ウマ娘競バ史 1968 〜『ウイポ10 2026』体験版プレイ記〜 作:geko
冬の京都レース場。地下バ道は、出走を控えたウマ娘たちの放つ独特の熱気と、張り詰めた緊張感で満ちていた。
薄暗いコンクリートの通路に、蹄鉄が床を叩く硬質な音が反響している。私は分厚いノートを胸に抱き、少し前を歩く担当バの背中を見つめていた。
タニノハローモア。
いつも通りの規定の体操着姿。だが、あの中山の夜に、言い知れぬ不安に押しつぶされて廊下を磨き回っていた少女の面影は、今の彼女には微塵もない。靴音は均等で、歩様には一切のブレがなく、ただ前だけを真っ直ぐに見据えている。
私は手元のノートに視線を落とした。彼女の心拍数、歩幅、そして今日のバ場状態から導き出した最も勝率の高いペース配分。何十回とシミュレーションを重ねたこの数式に、一切の狂いはない。やれることは、すべてやった。
「――おっ! ハローモアやん! 気合い入っとるね!」
ふいに、地下の重苦しい空気を一掃するような、明るく弾む声が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは、関西のジュニア級チャンピオンであるマーチスだった。彼女もまたハローモアと同じ体操着姿だが、放っているオーラが決定的に違った。極度の緊張が渦巻くこの地下バ道にあって、彼女だけがまるで春の遠足にでも来たかのように屈託がない。
「マーチス……あんた、また直前まで寝とったやろ」
「あはは、バレた? 控え室の暖房がめっちゃ気持ちよくてさー!」
あっけらかんと笑うマーチスを見て、私は無意識に息を呑んでいた。
大一番を前にしての、この脱力。強がりでもブラフでもない、純粋な陽の気配。自分が一番速いことを疑いもしない、圧倒的な天才の余裕がそこにあった。
「ハローモア、中山の時よりずっとええ顔しとるわ! 今日はボクも全力でいかせてもらうからな!」
「……おん。望むところや。ウチの逃げ、後ろから特等席で見とけ」
ハローモアの口角が、獰猛に吊り上がる。
マーチスは「あはは!」と無邪気に笑いながら手を振り、パドックへのゲートへと小走りで向かっていった。
彼女の背中を見送りながら、私は抱えたノートの重みが急に増したような錯覚に陥った。あの光のような才能を、この紙の上の計算式だけで、本当に縛り付けられるのだろうか。
◆
パドックに足を踏み入れた瞬間、スタンドから降り注ぐ大歓声に鼓膜が震えた。
冷たい冬の風を切り裂くような観客の熱狂のほとんどは、ただ一人のウマ娘――1番人気であるマーチスに向けられていた。
彼女が周回するたびに、フラッシュが焚かれ、割れんばかりの声援が飛ぶ。彼女はそれに笑顔で手を振り返し、文字通り『望まれし勝利の行進』を体現していた。そこにいるだけで周囲を味方につけてしまう、圧倒的な主役の引力。
だが、私の目は、その数メートル後ろを歩くハローモアに釘付けになっていた。
彼女には、マーチスのような華やかな声援は飛んでいない。
だが、歩を進めるごとに、周囲の空気が彼女の足元へと吸い込まれていくような、奇妙な重力が発生していた。無造作に束ねた黒髪が、冬の光を受けて鋭く揺れる。体操着という無骨な装いが、逆に彼女の無駄のない筋肉の躍動と、内に秘めた闘争心を残酷なまでに際立たせていた。
私はいつの間にか、ノートを抱える手に力を込めていた。
昨日、ローズが言っていた「このチームの基準」という言葉が脳裏をよぎる。ローズはハローモアのこの姿を予見していたのだろうか。
華やかな天才の行進のすぐ後ろで、泥まみれの挑戦者が、静かに牙を研いでいる。
私はノートを強く抱き直し、ターフへと向かうハローモアの背中に向かって、祈るように心の中で呟いた。
いけ。あの計算式通りに、あなたのその熱をターフに叩きつけてきなさい。
◆
そして、レースは私の計算をはるかに超えた次元で決着した。
ストップウォッチを握る手に、じわりと汗が滲んでいた。
冬の京都レース場。きさらぎ賞のターフを、ハローモアは見事な逃げで支配していた。スタートからハナを奪うまでの数秒間、私の心臓は早鐘のように打っていたが、外枠のウマ娘たちが殺到する中、ハローモアは一切の躊躇なく先頭へと躍り出た。
向正面に入り、1000メートル通過のラップタイムを確認する。59秒8。私のノートに書き込んだ『理想の逃げペース』と、コンマ1秒の狂いもなく一致していた。
中山の時のように、焦りに追われて息を乱すような無様な逃げではない。彼女自身の刻むリズムと、私が組み立てた計算式が、ターフの上で一つの完全な結晶になりつつあった。
第3コーナーの坂の下り。後続の足音が背後に迫るが、ハローモアの耳は微かに後ろへ傾いただけで、その走りは全く乱れない。彼女は自分の背中越しに、レース全体のペースを完全に支配していたのだ。
「よし……!」
私は思わず、金網を握る手に力を込めた。いける。このまま直線に入れば、後続の脚色は鈍る。私たちの泥臭い計算が、才能という不確定要素を完全に封じ込める。そう確信してストップウォッチから視線を上げた、次の瞬間だった。
大歓声が、悲鳴のような熱を帯びて爆発した。
外から、一人のウマ娘が信じられない加速で飛んできたのだ。
マーチス。
彼女の脚の回転は、まるで芝の上を滑走しているかのようだった。ハローモアの足が止まったわけではない。ハローモアも完璧なペース配分を守り、全力でターフを蹴り、推進力を生み出している。
だというのに、マーチスは瞬く間にハローモアに並びかけ――そして、残酷なほどあっさりと置き去りにした。
「……っ!」
私は息を呑み、金網の隙間から、遠ざかる背中を見つめた。
どれだけ泥臭く手を伸ばしても、天才は屈託のない笑顔でそのずっと先を行く。
1分47秒2。レコードタイムを更新する、圧倒的な勝利。
ハローモアは2着でゴール板を駆け抜けたが、その背中とマーチスの間には、まだ埋まっていない『5バ身』という距離が横たわっていた。
◆
地下の控え室へと続く薄暗い廊下を歩きながら、私は胸に抱えた分厚いノートの重みを持て余していた。
地下バ道でマーチスの圧倒的な才能を前にした時から、このノートに書かれた数式が、ひどくちっぽけで無力なものに感じられていた。
中山のレース後、彼女は冷たい長椅子で石像のように固まっていた。あの時、私はこのノートを開くことをやめ、彼女の隣に座ってただ一緒に膝を抱えることしかできなかった。
今回も、同じかもしれない。いや、自分にできる最高の走りをした上で、手も足も出ないほどの才能の差を見せつけられた分、今回の方が心の折れ方は深刻かもしれない。
重いドアのノブに手をかける。覚悟を決め、ゆっくりと押し開けた。
部屋の中は、ひどく静かだった。
ハローモアは長椅子に座り、私に背を向けていた。首にかけたタオルを両手で固く握りしめ、深くうつむいている。
時折、その肩が小刻みに震えていた。
泣いているのか。それとも、あまりの才能の差に、怒りすら通り越して震えているのか。
私はゆっくりと近づいた。またこのノートを長椅子に放り出し、彼女の隣に座るべきか。それとも、今は何も言わずに肩に触れるべきか。
差し出そうとした手が、空中で止まる。
「あー……」
震える背中から、絞り出すような声が漏れた。
ハローモアが、ゆっくりと振り返る。前髪に張り付いた汗を手の甲で乱暴に拭い、私を真っ直ぐに見つめて、彼女は言った。
「負けたわ」
そして。
彼女は、雲一つない晴れやかな笑顔で、あっけらかんと笑い飛ばしたのだ。
「自分の身体、思い通りに全部動いたわ! トレーナーの言う通りにペース作って、息もピッタリ合っとった! やれること全部やって、一番ええ走りして……ほんで、手も足も出んと負けたわ!」
私は、開けた口が塞がらなかった。
絶望も、恐怖も、あの痛々しい自己卑下も、そこには一切なかった。ただ全力を出し切って負けたという事実を、彼女の魂が真っ向から咀嚼し、飲み込んでいる。
「……泣かないのね」
「アホか。やれること全部やって負けたんや。7バ身が5バ身になっただけや。ウチの身体が、まだあいつの足に追いつかんかっただけやろ」
その言葉を聞いた瞬間。
私の中で張り詰めていた、ひどく冷たくて重い糸のようなものが、ぷつりと切れた。
「あっ……」
気がつけば、小脇に抱えていた分厚いノートが手から滑り落ち、バサリと鈍い音を立てて控え室の床に落ちていた。
無様だった。中山であれほど取り乱した彼女が、今は誰よりも晴れやかに笑っているのに。彼女を支えるために冷静な大人という鎧を着込んでいた私の方が、5バ身という理不尽な結果に怯え、勝手に絶望しようとしていたのだ。
私は、床に落ちたノートを拾い上げようとしゃがみ込んだ。不覚にも、視界が少しだけ滲んだ。
泣きそうになっているのは、私の方じゃないか。
「やれることやって負けたんやったら、あとはもっとやれること増やすだけや。特訓あるのみやろ。なぁ、トレーナー」
頭上から降ってきた声に顔を上げると、ハローモアの口角が、獰猛な肉食獣のように吊り上がっていた。
ああ、そうか。この子はもう、立ち止まらないのだ。中山の闇を抜け、私が昨日まで心配していたような壊れ物ではなくなったのだ。
「……ええ、そうね」
私は、拾い上げたノートの土埃を手で払い、ゆっくりと開いた。
ただの紙の束が、確かな熱を伴って掌に馴染む。このノートはもう、私たちが壊れないための盾ではない。彼女のその獰猛な飢えを満たし、天才の首元に喰らいつくための武器だ。
「明日の朝から、覚悟しなさい。あなたのその泥臭い足掻き、私が完璧に計算してあげる」
「おん。望むところや」
薄暗い控え室の中で、私たちは不敵に笑い合った。
◆
その日の夜。
下宿屋の一階にある食堂は、奇妙な活気に満ちていた。カチャカチャという食器の音が、絶え間なく響いている。
「おかわり。大盛りで」
「あなた、さっきから白米ばかり胃袋に詰め込んでいるけれど。炭水化物の過剰摂取は身体を重くするだけよ」
呆れたようなローズの声に、ハローモアは口いっぱいにご飯を頬張ったまま言い返した。
「うっさいわ。特訓すんのにガソリンが要るんや」
「……ふん。まあ、あの展開で5バ身差まで持ち堪えたのは、あなたの不器用な足掻きの成果でしょうね」
「なんやそれ、褒めとるんか」
「事実を述べたまでよ。……次は、せいぜい3バ身差くらいには縮めなさいな」
ローズは緑茶を優雅に啜り、自分が手にしている茶碗へと視線を戻した。
ハローモアは「チッ」と舌打ちしながらも、どこか嬉しそうに山盛りの白米をかき込んでいる。
ストーブの上のやかんが、小さく音を立てている。
私は少し離れた席で、傍らに置いた分厚いノートを開いた。カチャカチャと響く食器の音を聞きながら、新しいページに、静かに鉛筆を走らせる。
芯が紙を擦るカリカリという音が、夜の食堂の空気に溶けていった。