ウマ娘競バ史 1968 〜『ウイポ10 2026』体験版プレイ記〜   作:geko

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ハローモア視点
分かりやすさを重視して、地の文は標準語で書いています。


3話 飢えの在処

 冬の京都の朝は、つま先から芯まで凍りつくように冷たい。

 共同の洗い場で顔を洗い、タオルでごしごしと拭う。冷水で引き締まった頬を叩き、ウチは息を大きく吐き出した。白く濁った息が、木造の古い廊下に吸い込まれていく。

 

 屈伸をして、アキレス腱を伸ばす。

 ……軽い。

 数日前まで、ウチの体には得体の知れない重りがまとわりついていた。走っても走っても息が詰まり、焦りだけが空回りするあの嫌な感覚。

 でも、中山の直線であの「黒い影」に置き去りにされた瞬間、息の仕方を思い出した気がした。

 

 7バ身差。

 思い出せば今でも奥歯を噛み締めたくなる。でも、もう得体の知れない不安じゃない。届かなかった距離が、あのバケモンの背中が、今ははっきりと網膜に焼き付いている。

 

「……よし」

 

 ジャージのジッパーを首元まで引き上げ、振り返る。

 少し開いた離れのトレーナー室からは、石油ストーブの低い燃焼音に混じって、カリカリと鉛筆を走らせる音が聞こえていた。

 

 ウチのトレーナーは、いつもあの分厚いノートに向かっている。計算とタイムばかり気にする頭の固い人やと思っていた。でも、ウチが動けなくなった時は、あのノートを放り出して一緒に冷たいベンチで膝を抱えてくれた。

 あのノートは、きっとウチらが壊れないようにするための、あの人なりの盾なんやと思う。

 

「おはようございます」

 

 廊下の奥から、涼やかな声がした。

 ローズだった。相変わらず隙のない身なりで、手にはあのお馴染みの水筒が握られている。すれ違いざま、紅茶の香りが鼻先をかすめた。

 

「ローズ。おはよ」

「ええ。今日は床を磨いていないのね。少しは落ち着いたのかしら」

「もうせぇへんよ。あの時は……まあ、なんや、色々とテンパっとったから」

 

 相変わらずの嫌味な言い回しに、ウチは軽く肩をすくめた。

 ウチとは正反対の、いつも本ばかり読んでるお嬢様。口を開けば正論と皮肉ばっかりや。

 でも、中山の控え室で、ウチらの足元に無言で置かれた紙コップの紅茶が、どれだけ熱かったか。それを知っているから、もう腹は立たない。

 

「そう。ならいいけれど」

 

 ローズはそれだけ言って、食堂の方へと歩いていく。

 ウチはもう一度、軽くその場でジャンプした。着地の瞬間、板間が軋む。足の裏から伝わる確かな反発。

 鉛はもう、抜けた。

 

 鞄を掴み、ウチは京都レース場校へと向けて下宿屋を飛び出した。

 

 

 京都レース場校の教室は、石油ストーブが焚かれていてもどこか薄ら寒い。

 黒板を叩くチョークの単調な音が、ウチの瞼を容赦なく重くしていく。今の時間はレース理論の基礎だが、分厚いノートにカリカリと計算式を書き込むウチのトレーナーの背中を毎日見ているせいで、教師の喋る一般論はどうにも退屈に聞こえてしかたがなかった。

 

 ふと横を見ると、隣の席のローズは、背筋をピンと伸ばしたまま黒板の文字を一言半句漏らさずノートに書き写していた。

 相変わらず、無駄のない綺麗な字だ。彼女のノートには余白が一切なく、まるで活字で印刷された教本のように整然としている。ウチのミミズが這ったようなノートとは大違いだ。

 

「……そこ、タニノハローモア。上の空やないか。今喋っとったレース展開のセオリー、答えてみい」

「へっ? あ、えーっと……とりあえず、スタートからハナ切って逃げ切る、とか……?」

「それはお前の希望やろが。座ってよし」

 

 教室にクスクスという小さな笑い声が起きる。ウチは居心地悪く首をすくめて席に座り直した。

 隣のローズが、呆れたように小さくため息をつくのが聞こえた。

 

「……あんな。笑い事ちゃうぞ。才能だけで勝てるほど、ターフは甘くないんやからな。……おいマーチス! お前また寝とるんか!」

 

 教師の怒声が、教室の前方に飛ぶ。

 窓際の特等席。そこで堂々と机に突っ伏して爆睡していたのは、マーチスだった。

 ビクッと肩を揺らして起き上がった彼女は、口元のよだれを袖で乱暴に拭いながら、悪びれもせずへらへらと笑った。

 

「す、すんません先生! 昨日遅くまで走り込みしとったら、つい!」

「嘘つけ。お前昨日、四条の甘味処でパフェ食うとったやろが。ええからそこの問題、答えてみい」

「えーっと……第3コーナーからの下り坂を利用したロングスパート、からの、直線での二の脚、やんな?」

「……正解や。しゃあない、座れ。次は寝るなよ」

「はーい!」

 

 マーチスが屈託のない笑顔で席に座る。教室の空気は、彼女を責めるどころか

「またマーチスか」

「しゃあないな」

 というような、どこか甘く温かいものに変わっていた。

 ウチは、黒板の下の方をじっと睨みつけた。

 昔からそうだ。ウチが泥まみれになって必死に考えて、それでも間違えて笑われるようなことを、あいつは寝起きでもあっさりと正解してしまう。誰もが彼女の才能を愛し、その行進を祝福している。

 

 隣でノートをとっていたローズの手が止まり、前方の席で再びあくびをしているマーチスの背中を、値踏みするように冷ややかに見つめていた。

 

 

 放課後。併設グラウンド。

 吐く息は真っ白に凍りついているというのに、ウチの体は芯から熱く燃えていた。

 

 ターフを蹴り上げる。足の裏から伝わる反発を、無駄なく推進力へと変えていく。

 風を切り裂き、肺の奥まで冷たい空気を吸い込む。京成杯の前にまとわりついていた、あの息の詰まるような鉛の感覚はない。吸った分だけ酸素が全身に行き渡り、どこまでも加速していけるような錯覚すら覚える。

 

 カチリ、と。

 コースの脇で、分厚いノートを持ったトレーナーがストップウォッチを押す音がした。

 

「……良いペースね。中山の時とは別人のようなフットワークだわ」

 

 フェンス越しに見守っていたローズが、温かい紅茶の入った水筒のフタを閉めながら呟く。

 

「当たり前や。あんな無様な走り、二度と見せへんよ」

 

 息を整えながらフェンスに近づき、タオルで汗を拭う。

 スランプは抜けた。だが、あの7バ身差の絶望を埋めるには、今のままでは全く足りない。もっと負荷を。もっと過酷な計算式を。ウチの身体は、鍛え抜かれることへの明確な飢えを感じていた。

 結局、その日ウチは日が暮れるまでターフを走り続けた。

 

 

「……あなた、今日はずいぶんオーバーワークだったわね。トレーナーが無理やり止めるまで走り続けていたじゃない」

 

 グラウンドからの帰り道。

 西日が差し込む並木道を並んで歩きながら、ローズが呆れたように言った。彼女の手には、先ほどまでグラウンドの脇で読んでいたらしい分厚い海外の翻訳小説が抱えられている。

 

「抜けたんよ」

「何が?」

「鉛が。中山からこっち、ずっと体にへばりついとった重たいもんが、全部」

 

 ウチは首にかけたタオルで汗を拭いながら、自販機で買ったばかりの炭酸飲料を一気に喉に流し込んだ。喉の奥で弾ける刺激が、心地よく熱を持った体に染み渡っていく。

 

「ふうん。あんな無様な負け方をしたのに、ウマ娘の身体は随分と単純にできているのね」

「あんたもウマ娘やろ。……それより、その本、いつも読んどるけどオモロイの」

「あなたには理解できないわよ。19世紀のフランスで、野心を持った平民が貴族社会に成り上がろうとする愛憎劇。泥にまみれて走ることしか頭にないあなたには、一生縁のない世界の話」

「……ほんま、いっぺんシバいたろか」

 

 ローズは答えず、ただ薄く笑って本に視線を戻した。

 

 憎まれ口を叩き合いながらも、ウチらの歩調は不思議と合っていた。

 口を開けば正論と皮肉ばかりのお嬢様。だが、彼女のそのブレない冷たさが、今のウチには妙に心地よかった。誰もウチに同情しない。誰もウチを慰めない。ただの不器用なチームメイトとして、隣を歩いてくれている。

 

「――お疲れさん! めっちゃええ走りしとったやん!」

 

 不意に、背後から弾むような声が響いた。

 振り返ると、そこに立っていたのは、冬の夕暮れの空気を一瞬で塗り替えるような、華やかなオーラをまとったウマ娘だった。

 

 マーチス。

 ウチの幼なじみであり、関西のジュニア級チャンピオン。『望まれし勝利の行進』なんて大仰な異名をつけられている、紛れもない天才だ。

 

「マーチス……あんた、自分とこのチームの練習はええの」

「さっき終わったとこ! ハローモアが気合い入った顔で走っとるから、思わず見入ってもうたわ。中山の疲れ、全然なさそうやんな!」

 

 屈託のない、太陽のような笑顔。

 隣で、ローズが静かに目を細めた。教室で居眠りしていた時とは違う、目の前の天才の足回りから骨格までを改めて冷徹に値踏みするような視線だ。

 

「おっ、ファインローズちゃんも一緒やん! ――でな、ハローモア」

 

 人懐っこく笑いかけるマーチスに対し、ローズは一歩も動かず、ただ静かに会釈だけを返した。見えない壁に弾かれたような形になっても、マーチスは全く気にする素振りを見せない。

 そのまま、彼女は再びウチに向き直る。

 

「ハローモア、今週のきさらぎ賞、出るんやろ?」

「……ああ。出るよ」

「そっか! ボクも出るんよ。ハローモアとまた一緒に走れるん、めっちゃ楽しみやわ!」

 

 マーチスは一歩踏み出し、ウチの顔を真っ直ぐに覗き込んで、満面の笑みで告げた。

 

「でも、ボクが勝つけどな!」

 

 悪意など微塵もない。ただ純粋に、自分が一番早いと信じて疑わない者の、残酷なまでの宣戦布告。

 ウチはタオルを握りしめ、言葉を飲み込んだ。

 言い返す言葉ならいくらでもあったが、今はまだ、それを口にするべき時ではない気がした。

 

「ほな、また週末な! ローズちゃんも、またねー!」

 

 マーチスはひらひらと手を振りながら、来た時と同じように軽やかな足取りで去っていった。

 誰もが振り返るような、華やかな行進。

 

「……嫌な子ね」

 

 マーチスの背中が見えなくなった後、ローズがぽつりと呟いた。

 

「……やろ」

 

 ウチはタオルを首にかけ直し、ターフへと視線を戻した。

 あの行進を止める。ウチの泥臭い足掻きで、あの純粋な笑顔を歪ませてやる。

 

 

 その夜。下宿屋の廊下は、しんしんと冷え込んでいた。

 ウチは一人、少しだけ隙間の空いたトレーナー室のドアの前に立っていた。

 

 隙間から漏れるストーブの光と、カリカリという鉛筆の音。

 あの分厚いノートに、きさらぎ賞に向けたウチの調整メニューが書き込まれているはずだ。ドアを叩いて、「もっとキツいメニューを組んでくれ」と直談判するつもりだった。マーチスの背中を、そしてアサカオーの背中を捕まえるために、ウチの身体をもっと苛め抜いてくれ、と。

 

 でも、振り上げたウチの拳は、ドアの木板を叩く前に止まってしまった。

 言葉にした途端、ウチの中で燃えているこの泥臭い熱が、ひどく安っぽいものに変わってしまう気がしたからだ。不器用なウチらは、言葉より先に体が動くやないか。

 

 ウチは拳をゆっくりと下ろし、代わりに手に持っていた一枚の紙を見つめた。

 そのまま足音を殺して、自分の部屋へと引き返した。

 

――翌朝。

 

 トレーナーが顔を洗うために部屋を空けた、ほんの数分の隙間。

 ウチは無人のトレーナー室に忍び込み、分厚いノートが開かれた机のど真ん中に、その紙を叩きつけるようにして置いた。

 

『きさらぎ賞 出走申請書』

 出走者:タニノハローモア

 

 言葉は要らん。

 望まれし勝利の行進。それをウチがぶっ壊すことの証明は、ターフの上だけでやればいい。

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