武術の王『虎杖悠仁』   作:やめろ小僧、その技は俺に効く

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いやぁ虎杖悠仁、なんであんな事になってるんだか……

 

 

 

 

 東京都内某所、昼の喧騒がまだ街路の隙間に残りながらも、店内には夕刻特有の緩んだ空気が流れはじめていた時間帯、とあるファミリーレストランの自動ドアが静かな電子音と共に開いた。外から流れ込んできた空気に混じって、一人の男が店内へと足を踏み入れる。僧正を思わせる袈裟を身に纏い、長く伸ばした髪を後ろでゆるく束ね、穏やかな笑みを張り付けたような柔和な表情を崩さないその男は、遠目に見ればどこかの宗教家にも見えたが、額を横切る不自然な縫い目だけが、その印象に拭いがたい異様さを差し込んでいた。

 

 「いらっしゃいませ、一名様ですか?」

 

 カウンターに立つ店員が、マニュアル通りの明るい声で問いかける。ごくありふれた日常の一幕であり、そこに潜む異質を疑う理由は何一つない。店員にとって目の前の男は少し風変わりな客に過ぎず、その背後にまとわりつく気配も、空気の僅かな重みも、知覚できない以上は存在しないも同然だった。

 

 「はい、()()です」

 

 男は柔らかな声音でそう答えた。

 

 その返答は、半分だけ正しい。

 

 そして半分は、明確な嘘だった。

 

 夏油傑。かつてはそう呼ばれ、今なおその名を名乗り続けている男は、店員の案内に従って奥のテーブル席へと向かった。椅子を引き、静かに腰を下ろす。その動作は終始自然で、グラスの水面がわずかに揺れた以外、周囲の客たちの意識を引くような要素は何もない。家族連れの笑い声、学生たちの雑談、食器の触れ合う乾いた音、厨房から漂う油と香辛料の匂い——そのすべてが普段通りに店内を満たしていた。

 

 だが、そのテーブルには。

 

 夏油以外の“客”が座っていた。

 

 真正面の席、そして斜め隣の席。人間の目には空席にしか見えないその場所に、確かな存在感をもつ異形が鎮座している。ひとつは頭頂部に火山を戴いたような特異な姿をした呪霊であり、その身体の内側では煮え立つような呪力が絶えず脈打っていた。もうひとつは巨大な樹木を思わせる質感を帯び、静かに、だが濃密な圧を宿しながら身を縮めている。どちらも特級。人の営みの只中に、災害そのものが平然と席についているという事実は、見えていないからこそ余計に不気味だった。

 

 夏油は肘をテーブルに乗せ、指を軽く組んで顎を預けると、正面に座る存在へ穏やかな視線を向けた。その仕草に威圧はなく、むしろ旧知の相手を迎えるような落ち着きがあったが、言葉の奥には明確な主導権が宿っている。

 

 「さて……私に何の用かな?」

 

 「呪霊の時代を到来させる」

 

 低く、焼けた石の隙間から漏れる熱気のような声が返る。正面に座る特級呪霊——漏瑚が、何の前置きもなくそう言った。言葉を発するたび、頭頂の火山口が小さく脈打ち、熱を孕んだ呪力が周囲の空気へじわりと滲んでいく。その隣で、花御と呼ばれるもう一体の特級呪霊は、ただ静かに座したまま、会話の流れを見守っていた。

 

 「へぇ……呪霊のね」

 

 夏油はわずかに口角を上げる。興味を示しているようでいて、その実態は冷静な観察だった。視線は柔らかいままなのに、相手の言葉の本質だけを抜き出して見つめている。

 

 「つまり君たちは、今の人間と呪いの立場を逆転させたいと……そういうわけだね?」

 

 「少し違う」

 

 漏瑚が即座に否定する。頭頂の火山が、コポッと湿った音を立てて震えた。

 

 「人間は嘘でできている。表に出る正の感情や行動には、必ず裏がある。善意、慈悲、愛情、その全てが自己保身や欲望と切り離せず、濁りを孕んでおる。だが負の感情は違う。憎悪、殺意、恐怖、嫉妬、それらは混じり気のない真実だ。取り繕うこともできず、誤魔化すこともできぬ」

 

 その言葉は、一つ一つが石のような重さを帯びてテーブルへ落ちていく。

 

 「その純粋な感情から産まれ落ちた我々呪いこそ——」

 

 わずかな間。

 

 漏瑚の眼が、赤く濁った熱を孕んで細まる。

 

 「真に純粋な()()()()()()()()

 

 店内のざわめきは何も変わらない。子供が笑い、皿が運ばれ、注文を取る声が飛び交っている。それなのに、このテーブルだけが別の法則で成り立っているかのような重さを持ち、現実から半歩ずれた空間になっていた。

 

 「偽物は消えて然るべき、そう思わんか?」

 

 問いかける漏瑚に対し、夏油は薄く笑みを深めた。肯定も否定もない。ただ、理解はしていると告げるような表情だった。

 

 「ふむ……そうだね」

 

 一度は同意するように頷く。

 

 だが、そのまま静かに言葉を重ねる。

 

 「でも現状、消されるのは君たちだ」

 

 感情のない事実だけを、そのまま差し出すような声音だった。漏瑚の頭頂の火山がわずかに膨れ、空気が熱を帯びる。怒りはある。だが爆発には至らない。今ここで激情に身を任せるほど愚かではないという自制が、辛うじて漏瑚をその場に留めていた。

 

 「だから聞いておるのだ」

 

 漏瑚が低く言う。

 

 「我々はどうすれば呪術師に勝てる?」

 

 その問いは単純で、しかしその裏には譲れない執念があった。夏油はその視線を受け止め、ほんの一瞬だけ思案する素振りを見せると、やがてゆっくりと二本の指を立てた。

 

 「……戦争の前に、二つ条件を満たせば勝てるよ」

 

 その声音は先ほどまでより僅かに低く、現実的な色を帯びている。

 

 「一つ」

 

 指を一本、静かに立てる。

 

 「五条悟を戦闘不能にすること」

 

 その言葉が落ちた瞬間、見えない空気が僅かに軋んだ。

 

 「もう一つは……」

 

 意図的に間を置く。夏油の視線が、漏瑚の奥にあるものまで見透かすように細められる。

 

 「虎杖悠仁と両面宿儺を、こちら側へ引き込むことだ」

 

 その一言は、見えないテーブルの上へ静かに落ちた石のように、確かな波紋を広げていった。

 

 「ふむ……五条悟は殺せないのか?」

 

 漏瑚の問いは直線的で、余計な装飾を一切持たない。そこには己の力に対する確信と、現状を覆すための最短距離を求める焦燥が混在していた。頭頂の火山がわずかに脈打ち、その度に空気がじり、と焼けるように揺らぐが、発せられる言葉そのものは驚くほど冷静で、無駄な感情を排した純粋な確認に近いものだった。

 

 「君たちには無理だろうね。でも心配はいらない」

 

 夏油は即座に答える。間も、躊躇もない。断言でありながら声音は柔らかく、相手を貶めるためではなく、単に事実を並べているだけの響きを持っていた。その温度差が逆に場へと重く沈み、否定された側に余計な反発を許さない形で圧を生む。

 

 夏油は両手に顎を乗せたまま、わずかに視線を落とす。思案しているように見えるその仕草は、外から見れば思考の過程に見えるが、実際には既に結論は出ており、それをどう提示すれば最も効果的かを選別しているに過ぎなかった。

 

 「五条悟に関しては私に考えがある。彼は殺すより封印に心血を注いだほうがいい」

 

 その一言で、会話の位相が変わる。単純な戦闘の優劣ではなく、戦略の話へと移行したことが明確に示された。

 

 「封印だと?何か手立てがあるのか?」

 

 漏瑚が問い返す。先ほどまでの熱は抑えられているが、その奥にある興味と期待は隠しきれていない。力の行使ではなく、手段そのものへの関心。それは戦うための思考に他ならなかった。

 

 「あるとも」

 

 夏油は軽く笑い、視線を正面へ戻すと、躊躇なくその名を口にした。

 

 「特級呪物『獄門疆』を使う」

 

 瞬間、空気が震える。

 

 漏瑚の頭頂の火山がゴポゴポと不規則に鳴動し、抑えきれない熱が噴き出す。小規模な噴火が起こり、テーブルの表面が一瞬で焼け焦げるほどの熱量が放たれるが、それでも周囲の客たちは何一つ異変を認識しないまま食事を続けている。この場だけが、別の世界のように隔絶されていた。

 

 「持っているのか!!あの忌み物を!!」

 

 漏瑚の声には明確な高揚が混じる。それは恐怖ではない。純粋な渇望だ。強大な力に触れる機会、その一点に対する本能的な欲求が、抑制を押し退けて表に出ていた。

 

 「あまり興奮するな漏瑚、暑い」

 

 夏油は眉一つ動かさずに言う。その声音は変わらず穏やかで、しかし場の主導権を一切手放さない重さを持っていた。言葉そのものは軽いが、その裏にある支配の構図は揺らがない。

 

 その時、店員が恐る恐る近づいてきた。誰もいない席に向かって会話を続ける客、その異様さを完全に無視することができず、確認のために足を運んできたのだろう。だがその違和感は、理解へ至る前に断ち切られる。

 

 「ご注文は——」

 

 最後まで言い切ることはできなかった。

 

 漏瑚の指が、わずかに上へと動く。

 

 それだけだった。

 

 次の瞬間、店内にいたすべての人間の身体が、内側から滲み出るように燃え上がる。爆発的な炎ではない。静かで、だが逃げ場のない熱が皮膚の内側から噴き出し、肉を焼き、骨を炭化させる。悲鳴は上がらない。声を発する前に、すべてが終わる。椅子に座ったまま動きを止めた者、皿を持った姿勢のまま崩れ落ちる者、そのどれもが日常の延長で途切れたように静止している。

 

 音はない。

 

 ただ、焦げた匂いだけが空間を満たしていく。

 

 「……あまり騒ぎを起こさないでほしいな」

 

 夏油が静かに言う。その声音に感情はない。ただ手間を増やすなという、合理的な不満だけが含まれている。

 

 漏瑚は一瞬だけ沈黙し、やがて火山の動きを抑え込むようにして圧を収めた。横に座る花御は、終始無言のまま、ただその場に在り続けている。燃え尽きた人間たちに視線を向けることもなく、ただ自然の一部のようにそこに存在していた。

 

 「……そうか」

 

 漏瑚が低く呟く。

 

 そして視線を上げる。

 

 「なら儂の強さは宿儺の指何本分だ?」

 

 それは己の位置を測るための問いだった。慢心ではない。戦うための尺度を求める、極めて合理的な確認。

 

 夏油はわずかに間を置き、相手の力量を測るように視線を細める。

 

 「甘く見積もって8〜9本分ってところかな」

 

 軽い口調で言うが、その評価は現実的であり、同時に重い意味を持つ。

 

 漏瑚の口元が歪む。

 

 「充分」

 

 短く言い切る。

 

 「獄門疆を儂にくれ。蒐集に加える」

 

 そして続ける。

 

 「その代わり、五条悟は儂が殺す」

 

 静かな宣言だった。だがその内容は、この場にいる誰よりも重い。

 

 「へぇ……君が五条悟を?」

 

 夏油はわずかに首を傾げ、興味深そうにその言葉を受け止める。否定も肯定もせず、ただその可能性を測る視線を向けるだけだ。

 

 短い思案。

 

 そして結論。

 

 「分かった」

 

 あっさりと告げる。

 

 「君が五条悟を殺せたなら」

 

 わずかな間。

 

 「獄門疆を君にあげよう」

 

 その言葉は静かに、しかし確定事項のように場へ落ちた。

 

 だが、夏油の内側では別の思考が動いている。五条悟だけではない。今や計画において無視できない存在となった少年、虎杖悠仁。その肉体に宿るもの、その成長の速度、その変質の方向性。

 

 自身が()()()()()()()だ。

 

 だが想定通りには進んでいない。

 

 それが、今の問題だった。

 

 

 

 そうして漏瑚と花御、そして席の気配の陰に紛れるように存在していたもう一体——ずんぐりとした体躯に触手を揺らす、まるで深海の生物をそのまま引き上げたかのような呪霊・陀艮が、何事もなかったかのように店を後にした。扉が開き、閉じるまでの一連の動作はあまりにも自然で、もしこの場の惨状を知らなければ、ただの客の出入りにしか見えなかっただろう。

 

 しかし店内に残されたのは、決して日常へ戻ることのない光景だった。焼け焦げた匂いが重く沈み、炭と化した人の形が椅子や床に貼り付くように残っている。時間だけが切り取られたかのように、全てが“その瞬間”で止まっていた。

 

 その中心に、ただ一人。

 

 夏油傑が残っている。

 

 夏油は去っていった呪霊たちの背をしばし見送り、その後でゆっくりと視線を落とし、テーブルの上に置かれたグラスへと手を伸ばした。透明な水面はわずかに揺れているが、それは先ほどまでのやり取りの余韻か、それともこの空間に残る歪みの影響か、明確には分からない。

 

 グラスを持ち上げる。

 

 口元へ運ぶ。

 

 そして、一口。

 

 何事もなかったかのように、水を含んだ。

 

 「五条悟を殺せても、問題はまだあるんだけどね」

 

 静かに呟く。

 

 その声音には焦りはない。むしろ、次の段階へと進むための整理を行っている冷静さがあった。

 

 「いやぁ虎杖悠仁、なんであんな事になってるんだか……」

 

 わずかに肩を竦める。

 

 だがそれは本当に理解できていないという意味ではなく、“理解はしているが想定を超えている”という種類の反応だった。何だかよく分からない武術を会得し、それを呪力と結びつけて扱い、さらには両面宿儺という存在をいとも容易く抑え込んでいる少年。

 

 それは異常であり、同時に興味深い。

 

 宿儺を抑え込むこと自体は、ある程度想定の範囲内だった。そもそも、その状況へと至る道筋を作ったのは他でもない夏油自身であり、結果として“器”が機能することは計算に含まれていた。

 

 だが。

 

 「……あの強さは、かなり想定外だ」

 

 ぽつりと零す。

 

 器が成立することと、その中身がここまで仕上がることは、全くの別問題だった。肉体、技術、そして流れの扱い、その全てが噛み合いすぎている。単なる偶然や素質では説明がつかない領域に、既に片足を踏み入れている。

 

 だが——

 

 「面白くもある」

 

 口元が、わずかに歪む。

 

 それは不気味な笑みというよりも、純粋な興味に近い表情だった。計算通りに進む盤面も悪くはないが、予測を外れた駒が現れることで生まれる可能性は、それ以上に価値がある。

 

 夏油はグラスをテーブルへと戻し、ゆっくりと立ち上がる。椅子が軽く軋み、静まり返った店内に小さな音が響いたが、それを気にする様子はない。

 

 視線を一度だけ巡らせる。

 

 焼け焦げた残骸、止まったままの時間、崩壊した日常。

 

 その全てを一瞥し、特に何も感じた様子もなく、夏油は踵を返した。

 

 「さて……」

 

 扉へ向かって歩き出す。

 

 その足取りは変わらず穏やかで、まるで散歩の途中で店を出るだけのような自然さを保っている。

 

 「考えることは山積みだ」

 

 静かに呟く。

 

 その言葉を最後に、夏油傑は何事もなかったかのように店を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三本目の宿儺の指を取り込んでから、1週間が経った。その間、身体の内側で起きている変化は静かだが確実で、経絡を巡る流れは以前よりも一層滑らかになり、力が滞ることなく循環しているのが分かる。無理に意識を向けずとも、呼吸と同じように自然に全身を巡るその感覚は、もはや“力を使う”という段階を越えて、“常に在るもの”へと変わりつつあった。

 

 その変化の中で、変わらないものもある。

 

 『早く戦え』『もっと美味い肉を食え』『強い敵と殺し合え』

 

 頭の奥で響く宿儺の声だ。好き勝手に喋り、好き勝手に欲求を押し付けてくるその在り方は相変わらずで、静かな時間の中にあっても遠慮なく割り込んでくる。その度に意識を引き戻されるのは正直鬱陶しいが、それでも完全に遮断しようとは思わない。

 

 理由は単純だ。

 

 嫌じゃない。

 

 むしろ、どこかで慣れている。

 

 昔から修行は一人だった。誰かと並んで何かをするという感覚はほとんどなく、自分の内側だけを見つめて、ただひたすら繰り返す日々が当たり前だった。朝早く起きて身体を動かし、水を叩き、呼吸を整え、流れを確認する。それが終われば学校へ行き、最低限の時間を過ごして、また山へ向かう。人と関わる時間は必要な分だけで、それ以上を求めることはなかった。

 

 そう、そうなったのは如来神掌の冊子を怪しい老人から手に入れてからだ。

 

 書かれている内容は常軌を逸していたが、それを疑うことはなかった。やれば分かる。やれば変わる。その実感があったから、他のことに時間を割く理由がなかった。気づけば、日常のほとんどが修行に費やされていたが、それを苦だと思ったことは一度もない。

 

 ただ、話し相手は少なかった。

 

 家に帰れば祖父がいた。何をするわけでもなく、ただそこにいて、飯を食って、他愛もない話をする。それだけで十分だった。言葉の数は多くなかったが、それでも確かに繋がっている感覚があった。

 

 だが、それももうない。

 

 いなくなったものは戻らない。

 

 それは理解しているし、受け入れてもいる。

 

 だから今、この頭の中で好き勝手に喋り続ける存在がいることを、完全に否定する気にはなれなかった。

 

 「『おい小僧、聞いているのか』」

 

 (聞いてるよ)

 

 短く返す。

 

 それだけで、あいつは満足する。

 

 単純だ。

 

 だが、その単純さが妙にしっくりくる。

 

 俺は今、演習場に立っている。夜で、人の気配はない。空を見上げれば月が出ていて、風は弱く、音はほとんどない。こういう環境が一番集中しやすい。余計なものがない分、流れを感じることに意識を割ける。

 

 ゆっくりと構える。

 

 右手を上へ、左手を下へ。

 

 形を作ると同時に、身体の中の巡りが一段深くなる。意識せずとも繋がる。途切れない。流れはそのまま、外側の空間とも重なっていく。

 

 静かに動く。

 

 一の型。

 

 そこから二、三と繋げていく。

 

 力は込めない。形と流れだけをなぞる。だがそれでも、動きの一つ一つに無駄がないことが自分でも分かる。以前は意識して調整していた部分が、今は何も考えなくても自然に整っている。

 

 「……いい感じだな」

 

 小さく呟く。

 

 「『クックックッ……精々足掻け』」

 

 すぐに返ってくる声。

 

 その声音には、どこか満足げな響きがあった。

 

 (うるせぇな)

 

 軽く返す。

 

 それでも、嫌ではない。

 

 静かな夜の中で、ただ一人で動き続けるはずだった時間に、もう一つの声が混ざっている。その事実が、ほんの少しだけ感覚を変えている。

 

 孤独ではない。そう思うわけじゃない。

 

 だが、完全な無音でもない。

 

 それだけで十分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 虎杖悠仁が演習場で一人、静かに型を反復しているその最中――その姿を高所から見下ろしている者がいた。呪術高専の建物、その一角の窓際に立つ男。特級術師、五条悟である。夜の静寂を背に受けながら、彼は身じろぎ一つせず、ただ一点を見据えていた。

 

 その視線は、表面的な動きなど捉えていない。

 

 見ているのは、もっと奥だ。六眼に映るのは、肉体ではなく“構造”。

 

 流れ。巡り。

 

 そして、その在り方そのもの。

 

 虎杖悠仁の身体の内部を走るものは、単なる血流ではなかった。血管に沿って流れるのは呪力、そしてそれと異質な何かが混ざり合った複合的な循環であり、それらが一切の滞りなく全身を巡り続けている。通常の術師であれば、呪力は生成され、練られ、必要な分だけ制御された上で放出される。つまり、静と動が明確に分かれている。

 

 だが虎杖悠仁のそれは違う。

 

 常時、開かれている。水門が閉じることなく、流れ続ける水路のように。しかもその流れは乱れない。

 

 過剰な量が循環しているにも関わらず、どこにも淀みがなく、摩擦もなく、破綻もない。むしろ、流れていることそのものが安定に繋がっているかのような奇妙な均衡を保っていた。

 

 その量は、明らかに異常だった。外へ溢れてもおかしくない。暴走しても不思議ではない。

 

 だが現実には、そのどちらも起きていない。

 

 深い。底が見えない。それはまるで、静かな海のようだった。

 

 (どこが動力源なのか分からない)

 

 五条の内心に浮かんだのは、極めて純粋な疑問だった。呪力とは本来、負の感情を起点とする。怒り、恐怖、嫌悪、そういった感情が燃料となり、術師の内側で形を成す。だからこそ、その発生源はある程度可視化できる。

 

 だが虎杖悠仁には、それがない。起点が見えない。

 

 どこから生まれ、どう維持されているのか、その根幹が掴めない。

 

 それにも関わらず、流れは存在し、しかも止まらない。

 

 外部から供給されている様子もない。

 

 にも関わらず、減衰する気配すらない。

 

 まるで永久機関のように、内部だけで完結しながら回り続けている。

 

 (不自然極まりないね)

 

 思考が進む。

 

 そして、その流れの中に混ざる異物へと視線が向く。

 

 禍々しい呪力。両面宿儺のもの。

 

 それは明確に異質だった。質が違う。重さが違う。濁りの種類が違う。にも関わらず、それは虎杖の内部で排除されることも、暴走することもなく、流れの中に組み込まれている。血流の中を走る赤血球のように、一定の速度で巡り続け、全体の循環の一部として機能している。

 

 侵食されているわけではない。かといって、完全に分離されているわけでもない。

 

 抑え込まれている。だが、それ以上に……

 

 “取り込まれている”。

 

 そう見えた。

 

 (普通なら逆なんだけどね)

 

 宿儺の呪力が主体となり、肉体を侵食する。それが通常の流れだ。器というのは本来、支配される側であり、内側から乗っ取られていくのが自然な形だ。

 

 だが虎杖悠仁は違う。流れの主導権が完全にこちら側にある。

 

 宿儺ですら、その循環の中の一部に過ぎない。

 

 それは、異常を通り越していた。

 

 (術式もない)

 

 それも確定している。虎杖悠仁に生まれつきの術式は存在しない。

 

 (それなのに、まるで術式効果があるような現象を起こす)

 

 如来神掌。

 

 武術。

 

 経絡。

 

 流れ。

 

 それらが組み合わさることで、本来術式でしか到達できない領域の現象を、再現している。いや、再現という言葉すら正確ではない。

 

 別系統で、同等以上の結果を出している。

 

 (面白いね)

 

 五条はわずかに口角を上げる。

 

 視線は変わらない。ただ見続ける。

 

 夜の演習場で、静かに型を繰り返す少年を。

 

 (悠仁、君は本当にめちゃくちゃな存在だよ)

 

 だが、その想定外は不快ではない。

 

 むしろ。

 

 歓迎すべき変化だった。




皆様のおかげで投稿してから凡そ1週間で200,000PVを達成する事ができました。感想220件、評価225件と、とんでもない数が来ていて作者は狂喜乱舞しております。日間一位もなることができて、良い景色を見させていただきました。これらも全て、この作品を読んでくれている皆様のお陰です。今後も引き続きよろしくお願いします。



虎杖を強くしすぎてメロンパン同様に展開に悩んでるなんて口が裂けても言えません。
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