へ出す。
与願印。
そのまま呪霊の胴体へと掌を添える。
叩きつけるわけでもなく、押し込むわけでもない。ただ“置く”ように触れる。その瞬間、経絡を巡る流れが一点へと収束し、掌を通して呪霊の内部へと流れ込んでいく。
感触が変わる。
外側ではなく、内側。
構造の中心に触れている。
呪霊の動きが一瞬止まる。目がこちらを捉えたまま、全身の流れが乱れ、内部で何かが逆流し始めるのが分かる。
遅い。
対応が間に合っていない。
「第一式——如来掌『仏光初現』」
静かに言葉を乗せる。
掌から流し込まれた力が、呪霊の中で拡がる。負の呪力を基盤にして成立している存在に対して、その流れは明確な“異物”として作用し、内部構造そのものを崩壊させる。
外側から壊す必要はない。
内側からほどける。
次の瞬間、呪霊の身体が膨張したかと思えば、音もなく弾けた。肉片のように見えたそれはすぐに霧のように散り、形を保てずに消えていく。
手応えは軽い。
あまりにも。
だが、それでいい。
俺は掴んでいた腕が消えた空間に手を残したまま、ゆっくりと息を吐く。流れは乱れていない。むしろ、より滑らかに巡っている感覚がある。
そしてさっきまで特級呪霊がいた場所に、何かが落ちた音がした。意識をそちらへ向けると、床に転がっているのは見覚えのある異形で、黒く変色した肉質に不自然なほど伸びた爪を備えたそれは、ただの遺物とは到底言えない濃度の呪いを内包している塊だった。
両面宿儺の指。
それ単体で空気を歪ませるほどの存在感を持ち、周囲の流れを乱す異物。それが呪霊の消滅と同時に姿を現したという事実は、単なる偶然で片付けるにはあまりにも出来過ぎている。
「宿儺の指……なんで此処にあるんだろうな」
自然と口から言葉が出る。呪胎の内部に取り込まれていたのか、それとも誰かが意図的に配置したのか、どちらにしても繋がりが不自然すぎる。任務として与えられた情報の中には、この存在について一切触れられていなかったはずだ。
「分からない」
戦闘を終えた伏黒が即座に応じるが、その視線は俺ではなく周囲に向けられている。警戒を解かず、気配の変化を追い続けているのが分かる。
「此処に保管されていたのか——それとも誰かが置いたのか」
その後者であれば、この件は単なる呪霊の発生ではなく、明確な意図を持った仕込みになる。呪胎の発生、受刑者の取り残し、そして宿儺の指の存在、それらが一本の線で繋がる可能性が頭をよぎるが、今ここで考え込むべきことではないと判断する。
俺は一旦思考を切り上げ、しゃがみ込んで指を拾い上げた。
掌に乗せた瞬間、じわりとした感触が伝わる。皮膚の上にあるはずなのに、内側へ染み込んでくるような粘つきがあり、普通の人間なら嫌悪を覚えるはずのそれに対して、俺は特に拒絶を感じていないどころか、どこか馴染んでいるような感覚すらある。
慣れた、というより。
順応している。
その事実が、少しだけ気持ち悪い。
「というかアンタ強すぎ!いつも一瞬!私たちの出る番ないじゃない!ちょっとは特級と戦わせなさいよ!」
横から飛んできた釘崎の声が、その空気を切り替える。トンカチをこちらへ向けながら不満をぶつけてくるその様子には苛立ちが混じっているが、同時に無事に終わったことへの安堵も含まれているのが分かる。
俺は頭を掻きながら応じる。
「すまんすまん」
意図して独占しているわけではない。ただ、動いた結果としてそうなっているだけだ。
「まぁいいじゃないか釘崎、無事に帰れるなら」
伏黒が静かに言葉を挟む。その声音は落ち着いていて、状況を冷静に受け入れているのが伝わってくる。
「……それもそうね」
釘崎は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。完全に納得したわけではないが、今はそれ以上言うつもりはないらしい。
俺は改めて手の中の指を見る。
これで三本目。
取り込めば、確実に何かが変わる。
だが、それを今やる理由はない。
ポケットにしまう。
布越しでも、その存在感は消えない。じわりとした圧が残り続ける。
その瞬間、頭の奥に声が響いた。
「『早く喰らえ、そして戦え』」
宿儺。
あの領域で見せた余裕は薄れ、純粋な欲求だけが露わになっている。強者と戦うこと、それを求める衝動がそのまま言葉になっている。
(分かってる、後でな)
短く返す。
今の主導権は完全にこちらにある。それを揺らがせるつもりはないし、譲る気もない。
立ち上がり、周囲を見渡す。
呪霊の気配は完全に消えている。空間を歪めていた圧も徐々に薄れ、領域そのものが崩れ始めているのが分かる。核を失った以上、この空間は維持できない。
任務は終わった。
そう判断できる状況だ。
それでも、胸の奥に残るものは消えない。広場に転がっていた遺体、名札に刻まれていた名前、救えなかったという事実、それらが沈殿するように残り続けている。
俺は一度だけ目を閉じる。
息を吐く。
流れは止まらない。
感情も消えない。
だが、それでいい。
目を開く。
「戻ろう」
そう言って、歩き出した。
あまりにも簡単に戦闘が終わってしまう。
前話の感想42件……!?凄まじい数の感想に思わず作者も歓喜してます。感謝!