ウマ娘競バ史 1968 〜『ウイポ10 2026』体験版プレイ記〜   作:geko

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2話 七バ身の景色

 冷たい空気を切り裂いて、中山レース場のスタートゲートが開いた。

 2000メートル。大外、17番枠。

 圧倒的な不利な位置から、タニノハローモアはロケットのように飛び出した。

 

 冬の身を切るような寒さの中、すり鉢状のスタンドを埋め尽くした観客たちが一斉にどよめいた。

 

「外から行くぞ!」

「アホか、もつわけねえ!」

 

 という容赦ない野次と怒号が、冷たい風に乗ってターフへ降り注ぐ。1968年の鉄火場は、ウマ娘の無謀な挑戦を温かく見守るような甘い場所ではない。

 だが、小細工は一切なし。彼女の強みは、無尽蔵のスタミナで他者をすり潰すような逃げだ。外枠の距離ロスを強引な加速で埋め、最初のコーナーまでにハナを奪い取る。それしか勝機はないと、直前まで何度も確認していた。

 双眼鏡越しに見る彼女の動きは、力強かった。……いや、力強すぎた。

 

「……ハローモア、力んでる」

 

 思わず声が漏れた。

 新幹線の車内で弁当を平らげ、パドックでは威圧感すら放っていた彼女の体には、スランプ特有の「重さ」が確実にまとわりついていた。不安を振り払おうとするかのように、腕の振りがいつもより大きく、固い。

 無駄な力みが推進力を殺し、外枠の距離ロスが容赦なく脚を削っていく。

 

 私のすぐ隣で、ファインローズもまたターフを見つめていた。

 分厚い外套を着込んだ男たちが丸めた新聞紙を振り回すスタンドの中で、上質なコートを羽織った彼女の姿はひどく浮いていたが、本人は気にする素振りもない。ただ、冷ややかなほど静かな瞳で、バ群の外を必死にもがく同室のウマ娘を追っている。

 

「……息が入っていませんね」

 

 ファインローズがぽつりと呟いた。

 

「え?」

「普段の彼女なら、あのペースでもどこかで息を入れて休む瞬間がある。でも今は、ただ焦りに急かされて、無酸素のまま突っ走っているだけ……まるで、見えない何かに追われているみたいに」

 

 第1コーナー。必死に先頭を窺うハローモアの内に、スッと二人のウマ娘が入り込んだ。

 先頭を奪えなかった。不本意な3番手。

 自分の形を崩されたハローモアのリズムが、明らかに狂い始めるのが見えた。

 

 レースはそのまま膠着状態となり、勝負所の第4コーナーへと差し掛かる。

 スタンドの熱気が一段と跳ね上がった。バ券を握りしめる手、怒声、悲鳴。すべてが渾然一体となってレース場を揺らす。

 ここで動くしかない。ハローモアが外に持ち出し、意地で先頭に並びかけようと脚を使った、その瞬間だった。

 

――バ群の真ん中が、割れた。

 

 双眼鏡の視界に、黒い影が飛び込んできた。

 道中、息を潜めるようにバ群の中で完璧に脚を溜めていたウマ娘。パドックで圧倒的な歓声を浴びていた本命、アサカオーだった。

 その足運びは次元が違った。

 

 芝を蹴っているのではない。芝の上を滑走しているかのような、音のない恐るべき加速。

 ハローモアが必死に腕を振り、歯を食いしばってもがいているそのすぐ横を、アサカオーはまるで散歩でもしているかのような涼しい顔ですり抜けていく。

 

「――――」

 

 隣で、ファインローズが微かに息を呑む音がした。

 常に涼しい顔を崩さない彼女の目が、はっきりと見開かれている。コートのポケットに突っ込まれていた両手がいつの間にか出され、手すりを白くなるほど強く握りしめていた。

 

 私は気づけば双眼鏡を握る手に力を込めていた。

 

「おい、嘘だろ……」

「なんだあの脚……」

 

 先ほどまでハローモアに野次を飛ばしていた男たちが、一様に言葉を失い、呆然とターフを見つめている。幾千もの怒声すらも呑み込むような、圧倒的な暴力。

 徹夜で組み上げたペース配分。下半身を強化するための石段の上り下り。それらすべての理論と努力が、たった数秒の加速で紙屑のように置き去りにされていく。

 

 直線。アサカオーの背中が、みるみるうちに遠ざかっていく。

 一バ身、三バ身、五バ身――。

 

 勝負は、残酷なほどあっけなく決した。

 ハローモアも意地を見せて2着には粘り込んだものの、先頭でゴール板を駆け抜けたアサカオーとの間には、どう言い訳しても埋まらない決定的な空間が空いていた。

 

 7バ身差。

 

 冬の中山に響き渡る大歓声の中、私はただ、双眼鏡を下ろすことしかできなかった。

 

 

 ターフから地下バ道へと続く薄暗い引き上げ口。

 頭上からは、勝者であるアサカオーを讃える地鳴りのような歓声が、コンクリートの天井を震わせて降り注いでいた。

 

 先に検量室へと戻ってきたのは、そのアサカオーだった。

 7バ身差という圧倒的な着差。どれほどの尋常ならざる脚を使ったのか想像もつかないが、彼女の息は微塵も乱れていなかった。

 汗ひとつかいていない涼やかな顔のまま、フラッシュの瞬く記者たちの群れを静かに通り過ぎていく。その立ち振る舞いには、泥臭く己を鍛え上げた痕跡というものがひどく希薄に見えた。ただそこに存在しているだけで、誰もが自然と目を奪われる。血統という天賦の才。生まれながらに持つ者の圧倒的な強さ。

 大外から強引に脚を使い、無酸素で突っ走った挙げ句に置き去りにされたハローモアの苦闘など、最初から視界にすら入っていなかったかのような残酷な優雅さだった。

 

 それからしばらくして。

 歓声の余韻が冷めやらぬターフの入り口から、重く、引きずるような足音が近づいてきた。

 

 ハローモアだった。

 2着。大外17番枠からのスタートであることを思えば、十分に立派な結果だ。だが、暗がりから姿を現した彼女の姿に、胸が締め付けられた。

 規定の体操着は、前を走るウマ娘たちが蹴り上げた冬の枯れ芝と泥で汚れきっている。パドックで艶やかな光を放っていた黒髪は、夥しい量の汗で力なく首筋にへばりついていた。

 

「……」

 

 彼女はうつむいたまま、私の前まで来ると、糸が切れたように立ち止まった。

 私は無言で、用意していた大判のタオルを彼女の肩にかけた。

 

 ビクッと、彼女の肩が跳ねた。

 

「……ハローモア」

「……っ、ハァ……ッ、ハァ……」

 

 返事はなく、ただひどく荒れた呼吸音だけが地下の通路に響く。

 無尽蔵のスタミナを誇る彼女が、ここまで息を上げ、立っているのすらやっとという状態を見せるのは初めてだった。

 タオルを握りしめた彼女の両手が、白くなるほどに小刻みに震えている。それは冬の寒さのせいなのか、極限まで肉体を酷使した代償なのか、それとも――。

 

「……戻りましょ」

 

 私はそれ以上何も聞かず、彼女の背中にそっと手を添えた。

 濡れた体操着越しに、痛々しいほどの熱と震えが掌に伝わってくる。その震えを支えるようにして、私は彼女を控え室の方へと促した。

 

 私たちの頭上では、まだアサカオーを呼ぶ歓声が鳴り止まない。

 そのすべてが、勝者ただ一人に向けられたものだった。冷たい地下の廊下を歩く私たちの足音は、誰の耳にも届くことなく、ただ暗がりの中へと吸い込まれていった。

 

 

 レース後の中山レース場、控え室。

 暖房の効いた室内は、耳鳴りがするほど静まり返っていた。

 

 壁際の長ベンチに、ハローモアが座っていた。

 身に纏っているのは、体操着のままだ。膝を抱え込み、床の一点を見つめている。

 あんなに「止まること」を恐れて床を磨き回り、新幹線の車内でも貧乏揺すりをやめられなかった彼女が、今は石像のように完全に停止していた。

 ピクリとも動かないその背中が、7バ身という数字の残酷さを何よりも物語っている。

 

 私はゆっくりと歩み寄り、彼女の隣に腰を下ろした。

 かけるべき言葉など見つからない。徹夜で書き込んだ分厚いノートの理論は、あの黒い影の、音のない恐るべき加速の前では何の意味も持たなかったのだから。

 

 しばらくの沈黙の後、ハローモアがぽつりと呟いた。

 

「……脚が、動かんかった」

 

 顔を膝に埋めたまま、くぐもった声が落ちる。

 

「逃げよう思たんよ。でも、体が鉛みたいに重くて……全然、前に行けへんかった」

 

 彼女の肩が、わずかに震えた。

 

「……強いんは、知っとったんよ。でも……」

 

 ポツリ、ポツリとこぼれ落ちる敗者の吐露。

 

「アサカオー……あんな次元の違うバケモンやなんて、思わへんやんか……」

 

 私は何も言い返さず、ベンチの上で足を曲げ、彼女と同じように両腕で自分の膝を抱え込んだ。

 分厚いノートは、もう手にはない。今は計算式ではなく、ただ隣にいることしかできない。

 

「……トレーナー、何してんの」

 

 隣で同じ姿勢を取る私に気づき、ハローモアが少しだけ顔を上げた。赤く腫れた目元が覗く。

 

「一緒に止まってるの」

 

 私は前を向いたまま、静かに答えた。

 

「……アホちゃう」

「そうね。でも、今はこうするしかないから」

 

 控え室のベンチの上で、私たちは二人並んで膝を抱えていた。

 

「気が済むまで止まったら」

 

 私は静かに言葉を継いだ。

 

「一緒に立ち上がりましょ。あの7バ身を、自力で埋めるために」

 

 ハローモアはすぐには答えなかった。ただ、もう一度深く膝に顔を埋め、小さく、本当に小さく、一度だけ頷いた。

 

 カチャリ、と。

 不意に、控え室の重いドアが僅かな音を立てて開いた。

 

 入ってきたのはファインローズだった。

 スタンドの冷たい風に吹かれていたからか、彼女の鼻先は少しだけ赤い。彼女は部屋の隅で二人並んで床に膝を抱えている私たちを見て、微かに眉を動かしたが、何も言わなかった。

 ただ、静かにドアを閉め、コツコツとヒールの音を響かせてテーブルへと歩み寄る。

 

 手には、あの水筒が握られていた。

 彼女は備え付けの紙コップを二つ取り出すと、水筒のキャップを開け、中身を注いだ。ベルガモットの華やかな香りが、汗と土と、そして重苦しい敗北の空気が立ち込めていた控え室に、ふわりと広がる。

 

 彼女は無言のまま、湯気を立てる二つの紙コップを私たちの足元に置いた。

 

「……冷えるわよ。風邪でも引かれたら、来月のきさらぎ賞の調整に迷惑がかかるから」

 

 視線を合わせることもなく、ただそれだけを言い置く。

 そして彼女は、少し離れたパイプ椅子にスッと腰を下ろし、コートのポケットから文庫本を取り出した。

 

「私はここで本を読んでいるわ。……あなたたちが、気が済むまでね」

 

 ページをめくる、微かな紙の音が響く。

 冷え切った手に、紙コップから伝わる紅茶の熱がじんわりと染み込んでいく。

 

 ハローモアが顔を上げ、足元の紙コップを見つめた。しばらくして、すすり泣きながら両手で包み込む。

 

「……ローズの紅茶、あっついねん」

 

 私は自分の分のコップを手に取り、無言で頷いた。

 三人の時間が、止まった控え室の中で静かに、そして確かに熱を取り戻し始めていた。

 

 

 帰りの東海道新幹線『ひかり』の車内。

 行きと同じ、横並びの青いモケットシート。だが、そこを流れる空気は昨日とはまるで違っていた。

 

 真ん中の席で、ハローモアは死んだように眠っている。

 行きにあれほど騒いで幕の内弁当を平らげ、通路で空気椅子をしようとしていたのが嘘のように、今はピクリとも動かない。腕を組み、深く首を垂れて、ただ規則的な寝息だけを立てている。泣き疲れた子供のような顔だった。

 

 窓際のファインローズは、行きと同じように上品なブランケットを膝に掛け、文庫本を開いている。応援に来た甲斐があったとは、口が裂けても言えない結果だった。

 通路側に座る私は、膝の上に分厚いノートを置いていた。しかし、鉛筆を握る気にはなれず、ページは閉じたままだ。

 

 しばらくして。

 ファインローズが本から目を離さないまま、不意に静かな声で尋ねてきた。

 

「……7バ身ですか」

「ええ」

「そうですか」

 

 ただ、それだけの短いやり取り。

 ゆっくりとページをめくり、再び活字の世界へと沈黙していく。

 

 私は膝の上のノートに視線を落とした。

 

 アサカオー。

 

 あの音のない加速と、遠ざかる背中。7バ身という、途方もない距離。

 

 私はノートの表紙にそっと手を置き、その冷たくて硬い感触をただ静かに確かめた。

 冬の夜の底を滑るように、新幹線は西へと走り続けていた。

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