ウマ娘競バ史 1968 〜『ウイポ10 2026』体験版プレイ記〜   作:geko

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1話 不器用な共犯者

 1968年、1月。

 木造建築特有の、芯から冷え切った隙間風が廊下を吹き抜けていく。

 出町柳の古い学生街にある木造の下宿屋。その離れを間借りして、私はそこで寝起きし、彼女たちのトレーナーとして仕事をしている。京都レース場校へは毎朝、京阪電車で通う。

 共同の洗い場で顔を洗い、石油ストーブの匂いが染み付いた古びたドアを開けた瞬間だった。

 キュッ、キュッ、という鋭い摩擦音がトレーナー室に響き渡っていた。

 

 徹夜明けの頭で、一瞬何が起きているか分からなかった。視線を落とすと、担当ウマ娘のタニノハローモアが板間を雑巾がけしていた。

 異様に低い姿勢で。異様な速度で。艶のある黒髪を顔の横で揺らすのも構わず、すらりとした長い手足をめいっぱい折りたたんで、部屋の端から端まで往復している。身を包んでいるのは、機能性だけを追求したひどく野暮ったいジャージだ。

 

「ハローモア。……朝から何をしているの」

 

 私は机の上のストップウォッチを無意識に手に取りながら声をかけた。

 

「ちゃうよ。ちゃうって。ただ床の木目が気になっただけやんか。……ほら、ここ、汚れてるやろ?」

 

 顔も上げずに言い返しながら、キュッキュッと冷たい板間を擦る音が続く。しばらくして、独り言のように呟いた。

 

「……昨日、ええタイム出たけど」

 

 そこで一度、手が止まった。

 

「……不安なんよ」

 

 また始まった。私はそう思った。彼女のスランプはいつも好調の翌日に来る。

 

「……あかん」

 

 キュッ、キュッ、キュッ。擦る速度が上がっていく。

 

「……とにかくあかん」

 

 私は机の上の分厚いノートに手を伸ばした。徹夜で書き込んだ京成杯のペース配分が、几帳面な字でびっしりと並んでいる。この理論で、彼女の暴走を止めるべきだ。しかし足元で必死にもがく彼女の姿を見ていると、指先に変な力が入ってきて、ノートの端をいつの間にか折り曲げていた。

 

「……私も拭く」

 

 気がつけばノートを机に放り、彼女の隣で膝をついていた。

 

「って、何してるん!?」

「いいから手を動かして」

 

「……また始まった」

 

 開け放たれたドアの向こうから、呆れを含んだ涼やかな声がした。

 もう一人の担当ウマ娘である、ファインローズがトレーナー室の入り口に立っていた。上質なカーディガンを羽織り、背筋をスッと伸ばしたまま、床に這いつくばる私たち二人を静かに見下ろしている。

 手には水筒。寝起きとは思えない、隙のない顔をしていた。アッシュブラウンの髪が、朝の光の中できちんと整っている。

 

「そんなに床を磨いても、タイムは縮まらないわよ」

「縮まるかもしれんやん! 少なくとも体幹は鍛えられとる!」

 

 ハローモアの反論に、ファインローズは「……そう」とだけ呟いた。

 彼女はそのまま部屋に入り、ちゃぶ台の前に静かに腰を下ろした。水筒のキャップをゆっくり開ける。ほのかに立ち上る紅茶の湯気と香りが、汗臭いトレーナー室の空気を一瞬だけ上書きする。音を立てずに一口飲み、ゆっくりと息を吐く。その間、彼女の視線はただ静かにハローモアを捉えていた。

 表情は涼しげなままだったが、キャップを包み込む指先にだけ、ほんの少し力がこもっているのを私は見逃さなかった。

 

「まあ、せいぜい頑張りなさいな」

 

 薄く笑いながら放たれたその言葉で、部屋の空気がかすかに締まった。

 

「――あんたたち!」

 

 その直後、廊下の奥から下宿屋の女将さんの怒声が飛んできた。

 

「朝っぱらから床板ギシギシ鳴らして何やってんの! トレーナーさんも一緒に這いつくばって、ウチの寮を壊す気かい!」

 

 びくっと肩を揺らすハローモアと私。ファインローズだけは「ほらね」とでも言いたげに、涼しい顔で肩をすくめた。

 

「もう起きてるなら、さっさと食堂に降りてきな! ご飯冷めるよ!」

 

 ピシャリと言い放ち、女将さんは足音荒く去っていく。

 

「……怒られてもうた」

 

 ハローモアが雑巾を片手にしょんぼりとうなだれる。私は溜息をつき、ズボンの膝の埃を払いながら立ち上がった。

 

 下宿屋の一階にある食堂。長い木机の上には、すでに山盛りの朝食が並べられていた。

 どんぶり飯に、具沢山の味噌汁、焼き魚、納豆、そしてなぜか小鉢にはうどんまで付いている。

 

「これ、絶対炭水化物多すぎやろ……」

 

 ハローモアが山盛りの白米を前に、げんなりした声を出した。

 

「でも、食わな走れんしなぁ……」

 

 文句を言いながらも、彼女は箸を手に取り、猛然と白米をかき込み始める。

 

「文句を言うなら食べなきゃいいのに」

 

 向かいの席で、ファインローズが呆れたようにため息をついた。彼女の前の茶碗は、ハローモアの半分ほどの品の良い盛り方だ。焼き魚を丁寧にほぐし、一口ずつゆっくりと咀嚼している。

 

「そういうわけにはいかないわ」

 

 私は手元の分厚いノートを開き、ページをめくった。

 

「京成杯まであと一週間。ここからのハードなメニューに耐えるには、このカロリーが必要なの。私の計算では、これでもまだギリギリなくらいよ」

「またそのノート……」

 

 ハローモアが口いっぱいにご飯を頬張ったまま、恨めしそうにこちらを睨む。

 

「トレーナーの計算、たまにスパルタすぎんねん。昨日かて、併走の後にまだ足りひんて言うて、神社の石段を何往復も……」

「万物は繋がっていると言ったでしょ。あの石段の傾斜角と段数は、下半身の強化に最適なの」

「ほら、またそれや!」

 

 どんぶりを置き、ハローモアが身を乗り出す。

 

「あなた、そんなに食べて京成杯で体が重くなっても知らないわよ」

 

 ファインローズが冷たいお茶をすすりながら、容赦ない言葉を投げかける。

 

「重ならへん! この後また廊下で空気椅子やるから!」

「だから、ウチの寮を壊す気かって怒られたばかりでしょ」

 

 朝の食堂に、三人の噛み合わないやり取りが響く。

 外の寒さとは裏腹に、ストーブの熱気と炊きたてのご飯の匂いが充満するこの空間だけは、妙な熱を帯びていた。

 

 京成杯まで、あと一週間。

 

 

 あれから数日が過ぎた。

 結局、ハローモアのスランプの出口は見えないまま、私たちは東海道新幹線『ひかり』の車内にいた。関西から関東、中山への遠征。青と白の真新しい流線型の車体が、冬晴れの東海道を滑るように駆け抜けていく。

 横並びの青いモケットシート。窓際にファインローズ、真ん中にハローモア、そして通路側に私という並びだ。

 

 出発してしばらくは静かだった。ファインローズは膝の上に上品なブランケットをかけ、乗り込んだ瞬間から文庫本を開いている。私はノートを広げてペースの計算をしていた。

 問題はハローモアだった。

 

「……なあ、ローズ。何読んでんの」

「小説よ」

「どんな話?」

「あなたが読んでも分からないわ」

「分かるかもしれんやん」

「分からないわ」

 

 一度の間も置かず切り返すファインローズに、ハローモアは口をへの字に曲げた。しばらく窓の外を眺めていたが、三分と持たなかった。

 

「……なあ、トレーナー。ノートに何書いてんの」

「計算よ」

「何の計算?」

「あなたのレースの計算」

「ウチのやつ? ちょっと見せて」

「駄目」

「なんで」

「見ても分からないから」

 

 ハローモアが「ローズと一緒のこと言うやん……」と唇を尖らせた。窓の外に視線を逃がす。しばらくして、声が少し変わった。

 

「……富士山や」

 

「そうね」とファインローズがページをめくった。

 

「でかいな」

「そうね」

「……ウチより、でかいな」

「当たり前よ」

 

 沈黙。ハローモアの貧乏揺すりが始まった。

 そこへ救いの神が来た。通路を車内販売のワゴンが近づいてくる音がした。

 

「あ、お弁当や」

 

 ハローモアの目が輝いた。私はノートから顔を上げた。

 

「まだ昼前よ」と私は言った。

 

「でも駅弁は駅弁やろ。新幹線乗ったら食べなあかんやつやん」

「そういうルールはないわ」

「あんねん。ウチの中には」

 

 結局、ハローモアは幕の内弁当を一つ、私はポリ茶瓶のお茶だけを買った。ファインローズは「結構です」と涼しく断った。

 ハローモアが弁当の蓋を開けた瞬間から、あたりに醤油と出汁の匂いが漂い始めた。それを横目にファインローズが微かに眉を動かしたが、すぐに文庫本へ視線を戻した。

 

 五分後、弁当は綺麗に空になっていた。

 

「……食い過ぎた」

 

「知ってた」とファインローズが文庫本から目を離さずに言った。

 

「でも美味しかったから仕方ない」

「論理が破綻しているわ」

「……あかん。カロリー消費せな」

 

 ハローモアが立ち上がりかけた。

 

「ちょっと通路で空気椅子してきてええ?」

「駄目よ。大人しく座っていなさい」

 

 立ち上がろうとしたハローモアを制したのは、ファインローズだった。彼女は文庫本を閉じ、冷めた目で隣を見やった。

 

「新幹線より速く走れるわけじゃないんだから、大人しくしていなさいな。揺れて本が読めないわ」

「でも……っ」

「それに、そんなに焦って脚を動かしたって、明日の京成杯で勝てる保証なんてどこにもないでしょ」

 

 ファインローズの言葉は相変わらず容赦がなかった。しかし、それは彼女なりの不器用なストッパーの役割でもあることを、私は知っている。ハローモアは唇を噛み、少しだけ肩を落として再び座席に深く沈み込んだ。

 

 私は小さく息を吐き、膝の上で分厚いノートに視線を戻した。

 京成杯、中山の2000メートル。直線の短いコース。鉛筆を走らせ、数式とペース配分を書き込んでいく。

 

「……トレーナー」

 

 不意に、ハローモアが顔を覗き込んできた。

 

「その分厚いノート見とる時、いっつもちょっと怖い顔するよな。……ウチのローテ、そんなにヤバい?」

 

 私は鉛筆を握る手を止めた。ノートのページの端が、いつの間にか折れ曲がっていた。

 

「……あなたたちが、変なことにならないようにね」

 

 それだけ言って、私は再び鉛筆を走らせた。

 

 ハローモアは「変なこと?」と首を傾げたが、深くは追及してこなかった。

 隣のファインローズは何も言わず、持参した水筒のキャップに注いだ紅茶を一口含み、静かに文庫本へと視線を戻した。

 

 それから東京駅に着くまで、ハローモアが空気椅子をしようと立ち上がることは、二度となかった。

 

 

 1月3週、中山レース場。

 重賞、京成杯のパドックへ続く地下バ道には、冬の底冷えする空気が澱みのように溜まっていた。

 

 頭上からは、地鳴りのような歓声と怒号が絶え間なく降り注いでいる。

 1968年のレース場は、決して上品な場所ではない。分厚い外套を着込んだ男たちがひしめき合い、吐き出す白い息は安タバコの紫煙と混ざり合って空を霞ませている。足元にはハズレの投票券が雪のように散らばり、独特の熱気と焦燥感が渦巻く鉄火場だ。

 

「……ふぅーっ」

 

 薄暗い通路の壁際で、ハローモアが深く息を吐きながら屈伸をしていた。

 身に纏っているのは、規定の体操着だ。見ているこちらが震えそうになる格好だが、彼女の肌にはうっすらと汗が滲み、新幹線の車内で弁当をかき込んでいた時の幼さは、そこにはもう欠片も残っていない。

 

「……時間です。出走ウマ娘はパドックへ」

 

 係員の声が響く。

 

「ほな、行ってくるわ」

 

 ハローモアは短く告げると、光の差し込む出口へと歩き出した。

 

 パドックにハローモアが姿を現した瞬間、すり鉢状に囲んだ観客席から、容赦ない値踏みの視線が降り注いだ。

 

「おい、あの子」

「タニノハローモアか。……細いな」

「関西からの遠征組だろ。あれで2000メートル持つのか?」

 

 当初、男たちのざわめきはそんないつも通りの、無遠慮なものだった。

 

 しかし。

 ハローモアがパドックの周回コースへ足を踏み入れ、大観衆の視線を一身に浴びて最初の一歩を踏み出した、その時だった。

 

 観客たちのざわめきが、ある一瞬、ふっと息を呑むような静寂に変わった。

 波紋が広がるように、パドックを囲む空気が一変する。耳に挟んだ赤ペンを落とす者。咥えていたタバコの煙を吐き出すのを忘れる者。

 

「……おい、あの子」

「タニノハローモア……?」

「なんだよ、あの雰囲気……」

 

 戸惑いと、畏怖。隣にいた見知らぬ観客のそんな呟きを耳にして、私は「ああ、またか」と内心で独りごちた。

 歩様を変えたわけではない。ただ、彼女がそこを歩いているだけで、艶やかな黒髪と、すらりとした長い手足が、その体操着すらも完璧に計算された勝負服のように錯覚させるのだ。

 気がつくと、パドックの柵を握りしめていた。

 ただ、彼女の重圧が、掌の冷たさを通じて伝わってくるようだった。

 

 その時、パドックの入り口から、先ほどとは全く質の違う歓声が沸き上がった。

 戸惑いではない。すでに実力を知れ渡らせている『本命』を迎え入れる、重く、熱を帯びたざわめき。視線を向けずとも、途轍もない格と覇気を纏った何者かがパドックに足を踏み入れたのが分かった。釘付けになっていた観客たちの視線が、物理的な力に引かれるようにそちらへ流れていく。

 

 だが、ハローモアの歩様は微塵も揺らがなかった。

 

 周回を終え、本バ場へ向かう直前。

 ハローモアが不意にこちらを向き、私と真っ直ぐに目が合った。

 

 何も言う必要はなかった。

 私はただ、小さく一度だけ頷いた。彼女も静かに瞬きをして、ターフへと踵を返す。

 

 やがて、冬の中山レース場にGⅢのファンファーレが鳴り響き――。

 ガシャン、と。

 冷たい空気を切り裂いて、スタートゲートが開く音がした。

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